黒い鳥
明は井の頭線の西口改札を抜けて、渋谷の薄暗い路地へと歩を踏み出した。
ビルの隙間に垣間見る空は晴天で青く澄んでいる。雲は一塊も見えない。それでも辺りが暗く感じられるのは、建ち並ぶ雑居ビルや聳える高層ビルに、朝日は悉く遮られて、人の歩く場所まで射す光は僅かばかりだからだ。
アスファルトは濡れている。ここらの店の下働きが、開店準備がてら通りに水を撒くのが日課なのだろう。
風はない。にもかかわらず、饐えた臭いが何処からか漂って、鼻先を掠めた。
耳のすぐ側で鳥の羽ばたきが聞こえたと思うと、数羽の烏が目の前に舞い降り、山と積まれたゴミ袋に跳び掛かる。
そのうちの一羽は、御馳走を奪われまいと通行人に睨みを利かせている。烏の群れにも役目が割り振られているようだった。明の心は一瞬躊躇ったが、反して足は突き進んでいた。朝の渋谷では、鳥にすら虚勢を張らねばならない。
明がゴミ袋の山で狭められた歩道を通り抜けるとき、烏はひとつ大きく鳴き、その声は細く張り巡る渋谷の空に響いた。
街路樹の植えられた通りまで来ると、陽の光が道まで射し込んでいて、少し明るくなった。若い女が二三人ずつ連れ立って歩いている。女たちは皆惜しげもなく太腿を他者に晒していて、明はつい目を惹かれるが、女たちの顔にはまだあどけなさが残っていて、取るに足りない話題に絶え間なく興じる瞳はどれも澄んでいる。
明は坂を上る。道はゆっくりと曲がっていて、再び日陰に入る。
準備中の喫茶店の扉に、歩く明の躰が映る。明の躰が映ったのは一瞬だったけれど、明は自分で自分の躰を全て見た。全身を。
明の躰は小さく、手足が短い。だが子供ではない。大人だった。大人のつもりだった。少なくとも生きた年月は大人だった。足は曲がっていて膝が開いている。野球帽を被り、白いシャツにジーンズ。黒いリュックを背負っている。いつもの通りだ。いつもと変わらない。いつもの躰。
女たちの笑い声が聞こえた。明は坂を上りながら後ろを振り返ったが、女たちの姿はもうどこにも見えなかった。見えない向こうから女の笑い声がもう一度響いた。
明は細い路地へ入った。薄っぺらい段差でできた階段があり、一段一段ゆっくり登る。登り切った先には手摺りの付いたコンクリートの道が延びていて、片側が切り立っている。欄干のような道を途中まで進むと、二階建ての古い建物があった。入口の上には小さな看板がひとつ取り付けてあったが、色褪せて淡くなり、元々の文字も図柄ももう判別できない。その看板を一瞥して、明は淀みなく中に入った。
「いらっしゃい」店番に立つ短髪の男が挨拶した。「毎度どうも」
明は愛想笑いで返すと、財布から紙幣を出して男に渡す。
「すぐ準備できますから」
明は番号の書かれたカードを受け取ると、カーテンで仕切られた待合部屋へ入り、ソファへ腰を降ろした。
他の客はいなかった。部屋に窓はなく、カーテンの隙間から射し込む薄い陽光と自動販売機の青白い電光にぼうっと照らされて、呼び出しを待った。
横に備え付けられた本棚に汚れた週刊誌やら漫画やらが雑然と並んでいる。案外、文庫の小説なども置いてある。その背表紙を見るともなしに眺めていると、ちょうど一冊分空いた本と本の陰から灰色の蜘蛛が這い出て来た。一円玉くらいの大きさの蜘蛛は辺りを警戒するように、恐る恐る本棚のへりを移動した。本を数冊横切っては立ち止まり、また数冊を横切る。そうして少しずつ進む様子は、さながらこの蜘蛛もまた時間を潰すのによい読み物を探しているようでもあった。めぼしい本が見つからなかったのか、端まで来ると、側面の板を伝って垂直に降り始めた。床まで一息で降りると、また辺りを窺いながら、少しずつ、明の方へ向かって来た。
女郎蜘蛛。それは妖怪変化の類であったか、実在の蜘蛛の種別であったか、定かな知識を持っていなかったが、明は想像の中で、美しき女身が見る間に蜘蛛に化ける姿を思い浮かべた。
蜘蛛は後ろに向きを変えると、尻から糸を吹き出した。糸はふわりと弧を描いて、緩やかに風になびくようであった。明は降り落ちる糸を除けようとして手で払うと、糸は腕に絡みついた。払えば払うほど、明は絡め捕られていた。糸は透明で細く柔らかいのに、強く粘りがあった。明の短い手足は締め付けられ、身動き出来なかった。もう、もがくのをやめた。
蜘蛛はゆっくりと振り返ると、近付いて来て明と正対した。長く大きな前肢を伸ばし、爪で餌を撫でた。不味いか美味いか測りかねるようでもあったが、畢竟喰えればよいとばかり、前肢を大きく振り上げると、明に突き立てた。
明はたちまち腕も脚も頭も引きちぎられ、残らず喰われた。喰われている筈なのに、何処からかそれを眺めていた。気分は好かった。そんなふうにして死んでしまいたいと思った。蜘蛛が、女身の姿に戻るのを待ち侘びた。
「お待たせしました」受付の男がカーテンを引き開けて言った。
灰色の蜘蛛は明の爪先まで来ていた。明が立ち上がると、蜘蛛は素早く逃げて行って、向かいのソファの下に隠れた。
明は待合室を出た。奥へ続く廊下の前にもカーテンがあり、その横の壁には禁止行為がいくつか書かれた紙が貼ってある。男が禁止行為を指で示して一言確認するが、お互い知った顔なので、明はひとつ頷いて済ますと、カーテンを除けて廊下へ進んだ。
万里が立っていた。薄暗い廊下の中で、万里は明と目を見合わせてから、「いらっしゃい」と言って微笑んだ。
明の小さな手を取ると、振り返って、奥へと連れて行く。万里の背丈は明より頭半分くらい高い。それでも女としては小柄な方だ。明は引かれる手を換えて一歩後ろへ下がりながら、万里の細い体とすっと伸びた脚を眺めた。
尻さえも十分には隠しきれていないような短いスカートが、万里の歩みに合わせてひらひら揺れる。明は数歩も進まぬうちに空いた手を伸ばして万里の尻に触れた。その薄い生地のスカートたくし上げてから、下着の中へ掌を滑り込ませた。
「はいはい、もう着いたからね」部屋の前まで来ると、万里が戸を開けながら言う。
指を割れ目の方へ動かそうとするが、明も部屋に入ったところで万里が振り向いたので、自然手は下着から抜けた。万里は笑って、戸を閉めた。
明は背負ってきたリュックを下ろし、帽子を脱いで脇に置く。尻のポケットから財布を取り出し、紙幣を一枚抜いて万里に渡した。
万里は躊躇いもなく受け取り、棚に置いたバッグの隅に直接紙幣を入れた。バッグの隣に文庫本が置いてあって、明はそれを取り上げた。それはジョン・アーヴィングの「
ホテル・ニューハンプシャー」の下巻だった。栞が最後から数頁のところに挟まれていた。
「万里ちゃんこんな堅い本読むんだっけ」
「うん。あたし意外と読むよ。それにこれ全然堅くないよ」
「ああ、そうだね。堅いというのとはちょっと違う」それは明もずっと前、確か就職したての頃にに読んだことのある小説だった。
「待ってる間に読み終わっちゃった」
「そっか」と言って明は頁をぺらぺらと捲った。「なんでこんなところに、こんな本が置いてあるの?」
「さあねえ。店の誰かが持って来たんじゃない?」
「そりゃあそうだろうけど。受付の短髪の人かな?」
「んー。あんまり話したことないから分からないけど」
「そっか」明は本を元の位置に置いた。「というか、今日何時からお店に出てるんだっけ」
「五時から」
「もしかして僕が最初じゃないんだ」
「ううん、最初だよ」
「よかった」明の顔に嬉しさが浮かんだ。「最初じゃなかったら半額にして欲しいよ」
「そういうもん? ちゃんとひとりひとりシャワー浴びてるよ」
「そうかもしれないけど、気分的なものだね」
万里はただ聞いていた。
「嘘ついてないよね」
「嘘じゃないよ。ほんと暇だった」
明は万里のキャミソールをまくり上げ、背中に腕を回してブラジャーを外した。露わになった乳房に顔を埋める。万里はキャミソールを頭から抜き、ブラを腕から落とした。明はひとしきり乳首を吸うと、顔を離して邪魔くさな自分の服を全部脱ぎ捨てた。その間に万里も裸になった。
全裸になった明はリュックから日本酒のパックを取り出すと、蓋を開け、直接口を付けて飲んだ。万里に渡すと、万里も一口飲んだ。明はパックを受け取ると、もう一度口に咥え、二三度顔の上で傾けて躰に流し込んだ。万里の腰を引き寄せて、膨張した一物を太腿にこすり付ける。万里は少し押し返して大きさと堅さを試したあと、軽く笑ってからシャワー室へ手を引いた。
シャワー室の中で、明は備え付けの歯ブラシを使って歯を磨いた。磨く間に万里は明の躰を洗う。石鹼を付けて柔らかな掌で擦る。腹と胸。脇と股間。背中と尻。明の小さな肉体に泡が立つ。
そうして今度は湯気の上がるシャワーを掛けてもらい、白い泡を流し落とす。口の中に溜まった歯磨き粉も掌でうけたお湯ですすいだ。
明はこの時が好きな筈だった。万里の掌が好きだった。けれど寂しかった。堪らず、細い体に付いている豊かな乳房にまた手を伸ばしながら、抱きついた。万里は仕方がないというように、明を抱えたまま泡を流した。
「残ってない?」と万里が訊いた。
明は一瞬考えた後、万里にキスした。
「いや、そうじゃなくて」と困った顔で笑う。「もう泡残ってないよね。じゃあ終わり」と言って万里はシャワーを止めた。
シャワー室から出て躰を拭き、そして、明はまた酒を一口飲んだ。
万里は先程紙幣を仕舞ったバッグから、ゴムを取り出して見せた。「ちゃんと大きいの用意しといたよ。普通のじゃきつそうだったもん」と笑う。
明はそれを受け取ると、ベッドの上に胡座になってするすると自分のものに付けた。
万里を引き寄せ、割れ目を愛撫するとすぐに濡れてきたので、後ろから中に入れた。
生温かな感触が明に伝わる。万里はベッドの上で這いつくばって尻を突き出す。膝立ちでも万里の足の方が長いので、明は中腰にって突いた。身体の動きに合わせて万里は小さく声をたてる。しだいに万里の腕から力が抜けて顔も胸もベッドにうつ伏せたが、尻は高く上げたままだった。明の胸から汗が滲んできた。そうするうちに万里は果てた。
明は抜かずに横になり万里を抱きしめ胸を揉んだ。万里の意識が戻って来た頃にまたゆっくりと腰を動かしてみると、万里もまた喘ぎ声を小さく上げ始める。万里はもう一度果て、同時に明も射精した。
明は息がおさまるまで、横になったまま動かなかった。二回もいっちゃった。と火照りを残した万里が恥ずかしそうに言った。
万里は起き上がると、明の股間に手を伸ばして、萎んだものからゴムを外した。白濁した液体を先に集め、いっぱい出たね、と言って顔の前で振った。そのとき穴や破れのないことをさり気なく見てからティッシュに包んでごみ箱に捨てた。
「ほんとにいった?」と明が訊いた。
「うん」と頷きを返す。「それいつも訊くね」
「でも女の子って分からないからさ」
「いったよ。明とは最初のときからいった。そんなことあたし珍しいけどね」
明には本当かどうか分からなかった。仮に嘘じゃないとしても、その喜びがどんなものか分からなかった。本物の恋人とする快感と違うものなのか分からなかった。男の明にも、本当の恋人とする快感とは違うように思えたが、はっきりとは分からなかった。明にもかつて恋人がいて、愛し合ったこともあったけれど、そのときの気持ちはもう思い出せなかった。
「終わりのシャワーはいいよね。面倒だから」
万里は束ねられていた髪を解き、仰向けに寝る明の横に腰掛けた。肩から胸元へ廻した髪の毛を指で繰り返し梳いている。細い背中と細い腕の間で、丸い乳房が見え隠れする。明は堪らず手を伸ばす。それから腕を引くと万里は嫌がる様子もなく背中からしな垂れかかってきた。仰向けのまま躰の上に万里を乗せる。
「重い?」万里は愉快そうに訊ねた。
「軽い」
万里は満足したような笑い声をひとつあげて、その後はじっとしていた、穏やかな呼吸だけが肌を通して伝わる。明は目を閉じた。肌と肌が触れ合う感触が心地好い。万里とするのは何度目だったろうか。最初に指名した日、明の小さな躰を見ても、万里は動揺を見せなかった。その日からセックスをした。お小遣いを渡すとすぐに許した。けど、そんなことをするのは初めてだと言っていた。彼氏はいないと言う。プライベートのセックスも最近はしていないらしい。お店に入ったのも数日前だという。お店にばれないかと不安を浮かべた。個室に入れば後は二人でどういう取り引きをしようと勝手だと言うと納得したようだった。ゴムは明のを使った。普通のサイズだった。きついとは感じていたけど、自分のは小さいと思い込んでいた。入れるとしだいに感じはじめ、万里はすぐに果てた。短時間コースだったので、延長してもう一回した。それから毎週指名した。同じ曜日の同じ時間に指名した。水曜の朝。今日が四度目だった。そうして今は自分に背中を預けているのが万里だった。それだけの関係だった。お店の女の子に入れ上げるなんて馬鹿らしいと半分は自分でも思っていた。
「今度はお金払わなくてもいい?」と明は天井を見ながら訊いた。
「お金って、お小遣いのこと?」
「もうあんまりお金がないんだ」
万里は明の小さな胸の上で器用に反転して、明と瞳を合わせた。
「お小遣いくれなきゃ、本番はいやよ」
「毎週は厳しくなってきたかも」
「万里は毎週しなくても楽しいよ。余裕のあるときだけ遊びに来てくれたらいいよ」
「万里ちゃんのこと、好きなんだ」
「あたしも好きだよ」
「じゃあいいじゃん」
「いや」
万里は目を伏せた。
「じゃあメールアドレス教えて」明は思い切って言った。
「じゃあ、っておかしいでしょ」と万里は笑って返す。
「好きだから」
「だめよ」
「なんで?」
「お店はお店よ」
「そういうもんかね」
「そうよ」
明はしょぼくれてみせた。それから、「女の子は他にもいるんだよ」と拗ねたように言う。
「万里だって、お客さんは他にもいるのよ」
「そんな寂しいこと言うなよ」と明は口を歪めた。
「そっちが言い出したんじゃない」と万里はまた笑った。
「そうだけど」
「もう。あんまり困らせちゃ、いやよ」と軽く言って万里は起き上がった。
「怪しい奴だと思ってるんでしょ。俺、コンピューターの仕事してる。インターネットのホームページを作ってる。普通の会社勤めだし。そんなに怪しい者じゃないよ」怪しくないって言うやつが一番怪しいんだよなと、明は自分で言いながら考えた。
「じゃあ今から仕事?」
「うん」
「仕事の前に風俗?」万里がいやらしく笑う。
「うん」
「ばれない?」
「ばれてもいいよ。どうせ派遣社員だから。どうせそのうち職場は変わるんだ」
「派遣社員なんだ」万里は珍しいものでも見るように言った。
「うん」明は返事をしてから目の端に怯えを見せた。
何故、俺は怯えるのだろう。派遣社員か正社員かなんてたいした問題じゃない筈なのに。矢張り、そう思いたいだけで、本当のところは極まりの悪さを感じているんだろうか。風俗の女の子にまで。
「大丈夫? お酒いっぱい飲んだでしょ」
「大丈夫」と明は答えた。
けど、仕事の前に酒飲むなんてどう見ても怪しい奴だよな。碌な人間じゃないことは確かだ。信用してもらおうなんて土台無理な話だ。そう思うと笑いが込み上げてきた。
何故か笑い始めた明を見て、万里は安心したようだった。
「ねえメアドは?」
「無理」
「じゃあ結婚してよ」
万里は声を上げて笑った。
明も笑った。
タイマーが鳴った。
万里は内線電話で受付へ連絡を入れてから、散らばった下着やキャミソールを身に着けた。明も服を身に着け、最後にリュックを背負った。
「また来てよ」ドアノブに手を掛けながら万里は言った。
「うん。ていうか、もう来ないなんて言ってないじゃん」
「だって、そんな風に見えたから」
どんな風に見えたっていうんだ。
「みんな淋しいのよ」
なんだよそれ。
「淋しいのは明だけじゃないんだから」
そうだよ。
俺は淋しい人間だよ。
万里の瞳だって、淋しそうに見えるよ。
「あたしにできることなら何でもしてあげるから」
言ってからはにかむ視線を受け止めて、明は小さく頷いた。
「けどお金はちゃんと取るんだろう」
「まあね」と返すと万里は無邪気に笑った。「忘れ物はない?」
狭い個室を見廻した。小さな棚の上の「ホテル・ニューハンプシャー」が目に入った。
「これもう読んだんだったら戻しておくよ。待合室の本棚だろう」明はその文庫本を手に取った。
「え。いいよ。お客さんがそんなことしなくていいのよ」
「いいんだ。本棚をもう一回見たいから」
万里は意図が摑めず困惑した顔になって、「変な人ね。好きにすれば」と言った。
ふたりは薄暗い廊下へ出た。数メートル先に見えている廊下の端までには、明が出て来たのと同じ扉が左右にいくつも等間隔に並んでいた。入って来るときには、はたしてこんなにいくつもの扉を通りすぎたものだか判然としなかった。何番目の部屋に入ったのだったか。そもそもこの店にこんなに部屋数があったろうか。物音も、囁き声も、喘ぎ声も、何も聞こえなかった。この中では他の女の子たちが客を待っているのだろうか。ベッドの上で屈み込んで、それぞれの本を読み、頁を捲っているのだろうか。扉の中にはそれぞれの時間が流れている。ひとつひとつの扉の前を通り過ぎるとき、それらの時間に割って入ってみたかった。しかし割って入るのが恐くもあった。だから万里の後ろをただついて歩いた。廊下の先は受付の方から射し込む光でぼんやりと明るくなっていた。帰りたくなかった。光の先には現世とは何の関わりのない世界が広がっていればいいのに。と明は幼稚な空想をした。
「リリーみたいになっちゃあだめだよ」
「うん」リリーというのは「ホテル・ニューハンプシャー」に出て来る登場人物の一人で、主人公の妹だった。小人の女の子だった。大人になれなかったことに苦しんで、悲しい結末を向かえる女の子だった。
「大人になれるかなれないかなんて、たいした問題じゃあないのよ。少なくともあそこは十分に立派な大人よ。それはあたしが保証するから。そこらへんを歩いている男たちよりずっと立派なものよ」
大人になれるかなれないかは、本当はたいした問題だった。明はそれを知っていた。万里がどういうつもりで言ったのか分からなかったが、慰めには違いなかった。嬉しかった。慰めを御為ごかしと受け取って憤るほど、明は擦り切れていなかった。いつも真実を突き付けることだけが優しさではないのだ。
明は廊下の端まで来ると、手を振って万里と分かれた。ぼんやりとした明かりに包まれた場所を抜けると、そこは矢張り受付だった。
「どうでした?」と短髪の男が出て来て訊ねる。
「いやあ、いつもと変わらず好い子でした」揃えて置かれた自分の靴に足を入れながら、明は陽気に答えた。酔いも手伝って出る陽気さだった。
「ありがとうございます」短髪の男は薄笑いを浮かべていたが、明の答えが本心か社交辞令かを探るように目の奥は鋭かった。そうして女の子の勤務態度やサービスの良し悪しを雇い主としても調査するらしい。しかし、結局のところは、今度また明が万里を指名するかどうかでしか、そんなものは測れないのだった。短髪男もまた、そんなことは分かっているのだろうけれども、毎度すみやかにこのやりとりは行われる。万里については不満の返事をしたことはなかった。
「ちょっと失礼」明は待合室のカーテンを開けて入った。「本を持ち込んじゃってたものですから」持ち込んだのは自分ででもあるかのように曖昧に言っておく。
帰りに待合室へ入る客など滅多にいないのだろう。男は戸惑いの表情を浮かべて「はあ」と言ったきり、言葉を継げずに間抜けに突っ立っていたが、特に咎める様子もなかった。本棚の前に立つ。先程、灰色の蜘蛛がこっそり出て来た隙間の右側に「ホテル・ニューハンプシャー」の上巻があった。明は手に持っていた「ホテル・ニューハンプシャー」の下巻をその隙間に戻した。
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最終更新:2011年07月26日 22:14