プラトン
ノモス…法のように人為的に作られた制度。
ピュシス…自然本来のあり方。
ギュゲスの指輪…悪事を為しても決して露見しない魔法の指輪。
イデア…善、正義、美、そのもの。
二世界説…現実の世界=洞窟の世界 と イデアの世界=真実の世界 のこと。
エーロス…プラトンの思想は本質的に恋愛モデルであった。
グラウコンの挑戦…世間で道徳的に善いとされていることは、当人にとっては善いことではない。当人に本来的な意味でのメリットはない、ということ。
アリストテレス
カテゴリー…善い人間と善い時刻では、善いの意味がまったく違う。
アレテー…器量。徳。
エウダイモニア…最高善。幸福。守護神(ダイモーン)の加護があること。客観的な善きことで、主観的な快楽ではない。
中庸…何事もほどほどが大事であるという、云ってしまえば当たり前の主張。「おとぼけ(ソクラテス)」と「はったり(プラトン)」の中庸でもある。
アクラシア…意志の弱さ。煙草は体に悪いと知っていながら、つい吸ってしまうといったこと。
正義…配分的正義と調整的正義。
配分的正義…イチローはいくらの年俸を貰うのが妥当か。
調整的正義…ものの値段。一度決まってしまった配分を修正するとき。
友愛…フィリア。アリストテレスは友愛モデル。友愛なしに正義はあり得ない。
テオリア…観照。アリストテレスの最高幸福。「見せる」ことを希求しない、純粋に「見る」だけの人生。神的な生活。
アインジヒトたちの考察
私の考察
プラトンのいうギュゲスの指輪について、多くの人は映画「ロード・オブ・ザ・リング」を連想するのかもしれないが、私はそれよりも映画「ノーカントリー」に出てくるアントン・シガーを連想する。アントン・シガーは、ギュゲスの指輪をはめた人とほぼ同じである。
映画の話になってしまうが少し書くと、よく、アントン・シガーを神的な、人間を超越した存在だと解釈している人がいるのだが、私は違うと思う。人間離れした肉体と精神を持っているが、やはり人間だと思う。なぜなら、彼はお金を稼ぐために殺し屋をしているからだ。単にビジネスのために殺し屋をしているのであって、殺しのための殺しをしているわけでもなければ、何か神的な観点から人間を恐怖に陥れたり、目に物言わせたりするために人々を殺しているわけではない。報復するためや、懲らしめるためでもない。だから彼は人々に何も問わない。問答する場面もいくつかあるが、本質的な意味においては、いずれの場面もアントン・シガーは答える側である。殺される人を前にして、許して欲しければこれからは行動を改めろだとか、悔悛しろだとか、懺悔しろだとか云わない。後の第四章に出てくるが、これは独我論者が自分が独我論者であることを他人に主張したりしないことに似ている。
それから、彼は単に死ぬのが恐いということ以上に、生きることに執着している。彼は死ぬことなど恐くないだろうが、生きることに執着している。怪我をすれば治すのだ。それも可能な限り念入りに。肉体は自分の商売道具でもある。体が資本だ。自暴自棄になったり、破滅的になったり、自分の命を粗末に扱ったりしない。そこが「ダークナイト」のジョーカーや「セブン」のジョン・ドゥと違うところである。ジョーカーやジョン・ドゥの語ることは犯罪哲学や殺人哲学だろうが、アントン・シガーの語ることは彼にとっての単に仕事哲学である。
お金を稼ぐに当たって邪魔なものを排除しているにすぎないのだ。アントン・シガーほどの強靱な肉体をもっている場合、そうするのが一番合理的だからである。金銭を目的として殺すのではないような台詞を吐く場面が二度あるが、それは自分の殺し屋としての脅威価値をより高く保つためにするのだと私は思う。自分の仕事に僅かでも楯突いたものは死ぬのだ、と自分の活動する裏世界に知らしめれば、次から邪魔する奴も減って仕事がやり易くなる。単にそれだけのために殺すのだ。
アントン・シガーは何も問わないが、作者のコーマック・マッカーシーからは強烈な問いかけを感じる。あなたはアントン・シガーを否定できますか、という問いかけを。
アントン・シガーは本書の第七章で言及される宮沢賢治「毒もみのすきな署長さん」の署長さんに似ている。
この時代の人のいう善は私たちがいうところの欲に近い。自分にとっての善だ。私たちは価値転倒が既に起きてしまっている世界で育っているので、その違いが分かるまでは、ここの文章の意味も分かりにくい。
農作物を育てるなど、他者との関係性なしに価値を生み出す行為は存在する。これは正しきことか。あるいは善悪の基準で測るのは筋違いのことなのか。
この時代の人たちにとって、善く生きるとは、充実した人生を生きる、といった意味が強かった。これは私にとって興味深い話である。
私はアリストテレスの友愛モデルにシンパシーを覚える。
友だちと遊ぶ。といった感覚がこの本ではまったく語られていないところが気になる。
こうした要素抜きで、本当に道徳のすべてを語れるのか分からない。
こうした要素抜きで語ることが高尚なのだと言いたげである。
友だちと遊ぶという感覚を考えてみる。仮に人類にとって友だちという概念ができたのが、ごく近代になってからだとしてもよい。
友だちと遊ぶのは楽しい。ここでいうのは、苛めるのが楽しいような友だちでなく、ごく対等な関係の友だちである。苛めて楽しむような友だちは、こちらが思っていても、向こうはこちらを友だちとは思っていまい。
対等な関係の友だちとは。
ものを貸したり貸してもらったり、あるときはこちらが助け、あるときは助けられ。
ゲームに興じて勝ったり負けたり。
そうした感覚に人間は楽しさを感ずるはずだ。多くの人は子どもの頃に経験したはずだ。
この感覚を、損得勘定に読み替えられるだろうか。
子どもの頃から、こいつと遊ぶのは面白いから、また明日も遊びたいから優しくしようとか、いつか自分の方が困った局面に陥るとも限らないから、今日は親切にしておこうなどと、利害関係を考慮してから親切にしたり優しくしたり助けたりするだろうか。
ただ楽しいから遊ぶ。それだけじゃないか。そんな中で、何かの拍子に相手が困っていたら、ふと手を差し伸べるだけではないだろうか。
ごく小さな子どもが友だちにプレゼントをあげるとき、後の損得を始めから考えてるだろうか。
小さな子どもが友だちからプレゼントを貰うとき、そこに打算を感じたりするだろうか。いや、小さな子どもである方が寧ろ、ごく素直に好意だけを感じ取るはずである。
無意識のうちに損得勘定を考えているのだと云えるだろうか。
仮に無意識だとしても、それを意識下に引き上げる必要があるのだろうか。
私はこれを損得勘定だとは思わない。なぜなら、本当に困った状態になれば、親が助けてくれることを子どもは知っているからだ。
おそらく、人間の良心は、子どもの頃に子ども社会でさまざまな経験をするうちに育まれるのだ。
困っている人がいたら助けよう、というのは、何も大人になってみたらそういう社会規範があったからそうしているのではない。
それよりも、子どもの頃にはごく自然にそう思えていたものが、大人になると薄れていくのだが、それでも心の片隅には消えずに残っているから、そうするのではなかろうか。
こうした感覚がまったく語られていないと先に書いてしまったが、これはアリストテレスの友愛に似ているかもしれない。コミュニタリアニズムとも似ているかもしれない。私の場合、共同体でなくても、友だちはひとりいればよいイメージだが。
大人になってからは友だちを作るのが難しいといわれるが、それはまさに他人を利害関係でしか見なくなりがちだからではなかろうか。
永井均「倫理とは何か―猫のアインジヒトの挑戦」(ちくま学芸文庫)
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最終更新:2012年01月28日 21:25