taiana-siu^rr-shami^-i-hartai
生年月日 |
1777年3月13日 |
出生地 |
エナプタージ |
没年月日 |
- |
死没地 |
タシュトヘム ハウムコン島 |
所属政党 |
中道カーリチ党 |
次代 |
ネグウィム |
前代 |
ナプトー |
出身校 |
ファウ=カーリチオラム宗教学校 |
前職 |
国教院職員 |
称号 |
サンシャンマヒャパの愛弟子 オラム=ガン=ラニル |
配偶者 |
未定 |
親族 |
未定 |
サイン |
- |
タイヤナ=スューグ=シャミー=イ=ファウタイはトラム=トラム系女性スンシャの政治家、カーリチ教のオラム(宗教指導者)、国教院職員。第56代星衛主席として
シャグマ=ラゴン戦争後の
ニーネン=シャプチの戦後復興に尽力した人物である。
星衛主席として
シャグマ=ラゴン戦後の
ニーネン=シャプチの復興に尽力した。
ロフィルナとの外交に関しては愛国党時代の方針を継承した。
アイプゴン自治国の独立を承認する動きを見せ、国内の保守派に猛反発を受けたが、その後の1792年に起こった
サクトマンク無血革命でも寛容の態度を表明し、自国から分離独立した国家であるはずのアイプゴンと異例の協調路線を実現した。
また、
サクトマンク主義を積極的に受け入れて、
無血革命の輸入と
サクトマンク=スガイユン政策を実行し、国内経済の復興と同時に機会均等化を図った。
国際社会では戦前の
ヴァルエルク敵対路線を改め、一定の譲歩を見せる形で国交正常化。自由解放連合との関係改善を果たす。
セティスカトールプ講話条約で
亜人盟約(第一次)が解散させられたが、これを再結成した。穏健派のシャミーは周辺諸国との協調を強く意識し、構成国内の平等化を訴えたため、再度陣営の盟主になることはなかった。この点において国内世論の評価は賛否両論であった。
人物
星衛主席時代はその整った顔立ちとスタイルから「オラム=ガン=ラニル(ラニルの花のように美しいオラム)」というあだ名がついていた。
しかし、シャミーは「自分の価値は自分の精神性にある」と考えるタイプの人であるため、美女だ美人だと持て囃されることを嫌い、このあだ名もあまり気に入っていなかった。
第53代星衛主席
サンシャンマヒャパとはカーリチオラム時代からの恩師であった。シャミーは彼の人格を非常に尊敬しており、当時の二人を知る人物によれば「まるで父と娘のよう」だったとしている。彼女が政界の道に進んだのはサンシャンマヒャパによる影響であるとされる。
そのため、1767年の
サイユサクラーチ事件でサンシャンマヒャパが暗殺された時には、しばらく心神喪失状態になった。
サンシャンマヒャパの暗殺を企てた(と見なされている)
ナプトーを心の底から憎んでおり、また軽蔑している。
関連項目
最終更新:2022年06月17日 12:27