Ni^nen-shapcha^shka pnaut
ミェーニ=イェーマの制定
モンケンプトゥームの改革を「
モノの改革」と呼んで批判し、自身は「
ココロの改革」としてマニュフェストを掲げて1431年に選出された第13代臨時宰相
モニエ=フタウ=チェディシはニーネン=シャプチ民族の基本的枠組みである「
ミェーニ=イェーマ(MNIM/三類十種)」を制定した。
宗教と民族のための和解委員会の設立
1434年、チェディシは宗教と民族のための和解委員会を設立し、民族・宗教闘争を終わらせるべく和解プロジェクトを立ち上げた。この宗教と民族のための和解委員会は、教育改革にも成果を上げ、民族・宗教融和の道徳教育を公教育に導入。宗教と民族のための和解委員会は再編、改称され後の1448年に国教院となった。
国教憲章の公開
1439年、宗教と民族のための和解委員会は「国教憲章」を公開し、国内の宗教を統合に成功させた。
スワーシャカーチェ集約神教の創立
1445年、国内宗教を統一し、国教「スワーシャカーチェ集約神教」創立。
民族扇動罪の導入
1448年、チェディシ臨時星衛宰相は民族・宗教の差別や対立に対して厳しい罰則を課した「民族扇動罪」を導入した。民族扇動罪はエフューラフト国民法典の第34条に定められる罪として施行された。
民族和解への道のり
チェディシの功績は凄まじいもので、長年行われていたガールン人によるパハニヴィエ=ネグエ世界人への差別の風潮は取り払われ、政府や民族の代表者による和解への試みが始まった。しかし、今度は逆の問題が浮上するようになった。それは、一部の過激な人民によるパハニヴィエ=ネグエ世界人によるガールン人への逆差別であった。
コリモ事件
1502年、パハニヴィエ=ネグエ世界人の青年がガールン人少女を拉致監禁、暴行等を加え殺害するという事件が発生した。この事件でうつ病になってしまったコリモ星衛主席は自殺した。遺書には「私はエシュトを愛していた。同じエシュトを、ジェンマヒ(再来者)と呼ばない、優しいエシュトを」と書かれていた。この一連の悲劇は「コリモ事件」と呼ばれ、エフューラフト全土に大きなショックを与えた。ガールン人に対する逆差別が浮き彫りとなり社会問題になり、平和と協調を求める声が相次ぎ、各地で集会や演説が行われた。このような人々は親しみを込めて「小さなチェディシ(tis-chedish)」と呼ばれた。
神罰団
その後、スワー=マ=カラン教過激派組織「神罰団(ムワン=シャ=トープナーディエ=シャン=クン=ミクチ、
檀語:
muan-sha-toupna^die-shan-kun-mikch)」、通称
ミェー・ター・ダン・イス(MTDS)が結成され、逆差別に対する報復活動が始まる。1508年に政府の治安維持部隊に大規模鎮圧があったものの、1515年頃から再び逆差別が激化すると指導者が交代したことで再び活動が活発となる。
クヤー暗殺事件
1523年、第21代星衛主席クヤーがガールン人青年に暗殺されるクヤー暗殺事件が発生。神罰団が犯行声明を発表。コリモ事件の報復として行われた同時多発テロにも加担する。しかし、クヤーは国内で有名な人民擁護運動の先駆者でもある大物思想家であったため、パハニヴィエ=ネグエ世界人からももちろん、スューグ系民族からも非難が集中したため、水面下の支援を受けられなくなり1525年のテロを最後に神罰団は鎮圧され、事実上の解体が行われた。
関連項目
最終更新:2020年12月14日 06:06