倫理とは何か 第四章


ベンサム
功利主義…
第一段階…自然は人類を快と苦という二つの主権者の支配のもとに置いた。われわれが何をしなければならないかを指示し、われわれが何をするであろうかを決定するのは、快と苦だけである。
第二段階…功利性原理とは、その利益が問題になっている人々の幸福を増大させるように見えるか、それとも減少させるように見えるかの傾向によって、……すべての行為を是認したり否認したりする原理を意味する。

ミル
第二段階…行為は幸福の促進に役立つのに比例して正しく、幸福に反することを生み出すのに比例して悪である。

功利性原理の証明
第一段階…幸福はそれ自体として望ましいものであり、それ自体として望ましい唯一のものである。(つまり、幸福以外のものがそれ自体として望ましいことはない)
第二段階…幸福がそれ自体として望ましい唯一のものであるならば、全体の幸福は行為の道徳的に正しい目的である。
第一段階前半…ある対象が見えるということは唯一の証拠は人々が実際にそれを見るということである。ある音が聞こえることの唯一の証拠は人々がそれを聞くということである。われわれの経験の他の源泉についても同様である。同様に、何かが望ましいということを示す証拠は、人々がそれを望んでいるということしかない、と私は思う。……なぜ全体の幸福が望ましいかについては、達成できると信じるかぎり、事実、だれもが自分自身の幸福を望んでいるということ以外にいかなる理由もあげることはできない。ところが、それは事実なのだから、幸福が善であること、つまり、各人の幸福はその人にとって善であり、従って全体の幸福はすべての人の総体にとって善であることについて、われわれは事情が許す限りですべての証拠をもつばかりか、要求しうるすべての証拠をも手にしたのである。
第一段階後半…人々は実際に幸福だけをそれ自体として望んでいる。
第二段階…各人の幸福はその人にとって善であり、したがって全体の幸福はすべての総体にとって善であること。一人の人間の幸福は他人の人の幸福と正確に等しく数えられるのでなければならない。それを感じるのが同じ人であるか別の人であるかにかかわりなく、等しい量の幸福は等しく望ましい。

選好充足…とりあえず今の満足。
自然主義…

ムーア
直観主義…何が望ましいかは直感によって知るしかない。

問題点1…功利主義には配分原理がない。平等、自由、真理。
問題点2…別の状況に置かれた別の人間について、どちらがどれだけ幸福かを測定できない。測定方法。
問題点3…ある人の不幸や苦を別の人の幸福や快で埋め合わせられるか。社会の総量に意味があるか。

修正案1…消極的功利主義。幸福を増やすことより、不幸を減らすことが優先される。
修正案2…規則功利主義。功利性原理を行為でなく、規則に適用する。
修正案3…権利論。個人的選好と外的選好を区別する。

個人的選好…自分の欲求。
外的選好…他者が不利益を蒙ることへの自分の欲求。
帰結主義…
第一…結果的に正しい行為。
第二…客観的に正しい行為。
第三…主観的に正しい行為。帰結-主観的に正しい行為。意図-主観的に正しい行為。

アインジヒトたちの考察

私の考察
① 
② 行為に価値があるのか、それでもたらされた結果に価値があるのか。どうもこういう議論は空論を語っているだけにしか思えない。私はこう考える。基本的には結果に価値がある。しかし、行為をせずに結果があるなんてことがあるか? 結果に価値があるなら、行為にも価値がある。善なる行為をやってみたけど、結果は得られなかった。そのときは、やろうとした意気込みには、結果が得られたときの五分の一ぐらいの価値はあるんじゃないか。じゃあ、五回挑戦すれば結果が得られたと同じなのか? そんなわけはない。本当に五分の一か? そんなものはケースバイケースとしか云いようがない。悪行ならどうか。悪行は、天災など誰かの行為がなくても悪い結果だけが起きることはある。しかし、殺人者が人を一人殺すことと、天災で人が一人死ぬことを比べることがナンセンスとしか云いようがない。どっちもどっちだ。どっちもどっちとは、同じぐらいということではない。考えようによって、どちらが多いようにも解釈できるということ。天災を防ぐ手立てを考えることは善行である。
 通り魔殺人で人が一人殺された場合と、怨恨で人が一人殺されたとき、通り魔殺人で殺されたときの方が悪の量が多いと私は考える。量刑が多いということ。通り魔殺人の場合には、被害者が私であった可能性が加味されるからだ。
 では、通り魔殺人で私が一人殺されてしまうのは、天災で私が一人死ぬのと同じようなものなのか? しかし、天災で私が一人死ぬってどういう状況なんだ? 雷に打たれたとか?
⑤ 哲学の主張を言葉で証明しようと試みるのに意味があるのだろうか。そんなことができるのは数学しかないと思うのだが如何に。主張は主張にすぎない。自分の意見を強弁しようとしているだけだ。
⑥ 幸福という言葉がの意味が、欲求が満たされるということならばそうなのだろう。既に価値転倒は起こってしまっている世の中なのだし、他人が幸福になることで自分も幸福感を感じる人はいるのだから、ミルも自信を持っても好さそうなものだが。
⑨ この辺りのことをそんなに厳密に論議しなければならないのか、私は違和感を感じる。少なくとも私は引っ掛からない。私が本物の哲学者でないからなのかもしれないが、実際問題として、私たちは既に社会契約を結んでしまっている訳だし。
 現実的な妥当性の問題として納得しては駄目なのだろうか。
 つまり、私の意見はこうだ。
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⑪ 
⑫ 
⑬ 
⑭ 
⑮ 
⑯ 

23 


 私は啓蒙などしない。と思っていたが…。




















永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫)
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最終更新:2011年08月30日 06:13
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