アットウィキロゴ

右翼手(ライト)

登録日:2026/01/12 Tue 10:50:00
更新日:2026/07/10 Fri 15:10:05
所要時間:約 10 分で読めます



右翼手とは、野球やソフトボールにおいて、本塁から見て右側を主な守備位置とする外野手。



【概要】

野球において、3人いる外野手のうち、ホームから見て右側を守るポジション。
守備位置番号は「9」番。英語表記は「right-fielder」で略称は「RF」。
中堅手の隣、一塁手二塁手の後方を主な守備範囲とする。


【主な役割】

一番重要なのは、ライトのファウルゾーンからセンターまでの打球を処理する事。

右利きと左利きの比率は9:1と言われており、ゆえに一般的なプレイ環境では圧倒的に右打者の方が多く、結果として打球はライトよりレフト方向に飛ぶことが多くなる。
特にアマチュア野球や少年野球では右打者が意図的に流し打ちするということ自体が極めて稀であるため、ライトよりレフトに守備の得意な選手を置く傾向がある。
このような背景から、草野球などでは「打てない・走れない・守れない」の逆三拍子が揃った選手を、攻撃・守備におけるとりあえずの配置先から『8番・ライト(ライパチ)』*1という俗称で呼ぶ慣習が存在するなど、ポジション自体に悪印象を抱く人も多い。
中学野球以下では、選手として成り立つ見込みのない部員、それこそ実戦で狙い撃ちされると試合が進まないレベルの守備力の部員に守備練習をさせる場合、とりあえずライトに立たせることが殆どである。

一方、高校野球以上のレベルになると、上記傾向とは逆に右打者の流し打ちや左打者の強打など、ライト方向にも多くの打球が飛ぶ。
打球が長打コースに飛べば得点に繋がりやすくなるため、重要度がレフト側と逆転し、守備能力の高い選手が配置されるようになってくる。
右の好打者・左のスラッガーが居並ぶプロ野球ともなれば、イチローのような俊足で強肩、チームでトップクラスの守備能力を持つ外野手が配置されることも多い。
中継を挟まない「レーザービーム送球」による走者の補殺は野球におけるハイライトのひとつであり、外野における花形ポジションと見なされる機会も増えている。

第二に、相手の得点機の抑止力となる事。
野球はそのルール上、基本的に「左回り」のスポーツである。
具体的には、打撃を行った後の打者はバッターボックスから一塁ベース→二塁ベース→三塁ベース→ホームベースと左回りに進む。
打球がライト方向に飛んだ場合、三塁ベースまでの距離がレフト側やセンター側に比べて長くなり、三塁打が成立する可能性が大きくなる。
これをライトが阻止出来ると出来ないでは、相手走者が「ワンヒットないし犠牲フライ・内野ゴロ・暴投などで容易く1点を与えてしまう三塁」/「守備側のエラーがない限り走者が生還するには最低でもシングルヒットが必要になる二塁」のどちらにいるかが変わり、失点のリスクが格段に違ってくる。

第三に、一塁手のカバーが重要となる。
全ての打者は打撃を行うと一塁に向かうことになり、また守備側はアウトを取るために捕球したボールを一塁に送球することが多い。この際もし送球が悪送球となり一塁手が捕球できなければボールが転々として、走者に余計な進塁を許すことになる。
この状況に備えて、一塁に最も近い外野手である右翼手がカバーに入ることが多い。


【ポジションとしての特徴】

外野手全般「打球に関する勘」が必要不可欠だが、特に右翼手はポジションが左翼手や中堅手以上に三塁ベースから離れていることから、早くボールに辿り着けるような広い守備範囲が要求される。
センターほど極まったレベルではないものの、瞬時に打球に追いつくことができる脚力は必要である。
なにより重要なのは肩の強さで、素早い送球でランナーの進塁を阻止することが求められる。
こうした事情から、アマチュアでは登板していない投手・一旦マウンドを降りた投手が一時的に務めることもよくみられる。
同じ理由で、捕手・遊撃手といった肩の強さを求められるポジションからコンバートされるケースも多い。

また、上でカバーリングについても触れた通り、右翼手のポジションには先のプレーを予想して動く能力も必要となる。
状況の想定だけでなく、両翼に飛ぶ打球は上空の風の影響を受けたりドライブやスライスがかかっていたりするケースも多くあるため、そういった「癖球」を処理してきた経験値なども求められる。

なお、二塁や三塁といった「自分より右側」にボールを投げる機会が多くなることから、左利きが有利とされるポジションのひとつ(逆に言えば、左翼手は右利きが有利)でもあった。
とはいえ、有利といっても選手の技量と肩の強さで補える程度の話に過ぎず、一塁手以外の内野手や捕手のようにアウト成立の可否に直結するほどの影響はないうえ、そもそも左利きで肩が強ければほぼほぼ投手を務めさせられるため、現在は右翼手・左翼手の振り分けに利き腕が考慮されることは殆どない。

少年野球や草野球などのレベルの低い(守備負担が軽い)段階では一塁ベースカバーが一番の仕事と言っても過言ではなく、走るのを苦としない者に向いている。
逆に、貧乏くじ的に右翼手を守らされた野球少年が右翼手を守るのが嫌になって小学校限りで野球をやめてしまうこともよくある。

打者の傾向としては走攻守の三拍子が揃ったリードオフマンタイプ、強肩強打が売りのクリーンナップタイプ、打力の期待値が低い所謂守備の人まで様々であり、どの打順に入っても比較的違和感の少ないポジションとも言える。


【主な実際選手】

(五十音順で表記)

《現役選手》


  • 上林誠知
中日ドラゴンズ所属。
2013年ドラフト4位でソフトバンクに入団。
50m走で最速6秒0、遠投105mの身体能力を持つ。反面、全力プレーから来る反動で怪我が絶えず、ソフトバンク在籍10年間で規定打席到達は2回。2022年には右アキレス腱断裂の重傷を負う事もあった。
入団当初は三塁を守る事があったが、基本的には中堅手・右翼手を務める。
2023年オフに成績不振から自由契約となり、その後、中日に入団。
2025年に2番・右翼手の定位置を掴み取り、チーム最多の99試合に先発出場。134試合出場、打率.270、17本塁打、52打点、27盗塁、出塁率.303、OPS.707と7年ぶりに規定打席到達を達成。ライトの2番手は細川成也の27試合。

  • 蝦名達夫
横浜DeNAベイスターズ所属。
2019年ドラフト6位で入団。
50m走で最速6秒0、遠投120mの身体能力を持つ。
首脳陣に期待されながらも怪我や病気で中々結果を残せないなど、モヤモヤさせる野球人生を過ごして来た。
だが2025年に継続的な出場機会を掴むと、規定打席には42足りなかったものの115試合出場、打率も.284を記録し一軍定着、今後更なるブレイクを狙う。
この年はライトでチーム最多の75試合に先発出場。2番手は度会隆輝の54試合。

  • 太田賢吾
東京ヤクルトスワローズ所属。
2014年ドラフト8位で北海道日本ハムファイターズに入団。
50m走で最速6秒1、遠投110mの身体能力を持つ。
日ハム時代は内野手。2018年オフにトレードでヤクルトに移籍後、2022年から外野手を兼任する様になり、2023年から外野手一本に。
2025年はライトでチーム最多の28試合に先発出場したが、オフに戦力外通告を受け引退。この年のヤクルトはライトの人材難でライトの2番手は濱田太貴と澤井廉が19試合。その次は増田珠と内山壮真の18試合。また2番手の一人である濱田は現役ドラフトで阪神に移籍している。

  • トレイ・キャベッジ
東京読売ジャイアンツ所属。
かつては大谷翔平在籍時のロサンゼルス・エンゼルスで「期待の若手」として注目を集めていた。2024年オフに巨人に入団。
攻撃的な2番打者、もしくは岡本和真不在時に4番打者を務めた。
守備面はライトでチーム最多の58試合、レフトで32試合、センターで19試合に先発出場と外野のオールラウンダーとして活躍。
規定打席に到達、123試合出場、打率.267、17本塁打、50打点、5盗塁、出塁率.331、OPS.781を記録し、来シーズンもチームに残留することが報じられた。
ライトの2番手は丸佳浩の44試合。

  • 末包昇大
広島東洋カープ所属。
2021年ドラフト6位で入団。
50mで6秒2の走力、遠投100mの身体能力を持つ。
高校時代は内野手で一塁、三塁を守り、大学時代に右翼手に転向、社会人野球で才能を開花させ、広島に入団した遅咲きの花。
順調に出場試合数を増やして行き、2025年にはライトでチーム最多の108試合に先発出場。
規定打席に到達、123試合出場、打率.243、11本塁打、62打点、2盗塁、出塁率.296、OPS.669を記録した。
ライトの2番手は中村奨成の12試合。

  • 杉本裕太郎
オリックス・バファローズ所属。
50mで6秒0の走力、遠投115mの身体能力を持つ。
ラオウ」の愛称で知られ、ホームランを打った際もベンチ前で「昇天ポーズ」のパフォーマンスをする。
高校時代は4番・投手。大学時代に外野手に転向して結果を残し、社会人野球でも結果を出してオリックスに2015年ドラフト10位で入団。
ただ2019年までは首脳陣と野球観が合わなかったこともあり結果を残せず、一軍と二軍を往復するエレベーター選手であった。
しかし2020年途中で、二軍監督であり自身を指導してくれていた中嶋聡が一軍監督代行となると「一緒に行くぞ」と声をかけられて杉本も一軍へ抜擢、これを足掛かりとして翌年大ブレイク。
四番・右翼手の定位置を掴み取り、規定打席に到達。打率を3割に乗せ、32本塁打で本塁打王のタイトルを獲得。守備面でもライトでチーム最多の126試合に先発出場、リーグ最多補殺の11を記録するなど、攻守に渡り活躍しチームのリーグ優勝に貢献した。
その後は他球団からマークされたり怪我に見舞われたりするなど波に乗り切れていなかったが、2025年は4年ぶりに規定打席に到達し、ライトでチーム最多の87試合に先発出場し復活をアピールしている。
ライトの2番手は中川圭太の30試合。

  • 鈴木誠也
シカゴ・カブス所属。
2012年ドラフト2位で広島東洋カープに入団。
東京私立二松学舎大付属高校時代はエースで中軸を任されて、速球の最速が148km/hを記録。打者として高校通算43本塁打を記録。50mで5秒8の走力、遠投120mの身体能力を持つ。
プロ入り後、内野手、外野手と転向。
2015年に頭角を現し、2016〜2021年まで6年連続規定打席到達、首位打者を2度、最高OPSを3度などの実績を残している。またゴールデングラブ賞を5回受賞するなど守備能力も高く、最多補殺を3度記録している。
2022年3月にポスティングシステムでMLBに移籍、シカゴ・カブスに入団。右翼手で106試合に出場するも、規定打席には届かず。
2023年は右翼手で138試合に出場とレギュラーに定着し、MLB初の規定打席到達。
翌2024年も右翼の定位置を務めたが、2025年は強打者であるカイル・タッカーの加入により主にDHを務めた*2
1年目終了後の取材で「メジャーは舐められたらオシマイ。こっちもヤツら=メジャーリーガーを叩きのめす感覚で全てを準備する必要がある(意訳)」と答え、「ベスト体重でレギュラーシーズン開幕に挑んだら終了後までに体重が5kg落ちて、最後まで体重が戻らなかった。相手投手の速球に力負けして、バットが振れなかった(意訳)」と体調管理の難しさを話していた。

  • 中島大輔
東北楽天ゴールデンイーグルス所属。
2023年ドラフト6位で入団。
持ち味の50m5秒96を活かした一塁到達タイム3秒6の俊足はソフトバンク・周東やチームメイトの辰己を上回る。
2025年にブレイク。ライトでチーム最多の62試合に先発出場。レフトで27試合、センターで20試合に先発出場と外野のオールラウンダーとして活躍し、規定打席に到達。
ライトの2番手は小郷裕哉の41試合。

  • 中山礼都(らいと)
東京読売ジャイアンツ所属。
2020年ドラフト3位で高卒入団。同年中日ドラフト1位の高橋宏斗とは親友。
その名の礼都には『右翼手(ライト)にはいい選手がいる』とイチローや高橋由伸のような選手になるようにという願いが込められて名付けられた。
中京大中京高校3年時代の公式三振数0という選球眼とミート力の高さと広角に打ち分けるバッティングが持ち味。
元々は遊撃手を始めとした内野全般を守備位置としたが、2025年より出場機会を増やすためシーズン後半から本格的に外野挑戦。阿部監督からの「うちの外野手の中で一番守備範囲が広いデータも出ている」との言葉通り、最終的には自己最多の103試合出場でレフト20試合ライト28試合先発の中でリーグトップタイの6補殺を記録(上述のキャベッジは3)、翌年から外野手へと正式に登録変更。
礼都(らいと)右翼手(ライト)を守るという布陣がネタではなく本格的に検討される状況となってきている。

  • 長谷川信哉
埼玉西武ライオンズ所属。
2020年育成ドラフト2位で入団。
2022年7月2日に支配下契約。
50m走5秒8の俊足を持ち、プロ入り後、守備は複数の内野(二塁、三塁、遊撃)と外野(中堅、右翼)のポジションをこなすユーティリティープレイヤー。
2025年、ライトでチーム最多の93試合に先発出場し、リーグ最下位ながら規定打席に到達。
この人は過去に未成年飲酒、喫煙、ネットナンパが文春砲の直撃を受けて炎上、オンラインカジノにも手を出して書類送検されるなど、プレー以外の部分で悪目立ちするのが玉にキズ。楽天・辰己の同類かも知れない。
ライトの2番手はカジノ仲間・外崎修汰の30試合。

  • 万波中正
北海道日本ハムファイターズ所属。
2018年ドラフト4位で入団。
父親がコンゴ人、母親が日本人のハーフ。
50mで6秒2の走力、遠投110mの身体能力を持つ。
2022年に出場試合が増え、2023年にブレイク。ライトの定位置を掴み取りチーム最多の113試合に先発出場、規定打席に到達。翌年もライトでレギュラー出場し、前年から2年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。
2025年はライトの先発出場がチーム最多ながら92試合と減り、センターでも16試合で先発出場している。ライトの2番手は水谷瞬の26試合。
何といっても最大の武器は強肩を活かしたレーザービーム返球。周東佑京をはじめとした俊足選手たちを幾度となくその餌食にしており、その圧巻さからXに投稿されたプレー動画が英語圏で紹介されてバズったこともある。
また打撃でもブレイク以降毎年二桁本塁打を達成するなどパワーを見せつけているほか、脚の速さからリーグ最多二塁打も記録している。

  • 森下翔太
阪神タイガース所属。
2022年ドラフト1位で入団。
50mで6秒1の走力、遠投100mの身体能力を持つ。
1年目はプロの壁に苦しめられたが、2年目にこれを克服し、2年連続規定打席到達を果たす。打撃成績が前任の背番号1とカブるのは気のせいだろうか…
ライトで113試合に先発出場を果たす。
ライトの2番手は佐藤輝明の26試合。

  • 柳町達(やなぎまちたつる)
福岡ソフトバンクホークス所属。
2019年ドラフト5位で入団。
50mで6秒2の走力、遠投120mの身体能力を持つ。
2022年から頭角を現し、外野のレギュラー格として出場するも、怪我、体調不良、選手枠の都合などで中々、波に乗り切れていなかったが、2025年は初の規定打席に到達し、リーグ2位の打率.292を記録し、リーグ最多の62四球、初タイトルとなる最高出塁率賞を獲得した。
守備率.991で補殺は外野手リーグ2位の8、レフトで72試合、ライトで47試合に先発出場、試合途中で入れ替わることもあり、大西崇之外野守備走塁兼作戦コーチは「左翼でも右翼でも安定していた。チームにとってはすごくありがたい存在だし、安心感があった」と高く評価した。
ライトの2番手は佐藤直樹の31試合。

  • 山本大斗
千葉ロッテマリーンズ所属。
2020年育成ドラフト3位で入団。
2022年7月30日に支配下契約。
しばらくプロの壁にはね返されていたが、2025年に出場機会を掴み、規定打席に26足りないものの、107試合出場、417打席に達し、打率は.205、11本塁打を記録し、ライトでチーム最多の75試合に先発出場。ライトの2番手は藤原恭大の49試合。因みに藤原はセンターの先発出場も48試合でチーム2位である。


《OB選手(NPB経験者)》

  • 礒部公一
1996年、ドラフト3位で近鉄に捕手として入団。右投げ左打ち。
当時深刻な左打者不足だったというチーム事情により外野手として試合に出場するようになる。
2000年に梨田監督が就任した当初は捕手に戻されるがスローイングに致命的な欠点が露呈したため、以後は外野手専任となった。すると、打撃面が一気に開花し「いてまえ打線」の中軸を担うまでとなる。一方で併殺に倒れる場面も多く、なんJでは「ISOBE」が併殺打の代名詞となっていた程。
2004年のプロ野球再編問題では、近鉄球団最後の選手会長として労使交渉に奔走。楽天に移籍した2005年には初代選手会長およびキャプテンに就任。本拠地第一号ホームランを放つなど活躍し「ミスターイーグルス」と呼ばれた。ただし、自身の減俸やチームの弱さに不満を募らせFA宣言しようとした事も…。
2009年に戦力外通告を受け引退。引退後はコーチ業を経て、野球解説者となっている。

オリックスの他、MLBでもシアトル・マリナーズを始め数球団でプレー。
俊足巧打と卓越した守備力を持ち、MLBシーズン最多安打記録・日米通算最多安打記録保持者
2025年にアジア出身選手としては史上初のMLB野球殿堂入りを果たした、平成を代表する野球選手。
2026年現在はマリナーズ球団会長付特別補佐兼インストラクターの役職に就く。
詳細はリンク先を参照。

日本ハム→オリックス→阪神でプレー。
投手から外野手に転向し、球界屈指の肉体で走攻守に躍動した「超人」……かつ、常人の理解を超える天然っぷりで数々の伝説を残した「宇宙人」。
詳細は項目を参照。

  • 稲葉篤紀
ヤクルトや日ハムで活躍した外野手。
野村克也が明治大学に在籍する息子の試合を観戦した際、対戦相手の法政大学にて良いプレーを見せていた稲葉に目を付け、1994年のドラフト3位で指名した。ドラフト同期に宮本慎也がいる。
ヤクルト時代は在籍10年で規定打席到達が5回。2005年にFAでMLBに移籍しようとしたが、条件が噛み合わなかった為、日ハムに移籍。
日ハム時代は経験豊富なベテランとしてチームを引っ張り、在籍10年で規定打席到達が7回。
所属時後半は一塁手として起用され、史上2人目の「外野手と内野手の両方のポジションでゴールデングラブ賞を受賞した選手」となる。*3
チャンスの場面で彼が打席に立つ際に、観客席のファンが飛び跳ねて応援する「稲葉ジャンプ」は札幌ドームの名物であり、中継だとテレビカメラが揺れる様子から現地の熱狂が伝わってきた。
2014年に現役引退後、野球日本代表の打撃コーチを務めながら、解説者や野球振興の為に地方公演を行う。
2017年からは野球日本代表の監督に就任。2019年の「プレミア12」や2021年の「東京五輪」で優勝を果たす。
2021年10月から日ハムに復帰しGM、2024年からは2軍監督に就任している。
同じ右翼手のイチローと出身地が近く、学生のころ同じバッティングセンターで練習していたという逸話がある。

1990年〜2009年までの20年間、中日一筋で活躍した外野手。
愛称は『ピンキー『イケメン』
入団時は投手であったが、プロ4年目の1993年に外野手に転向しレギュラー、スーパーサブとしてチームに長く貢献した。
2025年からは中日の監督に就任。
詳細は項目を参照。

  • 上田佳範
1991年ドラフト1位で日本ハムに入団し、その後中日に移籍。
高校時代は投手として甲子園に出場、愛工大名電の鈴木一朗と対戦し無安打に抑えたり、星稜の松井秀喜からは「野球人生で初めて壁を感じて大きな影響を受けたのが上田さんとの対戦だった」と述懐するほどの花形投手だった。
外野手転向後は打撃で伸び悩むも、強肩と守備範囲の広さでイチローに匹敵するほどの高い守備力を発揮した。
2006年中日移籍後は日ハムで2年一緒にプレーした落合監督の下、「守備の上田」「打力の井上一樹」「新人・強肩の藤井淳志」でライトのレギュラー争いをすることになる(この時、福留孝介はセンターにコンバート)。
2008年に引退。

ヤクルトで活躍していた助っ人外野手。被四死球の多さやその打球が怪奇現象じみた相手のミスを誘う様が印象深い、人呼んで「魔将ガイエル」。
詳細はリンク先を参照。

  • 梶谷隆幸
横浜・DeNA→巨人所属。
内野手として2006年ドラフト3位でプロ入り。
チームのオーナーがDeNAになった2012年から機動力を買われ主に遊撃手として一軍で起用されるも、当初は打撃不振やベースカバー失念などのボーンヘッドの多さで逆風を浴びる。
だが2013年途中から打撃開眼し月間8本塁打を記録するなどブレイクすると、外野手登録となった翌2014年からレギュラーに定着。
三振覚悟の豪快なスイングから放たれるラインドライブ性の鋭い打球と盗塁王獲得経験もある俊足を武器に中心選手として活躍。チーム史上初のCS進出となった2016年のポストシーズンでは死球で左手薬指を骨折しながらも、痛み止めの服用・指への添え木・グラブに穴を開けるといった応急処置のみを行い試合に出場し続けた。
外野手となってからは守備も優秀だったが、ある時期から右肩の故障を抱えたままプレーしており送球はやや心許なかった。
2020年シーズンオフにFA宣言し巨人に移籍したが、この時期から肩以外の故障も頻発するようになってしまう。一時期は育成選手となるなど試合に出場すること自体が難しい時期が続き、最終的には2024年オフに引退。高い身体能力を持っていたが怪我に苦しんだ点が惜しまれる。
またそれだけでなく元々痩せやすい体質で本人も1日7食するなど改善に努めていたが、それでもDeNA時代のあるシーズンはベストで93kg→シーズン終了時78kgになってしまったほど。開幕時にフィットしていたユニフォームが夏場になるとブカブカになっているのがお馴染みの光景だった。

  • 門田博光
南海〜オリックス〜ダイエーで23年間・44歳までプレー。
通算567本塁打(歴代3位)、2566安打(4位)、1678打点(3位)と、日本プロ野球史にその名を刻むレジェンドの1人
身長170cmと小柄でありながら「全打席でホームランを狙う」という矜持の元*4、我流の一本足打法で豪打を連発。
1979年にはアキレス腱断裂の大怪我を負い選手生命が危ぶまれたが1年経たず復帰し、翌80年に41本塁打を放ってカムバック賞を受賞。
主要タイトルは本塁打王3回、打点王2回、最優秀選手(MVP)1回。特に、1988年に打率.311、44本塁打、125打点をマークして受賞したMVPは40歳での戴冠であり*5、年齢を重ねても衰えないその打棒から『不惑の大砲』『中年の星』とも呼ばれ、関係者やファンからの尊敬と喝采を集めた。
しかし、その年のオフには所属球団の身売りに伴う福岡への移転を家庭内事情もあって嫌がり、ゴタゴタの末にオリックスに移籍するなど「ワガママ」と批判を浴びた事もあった。
オリックスでも引き続き主軸として活躍したが、ある試合ではホームランを放った後にブーマー・ウェルズとのハイタッチで肩を脱臼するという珍プレー史に残るアクシデントに見舞われた事も。
最晩年はダイエーに復帰し、2年間プレーした後に引退。40歳(44本)、42歳(31本)、44歳(7本)で記録した本塁打数は、2026年現在でもNPBのシーズン最多記録である。
現役時代の背番号は「27」→「44」→「60」→「78」→「53」と、主力選手としては珍しく大きい背番号を好んで付けていた。これはシーズン60本を目指しての願掛けもあったんだとか*6
上記の大怪我の影響もあって、ベテランとなってからは指名打者での出場が殆どだったが、若い頃は強肩を活かした守備にも定評があり、シーズン二桁補殺を5度も記録、右翼手としての先発出場数(842試合)はホークス史上1位でもある。
南海時代に選手と監督の関係であった野村克也*7とは野球観の違いから不仲を取り沙汰され、実際に偏屈者同士だったのでぶつかり合う事も多かった。
だが心の中ではお互いの器を大いに認め合っており、門田の現役引退後には雑誌での対談や球団主催イベントで肩を並べて出席するなど、野村「悪人」門田「おっさん」と相変わらず毒舌の応酬はありながらも関係は修復していた。
2006年に野球殿堂入り。2023年に74歳で死去。

  • 亀山努
1988年〜1997年に阪神タイガースに在籍。
プロ野球の外野手にしては珍しく、眼鏡(ゴーグル)を装着してプレーしていた。
チームが久々に優勝争いをした1992年に一軍に台頭、同じく頭角を現した新庄剛志と共に『亀新フィーバー』を巻き起こし、一躍人気選手となった。同年にはゴールデングラブ賞を受賞。
果敢なヘッドスライディングとダイビングキャッチでファンを沸かせたが、プレーの無茶が過ぎて翌93年にケガをしてしまい、その後は成績が低迷。
1995年には助っ人のグレン・デービスと守備で交錯し腰椎骨折の重傷を負う、翌年以降は遅刻癖による懲罰や*8私生活での離婚などが重なり一軍で満足にプレーが出来ず、1997年オフに戦力外通告を受け28歳の若さで引退した。
引退後は、現役当時のスリムさは何処へやらブクブク太ってしまったが野球解説者・指導者・タレント業で活躍。
解説が上手いのに、現役時代の成績的な特徴が新庄たち同時期のメンバーに比べてかなり少ないため、キャッチコピーは「魂のヘッドスライディング」だった。
特に指導者として少年野球チーム・枚方リトルの監督に就任し、1999年にリトルリーグ・ベースボール・ワールドシリーズ優勝に導いたレジェンドである。
上記の新庄剛志とは、オフにテレビや雑誌の企画で対談をするなど現在も良い関係が続いている。
なお、一部のアニヲタ諸兄は亀山で検索すると野球よりも特撮ヒーロー番組『ウルトラマンダイナ』でその姿を見た覚えがある……という記憶が蘇ってくるかもしれないが、実は同作でゴンドウ参謀を演じている亀山忍は氏の双子の兄弟である*9。そりゃあ似ていて当たり前なのだ。

  • 川又米利
中日一筋で活躍した選手。
1978年に入団し、1985年にレギュラーを掴む。打力に定評はあったが、守備に難があり川又の守備位置にフライが上がるとぞっとする事から「スリラー」という別名をもらっていた。そのため、パ・リーグからDHのニーズがあり、度々トレードの申し込みがあったという。
星野監督就任以降は、鉄拳制裁の対象としてしばしば「珍プレー」に採り上げられ視聴者の笑いを誘った*10。それでも、星野政権下で放出されなかった数少ない選手である。
現役後半は代打の切り札としてプレー、現在はDAZNの野球解説者、中日スポーツの野球評論家などをしている。
ちなみに高校は早稲田実業であり、都大会において帝京高校の石橋貴明(1学年下)から「おい!川又!」とやじられた経験がある。
また、大の中日ファンであるミュージシャンの忌野清志郎とは友人であり、彼のライブに招待されてステージで一緒に唄った事もある。そして意外と上手かった。

  • 佐伯貴弘
主に90~00年代の横浜で活躍した選手。
1992年にドラフト2位で横浜に入団。プロ入り時に同期の松井秀喜を意識して「メカゴジラ」を自称したが、定着せずいつの間にかフェードアウト。まあ本家のメカゴジラも良くてゴジラと相打ち止まりだったしな。
ベテラン・中根仁とともに「マシンガン打線」の「6番・右翼手」を務め、中距離打者として複数回打率3割を記録するなど主力として活躍。
守備では外野手での守備機会の方が多かったが一塁手としても多く出場しており、隠し球で清原和博をアウトにしたプレーと「どうしたんだ佐伯ー!」事件*11で良く知られる。
また大阪出身らしい話術や、自軍のマスコットだけでなく阪神のトラッキーにもジャイアントスイングを仕掛けるといったパフォーマンスで場を盛り上げるキャラであったが、その一方で歯に衣着せぬ発言で球団フロントと幾度も対立するといった面も。
横浜を戦力外になってからは中日に移籍後引退、元同僚の谷繫元信体制下で中日の二軍監督を務めたが、指導の姿勢に対しGMの落合博満が怒りをあらわにするなど悪評が立ったこともあり谷繁と同じタイミングで退任。現在は解説者として活動している。

  • 佐々木誠
1983年のドラフト6位で南海ホークスに入団。
下位指名選手ながら早くに頭角を現し、プロ4年目の1987年には外野手のレギュラーを奪取。
守備位置はセンターとライトを兼任していたが、キャリアハイの成績を挙げた時期はほぼ右翼手として出場していた。
右足を高く上げる一本足からの積極打法で安打を量産し、1991年には1番打者として打率3割&20本塁打、翌92年には首位打者と盗塁王をダブルで獲得。
巧打・長打・足・守備・肩の全てを兼ね備えた5ツールプレイヤーとして名を馳せ、西武ライオンズの秋山幸二と並び『メジャーリーグに一番近い男』と評されるなど、親会社がダイエーに変わったホークスの顔となっていた。
ところが、1993年オフに急転直下の「世紀のトレード」によって秋山と入れ代わる形で西武に移籍。常勝軍団に入って初の春季キャンプでは、小銭などを賭けてお気楽に打撃練習をしていたダイエーとの、あまりの意識の差に驚いたという。ここでは3番打者として清原和博・鈴木健らとクリーンナップを形成して期待通りの活躍を見せ、自身初のリーグ優勝も味わった。
しかし、その後監督に就任した東尾修とは野球観が合わず、自身の脚力の衰えもあって徐々に成績が降下。1998年オフには阪神タイガースに移籍するも復活できず、2001年に海外の独立リーグで1年間プレーした後、選手としてのキャリアを終えた。
現役時代の遊び方は豪快そのものであり、西武で同僚となった清原が「佐々木さんは凄い。あの人にはとても敵わん」と取材記者に語ったという逸話もある。
甥っ子は横浜ベイスターズ所属の佐野恵太*12
引退後はアマチュア野球指導者資格を回復し、2018年から鹿児島私立鹿児島城西高校野球部監督に就任。2019年秋の九州大会で結果を残し、選抜に推薦、初の甲子園出場を決めたが、翌年、日本国内における新型コロナウイルスへの感染拡大の影響で大会自体が中止。代替措置として8月に開催された2020年甲子園高校野球交流試合へ招待されたことによって、チーム史上初めて甲子園球場での試合出場に至った。
2023年に監督を契約満了につき退任したが、実際はコーチの体罰や部員の飲酒が監督の知らない処で蔓延し、隠蔽されていたなど、上記の豪快な性格が管理者として不向きとして解任されたとも。
現在は少年野球向けに野球教室を開催している。

  • サブロー(大村三郎)
登録名は「サブロー」だが、特にロッテファンは実際に口に出して名前を呼ぶと「サブローーーーーーーー*13」となってしまうであろう「Mr.ロッテ」。妻は元アイドルタレントの中嶋ミチヨ。
1994年ドラフト1位でロッテに入団。ロッテは1位指名する選手が投手であることが多く、サブローは袴田英利以来17年ぶりのドラ1野手であった。
本名は「大村三郎」なのだが、当時チームに同姓の大村巌という選手がいたこと、この年に「イチロー」が大活躍したことを受け本人の希望で登録名が「サブロー」になった。
2000年ごろから頭角を現し始め、いつしか4番打者に定着。「つなぎの4番」と呼ばれるようになる。
2011年、いろいろ事情があってシーズン途中に巨人に移籍。巨人では「大村三郎」としてプレー。
一定の成果を収めると、これまたいろいろあって同年シーズンオフにFA宣言してロッテに復帰。2016年の引退試合にはロッテだけでなく巨人在籍時のチームメイトも駆け付けた。
2026年からはロッテの監督に就任。

  • 嶋重宣
1994年ドラフト2位で広島に入団した「赤ゴジラ」。
99年に打者に転向するもなかなか日の目を見れず、2003年には戦力外通告の1歩手前まで追い詰められていた。
だが2004年に一気に才能開花。首位打者を獲得、さらに32本塁打と長打力も披露し、背番号の「55」にちなんだ「赤ゴジラ」というニックネームが流行語大賞にノミネートされた。
以降はケガの影響で徐々に成績が落ち、2012年に西武に移籍、翌年に引退した。
上記の通り20年近い現役生活を送った選手なのだが、2004年の活躍があまりに鮮烈だったため、一発屋野球選手の代表のような扱いをされることも。

  • ダリン・ジャクソン
1995年・96年に西武ライオンズに在籍した助っ人外野手。
現役バリバリのメジャーリーガーであったが、94年に発生したMLBストライキの影響もあり、プレーできる場を求めてNPBに移籍した*14
余談として、登録名をMLB時代の愛称である「D・J」にしようと考えていたが、同じくこの年オリックスに入団したダグ・ジェニングスに先を越されてしまい、怒り悔しがっていたという逸話がある。
来日1年目は主に1番・ライトとして出場し、打率.289、20本塁打、68打点、9盗塁の好成績をマークしてベストナインを受賞。強肩を活かした守備での貢献度も高かった。また人間性も真面目かつ真摯に野球に取り組む好漢であり、当時チームに多く台頭していた若手選手に少なからず良い影響を与えていた。
2年目も数字を残すが、本人がストライキの終わったMLBに復帰を希望した事もあって、西武を退団。
翌年すぐMLBに返り咲き、1999年までプレーしたのち引退した。
現在は、現役時代に慣れ親しんだシカゴで野球解説者をしている。

  • 鈴木貴久
1985年からの16年間、近鉄一筋で活躍した外野手。北海道旭川市出身。
プロ3年目の1987年にレギュラーに定着し、そこから4年連続で20本塁打以上をマーク。強打に加えて守備・肩も良く、常に攻守に全力プレーを見せた事から『北海の荒熊』の異名をとった。
88年の「10.19決戦」でも活躍し、翌89年のリーグ優勝にも貢献。
その後も長らく主力を張ったが、通算1500試合出場を達成した2000年に引退。右翼手としての先発出場数(860試合)は近鉄歴代1位であった。
引退後もコーチとしてチームに留まり若手育成に努めていたが、2004年のシーズン中に急性気管支炎を発症し、40歳という若さで急逝。
そしてその直後、彼の愛した大阪近鉄バファローズも突如として巻き起こったプロ野球再編問題によって……。
2002年にドラフト1位で入団、「最後の近鉄戦士」として、オリックス〜ヤクルトと渡り歩き20年の現役生活を全うした坂口智隆は、打撃面での恩師としてこの鈴木の名を挙げている。

  • 高沢秀昭
1979年、ロッテに入団。もともとは遊撃手だったが外野手に転向したのちレギュラー奪取。
初球から積極的に打ちに行く思い切りの良さがあり、狙い球や投手のデータなどに関係なく、常にストレートにタイミングを合わせて投手と二塁手の間に強い打球を放つことをイメージし、1988年には首位打者を獲得。
翌年ケガで低迷すると広島に移籍する。移籍後はレギュラーを掴みきれずにロッテに金銭トレードで戻され、1992年にロッテで現役引退。
引退後はコーチとして福浦和也や今江敏晃らを育てる。
現在は保育士の資格を取得し、横浜市内の認可保育園に勤務。

  • 高橋由伸
巨人で活躍した外野手。
プロ入り時の監督・長嶋茂雄命名の「ウルフ」というあだ名がある。あまり定着しなかったが。
50mで6秒0の走力、遠投120mの身体能力を持ち、桐蔭学園高校・慶応義塾大学で活躍。大学時代にはリーグ戦で1度だけリリーフ投手として登板し、球速149km/hを記録したこともある。
1997年巨人を逆指名してドラフト1位で入団。「天才」と謳われた打撃で松井秀喜清原和博とクリーンナップを形成、守備でも強肩を活かしてリーグ最多タイの12補殺を記録し、新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞、以降6年連続で受賞となる。
さらに入団から2004年までは7年連続で規定打席にも到達するなど攻守で躍動し主力として活躍していたが、2005年以降は腰痛などの故障離脱が増えてしまい規定打席到達も2007年の1回だけに留まり、期待されていた2000本安打を達成することはできなかった。
「配球は読んだことがない」「全て直球狙い」「来た球を反応で打つ」と完全に感覚派の独自すぎる打撃理論を持ち、長嶋監督もプロ入り後すぐに「(高橋の打撃は)これで完成しているんだから周りは弄るな」とコメントしたほど。また初球に強く2007年には三浦大輔から開幕戦初球先頭打者本塁打*15を記録しているが、その積極性とは裏腹に特にキャリア後半は四球率も高かった。
守備でもダイビングキャッチも辞さないアグレッシブさがウリだったが、その代償で度々大怪我を負っていたため、これも選手生命を縮めてしまった一因であると残念がられることも。
引退後は2016〜2018年まで巨人の監督を務め、監督辞任後は球団特別顧問に就任。2024年1月1日付で読売新聞スポーツアドバイザーに就任している。

高い身体能力を活かした「5ツールプレーヤー」として国際大会でも活躍した一方、その本領発揮を阻むほどに怪我が多かったことから「スペランカー」とも揶揄された選手。
詳細は項目参照で。

  • 坪井智哉(ともちか)
阪神〜日ハム〜オリックスに在籍した外野手。父の坪井新三郎も中日などに所属した元プロ野球選手。
1998年のルーキーイヤーから一軍で躍動。イチローばりの振り子打法から安打を量産し、現在も新人記録として破られていない打率.327をマーク*16
翌99年にも打率.304と活躍したが、3年目の後半戦以降は執拗な内角攻めの影響もあってスランプに陥り、2002年オフには日ハムにトレードされる。
日ハム1年目の2003年は打率.330をマークし見事復活。セ・パ両リーグ1年目に規定打席に到達しての打率3割を記録したのは、2026年現在も坪井が唯一である。2006年には、戦力外通告を受けた後にやっぱり再契約というドタバタもあった*17
2010年に再び日ハムを戦力外となり、翌年はオリックスに移籍するが活躍できず。その後数年間は海外の独立リーグでプレーし、2014年に現役を引退した。
上記の通り、新人選手の打率記録や両リーグ打率3割などの偉業を達成した反面、故障や病気による不調離脱が多く、通算1000本安打に届かないままバットを置く事となった。
ちなみに、同じ振り子打法のイチローとは毎年自主トレを共にし、互いの引退時には熱いコメントを贈り合うなど非常に仲が良かった。

  • 長池徳士(あつし)
阪急の黄金時代の不動の4番打者で「ミスターブレーブス」といえば長池である。
元来、内角球を苦手としていたがコーチの青田昇の熱血指導の結果、左肩にアゴを乗せ、腕を大きく後ろに引いて大きくスタンスをとる独特のフォームが生み出され、このフォームは長池の代名詞となった。左肩にあまりに深く埋めていたため、代償として顎がユニフォームに擦れて血が滲み、痛くてひげも剃れないことがあったという。
しかし努力の甲斐あってシーズン40本塁打以上を4度記録することとなる。1975年、パ・リーグにDH制が導入されると、このシーズンは指名打者として出場しパ・リーグ初のベストナイン指名打者にもなった。1979年に引退。
なお、本名は長池徳二(とくじ)

  • 中島治康
戦前の巨人で活躍した外野手。
「班長」の愛称で知られる*18
1936〜1943年まで右翼手のレギュラーを務め、通算でライトゴロを20回達成(一塁送球14回、二塁送球6回)している。打つ方で1938年に『NPB初の三冠王』を達成している。当時は春・秋の2シーズン制で秋のシーズン38試合で打率.361、10本塁打、38打点を記録している。27年後の1965年に野村克也が三冠王を記録した際、中島の記録をどう扱うか議論され、コミッショナーが「2シーズン制での春、秋はそれぞれ独立したシーズンとして扱う」という裁定により公式記録として扱われ、プロ野球初の三冠王として認められた。
因みに春の成績を合わせても打率.353、11本塁打、63打点と打撃3部門で1位になる為、通年でも三冠王となる。
1944年に徴兵されて戦地に送られるも、生き延びて1946年に現役復帰、兼任監督を務めるも、47年に巨人史上最悪の5位となり監督の権限を剥奪される。49年オフに大洋に移籍し、51年に現役引退。引退後は読売新聞の記者として働くが、プロ野球の記事だけは絶対に書かなかったと言われる。
巨人OBとしてレジェンドであり、川上哲治、長嶋茂雄ともに中島の前では大人しくなる程の存在感を示した。
1987年4月21日、急性心不全のため死去。77歳没。

  • (はた)真司
ヤクルト〜日本ハム〜ロッテに在籍した外野手。プロ入りから数年間は捕手であった。
プロ4年目の1988年に八重樫幸雄から正捕手の座を奪うも、1990年から監督に就任した野村克也にはリード・守備面で酷評を受け、ルーキーの古田敦也が代わりに正捕手に抜擢されたため、秦は外野手への転向を余儀なくされる。
反面、打撃については「左打者のお手本スイング」と高く評価されており、以降は右翼手のレギュラーや左の代打として活躍。92年のリーグ優勝、93年・95年・97年の3度の日本一にもその勝負強いバッティングで貢献した。
またこの時期、スコアボードでの表記名を平仮名の「はた」にしている*19
99年は日本ハム、翌2000年はロッテに移籍し引退。
引退後はロッテ・中日・巨人でコーチ、独立リーグでは監督などを務め上げ、現在は野球解説者として活動している。
2004年には野球塾開校を目指し、お笑いタレントの井手らっきょと共に『マネーの虎』に出演。序盤からプレゼンに苦戦しノーマネーでフィニッシュしかけたが、起死回生の一手として秦がその場でバットスイングを披露。社長たちの心をたちまち掴み逆転でマネー成立を勝ち取ったという、実にプロ選手らしいエピソードを持っている(ただし、現在は野球塾の経営からは手を引いている模様)。

  • 羽生田(はにゅうだ)忠克
「球界一の鉄砲肩」との呼び声が今なお高い1980~90年代に西武に在籍した選手で、本名および88年までの登録名は「羽生田忠之」。
主に代走と守備固めによる起用がほとんどで、小学5年時のソフトボール投げで驚異の70mを記録したという肩の強さは史上最強と称される。
ご存じない方は、百聞は一見に如かず。「羽生田 強肩」で動画検索されたし。
なお、あまり知られていないがスイッチヒッターである。

  • 桧山進次郎
阪神タイガースで活躍した外野手。
愛称は『ひーやん』『悠久の若虎』『ニッゴロ』など。
プロ4年目の1995年に、上記の亀山努の故障の穴を埋める形でレギュラーに定着し、翌96年には22本塁打を記録。
シャープな打撃が持ち味の中距離打者であったが、長打力を過度に期待され4番に固定されたかと思えば、翌年は左方向への流し打ちの技術を買われて2番に回されたりと、ベンチがアホやからを地で行く首脳陣の起用に振り回された事や、自身の故障もあり数年ほど低迷する。
その後どうにか本来の打撃スタイルを取り戻し、2001年には自身初のシーズン打率.300をマーク。以降5年間は安定した活躍を見せ、03年・05年のリーグ優勝にも貢献した。2002年オフのFA宣言は黒歴史。
06年からは代打中心の起用となり、ココでも打ったり打てなかったりのシーズンが交互に続いたが、何やかんやで生え抜き選手としてファンからは愛され、2013年に44歳で引退するまでの22年間、阪神一筋で現役生活を終えた。
現役最終打席となったクライマックスシリーズ1stステージ第2戦では、広島の守護神・ミコライオから鮮やかな2ランホームランを放ち、有終の美を飾った。
引退後はホリプロとマネジメント契約を結び『ベースボール&スポーツ・コメンテーター』の肩書きで活動している。
…ただし、絵は前田健太と同レベルのヘタクソ。

  • 平井光親(みつちか)
1989年〜2002年の14年間、ロッテ一筋でプレー。左投左打。
プロ1年目・2年目は打率1割台だったが、3年目の1991年にいきなり打撃が覚醒。シーズン最終戦で規定打席に到達し、2位のオリックス・松永浩美と僅か4毛差の打率.3144で首位打者のタイトルを獲得した*20
98年にも、イチローに次ぐリーグ2位の打率.320をマークするなど好打者として活躍したが、左投手を苦手にしており、その際はスタメンを外れたり打順を下位にされるという事が多かった。
何より、活躍した時期がロッテの暗黒時代真っ只中だったので、タイトルホルダーでありながら先輩の西村徳文と並び印象的にはどうも地味。まあ投手陣に伊良部秀輝、小宮山悟、左肩に小錦エリック・ヒルマン、ジョニー黒木(黒木知宏)園川一美といったキャラ立ちまくりの濃すぎる面々がいたってのもあるんですがね…。
現役晩年は野手にしては珍しい「21」を背番号にしていた。
引退後は、ロッテの球団職員やコーチを経て、2016年より母校・愛知工業大学野球部で監督業に就いている。

  • 平野謙
中日・西武・ロッテで活躍した、ゴールデングラブ賞9回受賞の名外野手。
少年期に両親を亡くすという不幸に見舞われるも、6歳上の姉と支え合って育つ*21
1977年オフにドラフト外で中日に投手として入団。2年目の79年に外野手に転向し、俊足を生かすためにスイッチヒッターとなった。
その抜きん出た俊足強肩ぶりを当時の近藤貞雄監督に見出され、1982年には中堅手のレギュラーを奪取。翌83年にはゴールデングラブ賞を受賞、86年には48盗塁で盗塁王を獲得するなど主力として活躍するが、その年に新監督となった星野仙一とはソリが合わず、翌87年は出場機会が激減し、オフには西武にトレードされてしまう。
移籍先の西武では、森祇晶監督の覚えもめでたくチームに溶け込み、右翼手のレギュラーを獲得。その後は不動の2番・ライトとして5年連続のリーグ最多犠打を記録6年連続でゴールデングラブ賞を受賞するなど、黄金期の西武を攻守で支えた。
1993年オフにチームの若返り方針から戦力外通告を受けてロッテに移籍し、1996年まで3年間プレーした後、41歳で引退。
通算犠打数は451個で、1998年に川相昌弘に抜かれるまでは日本プロ野球記録であった。前述の通りプロ野球界屈指の強肩を持ち、リーグ最多補殺も5回記録。特に1989年は、98試合の出場で21補殺という化け物じみた数字も記録している。
引退後は野球指導者・評論家・YouTuberなど、多方面で活動している。

  • 広沢克己
プロ入団当初と現役後半は一塁手としての起用が多かったが、キャリアハイの成績を収めた時にライトを守っていたため、外野手だという印象が強いファンも多いと思われる。
1984年ロサンゼルス五輪金メダルメンバーとして同年ヤクルトにドラフト1位指名。
当時弱小球団だったヤクルトにおいてどんなに三振しようがエラーしようが我慢強く起用されることで中心選手となっていった。
1988年以降は池山隆寛とともに「HI砲」、ラリー・パリッシュが加わると「100三振トリオ」などと呼ばれる。
1994年にFAで巨人に移籍、その後2000年に阪神に移籍し、史上初の「巨人と阪神の2球団両方で4番打者になった人物」となった。
阪神時代、サヨナラヒットを打ったある日のヒーローインタビューで「次にサヨナラでお立ち台に立ったら『六甲おろし』を歌う」と公約を掲げ、その2ヶ月後本当にサヨナラ本塁打を放ったことでお立ち台でファンと一緒に熱唱した。
2003年に引退。現役最終打席はソフトバンクとの日本シリーズ第7戦で、和田毅から豪快なホームランを放って自ら花を添えた。引退時の登録名は「広澤克実」。

  • 福留孝介
中日→MLB→阪神→中日と渡り歩いた外野手。
PL学園高校時代は1995年ドラフト会議で7球団から1位指名を受ける逸材だったが、当たり籤を引き当てた近鉄へ入団拒否を示し、日本生命に入社、社会人野球へ進む。社会人野球で遊撃手から三塁手に転向し、1996年のアトランタ五輪野球日本代表に選出され、銀メダルを獲得する。
1998年、中日を逆指名してドラフト1位で入団。2001年から左翼手、2002年から右翼手に転向する。
佐々木恭介打撃コーチ*22の指導で打撃が、二宮至外野守備走塁コーチの指導で守備がそれぞれ覚醒し、打撃では首位打者のタイトルを獲得して巨人・松井秀喜の三冠王を阻み、外野守備では14補殺でリーグトップを記録し、ゴールデングラブ賞を獲得した。
その後2007年まで中日に在籍中、首位打者1回・最高出塁率3回・ゴールデングラブ5回・ベストナイン4回を獲得し攻守で中日を牽引した。
また、フェンスが高く、広いナゴヤドームを本拠地にしながら、30本塁打以上を2回記録するなど、長打力も兼ね備えていた。ホームランテラスなど邪道
2007年オフにFAでMLBのシカゴ・カブスに移籍する。
2008〜2011年途中までカブスに在籍し、トレードでクリーブランド・インディアンスに移籍する。
2012年はシカゴ・ホワイトソックスに移籍するも、6月下旬に自由契約。以後はニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結んだが、シーズン最終戦の9月3日に自由契約となった。
メジャー在籍5年で規定打席到達が3回、2009年にセンターを守った以外はライトが定位置だった。
2012年12月に日本球界に復帰、阪神タイガースと契約する。
阪神には2013〜2020年まで在籍し、規定打席到達を4度達成し、ゴールデングラブ賞、ベストナインをそれぞれ1回獲得、2000本安打を達成した。守備位置は2018年まで右翼手、以後は左翼手。2020年オフに自由契約となり古巣の中日に復帰し、2022年に現役引退。
上記のアトランタ五輪の他、2004年アテネ五輪野球日本代表に選出され、銅メダルを獲得。プロ選手で編成されたWBC野球日本代表には2006年と2009年に選出され、金メダルを獲得している。
オフの契約更改時には何かと球団側と揉めることが多く、『誠意は言葉ではなく金額』に代表されるような数々の迷言を生み出した。
2011年の東日本大震災の時に福留が100万ドル(当時のレートで8000万円)を個人のお金で寄付していた*23ことが明らかになると、先述の発言を自分が払う側なのに有言実行したとしてネット民の熱い手のひら返しが続出、一転して名言として扱われ、ブラック企業やりがい搾取に対するカウンターワードとして野球以外で使われるようになった。
現在は解説者(とくに双方に在籍経験がある中日-阪神戦)を務めたり、古巣である日本生命野球部で指導をしたり、『おはよう朝日です』でスポーツコメンテーターをしながらおかしな企画に携わったりしている。
「ドメ子」は断ってよかったんじゃなかろうか。

  • 毒島(ぶすじま)章一
1954年〜71年までの18年間、東映・日拓に在籍した「ミスターフライヤーズ」。右投左打。
某漫画作品の主人公名のおそらく元ネタの人。
野手の隙間を狙い打ちできる巧みなバットコントロールと快足を武器に、高卒ルーキーでありながらいきなり外野のレギュラーへと定着。シーズン本塁打は1本だったが、48試合で4番を任されるなど活躍を見せた。
三塁打の毒島』の異名も取り、プロ野球史上2位の通算106三塁打を記録*24。1957年にはサイクルヒット、1961年〜62年にかけては現在もパ・リーグ記録となっている900打席連続無併殺打をマークした*25。他、ベストナイン3回、オールスター出場8回。
東映フライヤーズ創設時のメンバーでもあり、その温厚篤実な人柄からチームメイトの信頼も厚く、張本勲・土橋正幸・山本八郎・尾崎行雄ら本職のヤクザも尻尾を巻いて逃げ出す荒くれ者集団を主将としてまとめ上げ、1962年のリーグ優勝&日本一にも貢献した。
現役晩年は肩や肘の故障に苦しみ、通算2000本安打を目前にしていたが35歳でバットを置き引退。
引退後は日拓・西武の2球団でコーチやスカウトを務め上げ、西武のスカウト時代は「球界の寝技師」こと根本陸夫の腹心として辣腕を振るった。
2023年に前立腺がんのため、87歳で死去。

  • グレン・ブラッグス
1993年〜96年まで横浜ベイスターズに在籍した助っ人外野手。
193cmの長身に加え、スイングで振り切り背中に当たったバットが真っ二つに折れるなど、ボディビルダー顔負けの筋骨隆々の体格と、本場のアメリカンギャング顔負けの怖すぎるフェイスで、ファンに多大なインパクトを与えた選手であった。
来日1年目の1993年は、その豪快かつ粘り強いバッティングで前半戦に打率.345、19本塁打をマークし打撃2部門でリーグトップを独走。しかし、7月の試合後にクラブハウスで転んだ末に右手小指を骨折し、そのままシーズン後半戦を棒に振ってしまう。う〜ん、このドジっ子め。
傷が癒えた2年目はやはりその打棒が爆発し、打率.315、35本塁打、91打点と素晴らしい成績を挙げる。豪快な打撃に隠れがちだが、MLB時代には二桁盗塁を3度記録するなど足も速く、守備もかなり上手い方であった。
中日ドラゴンズとの試合中に乱闘騒ぎを起こすなどその怖い顔イメージ通りの行動もしたが、普段は物静かでファンサービスにも気さくに応じてくれる温和な性格でもあった。
1995年・96年は成績を落とし、惜しまれつつベイスターズを退団。そのままMLBに復帰することなく引退した。
……そして時は流れ、2016年の交流戦イベントで20年ぶりに来日。現役当時と変わらぬムキムキマッチョな姿を見せ、新旧のベイスターズファンを大いに沸かせた。

  • 真弓明信
1985年阪神が日本一になった時の右翼手。安彦良和みたいな名前と一部のマニアからネタにされていた。
福岡私立柳川高校時代、社会人野球の電電九州時代と遊撃手、三塁手で活躍。西鉄ライオンズに1972年ドラフト3位で入団。1年目にアメリカのマイナーリーグに留学し、そこでウェイトトレーニングを取り入れて肉体改造に取り組む。
1978年オフに田淵幸一らとの「世紀のトレード」で阪神に移籍。
1985年に就任した吉田義男監督の方針で右翼手に転向。1番・右翼手として、打率.322、34本塁打、84打点と強打の一番打者としてリーグ優勝に貢献、外野手のベストナインに選出され、古巣*26との日本シリーズでも活躍し、優秀選手賞に輝いた。
なんで1番なのかは単純に当時の阪神のクリーンナップがバース→掛布→岡田ともっとバケモノだったからである。
糸井嘉男少年もこの頃の真弓があこがれの選手だったんだとか。
ヒッティングマーチはミッキーマウス・マーチで、阪神ファンがこれの替え歌を歌いながら踊る通称真弓ダンスは甲子園名物として現在に至るまで受け継がれている。
1992年以降は新庄剛志らの台頭もあり、代打の神様として活躍。1995年に現役引退。
2008年オフに阪神の監督に就任。2011年に退任。
現在は再び解説者に戻ったり、プロゴルファーと一緒にコースを回る本格的なゴルフ番組で冠番組を持ったり*27している(もともと真弓のゴルフの腕はファンの間でも知られるほど上手だった)。

  • 蓑田浩二
1975年に阪急に入団。内外野どこでも守れるユーティリティープレーヤーだったが、当時の阪急は内野手が加藤、マルカーノ、大橋、森本(島谷)と鉄壁の布陣だったため外野手としてレギュラーを目指すこととなる。1978年にレギュラーになると、1983年には史上4人目のトリプルスリーを達成する。その3年前の1980年には、31本塁打、39盗塁、31犠打という別ベクトルのトリプルスリーも達成している*28
1985年に頭部死球を受け長期離脱を経験すると、成績が落ち始め1988年オフに巨人に移籍。1990年に引退した。
現在はフリーの評論家として活動する傍ら、プロゴルファー(ティーチングプロ)としても活動している。

  • 山崎隆造(やまさきりゅうぞう)
広島カープで活躍した外野手(内野手も兼任)。右投両打。
1976年に地元・崇徳高校からドラフト1位で入団。78年には高橋慶彦に次いでスイッチヒッターに転向する*29
1981年のOP戦でコンクリートフェンスに激突し、右膝膝蓋骨の粉砕骨折という選手生命の危機を迎える重傷を負うが、大手術とリハビリを経て無事に復帰。その後は高橋と強力な1・2番コンビを形成。
1983年からは3年連続の打率3割、84年からは6年連続で全試合出場、引退までにベストナイン3回、ゴールデングラブ賞4回、通算盗塁数200超えという成績を残し、黄金期を迎えた80年代のカープを牽引した。
特筆すべきは、上記の記録を全て膝の手術後に達成しているという事だろう。魔改造でもされたんか?
衣笠祥雄が「鉄人」なら、こちらは差し詰め『不死鳥』といったところだろうか。
1991年には、同僚の津田恒美が不治の病に冒されシーズン中での引退を余儀なくされてしまうと、選手会長だった山崎は「津田のために優勝しよう。津田を優勝旅行に連れて行ってやろう!」と涙ながらに激を飛ばし、一致結束したチームは逆転で5年ぶりのリーグ優勝を果たした*30
1993年に現役引退。引退後もチームに残り、コーチや二軍監督を歴任した後、現在は母校の崇徳高で総監督の傍ら、野球解説者・評論家としても活動している。
余談だが、生まれも育ちも広島市、選手時代〜引退後の現在に至るまでずっと広島に住み続けているという、カープもとい広島愛の体現者でもある。
広島のコーチ・二軍監督をしていた2003年〜11年には、突如として登録名を『山崎立翔』(※読み方は同じ)に改名。いや、読めねえって。

  • 雄平(高井雄平)
2002年に投手としてヤクルトに入団し、154km/hの速球を放ち通算18勝した左腕だったが、制球難が解消されず7年目に打者に転向。
もともと打撃にも定評があり、投手時代にも本塁打を記録していたなど非凡な才能が開花し中軸打者として躍動。2014年にはシーズン23本塁打を放ち、藤村富美男以来59年ぶりの通算10勝以上の選手がシーズン20本塁打以上という記録を残した。
2021年に引退。

  • R.J.レイノルズ
1991年〜92年に大洋ホエールズ、93年には近鉄バッファローズに在籍した助っ人外野手。
日本プロ野球記録として今も破られていない11打数連続安打*31の記録の持ち主。
俊足強肩好守のスイッチヒッターで、日米野球での活躍を見た大洋の首脳陣がメジャーでFAとなっていた所をすかさず獲得した。
来日1年目は上記の記録をマークするなどベストナイン・ゴールデングラブ賞にも輝き期待通りの活躍を見せたが、2年目は成績が大きく低下したためオフに退団。3年目は近鉄に移籍して再び好成績をマークするも、スイッチヒッターでありながら左投手に非常に弱かった点などがネックとなり、契約は更新されず退団となった。
その後はメキシコリーグでプレーしたもののMLB復帰は叶わず、引退した。
NPB在籍期間は短いながらも、守備で度々見せたライトからのレーザービーム、次の塁を積極果敢に狙うメジャー仕込みのアグレッシブな走塁など、ファンの記憶に焼きつくプレーも残してくれた選手であった。
余談ではあるが、彼のバッティングのフォロースルーはとても格好良く(特に左打席)、当時真似をした野球少年も多かったのではないだろうか。筆者とその周りだけではないと信じたい

  • 呂明賜(ろ・めいし/ル・ミンス)
1988年に台湾から巨人にやってきた助っ人。
当時の巨人はウォーレン・クロマティとビル・ガリクソンというMLB経験者が一軍に鎮座しており、二軍でチャンスを待っていたが、クロマティの負傷離脱により千載一遇のチャンスを与えられると、初打席でいきなり本塁打を放ち、そこから9試合で7本塁打という獅子奮迅の活躍をして巨人の救世主とまで呼ばれることとなる。
この活躍により、当時はベンチに通訳は1人までというルールがあったが「2カ国語必要な場合は2人までは可能」と変更された。また、呂を出場させるために急遽オールスターの出場外国人枠が2人→3人に拡大された。まさに読売ジャイアン
しかし翌年以降も外国人枠との闘いは続き、なかなかシーズン通してフル稼働はできなかった。
1991年に退団し、その後は母国台湾でプレー。

  • 若井基安
1987年ドラフト2位で南海ホークスに入団。
特出すべきはそのキャリアで、高校はPL学園、大学は法政大学、そして日本石油に進み、高校・大学・社会人のすべてで日本一を達成、即戦力として迎えられた。
1年目は不慣れな三塁手として開幕から出場するも、拙守を露呈してしまう。翌年から外野手として登録されるが、打力で上回るカズ山本、岸川勝也、佐々木誠らに阻まれレギュラーはなかなか掴めずじまいだった。
以降も、レギュラーと代打を行ったり来たりしていたが巧みなバットコントロールを徐々に発揮し始めると、4番打者を任されることも出てきた。
1999年、一軍試合出場なしに終わりこの年で引退するが、チームが日本一になったため、高校・大学・社会人・NPBすべてのカテゴリで日本一を経験した稀有な選手となった。
引退後はスカウトに転身。三瀬幸司や柳田悠岐などを担当。


【主な架空の選手】


漫画・ゲーム


  • 大宮剛士(おおみやたけし)
漫画『ラストイニング―私立彩珠学院高校野球部の逆襲』の登場人物。
埼玉私立彩珠学院高校野球部員。
右投左打。2年。身長183cm。体重90kg。
親が借金苦で夜逃げして息子の剛士にまで追い込みの手が及んだ為、やむを得ず高校を辞め嵐山工務店で働き、草野球をしていた。
主人公で監督の鳩ヶ谷が草野球を見て打力と才能に目を付け、OB会長の大宮の家に養子縁組することとなる*32
チームでは不動の4番打者。野球の実力は非常に高く、長打から単打まで状況に応じたバッティングが出来るが、考え込む性格で自分のイメージとスイングのズレが気になり悩み出すと、スランプに陥りやすい。

  • 唐沢進(からさわすすむ)
漫画『ナイン』の登場人物。
県立青秀高校野球部員。
中学柔道の県大会優勝選手。
様々な偶然が重なり、柔道を辞め、野球を始める。最終的に5番・右翼手の定位置を獲得し、夏の甲子園大会にも出場する。
アニメ版でのCVは富山敬。

  • 久賀稔彦(くがとしひこ)
漫画『クロカン』の登場人物。
鷲ノ森高校(わしのもりこうこう)編から登場する。
実力は申し分ないのだが、精神的にムラがあり、良くも悪くも手の付けられない選手。
統廃合により学校の廃校が決まり、部員が13人のみとなる最終学年では、少人数で選手交代も気軽に出来ないため、久我も投手と右翼手と複数のポジションを守る事に。
3年夏、鷲ノ森高校にとって最後となる大会において、3年生13人だけしかいない部員達で全国制覇を成し遂げた際、主力として活躍した。

  • グリえもんチビえもん
漫画『ドラベース』の登場キャラ。もちろんドラえもん型ロボット…のはず。
まず掲載開始時にはグリえもんが8番ライト(当時の江戸川ドラーズは9人チーム)*33。下記ののび太よりはマシ、程度の身体能力だが、その知性から、相手のサイン解読・サインプレー察知などいわゆる野球IQにも優れているのが長所。
普段はこの頭脳を活かして学習塾の先生をしている一方で、そもそもチーム分け面のルールが大きく異なっていたWABC編のエーモンドを除けば、数少ない敵対→元のさやを経験しているメンバーでもある。これはある相手チームの離間工作から。
ドラえもん型ロボットって肉体改造やドーピングすればちゃんとムキムキになるんだ…

そのグリえもんが「科学者になる夢を追いたい。だからこのまま大学に進学する」として退団したことでメンバーが足りなくなり、川から拾われてスカウトされたのがチビえもん。
野球は初心者で精神年齢も子供そのものと選手としては疑問符の付くところもあるが、それまでチーム内いちの俊足だったトラえもんとその走力ではりあう(ファウルボールをひみつ道具なしで駆け上がることができるほど)、異常なほど長いバット*34を一応でも使いこなすなど、それまでのドラーズ野手には意外にいなかったとにかく得意科目と意外性に特化したタイプの選手と言える。
また野球に打ち込む才能については他の「最初からガチ勢だった」キャラたちにも負けておらず、適応速度そのものはかなり速かった。
イタズラ好きや周囲の制裁が過剰すぎるのは最後まで治らなかったけどネ
先述の経緯から入団当初はそもそも本業を持っていなかったが、のちの回では一人暮らしで住んでいるおじいさんの家に拾われたのが明かされている。ドラーズでは数少ない、本業がドラえもんに近い選手(誰かの家にいること自体が本業の選手)ともいえる*35

  • 左門豊作(さもんほうさく)
漫画『巨人の星』に星飛雄馬のライバルとして登場。アニメ版でのCVは兼本新吾。
右投右打の右翼手。太ましい体型をして眼鏡を掛けた熊本出身の人物で、6人兄弟の中で唯一熊本弁で話す。
小学生の頃に両親を亡くし、彼と弟・妹達を引き取った農家の親戚に奴隷のごとくこき使われていた。たまたま参加した草野球ではその農作業仕込みの長打力を披露し、高校野球部から入部の誘いを受けていたが、義務教育が終われば四六時中彼をこき使えると皮算用していた親戚が進学など認めるはずがない…と思われていたところ、弟・妹達が兄の代わりに働くから高校に行かせてほしいと必死に願い出たため、高校進学を果たす。
甲子園での星・伴バッテリー率いる星雲高校との対決に敗れた後、プロ野球の大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)に入団。転居先は粗末なボロアパートではあったもののそこに弟・妹達を呼び寄せ、親戚と完全に決別し兄弟だけの生活を掴み取った。

花形満に比べると、星飛雄馬のライバルとしては2番手という印象が強い。
本人もそれは薄々感じているようだが、プロ野球選手として安定した成績を上げ兄弟を養い続けることと個人的な打倒飛雄馬の願望を天秤にかけられず*36、そのことに対する憤りを募らせる場面もあった。
なお、飛雄馬自身も貧乏な生い立ちだったためか彼には度々気遣いを見せており、自身のCMに左門を共演させてほしいと提案するシーンがある*37
大リーグボール2号の打倒をまたしても花形に先取りされたときには自暴自棄を起こして夜の街に繰り出し、偶然出くわした飛雄馬と共に不良少女の「お京さん」こと京子と出会い、彼女に惚れ込んでしまう*38
紆余曲折の末に、彼女が内に秘めている純真な人柄を知った飛雄馬からの強い後押しを受け、初恋に殉ずる形で京子と結婚し、ラストシーンを飾った。

選手としては弾丸ライナーを代名詞とする強打者で、同郷かつ当時の巨人の監督であった川上哲治がその姿をかつての自分自身に重ね合わせていた。
また、非常に研究熱心な一面も持ち、相手投手のフォームの癖を観察してメモに控え、データとして活用している。
一方で守備に関する描写は少ないが、プロ入り3年目のオールスターでは眼鏡が割れるほどのダイビングキャッチでフライを好捕し、『新・巨人の星』にて打者として現役復帰した飛雄馬のヒット性の打球も行先を冷静に推測して捕球している。
作中であまり強調されていない特徴として、本人はあくまで(願望を押さえつけながらも)野球を「食わせる手段」として割り切っている関係上、他の登場人物のように個人的な行動に出てチームに迷惑をかけるような真似は一切せず、『新・巨人の星』までの移行期間も唯一現役を続行していたことが語られる等、現実的な観点でのプロ意識も極めて高い。

  • 島田(しまだ)
キャプテンのキャラクター。初登場時の谷口世代は典型的な9番ライト。
糸目に豚鼻でややモッチリの典型的なモブ…かと思いきや俊足巧打の地味に優秀な選手であり、翌年の丸井キャプテン時には1番に昇格した。
丸井世代では近藤とイガラシを2枚看板の投手にする都合上、近藤をベンチに引っ込めたくない時にライトに置くので割りを食いがちである。
特に気性が荒いという訳でもないが自分のポジションに誇りを持っており、ライトへのコンバートを「ライト守ってるなんて人に知られたら恥ずかしい」と舐め腐った口を効いた近藤を短気な丸井より先にブン殴っている。残当。
しかし帰りのバスでは自分のミスによる敗戦で落ち込む近藤に席を譲るなど、出場機会を奪われても優しい先輩である。

彼を語る上で外せないのは、地区大会決勝の青葉戦における死力を振り絞ったダイビングキャッチである。
延長18回で疲労困憊の体に鞭を打ちながら観客席に突っ込み、交代ができない状況で「ぼくこんな事しょっちゅうですから」とやせ我慢でチームメイトを励まし、最後にはフェンスに激突しながら気迫でライトへの打球をキャッチした。
この作品では結構珍しくメインキャラ以外にそこそこの尺が割かれたシーンであり、アニメでもご丁寧に再現した結果、悲壮なBGMと共に下向きに崩れ落ちながら捕球していた島田が映され、さながら殉職のような雰囲気に仕上がってしまっている。

高校時代を描くプレイボールでは地獄の墨谷二中を生き抜いた猛者として1年からレギュラーに抜擢。
初めは中学と同じくライトだったが、先輩の引退に伴ってセンターになり、攻守走で活躍を見せるなど覚醒した。

ライトといえばお味噌なポジション…みたいなイメージを受けながらも実は三拍子揃った職人タイプという、ある意味では時代を先取りしていた男である。
原作では右利きだがアニメでは何故か左利きにされているので少し守りにくそう。

  • 白州健二郎(しらすけんじろう)
漫画『ダイヤのA』の主要人物。
東京私立青道高校、2年生→3年生。右投左打。御幸世代。
2年夏の大会は9番、御幸世代では2番や3番を担当。口数が少なく見た目も地味だが自分の役割はきっちりこなす仕事人。
稲城実業の原田は「ある意味青道の中で一番バランスのとれた打者」、落合コーチからは「一見目立たないが、俺ならクリーンナップに置くね」と評価されている。守備についても際どい打球を好捕したり、ドンピシャな好返球を見せるなど作中でもトップクラスの堅守。
アニメ版でのCVは下妻由幸。

ドラえもん」にてジャイアンこと剛田武率いる少年野球チーム・ジャイアンズに所属する。
ポジションは外野手なのだが、打てない(打率.010)、走れない、守れないの逆三拍子揃った、いわば『ライパチ』の典型的事例ともいえる選手。
詳細はリンク先を参照。

  • 蓮池南(はすいけみなみ)
漫画「GRAND SLAM(グランドスラム)」の登場人物。
左投左打。
中学時代は全国大会の100m走ファイナリストで高校ではジャベリックスローの日本ジュニア記録保持者。
主人公で同学年の世界一心(せかいしっしん)に興味を抱き、槍投げ対決を機に野球部へ途中入部する。
高校陸上界のトップアスリートだった為、常に強敵を求める挑戦者で個人プレーに走りがち。その為に、チームプレーを重視する正捕手の蔵座直哉(ぞうさなおや)とはよく衝突していた。
俊足でマウンドに立てば150km/hの速球を叩き出す程の強肩。
投手として登板した事もあるが、強豪校に棒球と酷評され滅多打ちを喰らう。
目立ちたがりで承認欲求が強い処を主人公が見抜き、「塁上に出て盗塁すれば観客がキミに歓声を送るよ(意訳)」と言われ、出塁率重視のスピードスターに覚醒する。

  • 羽根田耕(はねだたがやす)
漫画『ワイルドリーガー』の主要人物。
「孤高の天才」と称され東京武鉄レッドソックスの3番打者として驚異的なペースで安打を量産。しかし、日本最速記録となる通算1000本安打達成を目前に控えた中で突如失踪。その後健康器具販売会社の社長となり、様々なアイデアと元宝塚劇団花形スターの嫁の実務力により通販業界で活躍していた。主人公浅野夏門の誘いに応じて現役復帰。復帰後は4番打者として体力・技術衰えることなく独自の美学で「合気打法」の完成を目指している。
守備も「ライフルアーム」と呼ばれる強肩を持ち、ライト最深部からサードにノーバウンド送球ができる。
会話に四字熟語を多用する。見た目・エピソード設定は前田智徳や榎本喜八から引用されていることが多い。

  • 村雨(むらさめ)
『実況パワフルプロ野球シリーズ』に登場。するめ大学サダメナインにおいてライト(サダメエイト)を担当する人物。
弾道2でミートから順にFDASSA(これでも改善されており、初登場時は弾道1パワーFだった)で特殊能力も送球B・レーザービーム・守備職人と、とにかく守備に特化した選手。
武士キャラなのだが、近年の作品では本質的には勘違い武士道キャラである疑惑が出ている。

  • レジー・フォスター
漫画「REGGIE(レジー)」の主人公。
左打ちの長距離打者、右翼手。MLBの名門チームで4番打者を10年以上守ったが、膝の故障と成績不振から解雇される。唯一オファーを出したのは日本の球団に入り、自分のキャリアへの誇りを取り戻すため、MLBに復帰し解雇した球団を見返すため、来日を決意する。
来日当初はプライドが高く日本の野球を軽視するタイプに描かれ、平山監督に「勇敢なるアメリカ人」と揶揄される。後半からは生来のスター性、リーダーシップを発揮し、チームを優勝へと導いていく。



追記、修正は4番・右翼手、野比のび太でジャイアンズを優勝に導いた方がお願いします。

この項目が面白かったなら……\ポチッと/

最終更新:2026年07月10日 15:10

*1 9番は投球に専念するピッチャーなので8番。ピッチャーが打撃もできるタイプだと9番ライト

*2 右翼で32試合出場。また左翼15試合・中堅1試合。

*3 1人目は西村徳文。

*4 持論を曲げないのに困り果てた野村が長嶋茂雄にお願いして「ヒットの延長がホームラン(だから飛距離よりも先にバットに当たるのを考えて振るべき)」と伝えたところ、門田はむしろ「ミスターと口裏を合わせるなんてひどいよ野村、俺じゃなきゃ聞いちゃうだろ」とヘソを曲げてしまった…なんてエピソードもある。

*5 NPBにおける40代でのMVP受賞は2026年現在でも門田が唯一。チームのペナント順位は5位であったため、いかに門田の個人成績がインパクト絶大だったかが分かる。

*6 当時のNPB記録は王貞治の55本

*7 門田の入団当時はプレイングマネージャーとして、監督業をこなしながら主軸でバリバリ活躍していた。

*8 これは持病である鼻中隔湾曲が原因で、決して意図的なサボタージュではなかった事には留意。

*9 残念ながら既に故人となっており、2025年8月に腎臓がんのため56歳で死去。

*10 拙守などが発覚した際に監督が激怒してベンチ内の扇風機を蹴り壊すなどすると、川又は顔面蒼白になって引き上げる様をみのもんたが面白おかしくナレーションした

*11 同点の9回一死満塁の場面、一塁ゴロで何故か先に本塁送球をせず打者走者をアウトにすることを試み、決勝点となる三塁走者の生還を許すという判断ミスを犯した。この名称はその際の実況アナウンサーによる発言に由来

*12 佐々木の妹が佐野の実母。彼も叔父と同様に、ドラフト9位という下位指名からチームの主力にまで登り詰めている。

*13 長年ZOZOマリンスタジアムでウグイス嬢を務めた谷保恵美さんによる、特徴的な語尾の伸ばし方が元ネタ。

*14 同じくこの年ストライキの影響でNPBに移籍した現役メジャーリーガーには、シェーン・マック(巨人)、フリオ・フランコ、ピート・インカビリア(共に千葉ロッテ)、ケビン・ミッチェル(ダイエー)らがいた。

*15 横浜スタジアムでのビジター戦・1回表の場面だったため文字通りのシーズン初球である。

*16 ただし、同年は空前の新人当たり年だったため、新人王獲得とはならなかった。新人王に輝いたのは、先発投手として14勝を挙げた中日の川上憲伸。

*17 この年のドラフト1位で指名した長野久義に入団拒否された事が原因。坪井は他球団への移籍話がまとまらなかった事もあり、9000万円→2000万円という大減俸をのんで再契約している。

*18 声が大きく藤本定義監督から号令係を命じられたことで生まれた班長のあだ名で慕われた。

*19 「秦」の読み方が(特に子供のファンには)なかなか浸透せず、当時の解像度の低い電光掲示板ではこの文字が表示しづらいという問題もあったため。ちなみにパワプロなど、当時の野球ゲームにもしっかり反映されていた。

*20 この時のシーズン111安打は、現在もNPBにおける首位打者としての最少記録。

*21 ここでは割愛するが、この頃の苦労話は後に文筆家となった姉がエッセイとして発表し、1996年に『ようこそ青春金物店』のタイトルでNHKでドラマ化もされた。

*22 福留が1995年に入団拒否をした時の近鉄の監督。遺恨は全く無く、師弟関係になってからはプライベートでも食事に行く仲だったという。というより近鉄球団の体質が悪かったが、それでも川崎球場時代のロッテと似たり寄ったり。

*23 週刊誌がすっぱ抜いて初めて公になったことであり、売名目的も皆無であった。

*24 史上1位は福本豊が記録した「115」

*25 プロ野球記録は金本知憲(当時広島)が2000年〜01年にかけて記録した1002打席。

*26 西鉄から西武ライオンズに経営が変わっている。

*27 サンテレビ『真弓&勝成のExpert GOLF』

*28 この記録を達成しているのはNPB史上蓑田ただ1人

*29 後から練習した山崎の方が、先に左打ちを完全にマスターしたという。ただし、一軍に先に定着したのは高橋。

*30 この感動的なエピソードは、津田の死後にフジテレビで制作されたドラマ『最後のストライク』でもしっかり再現されている。ちなみに山崎を演じたのは、かのVシネの帝王・小沢仁志。

*31 2003年にも高橋由伸がマークしているが、彼は間に3四球を挟む14打席での記録であり、「連続打席」での安打はレイノルズが唯一。

*32 基本的に転校生はすぐには公式戦に出場できないが、養子縁組での転校ならこの締約に接触しない。鳩ヶ谷は最初からそれを口実に止むを得ない理由の名目で転校させた

*33 …の割には「モブの補欠選手」らしきキャラが確認できるコマがたまに見られたのだが

*34 チビのみはバットを自作しているため

*35 ほかはエーモンド(来日した際にアテが無かったため、チビ同様に近隣の家庭に居候)とスズ(お金持ちの家に納品され、そのまま単なる「家族」として生活)くらいと半数を切っている

*36 例えば花形は大リーグボール1号打倒のためだけに無謀な特訓を敢行し、結果1号ホームランに仕留めたものの上半身がガタガタになるほどの重傷を負っており、それについて左門は「この子達の生活を守るためにたった1打席で玉砕するような真似はできない」と述べていた。

*37 提案を聞いたクライアントから「見た目が冴えない」と断られそうになったが、飛雄馬が左門について兄妹を養う為にプロ野球選手になったと説明すると、クライアントが掌を返して快諾している。

*38 本人は飛雄馬に惚れていたが、飛雄馬自身は恋仲であった看護婦の日高美奈を亡くしており、京子から好意を伝えられた際は困り果てていた。