最終部 熊 を (´・ω・`) に替えてみた
そのときぼくはスージーを起こして、(´・ω・`)の衣装を着てくれないかと頼んだ。
「アール!」彼女はぼやいた。「もう(´・ω・`)になるには年をとりすぎてるわ」彼女は朝早くは少しばかり不機嫌である――ぼくのいとしいスージー。
「いいじゃないか、スージー」ぼくは言った。「子供のためにやってやれよ。子供にとってどんな意味を持つか考えてごらん」
「何なの?」スージーは言った。「子供をおどかすつもりなの?」
「ちがうよ、ちがうよ」ぼくは言った。「おどかすんじゃない」ぼくが彼女にしてもらいたいことは、(´・ω・`)の毛皮を着て、外の雪の中をホテルを一周することだけだった。そしてぼくが急に叫ぶのだ、「ほら、雪に(´・ω・`)の足跡がついてる、しかもまだ新しい跡だ」
そしてアリゾナの人びとは、大きいのも小さいのも、みんな出てきて、彼らが偶然迷い込んだ荒野について、まるで夢を見ているかのように、驚異の目を見張る。そのとき、ぼくはまた叫ぶ。「ほら、(´・ω・`)だ! 薪の山を曲がってく」そしてスージーはそこで立ち止まる――たぶんぼくは一度か二度「アール!」と叫んでくれるよう説得できるだろう――そして彼女は、(´・ω・`)らしい仕草で、薪の山の向こうに消え、そして裏口からこっそり入り、変装をとって、調理場にやってくると、こう言う。「何で(´・ω・`)の話なんかしてるの、もうこの辺じゃ(´・ω・`)はめったに見かけないわよ」
「この雪の中に出て行けっていうの?」スージーは訊いた。
「子供たちのためだよ、スージー」ぼくは言った。「彼らはどんなに喜ぶか知れないぞ。まず彼らは海を見て、それから今度は(´・ω・`)を見るんだ。誰もが(´・ω・`)を見るべきだよ、スージー」ぼくは言った。もちろん、スージーは同意した。機嫌はよくなかったけれど、かえって彼女の演技は冴えた。スージーは常に(´・ω・`)として最高だった。そしていま彼女は素晴らしい人間でもあることを確信しつつあった。
そういうわけで、ぼくたちは見ず知らずのアリゾナの人間に、思い出として持ち帰る(´・ω・`)を見せた。父さんは舞踏室から彼らに別れの手を振った。そのあと彼はぼくに言った。「(´・ω・`)だと? スージーはそれがもとで死ぬような酷い病気になるか、あとは少なくとも肺炎くらい起こすところだぞ。しかも誰も病気になっちゃいかんのだ――風邪だって引いちゃいかん――赤ん坊がくるんだからな。お前よりわたしのほうが赤ん坊のことはよく知っている。そうだろう? (´・ω・`)だなんて」彼は頭を振りながら繰り返した。しかしぼくはアリゾナの彼らが信じ込んだのは分かっていた。(´・ω・`)のスージーは信じ込ませる名人だった。
薪の山のそばで立ち止まった(´・ω・`)、きらきら輝く冷たい朝、その息は白い霧になっていた。足が真新しい、誰も触れていない雪の上に柔らかい窪みをつけていた――あたかもその(´・ω・`)は地球上で最初の(´・ω・`)であり、この雪は地球に降った初めての雪ででもあるかのようだった――そのすべてが説得力があった。リリーには分かっていたように、あらゆるものが御伽噺である。
そのようにぼくたちは夢を見続ける。このようにしてぼくたちは自分の生活を作り出して行く。あの世に逝った母親を甦らせ、父親をヒーローにし、そして誰かの兄さんや姉さん――彼らもぼくたちのヒーローになる。ぼくたちは愛するものを考えて作り出し、また恐れるものも作り出す。つねに勇敢な、いまは亡き弟があり――小さな、いまは亡き妹もいる。ぼくたちは止め処なく夢を見続ける。最高のホテル、完璧な家族、リゾート生活。そしてぼくたちの夢は、それをありありと想像できるのと同じくらい鮮やかに目の前から消え去る。
ホテル・ニューハンプシャーでは、ぼくたちは一生ねじで固定されている――しかしもしいい思い出があるなら、パイプに混じった空気とか頭から浴びた多量の糞便とかは大したことではない。
これは母さん、あなたにとって――それからエッグ、お前にとって――ふさわしい終わりであることを望む。リリー、お前が気に入っていた終わり方――お前はそれを書けるほど大きくなれなかった終わり――を意識した終わりなのだ。この結びには、アイオワ・ボブに気に入ってもらえるほどバーベルがたっぷり出てこないかもしれないし、フランクが満足するほど充分な宿命観は含まれていないかもしれない。またフラニーの弾力的な復元力も不足しているかもしれない。そして(´・ω・`)のスージーにとっては充分醜くないと思う。ジュニア・ジョーンズにとってはたぶん充分大きくない。ぼくたちの過去のウィーンでの友人や敵を喜ばせるほどの激しさもあまりないことを知っている。わめきのアニー――彼女が今どこで横になってわめいているにしても――彼女の呻き声ほど価値はないかもしれない。
しかしこれがぼくたちのすることである。夢を見続け、そしてぼくたちの夢はそれをありありと想像できるだけのと同じくらい鮮やかに目の前から消え去る。好むと好まざるとによらず、それが現実に起こることである。そしてそれが起こることであるから、ぼくたちには、利口な、よい(´・ω・`)が必要なのだ。ある人たちの心は、自分たちだけで生きられるほどよい――彼らの心は彼らの利口な、よい(´・ω・`)でありうる。フランクがそうだとぼくは思う。フランクは利口な、よい(´・ω・`)を心に持っている。ぼくが最初に誤解したように鼠の王様ではない。そしてフラニーはジュニア・ジョーンズという利口な、よい(´・ω・`)を持っている。フラニーはまた悲しみを寄せつけないでいるのが巧みである。そして父さんは彼の幻想を持っている。それは充分協力なものだ。父さんの幻想は彼の利口な、よい(´・ω・`)なのだ――ついに。そしてぼくにいまあるのはもちろん(´・ω・`)のスージーである。――それと彼女のレイプ相談センターとぼくの御伽噺のホテルと――そういうわけで、ぼくも大丈夫だと思う。子供がじきに生まれるとしたら、大丈夫でなければ困る。
ボブ・コーチは最初からそれを知っていた。取り憑かれなければいけないし、しかもそれを持続しなくてはいけないと。開いた窓の前で立ち止まってはいけないのだ。
.
最終更新:2012年02月05日 23:29