鳥羽・伏見の戦い(とば・ふしみのたたかい, 慶応4年1月3日-6日(1868年1月27日-30日))は、戊辰戦争の緒戦となった戦闘である。戦いは京都南郊の上鳥羽(京都市南区)、下鳥羽、竹田、伏見(京都市伏見区)で行われた。
慶応3(1867)年10月14日、徳川慶喜は大政奉還を建白した。これは薩長による武力倒幕を避け、徳川家の勢力を温存したまま、天皇の下での諸侯会議であらためて国家首班に就くという構想だったと見られている。 しかし諸国の大名が様子見をして上京しないまま諸侯会議は開かれず、また、旧幕府旗本や会津藩などの過激勢力は薩長討つべしと息巻き、旗本の中には無許可で上京してくるものも相次いだ。
これに対し、薩摩藩の大久保利通や公家の岩倉具視らの倒幕派は12月9日に王政復古の大号令を発し、前将軍・徳川慶喜に対し辞官納地を命じた。翌日、徳川家親族の新政府議定の松平春嶽と徳川慶勝が使者として慶喜のもとへ派遣され、この決定を慶喜に通告した。慶喜は謹んで受けながらも配下の気持ちが落ち着くまでは不可能という返答をおこなった。実際この通告を受けて配下の過激勢力が暴走しそうになったため、慶喜は彼らに軽挙妄動を慎むように命じつつ、12月12日深夜には政府に恭順の意思を示すために京都の二条城を出て、翌日、大坂城へ退去している。春嶽はこれを見て「天地に誓って」慶喜は辞官と納地を実行するだろうという見通しを総裁の有栖川宮熾仁親王に報告する。しかし大坂城に入ったあと慶喜からの連絡が途絶えた。
12月23日と24日にかけて政府においてこの件について会議が行われた。参与の大久保利通は慶喜の裏切りと主張し、ただちに「領地返上」を求めるべきだとしたが、春嶽は旧幕府内部の過激勢力が慶喜の妨害をしていると睨み、それでは説得が不可能として今は「徳川家の領地を取り調べ、政府の会議をもって確定する」という曖昧な命令にとどめるべきとした。岩倉も春嶽の考えに賛成し、他の政府メンバーもおおむねこれが現実的と判断したため、この命令が出されることに決した。再度松平春嶽と徳川慶勝が使者にたてられ慶喜に政府決定を通告し、慶喜もこれを受け入れた。近日中に慶喜が上京することも合意され、この時点まで、慶喜は復権に向けて着実に歩を進めていた。
しかし、薩摩藩が江戸市街で挑発的な破壊工作を行い、12月25日に庄内藩の江戸薩摩藩邸の焼討事件が起きる。28日にこの報が大阪に届くと、慶喜の周囲ではさらに「討薩」を望む声が高まった。慶応4(1868)年正月元旦、慶喜は討薩の表を発し、1月2日から3日にかけて「慶喜公上京の御先供」という名目で事実上京都封鎖を目的とした出兵を開始した。旧幕府軍主力の幕府歩兵隊は鳥羽街道を進み、会津藩、桑名藩の藩兵、新選組などは伏見市街へ進んだ。
慶喜出兵の報告を受けて政府に緊張が走り、3日(1月27日)から緊急会議が招集された。政府参与の大久保利通は旧幕府軍の入京は政府の崩壊であり、錦旗と徳川征討の布告が必要と主張したが、政府議定の松平春嶽は薩摩藩と旧幕府勢力の勝手な私闘であり政府は無関係を決め込むべきと反対を主張。会議は紛糾したが、政府議定岩倉具視が徳川征討に賛成したことで会議の大勢は決した。
淀の戦い
翌4日は前線では一進一退の戦闘が続いたが、4日に朝廷では仁和寺宮嘉彰親王に錦旗を与え、新政府軍が官軍となる。(岩倉具視・薩摩藩は錦旗となる旗を事前に作成しており、戦闘に際して朝廷にこれの使用許可を求めたことをもって「薩長は錦旗を偽造した」とする説もあるが、朝廷の許可の結果掲げられたものであり、偽造説は公正さを欠いている。)5日、旧幕府軍は慶喜の側近の一人で現職の老中でもあった稲葉正邦の淀藩を頼って、淀城に入り戦況の立て直しをはかろうとした。しかし淀藩は朝廷及び官軍と戦う意思がなく、4日朝までとは異なり城門を閉じ旧幕府軍の入城を拒んだ(ただし、藩主である老中稲葉正邦は当時江戸に滞在しており、藩主抜きでの決定であった)。入城を拒絶された旧幕府軍は同日淀千両松に布陣し新政府軍を迎撃したが惨敗し、淀城下町に放火を行い、八幡・山崎へ撤退する。この戦闘の最中、新選組結成時からの主要幹部隊士の一人であった井上源三郎が戦死する。
橋本の戦い
6日、幕府軍は石清水八幡宮の鎮座する男山の東西に分かれて布陣した。西側の橋本は遊郭のある宿場で、そこには土方歳三率いる新撰組の主力などを擁する幕府軍の本隊が陣を張った。東に男山、西に淀川を控えた橋本では、地の利は迎え撃つ旧幕府軍にあった。
しかし、対岸の大山崎を守備していた津藩が朝廷に従い、旧幕府軍へ砲撃を加えた。思いもかけない西側からの砲撃を受けた旧幕府軍は戦意を失って総崩れとなり、淀川を下って大坂へと逃れた。この戦いで、京都見廻組の長であった佐々木只三郎が重傷(のち死亡)、新撰組諸士調役兼監察山崎烝が重傷(後紀州湾沖にて死亡)、同吉村貫一郎が行方不明となった。
最終更新:2010年08月17日 16:59