巻一百九十七 列伝第一百二十二

唐書巻一百九十七

列伝第一百二十二

循吏

韋仁寿 陳君賓 張允済 李桐客 李素立 至遠 畬 巌 薛大鼎 克構 賈敦頤 敦実 楊徳幹 田仁会 帰道 裴懐古 韋景駿 李恵登 羅珦 譲 韋丹 宙 岫 盧弘宣 薛元賞 何易于



  治を行う者は、君主である。治の理由を求める者は民である。君の治を推し進めてこれによって民を助けるのが吏である。だから吏が良ければ、法が公平で政治が成立するのである。良くなければ、王道は弛緩して失脚するのである。尭・舜の時代に「九徳あるものを一人残らず取り挙げて適切な仕事に当たらせれば」といい、「百官たちが公正な者になりましょう」とあるのだ。周の文王・武王の時代に、「積まれたタラの木々のように集まる優れた官人」や、「南の山には菅があって、楽しんで賢人を得る」とあるのである。これは循吏の習いである。尭・舜は五帝の盛帝で、文王・武王は参王の中でも名が顕れた王で、これから離れることができないのに治めるには、後世はどうすればよいのだろうか。

  唐が勃興したが、隋を受け継いで政治は混乱し、各地は荒れ果てており、始めて州刺史県令を用いた。太宗はかつて「朕は天下の事を思うと、毎晩不安で眠れない。思うに人民の根本は、刺史を重んじるに他ならない。だから姓名を屏風に書いて、寝ても起きても向かい合って、才能があるかそうでないかがわかれば、ただちに姓名の下に書いて、それによって解任したり任命したりしているのだ」と言っていた。また内外の官五品以上に詔して県令に堪えうる者を推挙させた。ここに官はその適任者を得て、民は心配事を取り去って安心することができた。都督や刺史は、その職は州県を調べることである。時折使者を派遣して全国を巡り歩き、弾劾・推挙はその職ではない。それより以前、都督・刺史は両方とも天子が自ら任命の冊授に臨んだ。後に冊授しないようになったが、なおも受命の日に便殿に対し、衣物を賜ってから派遣した。玄宗の開元年間(713-741)、職を辞した者は、側門に詣でて進退伺をするのは、寵臣や高官がこれによってその功績を責めるのが理由であった。それより以前、刺史は京官に準じて魚袋を帯び、品位が低い者は緋魚袋を貸与した。開元年間(713-741)、また酷吏を再雇用せず、良ではない者を懲罰し、群臣はこれを教化し、苛烈で乱れた風潮を改め、争って人々に恩恵を与えて名が顕れるようになった。再び詔して、参省侍郎で欠員が出れば、かつて刺史に任じられた者から選んだ。郎官に欠員が出れば、かつて県令に任じられた者から選んだ。宰相・名臣に至っては、勤勉であって言動は人に勝り、軽々しく授けたりしばしば替えたりすることができないのである。これによって授受の間、すべてが優れた者とすることができないとはいえ、十人中五人は得られた。そのため気は叶って作付きがよく、感化して太平となり、祭祀は三百年になろうとし、漢と等しくなったのである。これを行う術は、循吏でなければ何だというのであろうか。そのため統治が優れた者を叙述し、その採用した者たちを著した。将相・大臣となり、兼ねて勲によって功績をあらわした者は、それぞれ本篇を見るべきであって、ここには列しなかった。


  韋仁寿は、京兆万年県の人である。隋の大業年間(605-618)末、蜀郡司法書佐となり、裁判を行って公平であり、有罪となった者は皆自ら韋君論ずる通りだとし、死罪となっても恨むことがなかった。高祖が関内に入ると、使者を派遣して蜀の平定を布告し、制によって韋仁寿は巂州都督府長史に抜擢された。南寧州が誼を通じていたが、朝廷が毎年使者を派遣して慰撫させていたが、率いてきた者たちが貪欲かつ横暴で、辺境の人々はこれに苦しめられ、多くが背いて去っていった。はもとより韋仁寿の統治を聞いていたから、検校南寧州都督とし、越巂にて統治させ、詔して一年に一度派遣して慰撫させた。韋仁寿は将兵五百人で西洱河を渡り、地を開くこと数千里、詔して七州十五県を置いたと発表し、酋長・豪族は皆やって来て拝見し、そこで牧宰(地方長官)を授けられ、威令は簡潔かつ厳粛で、人々は安心して喜んだ。帰還しようとすると、酋長は泣いて、「天子は公を鎮撫に任命なされたのに、どうして我々から去ろうとしているのか」と言うと、韋仁寿は池の壁がまだ建てられていないからと言い訳をしたが、諸酋長たちはそこで築城して役所を建て、十日ほどで大体完成した。韋仁寿はそこで事実を告げて、「私は詔を奉って安撫の任についているのであって、どうしてあえて勝手に留まることができようか」と言ったから、夷と中国の父老はそこで泣きながら見送り、子弟を遣わして貢物を送り、天子は大いに喜んだ。韋仁寿は願い出て南寧州の統治に赴任し、兵を借りて遂に安撫平定し、詔してお褒めの言葉をいただき、益州に勅して兵を給して護送した。刺史の竇軌がその功績を憎んで、山獠が叛こうとしていると奏上させ、まだ軍を遠征させるべきではないとして、突然韋仁寿は派遣させられた。一年ほどで卒した。


  陳君賓は、陳の鄱陽王の陳伯山の子である。隋に仕えて襄国郡通守となった。武徳年間(618-623)初頭、郡を引っ提げて唐に帰順し、東陽郡公に封ぜられ、邢州刺史に遷った。貞観年間(623-649)初頭、鄧州に遷ったが、鄧州は騒乱の後で、百姓は流浪していたから、陳君賓は慰労に努力すると、一月もしないうちに、皆が自らの業に戻った。翌年、全国で霜が降りたが、ただ陳君賓の治める所だけは例年通りで、倉庫に蓄えが充実したから、蒲州・虞州の二州の民は食物を求めて州境に赴いた。太宗が詔を下して労い、「去年関内六州で穀物は実らず、食料は少なく、民家ごとに食料を配給する有り様であった。聞くところによると、刺史と百姓は朕のこの思いを知って、互いに安養するよう勤め、また余剰の食料があれば、布帛を出して行く者に贈ったという。これは水害・旱魃がいつもたびたびあることを知って、改めて互いに経済的援助を行い、礼や謙譲は盛んに行なわれているから、全国の人は皆兄弟となり、社会的無関心の風潮に変化があったから、朕に何の心配ごとなどあろうか。すでに役人に命じて刺史以下で最も功績があるものを記録させた。百姓の家族を養うため、今年の調物を免除する」と述べた。この年、京師に入って太府少卿となり、少府少監に転じたが、事件に連座して罷免された。再起用されて虔州刺史となり、卒した。


  張允済は、青州北海県の人である。隋に仕えて武陽県令となり、民衆を愛護して政務を行った。元武県の民で牡牛を妻の実家に預けた者がいて、しばらくして、十頭以上の子牛を産んだ。転居しようとした時、妻の実家は牛を与えなかった。その民は県に訴えたが、県は判決を下すことができず、そこで張允済のもとに赴いた。張允済は、「どうして自分のところの県令ではなく、私の所に来たのか」と尋ねると、民は泣いてその理由を訴えた。張允済はそこで左右の者に民を縛らせ、その頭に被り物をし、妻の実家に向かって、牛泥棒を捕らえたと言い、民の家の牛をすべて出すよう命じて、出所を質すと、妻の実家は何がおこったのかわからず、にわかに「これは婿の家の牛です。私の預かり知るところではありません」と言ったから、そこで左右の者に命じて被り物を撤去させると、「そういうことならこの牛を婿に返しなさい」と言い、妻の家は叩頭して罪に服し、元武県の役人は大いに恥じ入った。張允済が路傍を通り過ぎると、老婆の家で蒔いた葱を守っていたから、そこで「家に帰りなさい。泥棒がいたら、県令に報告しなさい」と言い、老婆は感謝して帰った。にわかに沢山の葱が無くなったから、張允済は十里内の男女をすべて招集し、探して検めると、果して盗んだ者が発見された。ある旅行者が夜に出発して、道中に上着を置いたままにしてしまい、十里以上行ってから気がついた。ある人が、「我々の県では今まで物を拾った者はいません。戻ったら取り戻せるでしょう」と言い、上着を見つけることができた。政務は最も優れたものとされ、高陽郡丞に遷り、高陽郡では太守がおらず、一人で郡の政務を統率し、部下の役人は畏敬し喜んだ。賊帥の王須抜が高陽郡を攻撃し、兵糧が底を尽き、役人は槐の葉や藁の節を食べる有り様だったが、叛く者はいなかった。貞観年間(623-649)初頭、累進して刑部侍郎に遷り、武城県男に封ぜられ、幽州刺史に抜擢され、卒した。


  当時、また李桐客という者がいて、同じく統治を称えられた。当初隋に仕えて、門下録事となった。煬帝が江都に滞在中、全国が日に日に乱れたから、都を丹楊に遷そうと謀り、群臣を召集して議した。左右の者は煬帝の意にかない、江東の民は、長い間遷都を待望しており、もし巡狩して石碑に功績を刻み、禹の旧跡を復す時期は、今でなければいつにするのかと述べた。李桐客は一人、「呉は湿潤で土地が狭い場所です。万乗の君に奉仕し、参軍に補給するには不足があり、呉の人は耐えられません。そのため命令に堪えられず、また険阻の地を越えなければならず、国家の幸いにはなりません」と述べたが、御史は政治への誹謗として弾劾し、ほとんど有罪になるところであったが免れた。宇文化及に脅されて、黎陽に行こうとして、また竇建徳の手に陥った。賊が平定されると、秦王府法曹参軍を授けられた。貞観年間(623-649)初頭、累進して通州・巴州の二州の刺史となり、統治は清平で、民からは慈父と呼ばれた。李桐客は、冀州衡水県の人である。


  李素立は、趙州高邑県の人である。曽祖父の李義深は、北斉に仕えて梁州刺史となった。父の李政藻は、隋の水部郎となり、淮南に派遣されて、盗賊に殺害された。李素立は武徳年間(618-623)初頭に仕え、監察御史に抜擢された。民が法を犯したが死刑にはならなかったにも関わらず、高祖は殺したいと思ったから、李素立は諌めて、「参尺の法は、天下が共有するところで、一度動揺することがあれば、人々はこれによって安心して休むことがなくなるでしょう。これから大業を始めようというのに、どうして天子のお膝元で先んじて刑書を破棄なさるのでしょうか」と述べたから、は喜んで受け入れ、これによって恩顧は特に抜きん出た。親の喪によって解官し、起用されて七品の清要(官は重要だがさほど忙しくない官)につくことになると、役人は雍州司戸参軍に任じようとしたが、帝は「重要だが清官ではないな」と言い、また秘書郎に任じようとすると、帝は「清官だが重要ではない」と言ったため、そこで侍御史を授けた。貞観年間(623-649)、揚州大都督府司馬に転じた。

  それより以前、突厥の鉄勒部が服属し、そこでその地を瀚海都護府とし、李素立に詔して領させた。ここに闕泥熟別部があってしばしば辺境の憂いとなっていたから、李素立は兵を用いるほどではないとし、使者を派遣して説諭して降し、夷人はその恩恵に感じ入り、馬牛を率いて献上したが、李素立はただ酒一杯を受け取るので終わりにし、その他を返却した。そこで屯田を開墾し、官衙を建造し、虜はますます恐れ畏まった。太僕卿・鴻臚卿を歴任して、高邑県侯に封ぜられた。京師から出されて綿州刺史となった。永徽年間(650-655)初頭、蒲州刺史に遷ったが、赴任しようとして、余剰の糧食および什器を州に返還し、家に書簡を送って道中についた。ちょうどその時卒し、高宗は特に廃朝すること一日、諡して平という。


  孫の李至遠は、初名を鵬といった。しかし李素立が奉使に派遣されようとしているとき、家人に向かって、「古では出来事にちなんで子に名前をつけたというが、私はこの任務によって子や孫に命名しよう」と言ったから、遂にそこでこのように名付けられた。若くして秀才かつ明敏で、よく『尚書』・『春秋左氏伝』を修め、まだ杜預の『春秋釈例』を見ていなかったのに編記をつくったが、大体ほぼ同様であった。また『周書』を撰述し、后稷から赧王まで、紀伝体とし、令狐徳棻に優れた歴史家と評価された。始め蒲州参軍に任じられ、乾封県尉に補任された。上元年間(674-677)、科挙に優秀な成績で及第し、明堂主簿を授けられた。喪のため解官し、喪があけると、鴻臚主簿に任じられた。異民族の人口調査を報告し、高宗は喜び、監察御史裏行に抜擢された。天子の寵愛をたのんで、外任に遷り、しばらくして司勲・吏部員外郎中に遷った。天官侍郎、知選事に遷り、令史が賄賂を受け取るのを憎んで、多を罷免したから、役人は粛然として手をおさめた。王忠なる者がおり、解任されるところであったが、役人はその姓を書き誤って「士」とし、任免が終わってから書き足そうとしたが、李至遠は、「任命された者は参万で、士姓の者はいなかった。これは必ず王忠であろう」と言い、役人は叩頭して罪に服した。李至遠が貢挙を司ると、内史の李昭徳が上奏したため、ある人が李昭徳のもとに行って感謝するよう勧めたが、「公はおおやけのために私を用いたのであって、どうして感謝するのに私的にしようと思うのか」と言い、ついに行かず、そのため李昭徳に恨まれ、京師から出されて壁州刺史となった、卒し、年四十八歳であった。

  李至遠の父の李休烈もまた文章に秀で、郪県令で終わり、年四十九歳であった。世間はその父子の人材が出し尽くされなかったのを嘆いたという。李至遠は桓彦範に会って、その賢才ぶりを力説した。盧従愿はまだ若かったが、高く評価した。弟の李従遠も評価して貴くなるとし、前もって到達するであろう官位を予言し、実際にはその通りとなった。蘇頲はその一族の出で、若くして母を失ったが、李至遠の愛情は非常にうやうやしく面倒見し、娘を彼の妻とした。兄弟を愛し、寡婦となった姉に仕えて礼があり、世間はその徳を称えた。

  李従遠は清らかで大人しく、学があり、神龍年間(707-710)初頭、中書令・太府卿を歴任し、趙郡公に封ぜられ、諡を懿という。兄弟は全員徳望が宰相と等しかった。また従父の李遊道は、武后の時に冬官尚書・同鳳閣鸞台参品(宰相)となった。


  李至遠の子の李畬は、字は玉田で、若い頃から聡明かつ鋭敏であった。はじめ汜水主簿に任じられ、人に会うと蜂のように鋭く観察し、召使であっても、一たび会うとたちまち姓名や居場所・職業を覚えた。黜陟使の路敬潜がその清廉潔白ぶりを推薦し、右台監察御史裏行に抜擢された。右台が廃止されると、監察御史を授けられ、累進して国子司業となった。母に謹んで仕え、代々同居し、長幼の礼があった。李畬の妻が亡くなったが、その時母も病んでおり、悲しんで病が重くなることを恐れ、約家人に泣いているところを母に聞かせないよう約束し、朝も夕も省みて悲しんでいる様子を見せなかった。母が亡くなると、悲しみのあまり卒した。


  李従遠の子の李巌は、年十歳ほどで、中宗が明堂を祀るのに際して、近臣の子弟に籩豆(祭器)をもたせたが、李巌は中礼の際に出入りを行い、右宗衛兵曹参軍を授けられ、洛陽県尉に任じられ、累進して兵部郎中に遷った。扶風県の兵を派遣して姚巂蛮の寇に対応したから、お褒めの言葉を賜り、諌議大夫に遷り、賛皇県伯に封ぜられた。官は兵部侍郎で終った。李巌は草書・隸書をよくした。参軍となった時に一着の皮衣をつくり、終身着用した。


  薛大鼎は、字は重臣で、蒲州汾陰県の人である。父の薛粋は、隋の介州長史となったが、漢王楊諒とともに叛き、誅殺された。薛大鼎は助命されて官奴となり、辰州に流されたが、戦功によって帰還することができた。高祖が兵をあげると、龍門で謁見し、そこで龍門を遮断し、軍を永豊県の倉庫に駐屯させて食べさせ、あちこちに檄文を伝え、天然の要害に根拠とし、豪桀に示し、慰撫して喉元を抑える計略をに説き、帝はこれを優れたものだと思った。当時、諸将はすでに先に河東を攻略する策を決定しており、そのため議題は据え置かれた。大将軍府察非掾を授けられた。京師から出されて山南道副大使となり、屯田を開いて実りによって倉庫を満たした。趙郡王李孝恭輔公祏を討伐することになると、薛大鼎を饒州道軍師とし、兵を率いて彭蠡湖を渡り、功によって浩州刺史に遷った。累進して滄州刺史に遷った。無棣渠は長らく堆積物のため閉塞していたが、薛大鼎は浚渫して海と繋がり、商売は盛んとなり、里民は「新たに水路が通り、舟の操船に役立つ。青海原に繋がり、魚や塩がやって来た。昔は徒歩で行き、今は馬車で駆けていく。なんと素晴らしいことだろうか。薛公徳の慈雨は」と歌った。また長蘆・漳・衡の渠を通し、水を貯めて流したが、水は害にならなかった。この当時、鄭徳本は瀛州にいて、賈敦頤は冀州にいて、全員統治で有名となり、そのため河北を「鐺脚(徳政)刺史」と呼んだ。永徽年間(650-655)、銀青光禄大夫、行荊州大都督長史に遷った。卒し、諡を恭という。


  子の薛克構は、優れた見識があった。永隆年間(680-681)初頭、戸部郎中に任じられた。一族の黄門侍郎の薛顗は、弟の薛紹太平公主を娶ったから、薛克構に尋ねると、「家の中には傲慢な婦人がいるのは、立派な人物が憎むところです。ただ淑徳の人を君子に娶すことによってのみ、心配しないことができるのである」と答えたが、薛顗はあえて婚姻を阻止せず、薛紹はついに誅殺された。陳思忠は父の喪に遭ったが、詔によって奪服(服喪を終える前に官に呼び戻されること)されて、客は弔問に赴いたが、陳思忠が辰の日であることを理由にして面会しなかった。薛克構は「親に仕える者は嫌疑を避けることができる。だが親が死んだら泣かないものはいないだろう」と言ったから、世間はその発言に心服した。天授年間(690-692)、麟台監に遷った。に連座して酷吏に陥れられ、流されて嶺南で死んだ。


  賈敦頤は、曹州冤句県の人である。貞観年間(623-649)、多くの州刺史を歴任し、清廉潔白で素質があった。入朝すると、常に部屋のすべてを乗せて行ったが、車一台で非常にくたびれ、痩せ馬に縄の馬具であり、道行く人々はそれが刺史であるとはわからなかった。しばらくして、洛州司馬となり、公務によって連座して下獄し、太宗は放免しようとしたが、役人は捕らえて放免しなかった。は、「人は誰も過ちがないものはおらず、私はひどい者を追い出すだけだ。もしことごとくを捕らえるのに法によるなら、子であっても父を得ることができないし、ましてや臣下がその君主に仕えることができようか」と言い、ついに許された。瀛州刺史に遷ったが、瀛州は滹沱河・滱水の二河に瀕しており、毎年氾濫して、家屋を破壊し、次第に湿地は数百里になっていった。賈敦頤はそのため堰を造るために人を雇ったから、水は暴れることができず、百姓の利となった。当時、弟の賈敦実は饒陽県令となり、政事は清廉かつ静謐で、役人も民も賛美した。旧制では、大功の者の親族は官職を連ねないことになっていたが、朝廷はその兄弟の統治・行状がそれぞれ高いことから、そのため他職に遷さず、これによって寵遇を示した。永徽年間(650-655)、洛州に遷った。洛州には豪族が多く、田畑を占有して法令を無視していたから、賈敦頤は検挙して没収した田は三千頃以上になり、貧民に分け与え、悪者をばらし、陰悪を暴いたから、部下は欺くことができなかった。在官中に卒した。

  咸亨年間(670-674)初頭、賈敦実は洛州長史となり、同じく寛大で恩恵があり、人心は懐き靡いた。洛陽県令の楊徳幹は驕って容赦がなく、人を杖殺して権威を振っていたが、賈敦実は諭して、「政事は人を養うことにあって、傷つけることはやりすぎを生じることになる。できるからといってこんなものは尊ぶようなものではない」と言い、楊徳幹は次第にやらなくなっていった。それより以前、洛州の人は賈敦頤のために碑文を刻んで大市の傍らに建てたが、賈敦実が京師に入って太子右庶子となると、人々はまた賈敦実のために賈敦頤の碑の側に碑を建て、そのため「常棣碑」と号した。懐州刺史を経て、誉れ高き足跡があった。永淳年間(682-683)初頭に致仕し、病が重くなると、子や孫は医師を呼び寄せたが、賈敦実は医師に会うことをよしとしなかった。「名医であっても老人を治したとは聞いたことがないな」と言い、卒した。年は九十余歳であった。子の賈膺福は、左散騎常侍・昭文館学士となったが、竇懐貞の党派であったから誅殺された。

  楊徳幹は沢州・斉州・汴州・相州の四州の刺史を歴任し、威厳があり、当時の人々は「三斗の炭を食らったとしても、楊徳幹に会わない方がましだ」と言っていた。天授年間(690-692)初頭、子の楊神譲徐敬業とともに挙兵し、全員が誅殺された。


  田仁会は、雍州長安県の人である。祖の田軌は、隋の幽州刺史で、信都郡公に封ぜられた。父の田弘は襲封し、陵州刺史となった。田仁会は貢挙に推挙され、仕えて左武候中郎将となった。太宗が遼東征伐を行うと、薛延陀が数万騎で河内を急襲してきたが、田仁会と執失思力に詔して兵を率いて迎撃して打ち破り、後尾を追撃すること数百里、薛延陀はほとんどが生け捕りにされ、璽書でお褒めの言葉を賜った。永徽年間(650-655)、平州刺史となり、旱魃となった年に自ら突然祈ると、雨が大いに降り、穀物はついに実った。人々は歌って、「父母は私を田使君として育て、誠実さは天上に聞こえ、田に雨を降らせて山から雲が出て、穀物は満ちて礼義は行なわれ、願くは君がいつも貧困の心配をしないですみますように」と述べた。五度遷任して勝州都督となった。境に昔から盗賊がいて、山を根拠として旅行者から略奪していたから、田仁会は騎兵を発して捕獲し、皆殺しにした。そのため城門は夜に開かれ、道に盗みの形跡がなくなった。京師に入って太府少卿となり、右金吾将軍に遷った。受け取った禄は、売って利益がでると、たちまち官庫に入れたから、人々はその名を敬った。しかし性格は強く真剣に悪を憎んだから、昼夜循行し、一房の悪であっても必ず暴き、宮中で処罰は一日に数百となり、京師では貴賤なくすべてが憚った。巫が鬼道を伝えて衆を惑わし、自ら死人を蘇らせることができると言い、市里は神を尊んだが、田仁会は巫を弾劾して辺境に遷した。右衛将軍に転任したが、年老いたから骸骨を乞い(辞職を求め)、卒した時年七十八歳であった。諡を威という。


  子の田帰道は、明経科に及第し、通事舎人内供奉・左衛郎将に抜擢された。突厥の黙啜が講和を願い、武后は将軍閻知微に詔して可汗の号を冊し、節を持って赴いた。黙啜もまた使者を派遣して答礼を行い、閻知微は道中で会い、そこで緋袍銀帯を与え、上表して使者が到着次第、朝廷での礼を備えて謁見を賜うよう願った。田帰道は諌めて、「虜は朝廷の恵みに背くこと積年になろうとしています。今悔い改めて入朝していますが、辮髪を解き衽(おくみ)を削り、天朝の宣旨を待つべきです。しかし閻知微は勝手に使者に賜い、朝廷はこれ以上何を加えるというのでしょうか。まず最初に履行するよう勅し、天子の命を待つべきです。小国の使者は、礼を備えるのに足らずとも出迎えるです」と述べ、武后はこの意見に従った。黙啜は単于都護府に到着しようとしているところで、田帰道に詔して司賓卿を摂務させて労いに行かせた。黙啜は六胡州および都護府の地を願ったが得られず、大いに恨みを抱いて、田帰道を捕らえて殺害しようとした。田帰道は色をなして屈せず、激しく詰り、黙啜のために物事の良し悪しを述べ、黙啜もまた後悔した。ちょうどその時、詔があって黙啜に粟三万石、綵五万段、農器三千を賜い、また通婚を許し、ここに改めて礼によって使者が派遣された。田帰道が帰還すると、詳細に黙啜が臣下とはならないであろう実情を述べ、辺境の防備を願った。後に果して叛き、そこで田帰道を夏官侍郎に抜擢し、ますます信認した。

  左金吾将軍・司膳卿に遷り、千騎を率いて玄武門に宿衛した。桓彦範らが二張(張易之張昌宗)を誅殺したが、田帰道は参与していなかったから、騎士が二張を探し求めようとすると、拒んで応じなかった。事が平定されると、桓彦範は田帰道を誅殺したいと思ったが、正直に返答したから、免れて私邸に帰った。しかし中宗は玄武門を守ったことを勇とし、召して太僕少卿に拝命し、殿中少監・右金吾将軍に遷った。卒し、輔国大将軍を追贈され、原国公を追封された。諡を烈という。帝は自ら文を作って祭った。

  子の田賓庭は、開元年間(713-741)に光禄卿となった。


  裴懐古は、寿州寿春県の人である。儀鳳年間(676-679)、宮中に上書し、下邽主簿に補任され、すぐに監察御史に遷った。姚州・巂州道の蛮が叛くと、裴懐古に命じて駅伝を馳せて旧日の誼みを述べて和らげ、賞罰を明らかにして上申し、帰還すると千日ほどであった。にわかに首謀者を捕らえ、遂に南方は平定され、蛮も華人も石を建てて功績を著した。恒州では仏僧が門弟に呪詛不道のことをしていると誣告され、武后は怒り、調査を命じて誅殺しようとしたが、裴懐古はそれが事実を歪めたものであるとの証拠を得たから、武后に説明したが、聴されなかった。そこで「陛下の法は天下と画一で、どうして臣に無辜の者を殺させて思し召しに叶うのでしょうか。そこでその人に臣下として不届きな事実があったとしても、臣に何の情があって許しましょうか」と述べると、武后はその意味を理解し、誅殺しなかった。

  閻知微が突厥に使すると、裴懐古はその軍を監督した。黙啜が閻知微を脅して可汗と称し、また裴懐古に官位を与えようとしたが、拝命することをよしとしなかったから、殺そうとした。「忠を守って死ぬのと節義を毀して生きるのとどちらがよいのでしょうか。斬ってください。避けられないのですから」と断り、遂に軍中に捕らえられたが、逃亡することができた。しかしもとより衰弱しており、馬に乗ることができず、山谷の間を転々とし、ようやく并州に到着した。その時の長史の武重規は恣意的に暴虐を振るい、左右の者も妄りに人を殺して賞を得ており、裴懐古がやって来たのを見ると、争って裴懐古を捕らえた。果毅で以前に裴懐古を見知っていた者がいて、急いで「裴御史ではないか」と呼んだから、免れた。祠部員外郎に遷った。

  姚州・巂州の蛮酋らが宮中を尋ね、裴懐古を同地に就任させて遠夷を安んずることを願い、姚州都督を拝命したが、病気によって辞退した。始安県の賊の欧陽倩が数万を率いて、州県を襲ったから、裴懐古を桂州都督招尉討撃使とし、嶺上に到達する前に、あらかじめ書簡によって善悪を諭すと、賊は投降しようと出てきて、自ら役人によって迫られたから背いたと述べた。裴懐古はその誠実さを知って、そこで彼らのために疑っていないことを示し、その謀を破るべく、そこで軽騎兵でそこに赴こうとした。ある者が、「獠夷は親しむことが難しく、彼らに備えて信じないことです。ましてや彼らを翻意させるのは簡単なことでしょうか」と述べたが、「忠や信は神明に通じるであろう。ましてや人にはどうだろうか」と答え、自ら壁に到着して諭したから、欧陽倩らは大いに喜び、ことごとく捕らえた者を帰して投降し、諸洞でもとより心変わりする者であっても、また関連して根付いたから、嶺外は平定された。

  相州刺史・并州大都督長史に遷り、至るところの役人・民は懐いた。神龍年間(707-710)、京師に召されて左羽林大将軍となったが、まだ官職につく前に、并州に戻された。人々はその帰還を知ると、老いも若きも助け合って出迎えた。崔宣道が代って長史となると、裴懐古を野外で出迎えた。裴懐古は崔宣道が礼を厚くすることによってかえって恥をかかせるようなことをしたくなかったから、人を走らせて出迎えの者を帰そうとしたが、かえって来る者はますます多くなってしまい、人心を得たことはこのようであった。にわかに幽州都督に転任し、両蕃を安撫し、部族をあげて服属しようとするところであったが、ちょうどその時、左威衛大将軍の職によって京師に召され、孫佺が代任となったが、孫佺は兵法を知らず、遂にその軍は敗れた。在官中に卒した。

  裴懐古は清廉かつ慎重な人物で、幽州にいた時、韓琬が監察御史監軍となり、裴懐古のことを「士を制御して信があり、財に臨んでは清廉で、国の名将である」と称えたという。


  韋景駿は、司農少卿の韋弘機の孫である。明経科に及第し、神龍年間(707-710)、肥郷県令に任じられた。県の北は漳河にせまり、連年氾濫して、人々は苦しんだ。旧堤防は運河にせまり、岸は険しくなっているとはいえ、片方が崩れると決壊した。韋景駿は地勢を観察し、南を千歩開削し、そこで高く堤防を築き、水が来ると堤防によって去り、その北の乾燥地が肥沃の田となった。また小舟を繋いでその上に渡して浮橋とし、長橋を廃止して、費用を節約し、後にそれが常法となった。河北で飢饉が発生しようとしているとき、自ら村々を巡り、人々に互いに便宜を図り合うことを勧め、教え導き安んじなだめたから、県民は自分たちだけが流散を免れた。転任することになると、人々は石を建ててその功績を著した。後に貴郷県令となると、母子で互いに訴え合う者がいた。韋景駿は「この県令は若くして天のお助けがなく親を喪い、常に悲しんできた。お前は幸いにも親がいるが、孝を忘れたのか。教えが信じられていないのは、この県令の罪である」と言い、嗚咽して涙を流し、『孝経』を教え授け、大まかな意味を習わせた。ここに母子は感じ入り、自ら悔い改めるよう願い、遂に孝子となった。この当時、統治で有名であった者は、韋景駿と清漳県令の馮元淑・臨洺県令の楊茂謙の三人である。

  韋景駿は数年後に趙州長史となり、道中に肥郷県に立ち寄ると、民は喜び、争って酒食を持って労いに迎え、その中には小さな子どももいた。韋景駿は「君たち子どもがまだ生まれる前に私はこの村を去ったのだから、旧恩なぞあるわけないのに、どうして来たのか」と尋ねると、「お年寄りが私に向かって、学校・建物・橋・堤防はすべて公がつくったものだと言っていたので、公は昔の人だと思っていましたが、今ありがたくも目の当たりにすることができるので、やって来ました」と答えた。韋景駿は彼らのために終日滞在した。後に房州刺史に遷った。房州は遠くさびれた険難の地で、蛮夷の風があり、学校がなく、淫鬼を祀ることを好んだから、韋景駿は諸生の貢挙を行い、隘路を開削し、駅伝の施設を造り、祠堂で名称不明なものを廃止した。韋景駿が民を統治することは、民が便となる方法を求めるもので、その類はこのようであった。奉天県令に遷ったが、まだ行く前に卒した。

  楊茂謙は貢挙に選ばれ、左拾遺内供奉を授けられ、役人の事務を勤め、秘書郎に任じられた。はじめ竇懐貞は常にその人材を重んじていたから、宰相となると、推薦されて大理正・左台御史中丞となった。開元年間(713-741)初頭、京師から出されて魏州刺史・河北道按察使となった。司馬の張懐玉と同郷で、成長してからも互いに親しかったが、晩年になると関係が悪化し、あれこれ罵ったから、桂州都督に左遷された。広州に遷され、卒した。

  韋景駿の子の韋述に、自らがある。


  李恵登は、営州柳城県の人で、平盧軍の裨将であった。安禄山が叛乱をおこすと、董秦に従って海に浮かび、滄州・棣州等の州を攻略した。軽装歩兵で遠方を長駆攻撃すると、賊は支えきれず、戦えばたちまち敗北した。史思明が叛くと、李恵登は賊の手に陥ったが、計略によって身を挺して山南に逃げ、来瑱を頼り、上表されて金吾衛将軍に任じられた。李希烈が叛くと、兵二千とともにその配下となり、隋州に駐屯させられたが、李恵登は隋州ごと帰順し、そこで刺史を拝命した。州はしばしば乱の被害を受け、野は種植えるのようで、人々には定職がなかった。李恵登は素朴で学問がなかったとはいえ、人を見て利益になるようなら実施し、害になるようなら行なわず、人々の意に任せて安んじ、わからなければ故事と整合させた。政事は安静で、刺史として二十年間、田畝を開墾し、戸口は日々増加し、人々はここに歌い舞った。ここに節度使の于頔はその統治の成績を奏上し、詔して御史大夫を加えられ、隋州を昇格して上州とした。にわかに検校国子祭酒となり、卒すると、洪州都督を追贈された。


  羅珦は、越州会稽県の人である。宝応年間(762-763)初頭、宮中に詣でて上書し、太常寺太祝を授けられた。曹王李皋が江西・荊襄節度使となると、常に幕府の職に任じられ、副使となった。李皋が卒すると、軍乱となり、府庫が略奪されたが、羅珦は首謀者十人以上を捕らえて斬って晒し、庭中にいばらで取り巻かせ、奪った庫物を投げさせ、一日でいっぱいになり、そこで余党を許した。京師に召還されて奉天県令となった。宦官が道を経由するのに出入りしていたが、役人はこれによって禁令を犯したから、羅珦はこれを笞打ちし、死んでも止めなかったため、これより止んだ。廬州刺史に抜擢された。民間では病気となった者がいると、医薬を捨て、淫祀に祈っていたから、羅珦は下令して止めさせた。学官を治め、政教は簡便であり、芝草(霊芝)・白雀といった瑞兆があった。淮南節度使の杜佑が優れた統治の報告を上奏し、金紫服を賜った。再び京兆尹に遷り、平糴(緊急時の和糴)の半減し、常賦によって充当することを願い、人々はその利を頼りとした。老いと病によって解任を求め、太子賓客に遷り、襄陽県男に封ぜられた。卒し、諡を夷という。


  子の羅譲は、字は景宣で、文学によって早くから名声があり、進士・博学宏辞科・賢良方正科に推挙され、すべて優秀な成績で及第し、咸陽県の尉となった。父を喪うと、身体をこわすほど嘆き悲しんだ。服喪があけても、普段着に糲飯(喪における黒米の飯)で、辟署に応じないこと十年以上に及んだ。淮南節度使の李鄘はそこでの羅譲の家を訪れて幕府に来るよう要請し、監察御史に任じられ、給事中となり、福建観察使、兼御史中丞に遷った。真心で名声があった。ある者が婢を羅譲に遺譲したが、どういったことなのかを尋ねると、「兄弟姉妹九人は全員官に売られ、留っているのはただ老母だけです」と答えたため、羅譲は痛ましく思って証文を焼却し、母を呼び寄せて帰らせた。京師に入って散騎常侍となり、江西観察使を拝命した。卒し、年七十一歳で、礼部尚書を追贈された。


  韋丹は、字は文明で、京兆万年県の人で、周の大司空の韋孝寛の六世の孫である。高祖父の韋琨は、洗馬となって太子李承乾に仕え、諌めたが聞き入れられなかった。太宗はこのことを優れた素質とみて、給事中に抜擢した。高宗が東宮であったとき、中舎人となり、武陽県侯に封ぜられた。孝敬皇帝が太子となると、韋琨を右中護為詹事とした。卒すると、秦州都督に追贈され、諡を貞という。

  韋丹は早くに父を亡くし、外祖父の顔真卿から学び、明経科に及第し、安遠県令に任じられたが、庶兄に譲り、紫閣山に入って叔父の韋能に仕えた。また五経科に推挙されて優秀な成績で及第し、咸陽県尉に任じられ、張献甫が上表して邠寧節度使の幕府に任じられた。順宗が太子となると、殿中侍御史に任じられて京師に召還され、舎人となった。新羅の国君が死ぬと、詔して司封郎中を拝命して弔問に行くことになった。旧例では、外国に使いする際に、州県の十官を賜り、売って財宝を取っていたから、「私覿官」と号した。韋丹は「外国に使いするのに、資金は足りず、お上にお願いすべきですが、どうして売官して銭を受け取るようなことがありましょうか」と上奏し、そこで詳細に必要とすべき費用を申し述べたから、は役人に命じてこれを与え、そこで恒例となった。まだ出発する前に、新羅で新たに立った君主は死に、戻って容州刺史となった。民に耕作や織物を教え、怠惰や遊びを止めさせ、学校をおこし、民が貧しくて自らの身を売った者がいると、贖って帰らせ、役人に禁止して民から奪って奴隷とさせなかった。始めて州を城郭化し、周囲は十三里、屯田は二十四所で、茶・麦の生産を教え、仁化すること大いに行われた。河南少尹に遷ったが、まだ到着する前に、義成軍司馬に遷った。諌議大夫となって京師に召還され、正直で有名となった。

  劉闢が叛くと、宰相は議して許して誅殺しないようにと願ったが、韋丹は上疏して、「孝文帝の時代、法は廃れて人は傲慢となり、これを救うのには威をもってすべきでした。今劉闢を誅殺しなければ、使者となるべき者はただ両京のみになるでしょう」と申し述べた。憲宗はお褒めの言葉を賜った。ちょうどその時、劉闢は梓州を包囲し、そこで韋丹を南東川節度使として、李康と代わらせた。漢中に到着すると、李康が防衛に尽力しており、変えるべきではないと上言した。京師に召還して蜀の事を議論した。劉闢が梓州を去ると、そこで高崇文に譲り、晋慈隰州観察使を拝命し、武陽郡公に封ぜられた。翌年、統治している三州は、要害の地ではなく、職掌を引き伸ばすほどでもなく、国費の負担となっているから、これらを河東節度使に属させるに越したことがないと述べ、はこの意見に従った。

  江南西道観察使に遷った。韋丹は食べるのに必要なだけの俸給を計算し、他を官に委ね、八州の冗食を削減し、その財を官に収めた。それより以前、民は瓦屋根のことを知らず、草や茨や竹や木材で、長らく乾燥すると燃えてしまった。韋丹は工人を呼び寄せて製陶を教え、材料を一箇所に集め、その費用を計って売却し、わずかな利益も受け取らなかった。人々は屋根をつくることができ、瓦を官より受け、半分の賦役を免除され、おもむろにその償を取った。逃げてまだ復していない者は、官は共に償を行った。貧しくてできない者は、賜い物を財とした。自ら赴いては監督した。南北に市を設置し、営業を行って軍の家とし、一年中旱魃になると、人を募集して作業につかせ、厚く銭を与え、その食事を給付した。南北の大通りをつくって両軍営を挟み、東西七里であった。廃止された倉庫を新たな厩とし、馬はほとんど死ななかった。堤を江に築き、長さ十二里、水路は水で満ち溢れた。おしなべて築いた堤防は五百九十八箇所、水を引いた田は一万二千頃であった。ある役人が倉庫を十年間司っていたが、韋丹はそこにあった糧食を調査すると、三千斛が失われており、韋丹は「役人がどうして自分の費用とするのか」と言い、その一家を没籍にし、すべての証拠を得て、役人が奪っていた分を調査し、役人たちを呼び寄せて、「もし権力をたのんで倉庫から取ったのなら罪であるが、一か月で返還しなさい」と述べたから皆が頓首して謝し、その期限を違う者はいなかった。ある兵卒が法令に違反して死罪に相当したが、許して誅殺しなかった。韋丹がこの地を去ると、上書して韋丹の不法を告発し、韋丹に詔して解官して弁明させようとした。ちょうどその時卒し、年は五十八歳であった。兵卒の告発の証拠は、すべて事実ではなかったから、韋丹の統治の状況はいよいよ明らかとなった。

  大和年間(827-835)、裴誼が江西観察使となると、韋丹のために祠堂を建て、石に功績を記すよう上言したが、返答はなかった。宣宗が元和の実録を読むと、韋丹の治世は卓然としており、他日宰相と語って「元和の時の治民はだれが一番だろうか」と言うと、周墀は「臣がかつて江西を守っていましたが、韋丹に大功があり、徳は八州におよび、没して四十年、老幼もこれを思って忘れません」と答えたから、そこで観察使の紇干臮に詔して韋丹の功績の記録を奏上させ、功績を碑文に刻むよう命じた。


  子の韋宙は、蔭位によって推薦されて河南府司録参軍に任じられ、李珏の上表によって河陽の幕下に入った。宣宗が宰相に向かって、「韋丹に子がいるのか」と尋ねると韋宙がいるとの返答があった。は「よい官職を与えよ」と言い、そこで侍御史を拝命し、三遷して度支郎中となった。

  盧鈞が太原節度使となると、上表して韋宙を副使とした。この時、回鶻が諸部を破り、塞下に侵入し、役人や民を殺奪した。盧鈞は信頼できる官吏に辺境を視察させたいと思い、韋宙は行くことを願った。定襄・鴈門・五原から、武州の塞を遮断し、雲中を攻略し、句注山を越え、あまねく酋豪と面会し、懇切に諭した。辺境の砦の守備兵を視察し、その俸給を増やした。役人に勝手に兵で諸戎を攻撃できないことと約諾し、違反者は死罪としたから、ここに三部六蕃の諸種はすべて信頼した。京師に召されて吏部郎中を拝命した。京師から出されて永州刺史となった。永州は不作になろうとしており、そこで官のもとで用いている物で、刺史に関する物を排斥すると、九十万銭以上を得て、兵糧を購入した。民間では法を知らず、多くの者が法に触れるから、韋宙は法令や農産のことを記して彼らの便宜をはかり、一戸ごとに給付した。永州は背後に嶺を抱き、兵糧の運送が困難で、飢饉のたびに、人々はたちまち飢え死にしたから、韋宙は始めて常平倉をつくり、穀物の羨余を収容して窮乏時に備えた。余剰な役人九百四十四人を罷免した。県では旧例で役人を置いて賦税を監視させたが、韋宙は民に自ら運ばせ、家十軒で互いに助け合い、先期を常とした。湘源県では零陵香を産出し、毎年献上したが、人々は苦しんだから、韋宙は奏上して止めさせた。民が貧しく牛がなく、そのため人力で耕作していたが、韋宙はそのために社を設置して、二十家ごとに毎月銭若干を徴収し、名声を得た者を探してまず牛を買い、これによって平均とし、しばらくすると、牛は乏しくなくなった。学官を採用し、役人の家柄の子弟十五人を採用してこれに充当した。それより以前、民間では結婚するときは、財産を出して客をまねき、「破酒」と号して昼夜集まり、多い時は数百人、貧しい者でも数十人にものぼった。財力がない者は夫人を迎えることができないから、正式に結婚せずに結ばれるようになった。韋宙は決まりごとを定めて礼にならわせたので、とうとう風俗が改まったのである。村中の少年は、いつも七月になって鼓をならし、群となって民家に押し入り、「行盗」と号し、皆は食事を置いて迎え、これを「起盆」と言い、後で精進落としとして、騒いで殴り合ったが、韋宙がやってくると、一切これを禁止した。

  遷任して大理少卿となった。しばらくして江西観察使を拝命し、政務は簡易で、南方はこれによって官職を世襲した。嶺南節度使に遷った。南詔が交趾を陥落させると、兵を整えて備えを増やし、これの働きによって有名となった。検校尚書左僕射・同中書門下平章事を加任された。咸通年間(860-874)に卒した。

  韋宙の弟の韋岫は、字は伯起で、同じく名声があった。韋宙が嶺南にいるとき、従姉妹を下級将校の劉謙の妻としたが、ある者が諌止すると、韋岫は、「わが子孫はあるいは彼に頼ることになるだろう」と言い、劉謙は後に功績によって封州刺史となり、二子を生み、それが劉隠・劉龔である。盧攜が進士に推挙されたが、非常に容貌が醜く、韋岫がただ一人盧攜は必ず大いに用いられると言っていた。盧攜が宰相になると、韋岫は泗州刺史から福建観察使に抜擢されたという。


  盧弘宣は、字は子章で、元和年間(806-820)、進士に及第した。鄭権が襄陽を治めると、幕府に辟署された。李愬が鄭権に代わると、また二人は心が通じ合った。盧弘宣がはしめて李愬に謁見すると、李愬は側近に謹んで敬うよう命じ、語り終わると、その深淵かつ穏やかさを見て、自然とさっぱりした。裴度が東都留守となると、上表によって判官となり、給事中に遷った。駙馬都尉の韋処仁が虢州刺史を拝命したが、盧弘宣は任じるべきところではないと言ったから、詔は戻されて任所に下されなかった。

  開成年間(836-840)、山南・江西で大洪水となり、盧弘宣と吏部郎中の崔瑨に詔して、ともに道を分けて賑給に向かわせ、使者としての指名を果たした。戻ると京兆尹・刑部侍郎に遷った。剣南東川節度使を拝命した。この当時、毎年飢饉となり、盗賊が集結し、酋長や豪族が自らを王とし、偽の官職を授け、米倉を暴き、亡命者を招き、蓬州・瀘州・嘉州・栄州の諸州が連合し、蛮族の集落を誘って動揺させ、無頼どもの根城や穴倉は盛んとなった。盧弘宣は檄文を発して脅しては諭し、賊の党類はしばらくして降り、強健で能力がある者を軍中に任じ、弱く無能な者は帰農させた。親分どもが谷中に逃げ込むと、役人が捕らえて誅殺した。義武軍節度使に遷った。盧弘宣の性格は寛大で度量がひろく、政務は簡便で、人々は頼って安心したが、罪を犯した者には容赦しなかった。河朔の旧法では、軍中で語りあうと死罪となったが、盧弘宣が始めてこの法を廃止した。それより以前、詔して義武軍に粟三十万斛を賜い、飛狐県に貯蓄し、盧弘宣は輸送費用を計算してみると貯蓄を満たすことができないことがわかり、役人に命じて守らせた。翌年春、大旱魃となり、民に自分たちで食料を取りに行くよう教え、当時、幽州・魏州の飢饉は大変なものであったが、ただ易州・定州は普段の通りであった。秋になると、貸し出していた食料をことごとく収容し、軍の食料は賑わった。工部尚書・秘書監を歴任し、太子少傅の職で致仕した。卒したとき年七十七歳で、尚書右僕射を追贈された。盧弘宣は患士人や庶民の家の祭に定まった儀がないことを心配し、そこで十二家の法をあわせ、その中正であるところを損益取捨し、編纂して書籍とした。

  子の盧告は、字は子有で、進士に及第し、給事中で終わった。


  薛元賞は、出身地・系譜が失われた。大和年間(827-835)初頭、司農少卿から、京師から出されて漢州刺史となった。当時、李徳裕が剣南西川節度使となり、ちょうどその時維州が降り、李徳裕はこれを受け入れて上聞したが、牛僧孺がその議を阻んで、捕らえて送還しようとした。薛元賞は上書して言葉を厳しくして維州を安撫すべきで、敵の腹部を攻撃して壊滅させることができるから失うべきではないと申し述べたが、受け入れられなかった。段文昌が李徳裕に代わると、薛元賞の統治が最良であるとの報告を行った。司農卿・京兆尹に遷った。京師から出されて武寧節度使となり、泗口(江蘇省淮安市西南)の煩雑な税を止め、人々はこれによって頼りとした。にわかに邠寧節度使に遷った。

  会昌年間(841-846)、李徳裕が宰相になると、再び京兆尹を拝命した。都市には無頼の少年が多く、入れ墨を肌に入れ、力を誇示し、街を脅し盗った。薛元賞は京兆府に到着して三日、悪少年を収容し、三十人以上の輩を杖殺し、市に並べると、他の党は恐れ、争うように火でその入れ墨を消した。薛元賞は役所の事務に通暁し、よく同時代の弊害について述べ、前件も申し上げた。禁軍は勢力をたのんで府県で騒擾したから、薛元賞はしばしば彼らと争い、少しも勝手させず、これによって軍の横暴は収まり、百姓は頼って安心した。検校吏部尚書を加職された。翌年、工部尚書に昇進し、諸道塩鉄転運使を領した。李徳裕は薛元賞の弟の薛元亀を用いて京兆少尹、知府事とした。宣宗が即位すると、李徳裕を罷免して、薛元亀を連座させて崖州司戸参軍に貶し、薛元賞は袁王傅に降格となった。しばらくして昭義軍節度使を拝命したが、卒した。


  何易于は、どこの人なのか昇進に到った理由もわからない。益昌県令となった。益昌県は利州から四十里も離れており、刺史の崔朴は春になるたびに賓客や部下とともに舟で益昌県の近くに出てきており、綱を曳かせる民を探すと、何易于は自ら舟を引いていたから、崔朴は驚いてその理由を尋ねると、何易于は、「春になると、百姓は耕作や養蚕に従事しており、ただ県令だけが従事しておりませんから、その労役に任じるべきなのです」と言ったから、崔朴は恥じて、賓客とともに足早に去っていった。塩鉄官が専売によって茶の利益を取っており、茶が産出される所ではあえて隠すことがないよう詔が下された。何易于は詔書を見て、「益昌県の人は茶を摘まなければ生きていくことができない。ましてや税金が重くて酷いことになっているというのに」と言い、役人に詔書をしまい込むように命じると、役人は「天子の詔をどうして拒まれるのですか。役員は死罪となるのに、公は逃げて免れることができるというのですか」と言ったから、「私はあえて我が身を愛して民に暴政をふるえようか。また君たち役人を罪にさせられようか」と答え、そこで自ら詔書を焼き捨てた。観察使はもとより何易于が賢人だと思い、弾劾しなかった。民が死んで葬式することができない者がいると、俸給を使って役人に命じて葬式の費用とさせた。老人を呼び寄せて座らせ、政治の得失について尋ねた。おしなべて民が訴えて法廷にあると、何易于は丁寧に是非を指し示して明らかにし、杖罰を実行するのに役人には任せず、獄は三年で囚人がいなくなった。賦役を催促するのに貧しい家に迫るのに忍びず、ある時は自らの俸給で税の代わりとした。食糧を送っての往来では、伝符のほかは一つとして進上することがなく、そのため優れた統治であるとされることがなかった。中の上の考によって、羅江県令に遷った。刺史の裴休がかつてその村を通りかかると、出迎える人が三人以上はおらず、心清く質素なのは思うにその性格なのであろう。


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最終更新:2025年08月03日 01:32
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