日本国(にっぽんこく、にほんこく)、または日本は、日本列島及び周辺の島々を領土とする国家である。
「日本国」という国号は、日本列島が中国や朝鮮半島から見て東側、つまり「日の本(ひのもと)」に位置することに由来していると考えられる。憲法の表題に「日本国憲法」や「大日本帝国憲法」と示されているが、国号を「日本国」と直接かつ明確に規定した法令は、存在しない。
日本の由来
「日本」という国号の成立時期は、7世紀後半から8世紀初頭までの間と考えられる。この頃の東アジアは、618年に成立した唐が勢力を拡大し、周辺諸国に強い影響を及ぼしていた。倭国も、従来の遣隋使を改めた遣唐使を送り、唐との外交関係を深めていた。朝鮮半島では、唐との連携を強めた新羅が急伸し、663年に唐・新羅連合軍と百済・倭国連合軍との間で起きた白村江の戦いに敗れた百済が滅亡したのを受けた倭国は、統治や防衛の整備を推進した。その後、672年の壬申の乱を経て強い権力を握った天武天皇は、天皇を中心とする体制の構築を更に進めた。そして、689年の飛鳥浄御原令から701年(大宝元年)の大宝律令へと至る。
このような情勢の中で成立した「日本」号だが、具体的な成立の時点は、史料によって特定されていない。ただ、それを推定する見解は、二説に絞られる。まず一説は、天武天皇の治世(672年 - 686年)に成立したとする説である。これは、この治世に成立したと解される「天皇」号と同時期に「日本」号も成立したとする見解である。例えば吉田孝は、689年の飛鳥浄御原令で「天皇」号と「日本」号と両方が定められたと推測する。もう一説は、701年(大宝元年)の大宝律令の成立の前後に「日本」号が成立したとする説である。例えば神野志隆光は、大宝令公式令詔書式で「日本」号が定められたとしている。『日本書紀』の大化元年(645年)七月条には、高句麗・百済からの使者への詔に「明神御宇日本天皇」とあるが、今日これは、後に定められた大宝律令公式令を元に、『日本書紀』(720年(養老4年)成立)の編者が潤色を加えたものと考えられている。
8世紀前半の唐で成立した『唐暦』には、702年(大宝2年)に「日本国」からの遣使(遣唐使)があったと記されている。後代に成立した『旧唐書』、『新唐書』にも、この時の遣唐使によって「日本」という新国号が唐(武則天、大周)へ伝えられたとの記述がある。両書とも「日の出の地に近いことが国号の由来である」とし、国号の変更理由についても「雅でない倭国の名を嫌ったからだ」としている。国号の変更の事情について、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」とするのに対し、『新唐書』が「倭が日本を併合し、国号を奪った」としている。いずれにせよ、これらの記述により、702年に「日本」国号が唐によって承認されたことが確認できる。これまでに発見されている「日本」国号が記された最古の実物史料は、開元22年(734年、日本:天平6年)銘の井真成墓誌である。
『旧唐書』・『新唐書』が記すように、「日本」国号は、日本列島を東方に見る国、つまり中国大陸からの視点に立った呼称である。平安時代初期に成立した『弘仁私記』序にて、日本国が中国に対して「日の本」、つまり東方に所在することが日本の由来であると説明され、平安時代に数度に渡って行なわれた日本書紀の講読の様子を記す『日本書紀私記』諸本においても中国の視点により名付けられたとする説が採られている。
『隋書』東夷伝に、倭王が隋皇帝への国書に「日出ずる処の天子」と自称したとあり、このときの「日出ずる処」という語句が「日本」国号の淵源となったとする主張もある。しかし、「日出ずる処」について、仏典『大智度論』に東方の別表現である旨の記述があるため、現在、単に文飾に過ぎず、「日本」国号の成立と無関係と考えられている。
歴史
通常、日本の歴史は、日本列島における歴史と同一視される。が、厳密な「日本」の成立は、国号にあるように西暦700年前後であり、「日本の歴史」と「日本列島の歴史」とを明確に区別して捉えるべきとする考えも示されている。
時代の区分は、考古学上のものと歴史学上のものとがある。考古学上は、旧石器時代(先土器時代)、縄文時代、弥生時代、古墳時代、歴史時代、とするのが一般的である。一方、歴史学上は、古代(飛鳥時代まで・奈良時代・平安時代)、中世(鎌倉時代・室町時代・戦国時代)、近世(安土桃山時代・江戸時代)、近代(明治・大正・昭和以降)の四分法が通説である。
日本列島における人類の歴史は、次第に人が住み始めた約10万年前以前ないし約3万年前に始まったとされる。当時の日本列島は、アジア大陸と陸続きで、西方の華北や北方のシベリアとの文化交流も見られた。約1万2千年前の前後に最終氷期が終わると、大陸から分離した。この後も列島と大陸との間に活発な通交・交流が行なわれ、巨視的には、日本列島も中国を中心とする東アジア文化圏の影響下にあった。が、東アジアの最東方に所在する島国、という地理的条件により、他の東アジア地域と異質な要素を持つ独自の文化・社会・政治体制を発達させた。
紀元前8世紀頃以降、大陸から稲作を中心とする文化様式が伝わると、各地に「ムラ」「クニ」と呼ばれる政治組織が徐々に形成され、1世紀・2世紀前後に各クニの連合による倭国と呼ばれる大規模な政治組織が出現した。この連合的政治組織は、3世紀・4世紀頃に統一王権(ヤマト王権)へと発展する。663年に百済復興のために援軍を送るが白村江の戦いで唐に敗れて朝鮮への影響力を失う。7世紀後半に中国の法体系・社会制度を急速に摂取し、8世紀初頭に古代国家(律令国家)としての完成を見た。「日本」国号、「天皇」号は、この古代国家の建設・成立と軌を一にして登場したと考えられ、国家としての日本の成立も、この7世紀後半から8世紀初頭にかけての時期であると言える。当時の日本は、隋との通交以来、中国と対等な外交関係を結ぼうとする姿勢を見せ、中国を中心とする冊封体制からの独立を志向した。これは、他の東アジア諸国と異質な外交姿勢であり、その後の日本にも多かれ少なかれ引き継がれたが、室町時代から戦国時代にかけて明王朝に対して朝貢が行なわれ、足利将軍家が日本国王に封じられている。このことから、東アジアの広域な政治・経済的な状況により、冊封体制を受け入れる柔軟性や多様性も認められる。
その後、東アジアの中でも独特の国際的な地位を保持し続け、7世紀に中華王朝に対して独自の「天子」を称し、13世紀の元寇、16世紀のヨーロッパのアジア進出、19世紀の欧米列強の進出など、様々な事態にも対応して独立を維持した。
成立当時の日本の支配地域は、日本列島の全域に及ぶものでなく、九州南部以南および東北中部以北は、まだ領域外だった。九州南部は、8世紀末に組み込まれた(隼人)が、抵抗の強かった東北地方の全域が領域に組み込まれたのは、鎌倉時代に入ってからである(蝦夷)。特に8・9世紀は、蝦夷の征服活動が活発化すると共に新羅遠征も計画されるなど帝国としての対外志向が強まった時期だが、10世紀に入り、こうした動きも沈静化した。
10世紀から12世紀に掛け、旧来の天皇を中心とする古代の律令国家体制が大きく変質し、社会各階層への分権化が進んだ王朝国家体制、更に中世国家へと移行した(荘園公領制・職の体系)。12世紀頃(平安末期)から起請文などの古文書に「日本」や「日本国」の表記が見られ始め、社会に「日本」や「日本人」の意識が生まれたことの表れと考えられる。特に13世紀後半の元寇は、「日本」・「日本人」の意識が社会各層に広く浸透する契機となり、併せて「神国」観念を定着させた。網野善彦は、このような「日本」・「日本人」意識は、外国のみならず神仏などをも含む「異界」に対する関係性の中で醸成されたとしている。室町時代には、「日本」の領域が北海道の南部まで及んだ。
14世紀から15世紀までの時期には、社会の中世的な分権化が一層進展したが、15世紀後半頃から戦国大名勢力による地域国家の形成が急速に進んだ。この地域国家の形成は、中世社会の再統合へと繋がり、16世紀末に日本の統一政権が樹立されるに至り、近世へと移行した。日本の領域は、この時期にも変動している。16世紀末に蠣崎氏が北海道の南部に本拠を置き、北海道・千島・樺太を含む蝦夷地の支配権を得た。蝦夷地は、日本の領域とされることもあれば、領域外とされることもある、言わば「境界」とも言うべき地域だったが、17世紀にシャクシャインの戦いやロシア帝国の進出によって北方への関心が強まると、アイヌ及びロシアへの他者意識が「日本」・「日本人」観となって庶民層にまで定着し、日本の領域も「蝦夷が島」(北海道)以南と意識されるようになった。南方に目を向けると、中世を通じて鬼界島・硫黄島までが西の境界と意識された。17世紀初めに薩摩島津氏が琉球王国を侵攻して支配下に収めたが、その後も琉球王国は、日本・中国への両属を続けた。
19世紀中葉に入り、欧米列強との接触が飛躍的に増えると、列強各国に対する他者意識の裏返しとしての「日本」・「日本人」意識が更に強まり、ほぼ現代の「日本」・「日本人」意識と一致するまでに至った。アジア各国が欧米列強の植民地とされる中で日本が独立を長く保ったことは、国民国家意識の醸成をもたらし、結果として明治維新以降の近代国家建設の基礎となった。
明治維新に伴う近代化により、近代的な国民国家の建設を急速に進めた。同時に近隣国と国境の確定を行い、1875年(明治8年)に樺太を放棄する代わりに占守島以南の千島列島全域を日本領とし(樺太・千島交換条約)、また、琉球処分を通じて南西諸島方面の実効的な支配に成功し、ここに一旦、近代国家としての日本国の領域が確定した。
自由民権運動を経て1885年(明治18年)に内閣制度を確立し、1889年(明治22年)に大日本帝国憲法を制定し、1890年(明治23年)に第1回衆議院議員総選挙を実施して帝国議会を設置した。こうして、アジアで初めて憲法と議会とを持つ、近代的な立憲国家となった。
19世紀後半から20世紀初頭の帝国主義的な国際情勢の中で、東アジアに一定の勢力圏を築く必要に迫られ、日清戦争や日露戦争を経て勢力圏の確保を進めた。両戦争を通じ、台湾・澎湖諸島および南樺太を領土に収め、関東州の租借権を獲得した。その後、1910年(明治43年)に韓国併合が実施された。1919年(大正8年)にパリ講和会議で人種差別撤廃案を提出した(アメリカ合衆国などが反対)。また、発足した国際連盟からの委任を受けて南洋群島を統治することとなった。大正時代に大正デモクラシーが起こり、政党政治や普通選挙が実現した。
1930年代に満洲への進出を強め、満洲国を建国して一定の支配権を得るに至り、軍部が台頭した。こうした対外志向は、特にアメリカ合衆国を始めとする欧米諸国の権益と真っ向から衝突し、最終的に1945年(昭和20年)の太平洋戦争(大東亜戦争)の敗北によって破局に至った。
そして、イギリスやアメリカなどの連合国により、史上初めて占領下に置かれ、日清戦争以降に獲得した領有権・統治権の総てを失った。占領下に国制の改革が進められ、憲法改正を行って日本国憲法を制定した。1952年(昭和27年)の平和条約によって主権を回復し、戦後、復興と共に1970年代半ばまでに目覚しい経済発展を遂げ(高度経済成長#日本の高度経済成長)、世界有数の経済大国となった。また、1952年(昭和27年)から1953年(昭和28年)にかけてトカラ列島や奄美群島、1968年(昭和43年)に小笠原諸島、1972年(昭和47年)に沖縄県の施政権が、それぞれアメリカから返還された(本土復帰、沖縄返還)。
1970年代後半以降、先進国の一員として数々の国際的役割を果たし、多くの発展途上国で成長モデルとして目標にされた。21世紀に至り、高齢化社会に伴う人口減少、経済のグローバリゼーションへの対応など、数多くの課題に直面している。
人口
- 127,767,994人(国勢調査 2005年〔平成17年〕10月1日)
- 約127,724,000人(総務省統計局「人口推計月報」2007年〔平成19年〕3月1日確定値[37])
- 127,433,494人 (CIAワールドファクトブック、2007年7月-)
- 約128,100,000人(2007年〔平成19年〕6月現在)
- 127,066,178(総務省による住民基本台帳に基づく人口の調査 2008年7月31日)
- 日本国籍を持つ者の割合:98.9%(2003年〔平成15年〕8月現在)
最終更新:2010年08月21日 14:32