湯浅誠さんのdig出演回
http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/dig20110822.mp3
私がどうも歯痒い思いをしている部分がだんだん見えてきた気がする。それを説明したい。湯浅さんの話し方は聡明で落ち着いていて大好きだ。こんな人が世の中にもっと沢山いれば世界は平和なのになぁと心から思う。それは始めに申し上げておく。基本的にはファンだからこのラジオも聴いたのだ。
それ。その問題。問題。問題だ。つまり問題。ある心優しき少数の人々には問題と思われる事象。それは、慈善で救うものなのか義務善(法制度)で救うものなのかを一つ一つ国民全体に問うて欲しい。国民一人一人に問うのが無理なら、せめて議員の一人一人に問うて欲しい。そして合議して欲しい。
湯浅さんは最後に、「私は好きでやっているだけだから」と云う。この部分はちょっと胸を打つと同時に考えさせられもする。自己満足でやっているのかとの謗りを受けても、好きでやっているのでなければ続かないだろう。その意味でこの発言は支持できる。内閣参与ともなれば収入もあろうし、そうなればもうビジネスとなるわけだが、それについても私は特に気にならない。しかし、一方で、湯浅さんのやっていることは慈善なのか? という疑問が湧く。湯浅さんは現状では慈善でしか為されていないものを義務の善として法制度の中に組み込む活動をしているわけではなかったのか、という失望である。湯浅さんは慈善を慈善として行って、それで満足しているだけの人なのだろうか。
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違いを楽しむ
他人に寛容になるのと似た話だが、他人と自分の違いを楽しむメンタリティを持って人と接することを心掛けたい。こういうことは中学生ぐらいのときも考えていたと思うのだが、社会人として何年も過ごすうちに、人間としての本来的なものの見方を忘れてしまっていたりする。
私は他人に不寛容過ぎる嫌いがある。他人と話していて、他人が私に対して意見めいたことを一言でも言おうものなら、もう二度とその人とは話さなくなる。他人が私に対して意見めいたことを口にしても、莞爾として笑い飛ばすか、あるいは白痴のような薄ら笑いを浮かべて軽く聞き流せるようにしたい。しかし、これがなかなか難しい。相手は、私を感化しようとしている。私をねじ伏せて支配下に置こうとしておるのだ。なので、私としては一度目には笑ってうまく流せたと思っていても、相手は、云い方が生易しすぎたのかなと思って、次回に会うときには、さらによりいっそうの棘と侮蔑を言葉とその眼差しに含ませて私に説教を垂れてくるのだ。こういうときにどう切り返すか悩む。全部正直に自分の気持ちを述べるのが一番良い方法だと思っているのだが、なかなか全部を説明し終わる最後まで相手が痺れを切らさずに聴いてくれることも難しかったりする。そう、それはどういうことかというと、あなたとは暇つぶしに喋っているに過ぎないのです、と正直に説明することだ。女の人たちはこれをわざわざ云わなくてもお互いの共通認識として胸の内で疎通し合いながら喫茶店などでぺちゃくちゃぺちゃくちゃと益体のない話を延々しているような気がする。ただ、女の人は違いを楽しむ会話はあまりしていないような気もする。
他人と話す。ただ楽しむために話す。これがしたい。私は他人を感化したくない。それは単にパワーゲームだからだ。他人を感化することで自分にメリットがあるから、その人と話すのだ。私はそういう会話に惹かれない。何が面白いのだろうと思う。
大抵の他人は私との会話に魅力を感じない。だから、こちらから積極的に話しても、いつしか適当なはぐらかしで逃げられてしまう。向こうから話し掛けてくることはない。
寛容は近頃のキーワードになってきている気がする。寛容は私がここ一年間掛けて自分の頭で考えた末に導き出された今後の信条なのだけれども、著名人の記事や発言で最近よく目にする。私が寛容に対して敏感になったから目につくのだろうか。
内田樹さんのコラムにもまた菅総理の退陣に絡めて寛容をキーワードとした話が載っていた。
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塔の上のラプンツェル
例によってネタバレを大いに含みますので気をつけて下さい。
ラプンツェルの原作はここで読むことができます。他の底本があるかどうかは知らないが、あったとしても内容にさほどの違いはあるまい。
読めば分かるが、原作はとても短い話だ。これを現代エンターテイメントの最高水準に改変した脚色が素晴らしい。
優れた改変だと私が考えるポイントを挙げていきたい。
髪に魔法の力を宿らせた。これにより、ラプンツェル自身をマクガフィン化することができる。
さらに、髪の毛を切ってしまうと魔法の効力はなくなるとした。これにより、髪の毛がマクガフィンとはいっても実質的にはラプンツェルの身体のみがマクガフィンとなる。アイテムをマクガフィンとするよりも、ヒロインそのものをマクガフィンとする方が面白くなるのは必定である。
ラピュタで云えば、飛行石だけあっても意味がなく、シータも一緒にいてこそ始めて本領を発揮するのと同じである。
ただ一つだけこの映画にも疵がある。母親の正体が分かったときのラプンツェルの葛藤に深みがない。
深みがないというか、カットされている。カットされて、外に出してくれないとはいえ、基本的には「お母様お母様」と言って慕っていた母親を、完全な悪人として呪うところまでの変化が、映画時間で僅か数秒である。ここの心境の変化だけはもっと丁寧に描くべきだった。或いは、悪人であっても完全には憎みきれないとして、別の少し異なる結末を用意するか、このどちらかが必要だっただろう。
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馬鹿スパイラル
国民、政治家、マスメディア、官僚、行政機関、企業などが渾然一体となって馬鹿スパイラルが起きている。そうとしか思えない。
官僚は国と国民と国土を貪り尽くし、後には何も残らないだろう。
景気回復なんてどうでもよい。私が問題だと思うのは次のこと。
人間に与えられる最大利益独占はどの程度とするのか。人間に保障される最低人権はどの程度とするのか。この二点だ。それ以外の論争は単にパワーゲームに過ぎない。利益闘争である。利益闘争は市場でやればいい。政治に利益闘争は必要ない、本来は。本来はというか市民政治が実現して以降の政治では、必要ないのだ。しかし、政治に利益闘争が介入するのを許容しているのは国民だ。国民は、市民政治における国家は何を為すべき機関なのかを子細には理解していない。国民の大半は愚かというよりは未熟なのだ。
そもそも国のことを考えているわけでもない人が国会議員になっていることがおかしいのだが、選んでいるのは国民なので仕方がないとも云える。民主主義とは恐ろしいシステムだ。むろん封建社会よりはましではあるのだが、成熟したシステムではない。民主主義では、多数の弱者を救うことはできるが、少数の弱者を救うことはできない。
国会議員といえども人間なのだから国のことより自分の利益を考えるのが当たり前だというなら、そもそも全部の物事を市場に任せれば好いのであって、国会議員はおろか国そのものを解体してしまえばいい。
国の利益に貢献した国会議員には、その結果に応じて報酬が支払われるシステムを作ることはできないのだろうか。
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私は論理でものを考えるのが好きなんだなぁ
と漠然とした感慨を自身に持ったりする。
弱者寄りの言論人も、倫理を厳密に考えてはおらず、曖昧な正義感に基づいて、ああでもないこうでもないと悠長な発言をしているようにしか見えない。論理的な発言をする人はなぜこうも少ないのだろう。例えば、渋井哲也、清水康之、湯浅誠、江川紹子、想田和弘などは弱者寄りの言論人及び映画監督であるけれども、そのツイッターなどの発言はどうにも脳天気というか、何を言っているのかさっぱり分からないというか、本気で世を正したいようには到底思えない。想田監督など東大を出ているのに、なんか弱者への漠然とした可哀相感に基づいて発言しているようにしか聞こえない。なんというか、私の感じる不満と違和感は何なのだろうと考えた。彼らは、漠然とした弱者への可哀相感を世の多くの俗人たちに訴えることで、本当に世の善の総量が増えていくと信じているのだろうか。というのが私の感じる疑問であり、彼らへの不満と違和感だ。
民主主義のジレンマというものがあろう。民主主義では多数の弱者は救えても、少数の弱者は救えない。この厳然とした事実を彼らは論理的にどう考えているのか知りたい。
言論人は三つのことを同じ比率でするべきだ。
俗人の啓蒙。これは先に述べたこと。やるなとは云わないが、これしかやっていない言論人が多いことに私はうんざりする。
倫理に反する人物の具体的な批判。言論人にはこれをもっとやって欲しい。この面で頑張っているのは、ぱっと思い浮かぶところだと佐高信ぐらいだ。
論理的な倫理の議論。これも少ない。抽象的な話には俗人が着いてこられないからだろうが、これを抜きにして各論を話していても仕方がないと思えるときが多々ある。
そういう問題なのか問題。というのが私にはあって、先に述べたように大抵の言論人の発言に、感じる違和感を逐一言葉にして表していこうかなぁと思っている。この随想に書き連ねるのでも好いのだけど、ちょいと実験でブログにも投稿しようかなぁ。どこのブログがいいかなぁ。ちきりんさんのブログはシンプルで私好みのデザインだから、はてなブログにしようかなぁ。なんてことを最近考えている。
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八本脚の蝶
二階堂奥歯「八本脚の蝶」は定期的に読み返したくなる。読むと安堵感が私の胸に生まれるのだ。こうした言い様は奥歯さんほどの読書家になら失礼に当たらないだろう。勿論面識など無い私だが、きっと微笑とともに軽く受け止めてくれると信じる。奥歯さんほどの読書家なら、自分自身に向かって吐かれた言葉のみが、他者の心へも届くと知っている筈だ。初めて読んだときには気付かなかったけれど、先ほどまたちらちらと読んでいたら奥歯さんは永井均の本なんかもちゃんと読んでいる。
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もはや暇つぶし産業しか残されていない
この悲哀。今の世にしがなくない職業ってあるのか。この世は無駄話の山でできている。それは理解はできても容易には受け入れがたかったりもする。
市場。人身売買。本当にこんなにも殆ど全ての人たちが必然のごとく市場価値の中で生きていかなければならないのか。その疑問。誰も問い直さない疑問。本当に、このような世の中で生きていくことに多くの人たちはそれほど息苦しさを感じていないのだろうか。そこが私にはよく分からない感覚である。彼等のように何も考えることなく生きて行かれたら、どんなにか幸福だろう。
建設的な発言、少なくとも世の人たちが建設的であると信じている発言というべきか、でなければ発言でお金を稼ぐことはできない。私だって建設的な発言なり何なりで、お金を稼げるならそうしたい。しかし、建設的なものなどこの世界には何も無いように思える。この茫漠とした世界でどうやって生きていったらよいのだろうか。いろんなことに寛容に生きられたらいいなぁ。あらゆる他人に寛容になりたい。これが私の信条。これからの。
民衆をもっと寛容に情熱と愛をもって眺められたらいいのに。その猥雑、低俗、醜悪、下愚、下劣、胡乱、痴愚、虚飾、驕慢、享楽、怠惰、低劣、卑俗、通俗、矮小、汚穢、野卑、愚昧、蒙昧、愚劣、淫猥、卑小、無粋、無能、凡庸、凡俗、下司、汚濁、無恥、滅裂、迷妄、虚妄を。ゾラが「居酒屋」に、あるいはモームが「
人間の絆」に描出する眼差しの如くに。
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村上春樹 カタルーニャ賞受賞スピーチ
近頃の私は「日本人」を主語にして語るのに違和感を感じるんだよね。議論好きなだけの一般人ならまだしも、著名人が「日本人は~」などと語っているのを見ると、なんだかなぁ感が否めない。
日本人は原爆を落とされた上に自分で原発を爆発させるとか馬鹿なの?死ぬの? という文脈でなら「日本人」を主語にしても違和感は感じない。
私は日本人だろうが外国人だろうが、現代の人だろうが昔の人だろうが人間の本質は、有史以来何も変わっていないと思うんだよね。有史以来って言うのは、ギリシャのアリストテレスが著作を残した時代ぐらいからのイメージなのだけどね。
村上春樹は損なわれた倫理を埋めるのが作家の仕事だと云っているが、どうしてそう云い切れるのか、もう少し詳しく説明して欲しかった。つまりそれは、人類普遍の啓蒙目的というよりは、単に好みの話として語られるべきだ。他人に強要すべきものではない。
私には、人々を啓蒙するために書かれた書物よりも、ただ、己を救うために書かれた本の方が真実みを持って心に迫ってくる。
永井均やチャールズ・ブコウスキーにはそうしたものを感じる。サマセット・モームの「人間の絆」にも感じる。
村上春樹は、夢を読者と共有できたらこれほど作家として幸福なことはないだろうと云う。確かにそんなことができれば幸福だ。
しかし、私は始めから誰かと共有することを念頭に置いて書かれたものよりも、ただ自分のために書かれたものの方に誠意を感じるし、結果として共有もできる。
私は「無常」の語感を肌で感じたことはないが、「諦観」は分かる。私は人間を諦めている。人類とは絶望的に愚かな種族だ。村上春樹ほど古典文学を読み耽っている者が、どうしてそれを知らない筈があろう。どうして読者と観念を共有するなどということを信じられるのか。そのことを詳しく述べて欲しい。セリーヌは云っているぞ、糊口のためでもなければ誰がお前たちのために一行だって書くものか、と。
復興するにしても、また数十年後に地震と津波がやって来る場所に家を建てるのってどうなの?馬鹿なの?死ぬの?また死ぬの?と思うのだが、そういうことを言い立てる言論人がいないこともとても気になる私であった。
あの場所に数十年に一度、大きな津波がやって来るのは地元の人は知っていたはずだ。吉村昭の著作にも書いてある。知っていて住んでいるのだ。
かくしてまた 絆 だの がんばろう だのが連呼され、退屈極まる日常の程良い刺激となるのだろう。まさに永劫回帰だ。
近頃、宮崎駿がメディアに出て自らの口で語る機会が以前よりも増えている。宮崎吾郎による暴露もある。それは好ましいことだ。同じように村上春樹も、その発表作品内での発言だけに留まらず、メディアに登場する機会が増え、その真意、或いはその真相が多くの人の目につまびらかになれば好いなぁ、と思う。
全くとりとめもなく脈絡もない文章になってしまったが、まあこのエントリーはこんなもんでよいだろう。
私は「アフターダーク」で村上春樹を読むのを辞めた人間だ。
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dig大野更紗回
http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/dig20110825.mp3 blog転載済
いやはや、掛け値なしに傑作回だった。あ、今風に云うところの神回?
実は、とまたいつものパターンでネガティブな告白から始めるが、大野更紗さんの文章があまり好きではない。
巷では、あの軽妙洒脱な語り口、真面目な話に巧みに織り交ぜる諧謔が、そこから堅苦しさを取り払って、多くの人への間口を広げているのであろう。その諧謔の目的は韜晦であろうが、韜晦しきれずにちらちらと垣間見える大野さんの頭の良さが、私のような捻くれ者には、どうも素直に受け取れないところがあって、いけ好かない女のように思って敬遠していた。不謹慎というか配慮に欠けると思われるかもしれないが、誤解を恐れずに比するなら、難病を綴る文章では、前に少し紹介したけれども先日亡くなられた
ココさんの文章の方がずっと好きだ。
一年前ぐらいから大野更紗さんの存在はツイッター上で見ていた。社会派論陣のツイートをチェックしていると大野さんの発言が目に留まることが幾度かあったからだ。けれど、つぶやきもまた私の好みの語り口ではなかった。単に頭が良いのと聡明であるのとは、私のニュアンスでは違う。大野さんの文章からは、頭の良い人なのだろうなあと思えど、聡明さまでは感じ取れなかった。
私が大野更紗さんの決定的なファンになったのは、
メメントモリイベントのニコ生を見てからだ。
何と云うか、それまで文章から想像していたのとはまるで異なる印象だった。大野さんはむろん難病で、酷く緩慢な動作で壇上にのろのろと上がった。それからおもむろに話し始めると、その語り口は実に聡明なものであった。
例えば、このラジオでも、某チャリティー番組のことを「24時間やっている番組」と半ばわざとであろうが若干言い淀みながら表現する。このときの微妙な間の取り方と絶妙な言葉の選び方が、私には実に心地好くて笑える。深刻な話をユーモアにくるんで語れることが聡明さというのならば、大野さんはまさにそれを持った人だろう。もう一つ挙げるなら、前半が終わったときに「ちょっと堅い前半になってしまいましたが…」というこの云い方なんかも笑える。
不思議なことに文章だとあまり印象のよくなかったものが、喋りでは心地好い。
大野さんに対する私の印象はこんなものとして、番組の内容について。特に後半の内容に感銘を受ける。障害者支援とは当事者が体を張って勝ち取ってきたものである。これに感銘を受けた。勝ち取ると云っても暴力的な社会不安を与えるようなやり方ではなく、極めて平和的な手段で一つずつ掴み取れという。まずは困っていること、現状では実現されていないニーズをまずは可視化しろという。それは、目にもの見せてやる、という暴力的な手法でなく、まさしく文字通り、眼に見えるようにする、活動だ。
私は社会福祉はどのような歴史の基に生み出されたのか前から興味を持っていたのだが、なかなか時間を取れず調べられずにいた。これは私の怠慢だ。それがこのラジオを聴いて少しだけ分かった。運動である。当事者による運動でしか弱者の人権は勝ち取れないようだ。
この事実には感銘を受けると同時に、失望も受ける。なんだ結局はパワーゲームなのかと。それってルサンチマンの価値転倒じゃないの、と。これについては、私の中でもまだ整理がついていない。しばらく考えてみたい。
ルサンチマンの価値転倒とは、現状のルールでは永久に勝ちを修められないと悟ったものが、善意を楯に取ってルールを転倒させることで自らの利益を増大させるための勢力争いである。闘争である。結局は闘争なのか、という絶望である。大野更紗さんは女性だからそういう視点でものを考えていないかもしれないが、荻上チキ氏は頭の良い人だから、それくらいのことは分かってるのかもしれない。もし分かっていたらだが、分かっていながら臆面もなく斯様な社会の啓蒙活動に勤しむことができるメンタリティを私は理解することができない。
私の感ずる絶望とは、僭越ながら申し上げると明治から昭和初期までの小説家、夏目漱石や芥川竜之介からはひしひしと伝わってくる感覚で、作品で云えば「行人」「侏儒の言葉」などであるが、もしもこの世の大半の人には善があるにしても闘争善しかなく、ただ寛容の心で他者を眺め交歓するような純粋善は極々僅かの者しか持ち合わせていないのだとしたら、この世の中に生きている意味など存在しないのではないかという絶望だ。
自分にも利益のあることだから、こういった社会福祉に私たちのような非当事者も賛同してもいいんじゃないですか、間接的かもしれないけれども私たちだって部分的に、あるいは大なり小なり当事者なんですよ、という啓蒙の仕方をよくする。国益に反するからという言い回しもよく耳にする。
このラジオでも荻上氏が、ノンステップバスは車椅子の人たちだけでなく、腰を痛めたときやベビーカーと一緒に乗るときなどには健常者にもメリットがあるのですよ、という。
長妻さんもdigに湯浅誠さんと出演した回で云っている。
http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/dig20110822.mp3 48分の辺り。社会保障で弱者を救済した方が景気もよくなるという言い回し。
内田樹も云っている。
http://blog.tatsuru.com/2011/08/22_1258.php これの最終部で述べている。教育を市場の理論から保護しなければ社会そのものが瓦解してしまう。社会が瓦解すればもちろん市場も瓦解しますよ、という物言い。
それ自体は事実かも知れないが、それを指摘することでしか社会福祉を広げることができない、またその理由で社会福祉が広げられること、その理由で社会福祉が押し広げられたのだとしても結果として利益に預かれるならよしとする考え方、に違和感を私は覚えるのだ。本質的な面でそれでいいのかと思ってしまう。
人々が他者に寛容になったからその社会福祉が導入されたわけではないですよね。取り分闘争に勝とうとしているだけですよね。社会福祉の幅を広げることは税金の取り分を弱者に増やすことなので当然、中流階級と富裕階級の取り分は減る。社会福祉を啓蒙する人たちがそれについて黙っているということは、俗人たちを欺く意図がありますよね、という部分。啓蒙活動って結局は洗脳活動ですよね。それって強者がマスメディアを取り込んで市場主義を正当化し、国民に刷り込むのと違うんですかね、とどうしても感じずにいられない。
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行人と俗人
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行人と俗人との橋渡しをする具体的なトライ&エラーを書き記していくことが、私と同じような人への何らかの助けとなるのではなかろうかと考えた。私だけでなく広くその具体例を集積するサイトがあったらいいなぁと思った。時間があったら作りたい。時間がないから無理なのだが……。Q&Aサイトの中から生き辛さに関する話題だけを取り扱うようなイメージだ。
生きテクというサイトがある。初めに見たときちょっと面白そうなサイトだと思ったのだが、よく見るとそんなに投稿がないし、あまり活況を呈してはいないようだ。
岡田斗司夫の
クラウドシティにも最近興味が湧いている。お金さえあればすぐにも入会したい。
クラウドシティは頭の良い人が入会するサイトという触れ込みだが、私が求めるのは頭の良さとは厳密には違う。私自身、頭はあまり良くないと思っている。私は、行人が集まるサイトがあったらよいなぁと思う。行人と俗人は私の中では反意語で、俗物根性のない人といってもよい。俗物根性とは何か、私の言葉で言うと、物事の厳密性よりも己の利益の方が優先される行動パターンを持つ人のことである。これは頭の良さとは関係がない。頭の良い俗物は存在する。例えば、原発問題で何かと槍玉に挙げられているようで申し訳ないが矢張り最近のニュースなどからぱっと思い浮かぶ人を挙げると、原子力安全委員会の斑目委員長のような人である。彼は頭は良いのだろうが俗人である。己の利益を優先させている。反して行人は京都大学の小出さんである。こちらはもはや説明の必要もないぐらいであろう。その業績のみならず風貌や物腰からしても察せられる。
はて、岡田斗司夫絡みでアマゾンを検索していたら
人生の法則 「欲求の4タイプ」で分かるあなたと他人という本を見つけた。レビューを読んだだけですが、私が先に述べた行人と俗人の対比はこの本の述べる、理想型と指令型の対比と同等かもしれない。しかし、ここで気になるのは、よほど専門的分野の知識と技術を要する仕事でもない限り、圧倒的大多数の職場において理想型は冷遇されるという事実である。この不当とも思える迫害を、この本では埋め合わせようとする合理的な解決法が示されているのだろうか。おそらく無いだろう。それを示すサイトがあればよいなぁ、というのが私が考えたことだ。世の中は嘘で塗り固められている。その中から如何にして自分の利益となる真実を見つけ出していくのかがサバイバルの術である。そうした具体的なノウハウの蓄積サイトがあればいい。
また、抽象的には、矢張り永井均の「倫理とは何か」に書かれているようなことが息苦しさを解消する上で何より役立つ知識だと思う。そうしたことも併せて載せてあるサイトがあったらよいなぁと思う。
他人のメンタリティなんて分かる筈がない。
強くて優しい人? 強いとは力を沢山持っていることで、寂しい事実だが現代に於いて、力とは金である。強いとはお金を沢山持っていることだ。お金を得ようとするなら俗人も相手にしなければならない。本当の本当の本当の強さとは。行人でありながら俗人からも広くお金を頂戴できる人。
俗人のメンタリティなんて分かる筈はない。分かる筈はないが、知ることはできるかもしれない。敵を知り己を知れば百戦して危うからず。私にとっての敵とは俗人に他ならない。
優しさ。こう云っては何だが私は優しい。優しさなんて考えるまでもない。私が今考えなければならないのは強さだ。お金を稼ぐ方法である。
力こそ正義。
であることは火を見るよりも明らかなのに、どうして美徳も、それが偽りの美徳であっても飾りとして身に着けたいと思う強者が多いのだろう。偽りの中に身を置くのは気分が良いのか、偽りを偽りと気付かぬ能力を備えているのか。現代社会において、力とは金と殆ど同じである。だから、金こそ正義と云い替えてもよい。
そうなのではあるけれども、それにしても、ただ多くのお金を稼げると云うことが、世の中で、また人生において、何にも増して唯一の最大目的とされなければならないのだろうか。お金はあまり儲からないのは事実ではあるが人にとって、ただ闇雲にお金を稼ぐより、ずっと貴いものもあるだろう。現代の日本では、そんなものはない、ということになっている。そんなものは弱者の世迷い言ということになっておる。
馬鹿な人たちと関わり合いになることなく、つましくも暮らせる分だけのお金を稼ぎながら生きていくのが私の目標である。
世の中の人たちの大部分は馬鹿である。馬鹿では不服なら俗物である。これは私が二十代の始めにはそれとなく感じられる懐疑といったほどのものであったが、今では確信に変わっている。大半の者たちは馬鹿であるにもかかわらず、その多数性でもって自らを正当な存在とし、我が物顔で世間を伸し歩いている。そうして私のような者を意識的にか無意識的にか小突き回しては卑小な喜びを感じ悦に入っておるのだ。人々の大半が俗物である以上は、社会における人の評価も俗物的な指標に依らざるを得ない。
私はこのような碌でもない俗物であるところの同胞にそれでもお追従の笑みを漏らしてしか糊口を凌げない我の境遇を酷く憐れなものだと感じる。
追記。その後、密林をぶらぶらしていたら
雨宮処凛の「小心者的幸福論」という本を見つけた。私の記したいのはこれに近いかもしれない。小心者と行人の違いはあれど、世間と自分の齟齬を橋渡しする具体的なテクニックやエピソードや考え方が書いてあるらしい。
処凛さんは自らを小心者と称して語る。こうした自虐テイストは読者の間口を広げるのだろう。翻って私は自分を行人などといってちょっと鼻持ちならないいけ好かない野郎のようである。処凛さんぐらい世をおおらかに見られるようになれたらと思うけど、まだ私にはそこまでの度量がない。余裕がない。哀しいけどこれは事実だ。自分を実際より大きく見せようとすることほど滑稽なことはない。本当の私は行人などと云う高尚なものではなく、単に無能な人だ。分かっているけどなかなかさらけ出せない。余裕がなければ自分をさらけ出すことも難しい。余裕がないのに余裕があるふりをするのも滑稽ではなかろうか。だから今のところはこの程度の文章しか書けない私である……。
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私にとっての善行とは
今の私には一つの問題がある。それは、他人と話すことが何もない、ということだ。
他人との会話にはどのようなものがあるだろう。すぐと思い浮かぶのは次の三つである。
一、自分の意見を他人に植え付けるための会話。
二、真理に有益な会話。
三、真理の益は何もないが、笑える会話。あるいは興趣を満たす会話。
この三つのいずれもない。こんなんで良いのだろうか……。
一について、私はもう他人が自分と違う意見を持っているからといって、その他人を説き伏せたいとか、間違いを正したいとか思わなくなってしまった。世の大半の人は私と異なる考えを持っている。いちいち正していては切りが無いではないか。それから、永井均「倫理とは何か」の内容を理解した途端に、私は、他人が話したり議論したりしていることの意味がほぼ分からなくなってしまったのだ。「倫理とは何か」の意味を理解できたことは喜んでいる。これを著した永井さんにも心から感謝する。たぶん私はこの本と巡り会わなければこの世の息苦しさに耐えきれずに死んでいたかもしれないとすら思う。だから永井さんを責めるつもりなどは毛頭無いのだが、この本の弊害というべきか副作用というべきか、この本を読んで内容を理解すると、他人は、もちろん以前の私もそうだったわけだが、恐ろしく浅いレベルでしかものを考えていないことが分かってしまうのだ。天下国家を語っておる人にしろ、日常の些末事の文句をゆうておる人にしろ、私としては本質的な前提からはっきりさせて、話し合いを進めたい気もないではないのだが、それでいて先方は、口振りだけは一端分かったようなことを宣うておるつもりでおるので、ちょっとどこから問い質せばよいのか分からなくなってしまうのです。全ての人に、そもそも「正しい」とは何なのかを一々確認するような会話は、現実的には難しいのです。会う人ごと全員に「倫理とは何か」を読んでもらうわけにもいくまい。そういうわけで、私としては相手がどんなことを喋っておろうとも「へぇへぇ」と頷くばかりで、自分の意見を口挟もうなどとは皆目思わなくなってしまったのでありまする。
二について、真理は概ね一人で探求するものだ。むろん、真理を話し合える仲間が身近にいればどんなに幸福なことだろう。しかし、そうそう簡単に巡り会えるものでもない。ちなみに、真理とは、数学や自然科学のこと。主観に依存せずに最善が何かを論理的に言及、証明可能な分野のことである。哲学もここに入れたい気もするが、哲学は矢張り主観に依存するところが大きいので除外する。
三について、これも二と同じで、私はユーモアのセンスや興味の対象が一種独特で、それを同じくする他人に殆ど巡り会ったことが無い。気の合う人がいないのだ。映画監督でいうならウェス・アンダーソンやウディ・アレンが好きだ。「銀河ヒッチハイクガイド」を作った人たち。原作者のダグラス・アダムスも映画を作ったガース・ジェニングスも好きだ。彼らを好きだと言う人にたまに出逢う。けれど、そんな人たちとちょっと話してみても、本当にかの映画監督を好きなのかな、と首を捻りたくなるような人たちばかりだった。かくして私は、好きな映画監督を表明したり、そもそも映画鑑賞が趣味であることを表明したりしなくなっていった。なにか他の夢中になれるような趣味を見つけられれば良いのだろうが、なかなか気の向く趣味が未だ見つけられないのである。
あれ、ここまで書いて気付いたが、表題は、私にとっての善行とは、となっている。いったい何を書こうとしていたのだったか。すっかり忘れてしまった。もう今日は寝るわ。おやすみ。
編集(管理者のみ)
孤独な人間たちの輝き
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「くじらの降る森」解説・小林恭二 より。
が、不思議なことにどこにも疎外感やさびしさといったものは感じられない。
むしろそこにあるのは孤独な人間たちの輝きだった。
…
登場人物たちは決して人間を拒否しているわけではない。それどころか、彼らは普通の人間にもまして、好奇心豊かで、おしゃべりで、人好きですらある。
彼らが嫌悪するのは、マスとしての人間である。マスとしての人間こそは、目も口も鼻もないのっぺらぼうにも似て、「情報を、もっと多くの情報を」という空念仏とは裏腹に、あらゆる本質的なコミュニケーションを拒否する怪物に他ならない。極言すれば薄井ゆうじの小説に登場する人間たちは、本当の人間とつきあいたいがために、のっぺらぼうの人間たちとのコミュニケーションを拒否しているのだ。
薄井氏も薄井氏の小説に登場する彼の分身たちも、出会いを待ち望む人間たちなのである。彼らは賢明にも都会の雑踏を無闇に歩きまわっても、本当の人間に出会えないことを知っている。
と、同時に薄井氏とその分身たちは、くるべき出会いのためにしっかりと自分をみつめようとしている。自分をしっかりさせること以外、しっかりした出会いを実現させることができないことを知っている。
くじらの降る森は1991年の小説で、世界文学史から見れば当然のこと日本文学史で見ても比較的新しい作品だ。しかし、私もそれなりにさまざまな世界文学上の小説を読んできたわけで、その経験からすれば、先に引用したようなことは、もっともっとずっと昔からあったのだと思う。人類普遍の問題だと思う。
現代でいうところの生きづらさの問題とは、これと同じであろう。
もしも、現代の方が症状が重いのだとすれば、不景気で、会社で強要されるのっぺらぼうの度合いが増していること、残業超過や休日出勤などでのっぺらぼうから解放される時間がより一層に少なくなったことなどに起因していると思う。のっぺらぼうを嫌悪しながら、のっぺらぼうを演じなければならない場面が、現代には過度に多いのだ。
しかし、一方で、ここでいう「極言すれば薄井ゆうじの小説に登場する人間たちは、本当の人間とつきあいたいがために、のっぺらぼうの人間たちとのコミュニケーションを拒否しているのだ。」とは、永井均が「子どものための哲学対話」で云う、「人間は自分のことを分かってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。そして、友情って、本来、友達なんかいなくても生きていける人たちのあいだにしか、成り立たないものなんじゃないかな?」と同じであろう。
この作品に登場する人々は、程度の差こそあれど、のっぺらぼうを捨て去ろうとする仲間を見つけられた幸運な人たちかもしれない。
仲間を一人も見つけられぬ者は、「行人」のお兄さんのように生を停止するほかない。
編集(管理者のみ)
内田樹 感情表現について
これはこれで内田樹氏の意見だからいいのだけど、私なら週刊現代の質問にこう答える。馬鹿な人間しか選挙に当選したり、選挙に当選し続けたりすることができないシステムになっているからだと。人間の殆どは俗物であり、俗物たちの人気を得られなければ当選することなど不可能だ。
あと、内田氏は社会に大人がいなくなったといっているが、社会に大人がいたことなんて人類の有史以来あるのだろうか。もう少し詳しくいうと、成人のうち、理性的な人間の方が過半数を占めていたことがあるだろうか、という意味。
政治の話からは逸れて卑近な例で挙げるが、私はTBSラジオの小島慶子キラキラが好きだ。この番組には曜日毎に担当するサブパーソナリティーが音楽やスポーツなどの話題を提供する午後三時からのコーナーがある。このうち、本、書評を担当しているのは今でこそ吉田豪であるが、番組開始当初は岡野宏文という人だった。私は岡野さんの方が好かった。今でもそう信じている。別に吉田豪を殊更に嫌いなわけでもないが、小説好きの私としては、芸能人本や色物本を取り上げるのが基本の吉田豪よりも、小説を取り上げる岡野さんの方が好かった。しかし、多くの人はそうは思わないようで、聴取率という人気票システムの基、岡野さんは番組から消えていった。とても残念だった。これが、世には俗物の方が圧倒的多数を占める証左である。
そしてまた、話題が少し飛躍するが、せめて政党政治を辞めることって、できないんですかね。総ての国会議員は無所属で立候補すること、という風に。私も政党政治が多くの先進国で当然のシステムとして受け入れられている根拠をよく知らないので、そのうちには調べてみたいと思っている。
どこか別のところにも書いたかもしれないが、そもそも社会学者でもない者が、国会議員、つまり立法府の人間になれてしまうこと自体が大きな錯誤としか言いようがなく、私なぞには卒倒するほどおぞましいことなのだが、こうした感覚、私と同じ感覚に世間の多数の人が共感するような社会には、未来永劫ならないだろう。
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世界文学ヒロイン選手権
よく少年漫画雑誌ジャンプの中で最強の主人公は誰か、悟空なのかケンシロウなのかと作品を超えてあれやこれやと妄想に浸るのが厨二病の楽しみであったりするのだが、それと同じように世界文学に登場するヒロインのうち、誰が最も魅力的な女性であるのか、脳内で組んず解れつ妄想に華を咲かせるのもまた乙な文学的興趣であったりもする。私が読んでいない作品については語れないのは御容赦願うしかない。そういうわけでともかくまずは私の気になるヒロインを思い付くところから挙げていく。
「居酒屋」ジェルヴェーズ、「アンナ・カレーニナ」アンナ、「アンナ・カレーニナ」キチイ、「
赤と黒」マチルド、「罪と罰」ソーネチカ、「レ・ミゼラブル」コゼット、「高慢と偏見」エリザベス、「嵐が丘」キャサリン、「ナナ」ナナ、「大いなる遺産」エステラ、「三四郎」美彌子、「明暗」お延、「虞美人草」藤尾。「ボヴァリー夫人」ボヴァリー夫人、「ダロウェイ夫人」ダロウェイ夫人、「誠実な詐欺師」カトリ。
ここで注意したいのは、登場場面が少なすぎることによって、その魅力が読者の幻想的かつ理想的な投影によって担保されているようなヒロインは除外する、ということだ。例えば「明暗」の清子。「人間の絆」のサリー。「蝉しぐれ」のふく。「百年の孤独」レメディオス。もちろん、その境界線が明確に引けるわけではない。こう考えると「三四郎」の美彌子も微妙といえば微妙だ。それからヒロインといっても私の場合「アルプスの少女ハイジ」「赤毛のアン」「小公女」など少女文学ものは殆ど読んでいないのでこれも除外する。
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最終更新:2012年06月09日 04:39