生年月日 |
1967年1月12日 |
出生地 |
デーノ共和国 ナジャールト |
没年月日 |
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死没地 |
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出身校 |
ヴィンスユンク軍事大学戦術研究科 |
所属組織・政党 |
ユエスレオネ人民解放戦線→ユエスレオネ連邦軍→南サニス軍政評議会 →連邦参事会→ユエスレオネ連邦軍 |
称号・勲章 |
人民解放戦線内尉 連邦軍副司令官 司法監督委員会委員長 連邦参事官(連邦安全保障枠/連邦軍上級将官会議) 連邦参事会「クラナでの最高尊厳の保護にまつわる査察団」団長 連邦総司令官 |
渾名 |
車椅子の巨人 |
親族 |
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サイン |
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配偶者 |
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ユエスレオネの連邦参事官 |
着任回数 |
回 |
就任日 |
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退任日 |
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ご安心下さい、足が萎えても、そう簡単に使い捨てにはならないつもりですので。
――全国連邦参事官就任演説会、ターフ・アレシャ
ターフ・アレシャ(理:
tarf.alexia)とは、
ユエスレオネ連邦の軍人、司令官、政治家。
略歴
出自はユナ系リパラオネ人で、軍人家系に生まれる。戦乱の中、軍人たちを統べる親の背中を見て育ったアレシャは、18歳になるとヴィンスユンク軍事大学に、首席の
レイヴァー・ド・スキュリオーティエ、次席の
アレス・フレンテャ・シャルに継ぐ
席次三番として入学する。シャルとは違い、首席や次席にコンプレックスを持っており、レイヴァーたちとはつるまなかったとされる。真面目な学生として、他の学生や教授に認識されていたが、成績は中の上程度であった。
ユエスレオネが空に飛び立った後の
革命中は
ユエスレオネ人民解放戦線の尉官級第二位の
内尉としてアレス・フレンテャ・シャル中佐の部下として革命を戦っていたが、
デュイン戦争が始まると更に上位の
ターフ・メブローデャ准将の元で連邦デュイン艦隊の第17陸戦隊を率いて
Xelken.valtoalと戦った。しかし、すぐに
人民解放特命飛行攻撃隊の編成を命じられ、一時的には事実上の人民解放戦線の空軍トップとなっていた。
しかし、初期の戦闘の後にアレシャには配置換えが命じられ、レイヴァー・ド・スキュリオーティエが率いるアル・シェユ反乱軍をサポートする
人民解放戦線歩兵隊司令としてアル・シェユ旧政府軍と戦うことになり、短期間での複数回の配置換えに辟易したと後に語っている。
革命後は、民兵組織などを新設された連邦軍へと円滑に統合するための移行議会である西ルート・メイリクワの
議員秘書としてしばらく働いていたが、アレス・フレンテャ・シャルから連邦軍幹部にならないかと誘われて、
連邦空軍大佐として着任、ストイックな真面目さから評価が高く、
デュイン・アレス独立戦争が始まる2010年には
連邦軍副司令官として昇格していた。
DAPEにおいては、同盟国や
ETCAとの調整に奔走する軍部外交役として激務に身を窶し、2010年4月1日にはXelken.alesとの停戦交渉のための全権委任役として交渉に向かったが、帰還時に戦闘に巻き込まれ、銃撃を受けて重症を負った(
デイシェス州境事件)。
意識は回復するも、半身不随になったアレシャは副司令官の職を辞することになるが、
統合大将として軍には所属しており、2016年には南サニス軍政評議会の
司法監督委員会委員長を担った。
2035年の
統一選挙では
連邦参事官(連邦安全保障枠/連邦軍上級将官会議)として国民審査に通過し、着任した。
2037年、
クラナ紛争が起こると連邦参事会の参事官で結成された
「クラナでの最高尊厳の保護にまつわる査察団」の団長として、クラナに派遣された。調査を行うとともに、クラナの行政や軍事に一定の補助を行ったとされている。
2038年、
ヴィテールにおける
「最高尊厳保護規正査察団」の団長を担当。
2040年、
SSA中央競駢施行会の申請による
「引退駢管理及び保護にまつわる査察団」の団長を担当。
2050年になると
アレス・フレンテャ・シャルから誕生日のお祝いとして軍用車椅子を贈られ、「是非私の後任として、その知力と体力を生かして総司令官を担って欲しい」と直々に言われたアレシャは幹部からの後援もあり、三代目連邦軍総司令官として就任している。
関連項目
最終更新:2024年11月30日 04:25