| 生年月日 |
宇宙新暦986年4月28日 |
| 年齢 |
75アストラ歳(星年齢) 共立公暦3500年時点. |
| 出生地 |
星間文明統一機構 ロフィルナ行政管理区 |
| 人種 |
王国系ロフィルナ人 |
| 所属組織 |
フォレニア公国 |
| 主な階級 |
フリートン公爵 政務卿 聖貴族会議長 スヴェリナ統治代行 |
| 異名 |
灰雪の調停卿(新世界) 胃痛議長(公国内) 鉄柱の独裁者(旧世界) |
概要
自己紹介
……ああ、客人か。座ってくれて構わんよ。立ったまま話されると、見上げる首が疲れるのでね。ヴァンス・フリートンだ。スヴェリナを預かっている。政務卿だの議長だの、肩書きは色々と付いているが、要するに雪の中で書類に判を押している年寄りだよ。昔はね、もう少し物騒な男だった。二つの国で大統領をやって、二つとも自分の手から離れた。一度は追い出されて、一度は自分で降りた。どちらが楽だったかと聞かれれば……さて、どうだろうな。降りた方が、後になってじわじわ効いてくる。そうとだけ言っておこう。今の仕事は地味なものだ。鉱山の掘り出し量を確かめて、ボイラーの火を入れる日を決めて、星団議会で揉めている連中の間に代案を一枚差し込む。誰も私を怖がらん。少し寂しくもあり、ずいぶんと楽でもある。……趣味?そうだな、配管の図面を眺めることかな。線を一本ずつ追っていると、余計なことを考えずに済む。考え始めると、昔の顔が一つずつ浮かんでくるのでね。大抵は私が踏みつけた顔だ。笑えるかね?私は笑えん。……いや、笑うしかないのか。(扉の向こうで靴音)……秘書官、今の足音は誰だ。スカラフィアから?予定にない?……そうか。胃薬を二錠……いや、瓶ごと持ってきてくれ。客人、すまんが話の続きは、私が無事だったらにしよう。
来歴
帝国貴族としての地位を固めたフリートンは、行政官としての手腕を遺憾なく発揮した。セトルラーム時代に幾度となく味わった権力闘争の辛酸が、帝国社会での立ち回りにおいても活きている。レシェドルティ地方における影響力を着実に蓄える中で、妻
ヨバンナが築いたフリートン家の基盤もまた、現地での求心力を支える一助となった。共立公暦1195年、皇帝直轄領の再編が決定的な段階を迎えると、フリートンは再び歴史の表舞台に姿を現す。旧帝都レーゼルタスにて集う地方首長を束ね、独立を宣言した。
レシェドルト共和国の誕生である。暫定議会を即座に解散し、自らを大統領に据えたフリートンは、混乱の収拾には鉄の意志と絶対的な権力が不可欠であると公言した。セトルラームでの統治経験を注ぎ込み、衰退した古き都を近代的な要塞都市として再建する大事業を主導している。「秩序と再生の鉄の下に」という標語は、無秩序な過去を否定し、技術革新と強権的統治によって国家を興す決意を凝縮していた。独裁体制の下で工業化と近代化を推し進め、
共同統治機構の枠組みのもとで確固たる地位を築いた。同国は、やがて周辺諸国から警戒の目を向けられる存在へと変貌を遂げた。
武装白衛旅団を前身とする大統領親衛隊が体制の要となり、その苛烈な為政ぶりはレシェドルトにおいても衰えを見せていない。同1200年には
中東洋漁場戦争を引き起こし、沿海域警備局の大型巡視船80隻を一方的に展開する強硬策に打って出ている。
トローネ議長の介入により事態は収束したものの、フリートンの挑発的な姿勢は統治機構内に根深い爪痕を残した。しかし、国家の近代化が成熟し、自らの施策が軌道に乗るにつれ、フリートンの胸中に長年の重責から来る倦怠が堆積していった。セトルラーム時代から数えれば数千年に及ぶ権力闘争の果てに、やり遂げるべき仕事が消えていく空虚さは、かつてアリウスに権力を奪われた屈辱とは異質の疲弊を齎していた。後継者を指名する気は端からなく、自分以外の人間に、この国を委ねるつもりもない。ならばいっそ完成した国家を国民に返すのが、この男なりの幕の引き方であった。皮肉にも、フリートン自身の独裁が奏功した結果として民主化の条件が整い、共和国は大統領の手を離れても自律的に歩める体制を備えるに至った。自ら憲法改正を主導して民政移管の道筋を敷いたフリートンは、最後の大統領令に署名を残し、レーゼルタスを後にした。かつて、セトルラームでは世論に押し出される形で権力を失ったが、レシェドルトにおいては自らの意志で手放したのである。
レシェドルトの民主化を見届けた後、フリートンは旧友である
トローネの招きに応じ、CP3星団への長い旅路に加わった。共立公暦1850年のことである。
宮殿惑星を基盤に集った一行の中には、かつて、幾度となく煮え湯を飲まされた
アリウスの姿があった。育ての親としての過去に深い傷を刻んだ
メレザ・レクネールもまた、この旅路に同行している。セトルラーム時代の記憶が鮮明に残る面々との再会は、フリートンにとって容易な心境ではなかったはずである。それでも、レシェドルトで重責を降ろした後の彼には、かつてのような鋭い警戒心が薄れていた。数千年にわたる権力闘争に疲れ果て、自ら独裁を完成させて手放すという一周を経た男の中に、もはや旧敵を敵と見なす気力は残されていなかったのだろう。約450年に及ぶ航行の歳月は、否応なく同行者たちとの距離を詰めていった。アリウスとの間に横たわる長い因縁は、劇的な和解を経て清算されたというよりも、膨大な時間の中で敵意の輪郭が擦り減り、互いの存在が抜き差しならない腐れ縁として定着していく過程であった。
焼きそばパンの使い走りに始まり、ムチで叩かれ、政権を吹き飛ばされた記憶の数々は、この頃には、もはや一種の勲章じみた哀愁を帯びている。アリウスの側も長い歳月を経て、なお生き延びるこの男を「愛すべき下僕」として遇する態度を変えなかった。メレザとの関係は、より複雑な経緯を辿っている。メレザは
契約の代償として少しずつ古い記憶を失う宿命を負っていたが、フリートンとの間に刻まれた愛憎の記憶は失われることなく残り続けた。過去に政治利用され、用済みとして切り捨てられた痛みも、それでもなお育ての親として抱く感情も、全てを覚えたままである。フリートンの側に生じた変化をメレザは見落とさなかった。独裁を完成させながら自ら権力を放棄し、疲弊した姿で旧友たちの船に乗り込んできた男は、かつて幼い自分を恐怖に震えさせた独裁者とは明らかに異なっている。レシェドルトでの歳月がフリートンから削り取ったものの大きさを、メレザは黙って受け止めた。赦しの言葉が交わされた正確な時期は定かでないが、新天地に到達する頃には、両者の間に横たわっていた緊張は静かに解けていたとされる。
共立公暦2310年、公国の建国が宣言されると、ヴァンスは五貴族家の一角を担うフリートン家の当主として、政務卿および聖貴族会議長の重責を引き受けた。かつてセトルラームでは有力な政策を幾つも積み重ね、レシェドルトでは鉄の独裁者として絶対的な権力を振るった男が、五家の合議による統治秩序の中に自ら収まったのである。トローネとの長きにわたる交流の中で培われた信頼が、この選択を支えている。セトルラーム時代には、政治的打算から始まった関係であった。帝国貴族としての歳月、レシェドルトでの独裁と解放、CP3への長い旅路という積み重ねを経て、フリートンはトローネのもとで働くことに素直な充足を見出すようになっている。統治代行としてスヴェリナの行政を預かり、鎖国期には行政首都リムグラフトを拠点に鉱物資源の採掘と工業化を一手に推進している。雪山に囲まれた盆地に広がる赤褐色の屋根並みと、巨大なボイラーから立ち上る蒸気の光景は、フリートンの統治手腕が生み出した産業都市の象徴となった。公国最大の人口を擁する経済都市の統治代行は、五貴族家の中でも隔絶した実務能力が求められる重責である。鎖国期の建設資材供給から開国後の通商交渉に至るまで、スヴェリナの発展を一貫して主導してきた。聖貴族会議長として公国全体の政策調整を取り仕切る姿は、かつての独裁者とは異なる形での辣腕ぶりを窺わせるものでもある。外交面では、公国の内政自治を損なう恐れのある枠組みへの参加を退けつつ経済的実益を確保するという精緻な均衡を維持し、星団議会においては調停的な手法で中小勢力からの信頼を得ている。レシェドルト時代のような強硬一辺倒の外交とは趣を異にし、議論の過程で代替案を示しながら議題を穏当な方向へ誘導する手法は、数千年分の政治経験が凝縮されたものであった。
人物
不老の体は旧世界の頃の姿をそのまま保ち、年輪は専ら物腰と溜息の長さに刻まれている。
黄昏の目
公国のフリートンを知る者がまず挙げるのは、遠くの一点に据えられたまま動かない目つきである。
聖貴族会の議場でも執務室の窓辺でも、視線は雪山の稜線のさらに向こうへ抜けており、若い官僚の多くは、議長が星団の行く末を思案していると受け取ってきた。旧世界から仕える側近の見立ては、もう少し身も蓋もない。数千年分の顔が順番に浮かんでは消えていくのを、本人が黙って見送っているだけだという。かつて書類をぶちまけて閣僚を凍りつかせた癇癪は影を潜め、怒りは長い溜息の形でゆっくりと抜けていく。声を荒らげる場面が減った分だけ、議長の沈黙に意味を読み取ろうとする者は増えた。後貴族会の書記官に至っては、議事録の余白に沈黙の長さを秒単位で書き留める習慣を身につけている。もっとも、沈黙の中身が星団の行く末であったか、夕食の献立であったかは、記録の上では同じ一行に収まっている。
流儀の残滓
時間を守り、約束を果たせという古い鉄則は、公国でも議長の机の上に据えられたままである。ただし、背いた相手への報い方は大きく様変わりした。旧世界の頃なら奈落の底まで追い込んでいた違約者も、今では私的な帳面に名と日付を一行記されるだけで済む。帳面は年に一度、ボイラーの点火に合わせて火にくべられ、記された名は灰と一緒に雪の上へ散っていく。猜疑の習い性も健在で、執務室に入るたびに死角を一通り検める仕草は、数千年来の作法のまま続いている。変わったのは警戒の向かう先であり、旧世界で暗殺者に注いでいた目は、今やスカラフィアから届く船便と窓の留め金の具合に注がれている。日和見を嫌う性分もまた、公国流に角を丸めた。態度を曖昧にした官僚を見つけると、議長はかつてのように睨み据える代わりに、本人の机に白紙の意見書を一枚置いていく。白紙を埋めて持参した者は、翌月の人事で一段上の席に座ることになる。
雪国の充足
統治代行の務めは、旧世界の頂点で振るった権勢と比べれば、地味な仕事の積み重ねである。鉱山の採掘量を帳簿で追い、季節の変わり目にはボイラーへ火を入れる日を決める。リムグラフトの官僚が驚いたのは、議長が細務を自分の手元に残し、坑口や機関室へ自ら足を運ぶ点であった。雪の下で暮らす人々の顔が帳簿の数字と結び付く手応えを、二つの国を率いた男は公国に来て初めて覚えたらしい。視察から戻った議長の外套には煤と雪が混じって張り付き、払い落とす侍従は、主人の口元が僅かに緩んでいることに気づく。坑口で言葉を交わした鉱員の名と持ち場を、議長は次の視察までに覚え直しており、名を呼ばれた古参の鉱員が照れ隠しに坑道の奥へ引っ込む光景も、今では坑口の日常の一部となった。旧世界で数字としてしか扱った覚えのない民の顔を、一人ずつ拾い直している最中なのだと、侍従は主人の足取りを解釈している。宗教を毛嫌いしていた頃を思えば意外なことに、執務机の脇には、スヴェリナの鍛冶師が奉納に用いる鉄製の祈祷札が一枚掛けられている。札に刻まれた文言を知る者は、刻ませた当人に限られる。尋ねられた議長は毎回、札の傾きを指先で少し直してから話題を変える。
人間関係
公国の議長を囲む顔ぶれには、かつて踏みつけた者と、踏みつけた過去を後から聞かされた者とが、同じ卓に入り交じって座っている。
家族
夫婦が同じ屋根の下で暮らすまでには、政略の婚姻から数えて数千年の回り道を要した。帝国と連邦に分かれて過ごした長い歳月の間、二人を繋いでいたのは仕事の合間の短い面会と、互いの務めを尊重して取り決めた距離であった。スヴェリナに居を構えた今、妻は夫の官邸を切り盛りし、来客の席次から暖房の目盛りまで几帳面に整えている。旧世界で背負った重責について、妻の口は今も重い。夫にとって、妻の落ち着きは官邸で唯一の盤石な足場となった。ところが、その足場は実の母が訪ねてくる日に限って、夫を支える役目を放り出す。夫が助けを求める視線を送っても、妻は母の皿に好物を取り分ける手を休めるだけで、視線は卓の上を素通りしていく。長い別居の歳月を埋め合わせるように、二人は就寝前の食堂で短い言葉を交わす習慣を続けている。昼間の顛末を夫が愚痴として並べると、妻は最後まで聞き届けた後、明日も同じ船が来ると告げて席を立つ。
妻の母にあたる義母は、旧世界で男を下僕に落とし、政権ごと吹き飛ばした主でもある。二人の間柄は、公国に移って一段と名状しがたい形に変わった。かつてのフリートンであれば、あの女が自分に頭を下げてくる光景に、主を屈服させた満足を覚えて祝杯を挙げていたはずである。ところが、海の惑星から押し寄せてくるのは屈服とは別種の熱であり、男は勝利の味を確かめる前に胃の痛みを確かめる羽目になった。義母の存在そのものは、今では数千年来の腐れ縁が続いている証として、男の暮らしに居座っている。世界がどれほど移ろっても、あの女だけは同じ場所から自分を見下ろしてくる。その事実に、男は口外を憚る安堵を覚えている。問題は、見下ろす眼差しに混じり始めた甘さである。上目遣いの「お気持ち」を浴びた日には、議長の胃は旧世界の鞭打ちを受けた日よりも深く焼かれ、官邸の胃薬の在庫表が書き換えられる。公の場では「義母上」の呼び方を貫き、続柄という名の防壁を一枚でも厚く保とうと努めてきた。もっとも、スカラフィアの船が入港予定表から消えた月に限って、男が予定表を三度読み返す習慣について、理由を尋ねた者に返ってきた答えは咳払い一つだけであった。
交友
全てを失って転がり込んだ亡命者に、帝国貴族の席を用意したのが、この旧友である。拾われた恩を、男は公国の議長として返し続けている。旧世界の頃は互いの腹を探りながら贈り物を交わす間柄であったが、今では
宮殿惑星の私室に上がるたび、公王は寝台に寝転んだまま旧友を手招きする。議長が持参する定期の報告は、公王にとって政務の話であると同時に、旧友の近況を聞く楽しみの時間でもあるらしい。報告の途中で議長の苦労話が挟まると、公王は身を起こして続きをせがみ、肝心の政務の件は「任せた」の一言で片付けられる。男の側も、こうした裁定のおかげで聖貴族会の取りまとめが楽になっている事実を承知している。一方で、自分の不運が公王の娯楽として消費されている現状にも気づいており、恩義と恨み言を同じ盆に載せて差し出す日々が続く。『独裁者の心得を説いた旧世界の夜』を覚えている公王は、時折、男の顔を正面から眺め、良い顔になったと告げる。男は、その言葉に返す一言を数世紀かけて探している。
男は年に二度、カルヴァーチの山小屋へ続く坂道を、息を切らしながら登っていく。迎える隠居は、かつて男が養女として手元に置き、政治の駒として使い捨てた相手である。赦しが交わされて久しい今、二人の間に残っているのは、互いの記憶の食い違いを埋め合う奇妙な共同作業であった。記憶の目減りを宿命として抱える隠居の中で、男にまつわる記憶だけは目減りの外に置かれてきた。暖炉の前で男が昔話を始めると、隠居は聞き手に回りながら、男が都合よく省いた悪行を一件ずつ補っていく。補われる悪行は男自身の記憶よりも正確で、日付まで揃っている。男は反論の材料を探して黙り込み、やがて頷く以外の手立てを失う。帰り際、隠居は決まって次に登ってくる日を尋ね、男は手帳の新しい頁に日付を書き込む。坂を下りる足取りが登りよりも重い理由は、膝の衰えに加えて、もう一つあるらしい。
カルヴァーチの首相は、幼い日に講演会の壇上で男を見上げ、政治の道を志した一人である。旧世界の首脳会談では、男が全ての論点で言い負かし、首相の側が負けるほど生気を増していくという奇妙な力関係が成り立っていた。公国に移ってから、この均衡は思わぬ形で崩れた。疲れの溜まった男が、議論の早い段階で首相の主張を丸ごと認めるようになったのである。論破される喜びを糧に生きてきた首相にとって、天敵の即座の同意は、いかなる罵倒にも勝る酷い仕打ちであった。首相は議長の承認を引き出すたびに肩を落とし、次こそは反論を引き出そうと、わざと穴だらけの案を持ち込むようになる。男の側は、穴の位置まで正確に見抜いたうえで、その穴ごと承認の判を押す。判を押された案を抱えた首相が、山の惑星へ帰る船の中で悔し涙と別の感情を同時に浮かべているという噂は、男の耳にも届いている。届いた噂への対処として男が選んだのは、次の会合でも同じく判を押すことであった。
技術卿は、聖貴族会の当主の中で唯一、男の旧悪を記録を通じて後から学んだ相手である。旧世界の因縁を抜きにして言葉を交わせる相手は、男にとって公国でも数えるほどに限られる。技術卿の早口は一度走り出すと止めどなく続き、ゆっくり言葉を選ぶ議長との会話は、片方が三段落を話し終える間に、もう片方が一言を返す調子で進む。それでも男は、技術卿の話が未来の話題だけで出来ている点を、密かに気に入っている。リムグラフトのボイラーに改良を施す話が持ち上がった際も、男は説明の半分ほどを聞き流したまま、試運転の立ち会いを引き受けた。試運転の当日、点検用の通路で蒸気を浴びた議長は、技術卿の謝罪よりも先に、改良後の出力の数字を尋ねた。技術卿は、この一件以来、新しい装置の説明書の冒頭に、議長向けの三行の要約を必ず添えている。三行目には毎回、蒸気の噴き出す位置が赤字で記されている。
旧世界の謁見の場で、男はこの近衛の長を盛大に煽り、下郎の烙印を押された。烙印は数千年を経た今も鮮やかに残り、
宮殿惑星へ参上する議長は、門の手前で毎回、身の回りの品を一つずつ検められる。検分は外套の縫い目から懐の銃の弾倉にまで及ぶ。若い頃の男なら、この扱いを侮辱と受け取って皮肉の一つも投げ返したはずである。公国の議長は、検分の間じゅう両腕を上げたまま、近衛の長の手際の良さに感心してみせる。感心の言葉が本心からのものであると伝わるまでに、百年ほどを要したという。近衛の長の側も、主君が議長を信頼している事実を重く受け止めており、私情は検分の厳しさにだけ注ぎ込んでいる。主君が議長の話に笑い転げている間、近衛の長は扉の脇に控えて沈黙を守る。帰り際の議長が深く一礼すると、槍の石突きが床を一度だけ鳴らす。その一音が、二人の間で交わされる唯一の挨拶となっている。
古参の側近は、旧暦の時代から男の傍らに控えてきた。公国ではスヴェリナの守りを預かり、議長の膝元に目を光らせている。愛人として私的な寵愛を受けた歳月も、手錠を携えて主を連れ戻した歳月も、二人の間では等しく昔話の棚に収まった。今の側近が力を注ぐのは、スカラフィアの船が宇宙港に入る日の警戒態勢の発令である。警戒の段階は五つに分けられ、最上位の発令は年に数度、議長の顔色の悪化と前後して出される。発令の基準を問われた側近は、議長の胃の具合だと即答した。男の側は、長年の側近に私生活の機微まで見透かされている現状を、とうの昔に受け入れている。銃の手入れも今なお側近の手で続けられ、議長が丸腰で官邸を出ようとすると、玄関で弾倉を握らされる。もっとも、男が逃げ出したい相手の訪れる日には、同じ手が議長の襟首を掴み、客間へ引き戻す役目に切り替わる。守る側と差し出す側を一日で行き来する働きぶりに、男は数千年分の給金でもまだ安いと嘆いている。
旧暦時代の末期、男の政権が侵攻を命じた先で総督として国土を守り抜いたのが、この人物である。攻め込ませた側の主と攻め込まれた側の総督が、新天地では同じ公国の禄を食んでいる。公国での相手はフェルフィア騎士団を預かる身であり、議長と言葉を交わす機会は騎士団会議の報告や聖貴族会の陳述に限られる。数少ない会話の端々で、男の脳裏には旧暦の戦況報告に覚えた違和感が蘇る。遠征艦隊の戦果と損害が、毎回奇妙に釣り合っていたのである。釣り合いの理由を、男は相手の口から聞き出す機会を今も窺っている。弱き者のために剣を取れと説く相手の倫理は、弱者を踏み台に上り詰めた男の来歴と真っ向から食い違う。男の過去について、相手は礼を尽くした言葉の奥に冷えた距離を保ったままである。それでも、古い詩歌を愛する相手が議事の合間に一節を口ずさんだ折、男は詩句の出典を言い当てて相手を驚かせた。哲学書を読み漁った旧世界の歳月が、思わぬ場所で会話の糸口を作ったのである。糸口の先に何が続くのか、二人とも時間をかけて見定める構えでいる。
解析官は、旧世界の学術研究を軍事に転じた決裁の経路を追い、終点に記された名を男の名と重ねてきた。公国ではクライヴァーチの騎士団を率いる身となった今も、同じ名を持つ人物が同一の個体であったかという問いは宙に浮いたままである。解析官の側は職務の合間を縫って、議長府の書庫に収められた旧世界関連の文書の閲覧を申請し続けている。旧世界の頃の男であれば、申請の束を握り潰して証拠ごと葬る手を選んだはずである。公国の議長は、申請が届いたその日のうちに判を押して返す。書庫の扉が開かれたことに、解析官は当初、罠の気配を疑った。疑いが薄れた今も、解析官は閲覧のたびに書庫の記録係を同席させ、写しを二部取って一部を自分の騎士団に保管している。男は、自分自身の記憶にも欠落があることを、この解析官にだけは打ち明けている。男の記憶から抜け落ちた過去を書庫の文書が語り出す日が来るのか、二人は同じ机の両端で、黙って頁をめくり続けている。
戦闘能力
フリートンは、旧世界から持ち越した拳銃を今も懐の定位置に収めている。政敵の銃口に囲まれた日々が遠のいた新天地で、得物の出番は専ら鍛錬場の朝に移り、的を撃ち抜く乾いた音が官邸の一日の始まりを告げてきた。体の方は、
宮殿惑星で過ごした四百五十年の航海が別の形で仕上げている。逃げ道を探すにも骨の折れる一つの惑星で、義母(
アリウス・グラン・フェルフィア)の気配を察するたびに回廊を駆け抜けた歳月は、旧世界の使い走りで得た足腰に持久力を上乗せした。義母は公王への祝福として
令咏術の契約に力の大半を預けており、平時の戦闘力は往時の片鱗を残す程度にまで目減りしている。理屈の上では、旧世界から続く全敗の記録に終止符を打つ好機が、ようやく巡ってきたことになる。ところが、技巧と経験を手元に残した義母は、目減りした力のまま議長の逃走経路を先回りし、記録は公国に移ってからも順調に更新され続けている。後貴族会の新任官僚が護身術の手合わせを申し込んだ折には、議長は息一つ乱さずに三人を床に転がし、その足で胃薬を飲みに医務室へ向かった。勝てる相手と勝ち目の遠い相手の差を、数千年かけて誰よりも正確に測ってきた男の腕前である。
語録
「若い頃はね、相手を跪かせた夜ほど、よく眠れたものだ。今は逆でな。跪かれた夜は、その後に何が来るのかを考えて一睡もできん」
「椅子というのはね、座るより降りる方が骨が折れるんだよ。……膝の話ではないぞ。いや、膝もだが」
「交渉で一番強いのは、いつでも席を立てる者だ。私は近頃、立ち上がるのに時間がかかる。だから最初から立ったまま話すことにしている」
星団議会の会合で、終始立ったまま議事に臨んだ理由を問われて。翌回の会合では各国の代表にも立ったまま臨む者が現れ、議場の椅子が半数ほど空いた。
「義母上。……ええ、義母上です。この呼び方一つに、私の残りの人生が懸かっておりますので」
名で呼んでほしいと義母に迫られて。義母の頬が膨らんだまま、議事は再開された。
「客を迎える支度は、客が来る前に済ませるものだ。来てからでは手が震えて、茶葉が半分こぼれる」
官邸の新任の侍従に、茶の淹れ方を教えながら。指先が震える理由を侍従が尋ねると、議長は窓の外の宇宙港を顎で示した。
「独裁とは、全てを一人で決めることだ。民主とは、一人では何も決められんことだ。そして公国の議長とは、全員が頷くまで帰れんことだよ」
全会一致の原則について、
フォレニア公国を訪れた他国の使節に問われて。使節は真顔のまま手帳に書き写した。
「おじさんはね、昔、とても悪い人だった。今は……そうだな、悪かった人だ。過去形にするまで、数千年かかったんだよ」
リムグラフトの初等学校を視察した折、何をしていた人かと尋ねた少年に。まだ途中なんだね、と返された議長は、暫く黙り込んだまま窓の外を眺めていた。
「イェルサ、お前とは、私が国中から命を狙われていた頃からの付き合いだ。……だからといって、今日も命の危うい場所へ送り届けてくれなくていいんだぞ」
「陛下、拾っていただいた御恩は、千年分の書類仕事でお返しいたします。ですから御昼寝は、決裁が済んでからにしていただきたい」
「メレザ、この山の酒は強すぎる。……昔の私なら、これを飲ませて相手の口を割らせていた。今は自分の口が割れそうだ」
山小屋で振る舞われた地酒を一口含んで、
メレザ・レクネールに。隠居は笑って杯を下げ、代わりに白湯を注いだ。
「首相、私を論破したいのなら、まず私を起こしてからにしてくれ」
統合貴族院の陳述の場で、うたた寝から覚めた直後に首相の
エレイナ・フィルトヴァールへ。首相はその日、用意した資料の束を抱えたまま、反論の糸口を探して議場を三周した。
「技術卿、その装置の名前は長すぎる。せめて私が読み終えるまでは、爆発せずにいられる名前にしてくれ」
「レーゼルタスの柱は、まだ立っているそうだ。……私が建てたものの中で一番長く残っていてほしいのは、あの柱ではなく、あの国の議会だよ」
吉兆の塔の近況を旧世界からの便りで伝え聞いて。窓辺に立つ議長の目は、星団のさらに外へ向いていた。
「ヨバンナ、君と同じ屋根の下で暮らすのに、数千年かかった。……その屋根の下に、なぜ月に一度、スカラフィアの客が泊まっていくのかね」
「胃薬の銘柄を変えた。……効かんのではない。前の薬に、私の胃の方が慣れてしまっただけだ」
官邸付きの侍医に。侍医は処方箋の控えを一冊、新しく綴じ直した。
「誰かを屈服させた夜は、勝った気がしたものだ。翌朝には、また誰かに屈服させられる支度をしていた。……今はね、朝が来ても誰も屈服させずに済む。それだけで、ずいぶん贅沢な暮らしだよ」
スヴェリナの坑口で、交代明けの鉱員に。
「強硬策というのは、通った日が一番気持ちがいい。その後の千年が、だいたい気持ち悪い。……経験者の言うことは聞いておくものだ」
星団議会で漁業権を巡り、艦船の派遣を叫ぶ若い代表に。
中東洋漁場戦争を旧世界の記録で知る随行員は、そっと視線を床に落とした。
「数千年、生きて分かったことは、たった一つだ。……たった一つしか分からなかった、ということだけだよ」
後貴族会の新任研修で、人生の教訓を求められて。研修生は熱心に書き留めたものの、手帳の二行目は空白のまま残った。
「お気持ちは確かに承りました。つきましては、本件を聖貴族会の継続審議案件として預からせていただきたい」
上目遣いで想いを告げてきた義母への返答。案件番号は今も、公国の議事録で最も長く審議中の欄に据え置かれている。
「……リムグラフトの店も、ようやく旧世界の味に近づいてきた。誰のために探しているのか、だと?聞くな」
市街の老舗のパン屋で、
焼きそばパンの試作品を齧りながら店主に。店主は翌朝から、焼き上がりの時刻を一つ増やした。
エピソード
公国でのフリートンの逸話は、議事録の片隅に残るものから官邸の噂話まで幅広く、その多くが救いのない結末を迎えている。
議長の職務
- 星団議会で対立する二つの勢力の調停に入り、議長は三通りの代案を卓に並べた。両勢力はそろって三案目を選び取り、議長は帰国の船で丸二日眠り続けた。三案目が最初から本命であったことを随行員が知ったのは、主の寝言を聞いた時である。
- 若手の後貴族が独裁の手ほどきを請うてきた際、政務卿は三日間にわたる講義を引き受けた。講義の資料は百頁を超えたものの、最終頁の結論は「やめておけ」の一行に尽きていた。受講者は今、議長府で最も穏健な官僚として名を知られている。
- 鎖国の続いた五百年の間、フリートンは共立銀河連邦への分担金に添える書状を毎年自ら書き、会合を欠席する詫びを同じ文面で綴り続けた。開国後に連邦の事務局を訪れた議長は、五百通の書状が廊下の壁一面に額装されて並ぶ光景に出くわし、その場で一通目の誤字を見つけて赤面した。
- 聖貴族会の採決で、議長は毎回最後に手を挙げる。理由を問われると、誰かの手が途中で下りるのを見届けたいと答え、当主たちは採決のたびに上げた腕の疲れと戦う羽目になった。
- 星団議会の会期延長を議長が自ら発議した一件は、公国の慎重な外交姿勢として各国の代表に称えられた。実際の狙いは帰国の先送りにあり、当初の帰国予定日にはスカラフィアの船がリムグラフトへ入港する手筈が整っていた。延長した会期の最終日、宇宙港に降り立った議長を出迎えたのは、入港日を同じだけずらした同じ船であった。
雪国暮らし
- 毎年のボイラーの点火式では、政務卿が自ら始動の把手を握る。把手が凍りついた年には素手で一時間ほど温め続け、その姿を写した一枚が、翌年のリムグラフト市の暦の表紙を飾った。
- 忠誠大会の献上品展覧に、フリートンは名を伏せて自作の鉄細工を出品している。評価は毎年最下位で、講評欄には作り手の迷いが鉄に出ているとの一文が添えられた。翌年も、議長は同じ迷いを抱えたまま出品の列に並んだ。
- 坑道の視察中に落盤の警報が鳴った際、議長は誰よりも早く避難経路の出口へ辿り着いた。鉱員たちは数千年仕込みの逃げ足に喝采を送り、以後、議長は鉱山の避難訓練で手本役を務めている。
- 官邸の大広間は年に一度市民に開放され、旧世界時代の議長を描いた風刺画の展示会が開かれる。最も辛辣な一枚には議長自ら賞を授ける決まりで、受賞作は翌年の官邸の年賀状に刷られて公国中へ配られる。
- 妻のヨバンナ・フリートンと同じ屋根の下で迎えた最初の結婚記念日に、議長は日付を一日取り違えた。妻は前日のうちに祝いの料理を二日分仕込んでおり、議長は二晩続けて同じ献立を前に詫びの言葉を述べることになった。
逃走録
- 宮殿惑星の航海期、フリートンは義母アリウス・グラン・フェルフィアとの鉢合わせを避けるため、惑星中の回廊を歩き回って独自の地図を描き上げた。地図の精度は近衛の警備図を上回り、新天地への到達後、写しが近衛騎士団の資料室に収められている。
- 予定外のスカラフィア船の入港を察した議長は、官邸の裏口から抜け出そうと試みた。裏口の先では側近のイェルサ・フォールリングが、表口の先では義母が待ち構えており、議長は十分ほど立ち尽くした末、自ら客間へ戻って茶の支度に取りかかった。
- 仮病を使って寝込んだ議長のもとに、スカラフィアから医療団付きの見舞いが届いた。医療団の診断は健康そのものであったが、義母は看病の名目で居座り、議長は病人の役を降りる機を逸したまま一週間を寝台の上で過ごした。
- カルヴァーチの山小屋へ逃げ込んだ議長に、メレザ・レクネールは匿う条件として薪割りを課した。最後の一本を割り終える頃、海の幸を担いだ義母が坂道を登ってくる姿が見え、隠居は追加の湯呑みを一つ棚から下ろした。
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最終更新:2026年10月27日 12:05