小説 作品5 頁1

   箱人

 生まれたときから箱だった。小さく白い箱だった。

 音のない部屋で明は静かに眠りから覚めた。
 夢の中で誰かと会っていた。女だ。過去の女だろう。明の夢に知らない女は出ない。女のことは少ししか知らない。だから少しの中から入れ替わり立ち替わりで、夜ごと明と奇態を演じる。そこではとりとめもなく脈絡もなく不思議で不条理な出来事ばかりが起こり、どれだけそこで暮らしても一向に飽きることがなかった。
 だから、新しい女など必要ないのだ。
 明はまどろみの中で、いまにも追い出されようとしているその夢の断片を持ち帰ろうと、女が着ているひらひらした服の裾を慌ててひっ掴みながら、そんなことを考えた。
 けれど気付けば暗闇の中に一人でいて、握りしめた掌の中には何もなかった。

 薄く開けた瞼の隙間を通して、目覚まし時計を見やる。部屋にただ一つの時計は頭の傍ではなく、反対側の壁に寄せてある小さな本棚の上にあって、明は布団にくるまったまま足先の方へ首を僅かばかり起こして時刻を見上げた。
 箱である明には、首などという身体の部位は存在しないようにも見える。頭と身体は一つになって、全体で四角い箱を形作っている。前後左右のどの面も平らで、首を想像させるような分かれ目や窪みはない。凹んでもいなければ折り目もない。
 しかし、明の身体感覚の中に首の動きはあったのだし、実際、首を曲げることはできた。箱のような身体でも、体の向きとは別の方向を見ることはできた。
 そのとき、箱の前後左右にあたる面と辺は突っ張って反り返っている。もしも明のその白くて艶のある皮膚がプラスチックであるならば、今にも割れてしまいそうなほど無理な力で捻られているようにも見えるのだが、割れたことなど生まれてから一度もないのだし、明にしてみれば、それは痛くも痒くもない、ただ人が首を捻るのと同じく自然な動作であった。

 出勤まで残り一時間。
 いつもと同じ朝だ。
 寝返りを打って窓のある側へ目を移す。閉め切った紺のカーテンが裏から陽に照らされて淡く明るんでいる。生地の隙間からは幾粒もの光が部屋に漏れ入って、板の間の木目や、くすんだ壁紙に溶け込んでいた。そのうっすらとした部屋の明るみも昨日と同じで、絶え間なく過ぎていく時の中で目覚まし時計の教える時刻におそらくは狂いがないことを明は四角い頭でぼんやりと考えてから、もう一度枕に顔を埋めた。

 朝。朝は死の時刻だ。明は朝が来るたびに思う。
 意識がオンのままでは起きられない。意識を殺すのだ。何も考えるな。脳のスイッチを切れ。何か一つでも考えれば起きられなくなる。
 閉じた瞼の奥で無を強く願う。明は思考を止めようと繰り返し強く自分に言い聞かせた。
 毎朝、無を意識し始めてからもう何年になるだろうか。いや、そんなことを考えてはいけない。何年だっていいじゃないか。そんなことを考えれば、意識をうまく寝かしつけるのに余計な時間を喰うだけだ。

 思考停止。やがて意識はその底へ鈍く沈み込んだ。
 明は、沈んで動かなくなった意識が再び舞い上がらぬように注意深く腕を布団について、ゆっくりと身体を起こした。
 一つ息を吐く。大丈夫だ。意識は内奥に横たわったままで、明が起きたことに気付かない。再び目を開ける。きらきらとした光の粒はもうなくて、漫然とした明るみが部屋を満たしていた。明は、箱の底面から伸びる細い紐のような両脚にぎゅっと力を入れると、布団から出てのっぺりとした床の上にすっくと立ち上がった。
 ひとたび立ち上がった明からは緩慢さが消えており、すみやかに出勤の準備をこなした。シャワーを浴び、歯を磨き、シャツを着て、黒のデイパックを抱えると、明は靴を履いて玄関を出た。

 空は澄んでいた。
 街路樹の梢が陽をうけて薄緑の葉を揺らす。
 駅に近づくにつれて勤め人たちが増えていく。
 歩幅の小さな明は早足の勤め人たちに次々と追い越されてゆく。勤め人たちは、重いのだか軽いのだか分からない足取りでちょこちょこと歩く明のその箱の身体を後ろからはじっくりと観察し、まさに抜き去るときにはできるだけ前面も盗み見るべく横目で、あるいは腕時計を見たり、ポケットの携帯電話を探す振りでもしながら顔を傾げてちらりと見やりながら、白くて光沢のある、しかしよく見れば程良くつや消し素材のようでもある四角な身体を目に修めた。
 そうした他人の視線をさして気に留める風でもなく、明は一歩ずつ紐のような脚を交互に小刻みに動かして駅へと向かった。

 ホームへ上がるとちょうど電車が滑り込むところで、明はできるだけ人の少ない後ろの車両に乗り込もうとして、ドアマークの前に立ち並ぶ人たちをよけながら、後へ後へと急いだが、電車はやがて停車して、最終車両まではとても辿り着けなかった。
 ぷしっと音をたてて全部のドアが同時に開く。そろそろと列をなして乗り込んでいく勤め人たちの後について、明は一番近くで開いたドアから車両に乗り込んだ。ドアが閉まる。
 がたがたした振動と共に車両は動き出した。最後部に居る筈の車掌の声がアナウンスで聞こえる。車両の中程までお進みください、と。
 箱である明は電車という大きな箱の中で、これといってベストな立ち位置もなく、背丈の低さの割に横幅ばかり妙にとる立方体であるし、角の出っ張りなどが揺れた拍子に人にぶつかればこちらとしても申し訳なく、また吊革にも手が届かぬこともあって、窓に沿って据え付けられた長大な座席と座席の間、いわゆる車両の中程、には進まずに車掌のアナウンスは聞かぬふりで流し、ドアのある空間の真ん中に立つ。
 満員という程でもないが、ようよう体が触れ合わぬぐらいの距離を皆が保ちながら、明の周りにも人々が立ち並んでいる。それらの人々もまた一旦は箱である明をちらりと見るが、それ以上の感慨を表に出すことなく、新聞やら携帯電話やら中吊りやら流れゆく窓外、または瞼を閉じての暗黒といったものへすぐに目を戻す。
 吊革に届かぬ明は電車が揺れるたびにふらふらと身体も揺らされて、周りの勤め人たちの背中や腕などに角をぶつけそうになるが、そのたびに箱の底面から細く伸びる紐のような両脚でぐっと踏ん張った。

 電車を二度乗り換えて恵比寿駅の改札を出る。
 歩道の幅は狭く、隊列を組むかのように連なって、勤め人たちが同じ速度で進む。まさしく働き蟻のような隊列で、明もこれに混ざって会社までの三分ほどの距離を歩く。
 ここでは明も隊列にペースを合わせて、遅れを取らぬよう、ちょこちょこした足取りをよりいっそう小刻みに動かしていた。自分の歩幅で歩くとすれば、後ろに続く人たちに先を譲らねばならぬが、譲ろうとして速度を緩めても、歩道は狭く、箱であるが故に横幅を人より余計に取っている身体の横を擦り抜けるのは容易でなく、却って隊列の邪魔になるばかりだからであった。

 高層ビルは数えるほどしかなく、通りを挟んでは、七、八階建てのビルが建ち並んでいる。それらは中層のビル群だが、雑居ビルというほど古びてはおらず、外側の壁は一面ガラス張りで、太陽光をことごとく反射していた。
 明の身体を光が照らす。
 明は不意に、何か鳥の鳴き声でもすればよいのに、と思った。恵比寿には鴉さえいなかった。
 靴音の列。自動車のエンジン音。排気ガスの匂い。それから窓ガラスに反射して増幅された太陽の光。それが恵比寿の街にまっすぐ伸びる道にあるすべてだった。
 冷たい水を飲みたい。
 会社の一つ手前のビルの一階に、コンビニが入っていた。いつものように始業時間ぎりぎりなら、そのままオフィスへ向かうところだが、今日は電車の遅れもなかったし、乗り継ぎのタイミングも良かったのか、まだ五、六分程の余裕があった。
 コンビニがしだいに近付き、そろそろ列から逸れようと、ビルの側へ斜めに脚を踏み出したとき、明の前を歩く女も、明と同じようにようにコンビニの入り口へと体を向けて列を抜けた。

 女の身に着けた淡いベージュのスカートが、脚の動きに合わせてひらひらと揺れる。
 新しい女など必要ないのだ。
 と、夢の中で考えたことがまた脳裏によぎる。しかし、細い腰と、目の高さとさほど変わらぬ位置に揺れるお尻とひらひらに視線を向けずにはおれず、女の後ろに付いて明もコンビニに入った。

 明は、好奇の対象に自身の四角な身体をちらちら見られるのに慣れてしまっていたが、その代償として、美しい女を視るのを抑えられなかった。
 そうでもしなければ割に合わないと考えていた。
 女のことは少ししか知らない。
 せめて視るぐらいは許されて然るべきだ。

 女は自動ドアを入るとすぐに折れ、窓に沿って並ぶ雑誌類の前を通り抜ける。
 ひらひらと揺れるスカートが右手に逃げていくのを目の端でしっかりと捉えながらも、気を抑えて、明はレジ前へと真っ直ぐに進む。
 三つあるレジには、明と同じように始業前に水やちょいとつまむお菓子を買う勤め人たちが、それぞれ並び、混み合っていた。
 それでも、レジを打つ店員は、半袖で襟のある制服を着て、「いらっしゃいませ。お待たせいたしました。ポイントカードはお持ちですか。暖めますか。お箸は入り用ですか。フォークは入り用ですか。お手拭きは入り用ですか。袋は入り用ですか。三百二十円になります。五百円お預かりします。カードお返し致します。百八十円のお返しです。ありがとうございました。またお越しくださいませ」などといった言葉をきびきびとしながらもそれでいて感情を持たない抑揚で、繰り返し繰り返し殆ど開かない脣から発っし、次から次へと客の持ってくる商品にバーコードリーダーの赤い光を翳していくため、さほど待ち時間は掛からぬようだった。

 明はそうした三名の店員とそこに並ぶ勤め人たちのわきを抜けて、コンビニの奥へと進む。背の低い明は商品の陳列棚に阻まれて店内を見通せないが、朝のコンビニで往くべき棚などそういくつもあるわけでない。店の周回に沿って歩けば、ほどなく棚の陰から女がまた姿を見せた。
 目の前に合われた女の身体。細い腕と細い脚。その白さに明は一瞬息を止める。真っ直ぐに伸ばした髪は僅かばかり肩から前に垂れ、まばらな毛先は胸の膨らみに掛かっている。
 女の顔を見上げると、整った顔立ちの中にくっきりとした黒い瞳がただ意志もなく漠と店内か、あるいは世界を眺めていて、そこからは凛々しさよりは優しさと、少しの憂いと、ともすれば困惑さえ漏れ出していた。
 その漏れ出し方が少し無防備であるようにも明は感じたが、女の外見はそんなものだった。明はそれだけを一瞬で見て取るとまたすぐに目を逸らす。

 女もまた明を見たようであったが視線は合わず、明の四角な身体をさっとなぜるように見て、それでおしまいだった。
 明は女の横を通り抜けて、冷たい水の並ぶ棚へ向かった。幾種類ものペットボトルは、違いがあるのかないのか、味と値段の細かな差異に過ぎないようだが、明の視線に近い棚から順に見上げていくと、そこには形状の違いもあって、一番上の棚に、女体にも似たくびれのペットボトルを見つけた。
 それを掴み出そうと反射的に手を伸ばすが、明にとっては高い位置にあり、ひょろひょろの脚を緊張させて精一杯に背伸びをしても、ようやくペットボトルの底部に指が掛かるか掛からないかぐらいであった。
 一本のペットボトルに難儀する明の姿態。
 それを醜態として眺める勤め人たちの視線を、箱である明は背面と側面に強く意識したが、それには慣れっこであった。
 視線には慣れっこであったけれども、不意にまた夢の中で見た思いが浮かんだ。
 新しい女など必要ないのだ。
 明は背伸びをやめて、踵を床に下した。
 ひと呼吸吐く。
 そして味も値段も形状も構わずに、明はすぐ目の前にある寸胴のペットボトルに選び直した。
 すると脳裏から女の残滓も消えて、振り返って見たときにはもう女の姿もなかった。
 明はもう一度ほっとひと息吐く。
 レジ前では相変わらず三人の店員が無感情の抑揚で言葉を発し、勤め人たちの列は次々と捌けていく。その流れに混ざって女も店から出たのであろう。

 明はセキュリティーカードを扉脇のセンサーに翳してオフィスに入ると、室内の人々に聞こえるような聞こえないようなぼそぼそとした声で挨拶を誰にともなく掛けながら、ちょこちょこと壁際の通路を歩く。
 おはようございます、と挨拶を返してくる人は少ないけれど、それは特に明に限ったことではなく、誰も彼もが申し訳ていどの朝の挨拶しか交わさないことが、この職場の慣習となっていた。
 自分の席までいくと、黒のデイパックを降ろし、パソコンのスイッチを入れてから、静かに座った。
 厚いクッションで覆われた椅子は背もたれのバネもよく利いていてオフィスの全員に用意される椅子としては決して安物の部類ではないが、明には座り心地が悪かった。
 なぜなら、座部を一番低く調節しても、脚の短い明には高すぎるし、座ったときの体勢も、四角な背面が背もたれにつっかえて、座面に乗せられるのは、底面のうちのごく後方の部位だけで、そこは明の感覚では、お尻というよりは背中であった。
 大きなリュックを背負った人が、ちょうど腰の高さの台にリュックだけを乗せて休んでいるような姿勢だった。
 それでも立っているよりはマシであったし、わざわざ自分に合った椅子を家から持ってくるのも手間であり恥ずかしくもあり、職場で目立った行動はなるたけしたくなかったので、明はその椅子に三年間黙って座り続けていた。
 オフィスの同僚たちもまた、座る明を見てはその珍妙さに何か言葉を掛けようか、始めのうちは戸惑いながらも、明に合う椅子を用意しようだとか、実際に何か提案をする者は誰もいなかった。椅子について話題にする者さえいなかった。
 特別な椅子を用意するなどということは、却って明に失礼であると考えたからなのかもしれない。
 その暗黙の配慮が本当に同僚にあったとして、明としてもそれが嬉しいことなのか哀しいことなのか恥ずかしいことなのか、分からなかった。もしもそんな話題を切り出されたときに、どんなリアクションをすればいいのか選べなかった。
 そのうちに明の座る姿勢はそれで違和感なきものとして同僚たちの頭に定着し、見た目の珍妙さは残れど気に留める者はいなくなった。
 とても座っているとはいえないような姿勢で明は仕事をしていたのだけれども、そもそも雇ってもらえているだけでもありがたいと思っていた。働き口があるだけでもありがたかった。
 明は派遣社員で、プログラマーだった。
 この職場に来てから三年が過ぎた。
 明は今日もまた、プログラムを打ち始めた。

 いつも仕事に追われる職場だった。派遣社員はもとより、社員のうちでも役員より下の者は入れ替わりが激しかった。長く勤める者は少なく、三年間いるだけでもメンバーのうちでは古参に数えられた。
 プログラムなんて全然好きじゃなかった。ただ若い頃、箱である自分にもできそうな仕事は何かと考えたときに、机に向かってパソコンをカタカタいわすような仕事なら自分にもできそうだとなんとなく考えてこの仕事に就いたのだった。
 仕事はすぐに嫌いになった。
 コンピューターは嫌いではなかったけれど、コンピューターを好きな人たちが嫌いだった。
 彼らが話していることの意味が明には掴めなかった。
 彼らのメンタリティが掴めなかった。
 社会人になって六年が過ぎようとしているが、仕事を面白いと思ったことなど一日もなかった。

 しかし、他にできそうな仕事もなかった。
 小さい頃の明は絵を描くのが好きだったから、コンピューターを使う仕事でも、デザインの方にいけばよかったと何度も思った。
 転職も考えた。
 けれど適わなかった。
 適わないというよりも、実際の行動には移せなかった。
 絵が好きだったといっても、それはやはり絵の好きな子供だったという程度のもので、どこのクラスにも一人や二人はいるような子供のうちの一人だった。芸大に入ったわけでも美大に入って学んだわけでもない。大人になった今となっては、下手の横好きといった程度で、そうした気持ちが明を躊躇わせた。
 何も芸術家になろうというわけじゃない。
 高々インターネットのホームページを造るデザイナーになるだけだ。そうした者の中には、自ら筆を執って描くというような意味においては、それほど絵の上手くない者もいるようではある。
 それは分かっていた。だからこそ、明にでもなれそうだと僅かな希望を抱くのだけれども、それでも、プロとなる程の技量が自分にあるのだかどうだか分からず、二の足を踏んでいた。
 芸術家になるわけでないにしろ、商業デザインには、それはそれである種の技量が必要なのであろう。
 クライアントの注文とあらば何でも描けなければいけない。それは絵というよりはイラストであったり、アイコンと呼ばれるものあったりして、必要なのは、対象の特徴を掴み、抽象化し、シンプルな線と色合いに落とし込むセンスだ。ありとあらゆるものを、線と色合いだけによって写し出さなければならない。

 休日にパソコンのスイッチを入れて、イラスト描画ソフトを立ち上げる。それは、プロの職場で使われる高価なソフトでなく、インターネット上から無料でダウンロードできるソフトであった。ほとんどの就職口では、何万もする高価なソフトウェアが使えることを採用の最低条件としていた。しかし、明はそのソフトを持っていなかった。無料ソフトの使い方に習熟しても、就職の有利にはならないのだけれど、それでも、練習と思って目に付くものや頭に思い浮かぶものを片っ端から描いていった。
 猫だとか犬だとか明の好きな動物。人参だとか大根だとかキャベツ、白菜、しめじ、明の好きな野菜。よく食べる野菜。それからパンに珈琲カップ。自然も写し取った。川、森、山、空、星。
 嫌いなものも描いた。人。いろいろな人。勤め人。OL。子ども。女子高生。店員。などなど。とにかく思い付くままに線と色合いに写し取った。
 へんてこな絵であった。好きなものでも嫌いなものでも、どちらにしてもへんてこだった。二、三日してから見るとまるで何だか分からぬ絵であった。何を描こうとしていたのか、自分にも思い出せなかった。

 明は自分の拙い技量に嫌気がさして、茫然と自分の描いたイラストをしばらく眺めた。
 いや、このへんてこな絵は、技量の未熟さがその理由なのだろうか。技量の未熟さというよりも、世界を捉える眼差しが歪なためではなかろうか。
 明は立ち上がり、白いポロシャツに着替えて靴下を履くと、薄暗いアパートの部屋を後にして、アパート前の細い通りへと出た。
 住宅街には二、三階建てのアパートと、所々に五、六階建てのマンションが建ち並ぶ。通りは狭く入り組んでいる。
 明は空を見上げたが、空もまた狭かった。天気は好いけれど、立ち並ぶ建物に遮られて、明の真上と、道に沿った前後の空にだけ青空を垣間見ることができる。前方の空に白い雲がひとつ塊となって浮かんでいたが、みるみるうちに風に流されて、通りの脇へと消えてしまった。
 生暖かい風が明の腕をなぜる。
 子どもの声が聞こえた。
 見ると向かいから親子連れが歩いてくる。幼稚園児ぐらいの男の子と三十過ぎの父親が手を繋いでいる。子どもは父親に手を引かれ、大きな声で何かしきりに話していたが、まだ距離のあるうちから明に目を留めると立ち止まり、明が横を通り過ぎるまでずっとぽかんと口を開いたままの顔で眺めていた。
「パパ、あの人、ハコだよ」
 明の後ろで子どもの大きな声が聞こえた。
「これ、ああいう人に向かって、そんなことを言っちゃだめだよ。失礼だから」子どもに合わせて立ち止まっていた父親の諫めるような声が後に続く。
「しつれいってなに?」子どもが父親に訊ねた。
 明は歩調を変えることなく歩き続けた。
 路地から少し幅の広い通りへ出た。排気ガスの臭いが強まる。明は右に折れて、ガードレールに仕切られた歩道に入る。明の左側には信号待ちの自動車が何台も連なって停まり、助手席に座る人たちはみな、一様にこちらを見ている。運転席に座る人と何か言葉を交わしては、また明の姿を見る。目の端でそれを意識する明は、ちらと一秒間だけ車の中の人たちをガラス越しに見返す。すると彼らは目を逸らし、明のことなど一瞬たりとも見ていませんでしたといったような空々しい目線をフロントガラスに漂わせる。
 明はそうして歩く。
 道幅は広がっても、今度は街路樹が邪魔をして、やはり青空は僅かばかりしか見えなかった。
 後ろから自転車がやってきて、それを感じた明は歩道の脇へ身を寄せる。一台の自転車に二人の人間が乗っていて、一人は中学生の男子で、もう一人も中学生の男子だった。一人はサドルに、一人は荷台に乗っていた。明を追い抜くときに、サドルに乗る中学生はスピードを緩め、荷台に乗る中学生は、明の顔を覗き込むようにして、「ハコ」とゆっくり言うと、サドルに乗る中学生は笑い声を上げ、荷台に乗る中学生はとても満足気に微笑んで、二人は走り去っていった。
 明は歩いた。
 道はやがて駅前に繋がって、そこには商店が並んでいた。駅前商店といっても新しい店が多く、コンビニやカフェや携帯電話の店、ラーメン屋、不動産屋、ファーストフード店、牛丼屋などの、通りに面した店構えはどれもガラス張りで、右を見ても左を見ても、店の前を歩く明の姿を、明に対して映し出していた。
 明は確かに箱であった。白い箱。歩く箱。箱に手足が付いてる。顔も付いている。白いポロシャツにジーンズを着て、靴と靴下も履いている。白いポロシャツとジーンズは、四角な身体の明にも身につけられるように既製品を自分で改造したものだ。造ってからもう三、四年は経つだろう。正確な年数は忘れてしまった。
 靴と靴下は幸いにも買ったものをそのまま履ける。幸いにも? 幸いなんかじゃない。それは普通のことであるべきだ。あるべきなのに。明はそれに感謝していた。靴と靴下は、服やズボンのように自分で改良を施さなくても、買ってきたものをそのまま身につけられることに感謝した。自分の身体にフィットする服を自分で造るなんて、明には全然楽しいことではなかったから。
 白いポロシャツは明の身体によく似合っていたけれど、明の身体は紛う方なき箱であった。
 明の姿を映していた自動ドアが開き、牛丼屋の中から人が出てきた。その姿は箱ではなく、やはり明とは違っているように思えた。
 明はどの店にも入らず、元来た道を引き返した。

 家に帰ると、パソコンのスイッチは入ったままで、明の描いたへんてこなイラストがまだ画面に映っていた。
 明は白いポロシャツとジーンズと靴下を脱いでから、椅子に腰掛ける。パソコンを操作して、開いたままになっていたへんてこな絵を閉じ、新規ファイルを開く。白くて広いファイル。
 しばらく見つめてから、明はペンタブレットを握る。そして筆を走らせ始める。パソコンの中の筆を。
 明は自由に描きたかった。思い付くままに。
 自由に描けば、創造的な何かが写し出されそうだった。
 箱である自分の心にわだかまっている何かが表現されるのではないか。それを描いてみたかった。
 明のその白い箱の中には何が入っているのか、知りたかった。そこには何ものかが入っているように思えた。
 何かが入っていなければおかしい。そう明自身が感じていた。
 明は思い付くままに筆を動かした。
 心象風景。そんなものを、一度、持てる力の限りで描いてみたかった。
 明は線を描いた。線を描き、次に線を描き、また線を描く。始めは白い線を描き、下地も白いので、それでは描かれた線が何も見えないので、すこしだけ黒を混ぜて、灰色の線を描いた。それは十二本の線で、明の四角な身体を構成する面と面の折れ目の線だった。
 次には様々な色を使って塊を描いた。
 明は街にいたので、街を描いた。明の街を。
 街は、おおむね道であった。それに、道の上を歩く人。どこからともなく現れて、そこいらの建物の中へと消えていく。中で何をやり、何を話し合っているのか分からぬが、おそらくは秘密の囁きが、明には知られぬように日毎に繰り返されている。そういった数多くの人たち。
 箱のような明とは違い、マッチ棒のようにひょろ長いけれども真ん中から下は、さらに細く二つに分かれ、その二本の足でもって道を歩く人たち。たいていのものは荷物か鞄を持ち、背中に担ぐか、手に提げるか、肩に掛けるか、小脇に抱えるかしている。そうして或る建物から或る建物へと出たり入ったりしている。
 そういったものを、明はパソコンの中の画面に描きつけた。明には、それが世界のように思えたから。
 街は丸かったので、画面の端にいる人たちは、そこから滑り落ちそうだった。全然知らない人だけれど、なんだか可哀相な気がして、滑り落ちないようにしてあげたかったから、画面の端にさらに新しく白い領域をくっつけた。そうしてそこにまた新しい道を描いて、落ちそうになっている人が、どこか別の新しい建物へと歩いていけるようにしてあげた。
 パソコンで描くとこのようなことが簡単にできて便利だと思い、明は満足だった。

 そのうちに、パソコンに向かって筆を動かす明の時間も、幾晩かと幾朝かを迎えたようで、ある朝、雀が窓の外に渡してある物干し竿の上にとまり、ガラス越しに小さく鳴いて明の気を引いたときにようやく、明は握っていた筆を机の上に置いた。
 明は部屋の隅に敷かれたままの蒲団に向かうと倒れ込み、そのまま眠りについた。
 晩に目覚めると、パソコンの電源は入ったままで、やはりそのまま画面には、明が描いた絵が写っていた。
 明はとっくりとその絵を眺めた。
 描かれた絵にはしかし、何も描かれてはいなかった。
 ある部分は拡大して細部を見、ある部分は縮小して全体から見る。そうして広大なドットの描画平面を様々に探ってみたが、そこには何も描かれてはいなかった。
 呪詛、羨望、嫉妬、憧憬、憤怒、あるいは清廉、そういったものが画面に表現されていやしないかと、目をこらして探したが、なんにもありはしなかった。これまでにに描いてきたへんてこな絵とさして変わりなかった。
 自分の中には何も入っていないのだ。
 明は空っぽだった。
 明はしばらく呆然として椅子に座ったままパソコンの画面を眺めていたが、さして落胆も感じずにいた。実は明が空っぽの箱であることなんて、本当は明自身が始めから一番よく知っていたのかもしれない。それが分かって、荷物を下ろせたような安堵感があった。
 本当は空っぽな荷物であるのに、さしずめ天空のすべてを肩に担ぐアトラスと同じ苦行でも受けているかのように、自分をヒロイズムの中に落とし込んで、自己陶酔のよがり声を上げていたのだった。
 明はそれに気付いて、ひとり部屋の中で薄く笑い声を立てた。
 それでも、このことは、ひとには知られたくないような気がしたので、誰にも云わなかった。誰にも漏らすことなく隠して置いた。
 明の中には何も入っていないという事実だけが、その空っぽの箱の中に静かに置かれた。

 明はコンピューターの仕事を続けた。
 コンピューターの仕事をするしか能のない自分が惨めだった。特別な才能など持ち合わせていないことは分かったが、さりとて、コンピューターの仕事を続けることは、ときに涙が出るほど哀しかった。そうした自己憐憫の情がまた、明自身には自己嫌悪であった。
 コンピューターの仕事が嫌いなのではなく、仕事なら何でも嫌いなのかもしれなかった。または、仕事をしている人たちが嫌いなのかもしれなかった。明にはよく分からなかった。
 自分には何かが欠けているのだろう。
 メンタリティの中に、何か欠けた部分があるのだ。
 しかし、そしたメンタリティは持とうと思って持てるものなのか、どうやって埋め合わせるものなのか、いつか埋め合わせることができるものなのか、明にはさっぱり分からなかった。

 明はプログラムを打ち続けた。
 もうかれこれ六年間もの間、プログラムを打ち続けている。自分はいったい今までに何行のプログラムを打ったのだろう。この会社に来てから三年が経つが、それより以前に勤めていた会社で作ったプログラムは今でも動いているだろうか。今でも動いているプログラムは、いったいどれぐらいあるのだろう。大半はもう捨てられているだろう。システム自体が既に存在しないものもあろうし、システムは継続しているとしても、コードは新しいものに置き換えられているだろう。それでも、ごく僅か何行かばかりはまだ、明の書いたコードがこの世のどこかのシステムでときおり、あるいはまだ毎日、走っているのかもしれない。

 そういったことを漫然と考えながらプログラムを打っていたら、「明さん」と不意に耳元で呼ばれ、不安定な椅子の上でびくりと身体を震わせた。
 橋本がすぐ横に立ち、細い縁をした細い眼鏡の中から明を見下ろしていた。
 確か明より二つ若く、ゆったりとした背広をオフィスの中でもいつも身に付けている男だった。
「新しいメンバーを紹介したいので、ちょっと会議机まで来てもらえますか」と橋本は慇懃に言った。
 明は作業を中断してすみやかに立つと、橋本の後について部屋の隅に作られた会議スペースへと向かった。
 そこには女がひとり座っていた。若い女で、橋本と明が近づくと立ち上がった。立つというただそれだけの動作のうちにも、机の下の暗がりで薄衣のようなスカートが腿の上に小さくひらめいて、白く細い素足がほんの数センチばかり上まで見えたり、またすぐに見えなくなったりした。明はそれを見ずにはおれなかった。
「こちらは、今日から本社へ入社した、デザイナーの西尾さん」と橋本が紹介する。
「西尾美也子です。よろしくお願いします」と女は名乗って、明に頭を下げた。
 明は素足を見ていたが、女の下げた頭と共に開く胸元にすぐと目を移す。しかし、明の角度からはさして胸の素肌を覗かれはしなかった。
 女は顔を上げる。朝にコンビニで見た女だった。
 その瞳にコンビニで見たような憂いはもうなくて、微笑みと共に明の顔を真っ直ぐに捉えていた。
「こちらはプログラムの明さん」間髪を入れずに橋本が言葉を継いだ。
 明は、はて、こんなときには普通の人が言う決まり文句はどんな言葉だったろうと考えてから、特にどんな言葉も思い浮かばなかったので、
「野木明です。よろしくお願いします」とだけ抑揚のない声で言って、四角な身体全体に前に傾けてお辞儀をしてから、また戻した。
 美也子は微笑んだままだった。
 では、顔合わせとしてはこんなところで、といったようなことを橋本が言い、明は自分の席へ戻った。
最終更新:2011年10月02日 21:43
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。