随想 頁6


生きてみなくちゃ分からないことなんて目茶苦茶たくさんある   blog転載済
 洗いたてのシーツにくるまって澄み渡る青空の彼方へと飛んでいってしまいたい。レメディオスのように。
 他人の勢力を大きくするパワーゲームに荷担あるいは助力する形でしか、仕事は為し得ないのかもしれない。ということは、所詮、俗世で行われることはパワーゲームでしかない。
 他人の基準に合わせる他ない。楽しくもないところで笑ったり、まるで関心のない話題にさも興味深そうな頷きを返したり。
 意欲を、自分が帰属する組織の意欲に同化させねばならないなんて誰が決めたのだろう。そんなもの経営者のエゴに過ぎない。ブコウスキーの「勝手に生きろ!」にこんなくだりがある。

 「あたしたちわかってんのよ。あんたが、おれはこんな仕事をやる人間じゃないって思ってることぐらい」「こんな仕事だって?」「そうよ。態度ににじみ出ているもの。あたしたちが気づかないとでも思ってるの?」ただ仕事をするだけでなく、その仕事に興味を持ち、しかも情熱を持ってこなさなきゃならないと知ったのは、そのときが初めてだった。

 この場面のチナスキーの気持ちはとてもよく分かる。私も社会人一年目のときに痛烈に感じたことだった。
 世間に対して、あるいは他人に対して寛容になりたいと、少し前から私は考えたが、矢張りこれも到達点ではなく、さらには自分に対しても寛容になれと言い聞かせなければ、誠実さに欠けるように思えてきた。つまり、私も、それは小さなものであるかもしれぬが、矢張り悪を為しており、それを免れぬとなれば、自分にも寛容になるしかない。
 自分に誠実であろうとすれば、自分の不誠実を認めるしかなく、不誠実でなければ生きられぬとなれば、この不誠実を寛容に受け入れるしかない。でなければ死ぬほかない。
 この矛盾に目を瞑ることが生きる知恵である。矛盾とダンスを。矛盾と踊れ。
 理屈で全部を割りきれないと知ることだ。なぜなら殆ど全ての人間は理屈ではなく本能で生きているからだ。私も例外ではあるまい。本能とは自分にとって利益のあることが善で、自分にとって不利益なることが悪である。そしてこれは、他人との関係によって成立している人間社会に於いては、相手にとって不利益になることが善で、相手にとって利益になることが悪であることと等価だ。ここまでは永井均「倫理とは何か」を読めば理解できる。
 善意志の量は世界に圧倒的に足りない。当然のこと世界から零れ落ちる者はたくさんいるが、私たち、少なくとも私は、その者たちが世界から声も上げずに消えていくのを知りながら、黙って見ているしかない。そうすることでしか私自身が生きて往かれないのだ。人は動物の肉を食べる。動物なら何でも食べる。人は人でさえ食べる。人は人を食べるのだ。食べていないようなふりをしながら本当は食べている。別段、大岡昇平の「野火」のような極限状態でなくとも、人は人の肉を喰っておるのだ。草食系なんて言葉が近頃では聴かれるが、どんなにおとなしそうな顔をしていても、人が生きている限り、人は人を食べている。
 私も人を食べている。
 世間に対してどこまでも誠実であろうとすると死ぬしかないことを私は知った。だから「行人」に出てくるお兄さんはあのままであれば死ぬしかない。
 これはただの綺麗ごとに聞こえるかもしれないが、それでも、と私は願いたいことがある。
 矛盾とダンスを。私も人を食べている。私も悪に手を染めている。私はそれに目を瞑っている。
 それでも、自分が悪に手を染めていることを知っていて、それに目を瞑っているのと、自分が悪に手を染めているなどとは一生考えることもなくそれを為しているのとでは、人の深みが異なると信じたい。
 普通の悪事は、自分が悪事を為していると知っていながら為す方がより悪いとされる。ただ、ここで、この随想で私がずっと問題にしてきたようなこと、永井均「倫理とは何か」の延長にあること、この意味では、自分が悪に手を染めていると知りながら、それに目を瞑ることの方が、人としての深みがあるのだと、信じたい。
 日本に一番人数の多い中流階級の人々は、間接悪が巧妙に隠蔽された世界で生きていける最も幸せな人たちだ。多くの人たちは弱者が日々死んでいくことに、直接手を下さなくても良い。でも本当は間接的に荷担している。そういう、自分たちが悪を為しているなどとは到底思いも及ばない鈍感な俗人たちと比べれば、私の立っている地平、私が矛盾とダンスを踊る地平、私がそれと知りながら人を食べている地平の方が、ずっと深みのある場所だと信じたい。そうとでも信じなければ、本当に本当に遣り切れぬ。
 私の云う矛盾とは、私はできるだけ善意に基づいて生きていきたいと願いながらも、私だって、弱者が死んでいくことに目を瞑り、自分の利益を優先し享楽的な遊びにかまけているではないか、ということだ。世界の結論は矛盾である。生きようとする以上、そこに偽善はある。これが結論である。少なくとも、現代の日本ではそのようにしか生きられない。それはベーシックインカムが導入されるまでは続くだろう。あと何百年先なのであろうか。
 アリストテレスは、中庸が大事だ、といった。これは真理と思える。私はこの考えが好きだ。純粋善をどこまでも突き詰めることはできない。生きていくならば、矛盾に目を瞑るしかない。それは善もまた中庸であると同義であろう。ただ、若いうちは、どの程度が中庸なのか分からぬ。どの辺りの道が真ん中らへんの道で、どの辺りまで行くと端っこすぎる道なのか、そんなものは生きてみなければ分からないのだ。だから、中庸が大事なのだ、なんて狡い言い種だ。
 結論。
 これまでこの随想で延々と考えてきたことの結論を書こうと思う。
 私はメンタリティとして純粋善を持っている。これは事実だ。
 しかし、誠実であろうとするあまり、どうしても取り除くことができない自分の不誠実さを発見した。
 この不誠実は、ベーシックインカムが実現されない限り、取り除かれない。ベーシックインカムが実現されない限り、純粋善を完全に追求することはできないのだ。
 ベーシックインカムの実現には少なくともまだ何百年も掛かるだろう。私が生きている間には到底叶いそうにない。
 生きようとする限り、私の奥底には欺瞞があることに、私は目を瞑らねばならない。
 どんなに善人ぶっても、生きている限り、私も偽善を持っているのだ。
 純粋善だけでこの世を生きることはできないのだ。
 だから私は目を瞑る。
 これが私の結論である。
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わたくし率イン歯ーまたは世界
書きたいことを書きたいように書いているところが良かった。
誰かを楽しませようとして書いているというよりは、おそらくは自分自身を救済したくて書かれたであろうところが好感を持てた。
読んでいるときに、樋口一葉や林芙美子を好きなようにこの人も好きだなあ、と思ったら、「乳と卵」には樋口一葉リスペクトが書かれているらしい。そのうちに読んでみたい。
追記。その後「乳と卵」を読んだ。樋口一葉リスペクトとは五千円札を出す場面だけのことだったようだ。え、それだけ?と思ったけど、逆に言うと、私は何を期待していたのだろう……。
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見たい映画
見たいと思っているのに見れていない映画が僕にはあって、この項目はときどき更新しなければならない。別の頁を作ってそこに書いた方がいいだろうかと思いつつ、とりあえずここに列挙する。ウォーダンス。赤目四十八瀧心中未遂。シベールの日曜日。EL。ヤングゼネレーション。グリーンフィッシュ。Peace。人生ここにあり。冬の小鳥。アジョシ。くまのプーさん。明日君がいない。未来を生きる君たちへ。ミッション・インポッシブル4。ダークナイト・ライジズ。2011年8月10日(水)
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中島岳志フライデースピーカーズ2011/8/5(金)高岡蒼甫とか愛国感とか
高岡さんのことは、パッチギは見ているものの、それ以上のことはよく知らないので置いておくとして、愛国に関して、なんとなく私が感じていたことがある。ネットの中で、私の場合は主にツイッターだが、愛国というよりは嫌外国と呼ぶ方が相応しい人たちが目立つことだ。愛国といっても鎖国的な愛国なのである。どうも愛国を叫んでいる人たち、ネットの中で愛国を叫んでいる人たち、否、ネットの中心で愛国を叫ぶ馬鹿者たちは、文化でもテクノロジーでも学問でも何でも好いが、外国に発信できるような水準の高い何かを自ら創造したり研究したり、それに精進したりしているとは到底思えないこと。他国を罵倒し、排除することでしか表現し得ない愛国って何なのだろう。そういうのって本当に愛国っていうのだろうか。私は在日でもなんでもない者だが、近年の韓国映画の面白さは、純粋に映画ファンの一人として、認めざるを得ない水準にある。同じような努力を日本人もするべきではないだろうか。
このラジオの中で窪塚洋介のラップのようなメッセージが読まれる。私はこの途中まで理解できる。現代の日本はアメリカ人が作ったものだということ。その憂い。それは分かる。だが、その後、だから愛国、あるいは国粋主義と続けていくところは頷けない。ここはもう私と窪塚洋介とのメンタリティの違いとしかいいようがないのかもしれない。
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読みたい小説
 さらに云えば私にはこれだけは読んでおかねばならないと胸に差し迫ってくる小説があって、それは今の気分だと「夜の果てへの旅」「1984」「ドン・キホーテ」「箱男」「砂の女」「天使猫のいる部屋」「台風娘」「雪国」「細雪」「痴人の愛」。
 次点グループとして、「ジャン・クリストフ」「モンテ・クリスト伯」「ジェーン・エア」「虚栄の市」がある。
 さらに次のグループとして「失われた時を求めて」「ユリシーズ」「フィネガンズ・ウェイク」「ガルガンチュアとパンタグリュエル」「若きウェルテルの悩み」「ヴィルヘルム・マイスター」がある。何故三番目グループなのかというと「失われた時を求めて」は長いから(笑)。ジョイスについては、私は本来的にストーリー小説の方が好きというのがあってちょっと敬遠している。ゲーテは詩集と「ファウスト」は読んだのだけど、どうも苦手意識がある。
 映画やアニメなんかでだいたい知っているけど、やっぱりちゃんと読んでおきたいシリーズもある。メアリ・シェリー「フランケンシュタイン」、ライマン・フランク・ボーム「オズの魔法使い」、ヨハンナ・シュピリ「アルプスの少女ハイジ」、エーリッヒ・ケストナー「飛ぶ教室」、バーネット「小公女」「秘密の花園」、モンゴメリ「赤毛のアン」、オールコット「若草物語」、父デュマフィス「三銃士」など。
 現代の作品だって読みたい。コーマック・マッカーシー「ザ・ロード」、ドン・ウィンズロウ「犬の力」とか。
 代表作は読んでいるもののもう少し読みたいシリーズというのもあって、オースティンなら「高慢と偏見」は読んでいるものの、もう数冊は読んでみたい。「マンスフィールド・パーク」か「分別と多感」か「エマ」か。「ノーサンガー・アビー」「説き伏せられて」も気になる。ドストエフスキーについては「未成年」、トルストイなら「復活」、ディケンズの「二都物語」もまだ未読だ。そんなことを云い始めたらルーゴンマッカール叢書や人間喜劇だって本当は全部読みたい……。「カンタベリー物語」や「千一夜物語」も全部読んでみたいなぁ……「神曲」「失楽園」も……orz
 追記で小説じゃないけどアリストテレスの「ニコマコス倫理学」もいつかは読みたい。ヒルティ「眠られぬ夜のために」も。
 追記。「オズの魔法使い」を読んだ。2011年9月11日(日)。
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仕事って何なの
 仕事って何なの、って私はずっと思い悩み違和感を抱え続けてきた。
 だが、面倒臭いことを他人に代行してやることが仕事なのだと考えると、しっくりくるように思った。
 さんざん悩んだ挙げ句に、このちょっとした思いつきが案外と正解に近いのかもしれない。
 商売というニュアンスのものを、仕事といい替えるのはやめて欲しいとずっと思ってきた。
 仕事、仕事、っていうけど、あなたたちが言っているのは商売ですよね。と、ずっと思ってきた。
 だが、仕事を、面倒臭いことを他人の代行でやることだと捉えると、あまり違和感もなくなる。
 原点は、荷物を替わりに運んでやるようなイメージだ。
 この、重荷を下ろせたような安堵感はどこから来るのかと考えると、どこかに自分のやりたい仕事や好きな仕事があるのではないかという幻想から来ていたのだろうと思う。
 好きな仕事や楽しい仕事なんてある筈がない。仕事とは面倒臭いことを他人の代行でやることだ。
 できるだけ負担にならない職業を選べるだけだ。それを、自分に合った職業と呼んでいるのだ。お金もプラスになって、心もプラスになる仕事なんてある筈がない。
 だから、気持ちは常にマイナスで、文字通り代償としてお金はプラスになるのだ。お金がプラスになるということは、気持ちは必ずマイナスになることだ。ということは、心のマイナスと交換でしか、人間はお金を稼げないことになる。心のマイナスと交換してしか、生活できないことになる。ということは、生活するということは、必ず心がマイナスになるということだ。
 人は仕事をすることでしか生きられないのだとすると、なんと可哀相な生き物なのだろう。心を磨り減らすことでしか生きられないなんて。
 だから休みの日があるのでしょうね。土日で月から金までの疲弊を回復できる人は健康に生きていかれる。でもそうでないひとは…。道ばたに倒れて誰にも振り向かれず朽ちていくしかない。
 女のする水商売は、面倒臭いことを他人に代行してやることとは違うかもしれない。
 一度この考えに思い至ると、どうして今まで仕事と商売のニュアンスの違いにこだわっていたのか、分からなくなってしまうぐらいだ。思い出してみよう。
 私はおそらく、喰うためだけや生活できるためだけなら、もしもできるなら、自給自足の生活がしたい。実際にやり始めるとやる前には思いも寄らなかった弊害がいくつも出てくるのだろうが、そんな願望を持っている。そこには他者との関係がない。他者との関係なく生きられるなら、私はそうしたいのだ。他者と関係なくというか、できるならマイペースで生きたいのだ。自分のペースで生きたい。人のペースに合わせるのが酷く疲れるからだ。私は劣った人間だからだ。
 この社会は劣った者は死ねと云っている。
 仕事はマイペースでもできるが、商売はマイペースではできない。
 面倒臭いことの代行だと考えると、そこには始めから他者との関係がある。
 顧客を満足させるべし。
 私は興味を持てない仕事をするのがとても嫌だった。今でも嫌だ。仕事に取られる時間は人生の大半を占める。だからできれば興味を持っていることを仕事にしたかった。その仕事に従事して、スキルアップすることが自分にとっても何かを得ていく実感を持てるような仕事に就きたかった。
 でも就けなかった。こんなことができるようになったからといって、それが何なんだと叫びたくなるような仕事に就いていた。
 ただただ時間を奪われていくだけとしか感じられないようなことに莫大な時間を奪われるのが、本当に涙が出てくるぐらい嫌だった。
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侏儒の言葉
ホテル・ニューハンプシャー」「ブリキの太鼓」「越前竹人形」「ハツカネズミと人間」「冷血」「女王の誕生日」「さらば夏の光よ」「魔の山」「カンティ」「侏儒の言葉」
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言葉を一つ書くと
そこからまた次の言葉が浮かび上がる。これはまことに驚くべきことで、この不思議をブコウスキーも日記に記している。
始めに一つの言葉を持っていればよい。子どもが手に持つ一輪の花のように。始めから全ての言葉を用意していなくとも、何も臆することはないのだ。
一輪の花は種を落とし、次の花を咲かせる。それがまた次の花を咲かせ、いつしか庭には幾千の花が咲くだろう。言葉は花である。
私は虫けらのような人間に過ぎないが、虫けらのような私がこの世に生きて感じた違和感を言葉で語り尽くすのは、何かしらの意義があると思う。私のような虫けらは、どのようなことを考えているのか、それを記すだけでも俗人の興味を満たすだろう。
私は自分自身に語りかけているのだ。まことこのスタイルは私の性に合っている。私の場合、なまじ受け手に気に入られようと意識すれば、何も書けなくなる。
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冷たい熱帯魚
ネタバレを含みます。最後の最後まで全く退屈しなかった。傑作だと思った。傑作だけれども、好きか嫌いかでいえば、あまり好きではないかもしれない。2、3年もすれば、ああそういえばそんな映画もあったね、そんな風なぐらいにしか思い出さない映画かもしれない。作家性の違いなので比較するのは申し訳ないが、私には矢張り、イ・チャンドンの作る映画の方が、いつまでも胸に残る映画だと思える。
現実の世にはほぼこれに類する殺人事件が起きているのだと知るには有益な映画なのだし、主人公の結末も納得のいくものであった。おそらく、ストーリーライン上、おかしなところは一つも無い。あのような話の場合、あのような結末以外はあるまい。巻き込まれたのだとはいえ、人道にもとる行為に手を染めてしまっている以上、主人公にも破滅が訪れなければ、見ている人は溜飲を下げない。その意味で結末は正しい。だけれども、どうも、好きか嫌いかでいえば、あまり好きではないと答えてしまう。だけど、見る価値は絶対にある。そんな映画。
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ファンタスティック・ミスター・フォックス
大好きな映画。ロイヤル・テネンバウムス以降は中途半端な作品が続いていたが、再度ウェス・アンダーソンを好きになる。早くDVDが欲しい。11月が待ち遠しい。すばらしき父さん狐をロイヤル・テネンバウムスにしてしまった映画。というか、すばらしき父さん狐はこんな話じゃないだろ!と叫びたくなる。もちろん歓喜の叫びだ。いや、確かに大筋は合っているのだが。しかし、本当に面白い。声を上げてげらげらと笑ってしまった。ロアルド・ダールとウェス・アンダーソンの相性の良さ。ユーモアのセンス。すべてが好ましい。ユーモアのセンスでいえば最も好きな映画監督だ。ウディ・アレンよりも好きだなあ。こういうセンスの人間がこの世のどこかにいるというだけで、安堵感を得られる。
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コキュートス
彼岸。賽の河原にやって来る鬼。都会にいながら風景は荒涼とし、歩けど歩けど私は誰にも巡り会うことがない。東京砂漠とはよく云ったものだ。人とは何か。カモとしての他者、仲間としての他者。女。俺の前に女がいる。大して美人でもない年嵩の女。多くの心優しき男たちが女によって橋の下に追いやられている。これはブコウスキーの言葉。愛想がなければ生きられないが、愛想は心を殺してゆく。自らの心を殺した者は罪人で、地獄へ逝く他ないだろう。地獄だとか地獄へ通ずる道にはどうして洋の東西を問わず川が流れているのだろう。
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2011年7月19日(火)
 変な夢を見た。学校。教室の隅で僕は女の子と文庫本を探している。夏目漱石。硝子戸の中から。
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最終更新:2012年06月09日 04:44
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