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反転した世界の父娘-序章

 反転した世界の親子-壱


壱。
 亜音速で飛来したミジンコが、その衝撃に耐え切れずに空中で自壊した。

 夏が近づいてきている頃だった。
 人通りのない、平日、真昼間の田舎の道路沿い。音らしい音など付近の山から鳴る木の葉のざわめきと、今が生涯の最高潮であるとばかりに騒ぎ立てるセミくらいのものだろう。
 最寄の街まで数キロ。徒歩で一時間以上の場所。
 珍しくもない風景にただ一人、男がいた。
「ああ、すっとした」
 セミが口喧しく自己主張を繰り返す街路樹の陰を、スーパーのビニール袋片手に、中身の詰まった大きなリュックサックを背負って歩いている。
 よれたカッターシャツに、薄汚れたズボン。ネクタイも締めずにこんな時間を歩く姿は、まかり間違っても何らかの職についている者の姿ではない。
 その男、上地(うえち)は、例年よりも暑いとかいう夏の熱気の所為で止まらない汗をしきりに拭いつつ、目を細めて呟いた。
 足元に転がる大きな石を踏む。なんてことのない光景であったが、唯一つ、奇妙なことがある。
 その道路には、妙に大きな石がたくさん転がっていた。こぶし大のものから、人間大のものまで大小さまざま。割れているものも、ガードレールにくっついているものもまである。
 ただ、ここにそれを気に留めるものはいない。
 そこに唯一存在する人間である上地も、晴れやかな顔で歩いている。実に幸せそうな顔であった。
 そう、幸せ。
 本当に、今、上地は幸福の中にいた。
 人気のない真昼間の平日の道路。今年で三〇にもなるというのに、無職で独身、おまけに童貞の自分を不特定多数の人間に晒さずに済む、とかそんな理由ではない。
 ただ、周りに人間がいない、人間を見ないでも良いというのは、彼にとっては無上の幸福だった。
 上地は文字通りに病的な『人類嫌い』だったから。

 ――人類などこの世から絶滅してしまえばいい。

 心の底から、そう願うほどに。


弐。
 鼻歌交じりの軽やかな足取りは、次第に早まって行く。
 ここまで、ビル街を抜け、住宅街を抜け、人の気配を何度も感じた。軽く一時間を超す長い道程は彼の足に疲労感を蓄積させていたが、むしろ表情には生気が漲ってゆく。
 思い返せばスーパーでの買い物は実に、アイアンメイデンにでも処された気分だった。
 できれば一生人里とは関わりたくないというのが率直な意見であるが、それでも悲しいかな上地は現代を生きる脆弱な人類であり、生活する上で必要になるものがどうしても出てくる。
 例えば食べるための調理器具。
 例えば暮らすための明かり。
 例えば温まるための服や毛布。
 どれも、人が人として暮らすためには必須だ。
 リュックサックとビニール袋の中に詰まっているのはまさにそれ。彼が――いや、彼らが暮らしていくための必需品。
 道路沿いの道を進み続け、山道に差し掛かったあたりで、上地は道路を剃れて木々の合間に身を滑らせて行く。
 慣れているとばかりの迷い無き足取りが導いたその場所は、小ぢんまりとした木造の廃寺院だった。
 庭のつくりは仏教系だが、切妻屋根の拝殿や幣殿は神道系のものだろう。手水舎はあるのに、鳥居や狛犬などはない。上地は、諸々の宗教がごちゃ混ぜになったマイナーな田舎の信仰のものなのだろうと見ているが、どうせ廃れたモノだ。どうでも良い話である。
 長い間放置されていたのだろう、境内は荒れ果て、草もぼうぼうに生い茂っている。ここに至る道らしい道もなく、人の世から隔絶された空間。しかし、建物も古びてはいるものの意外としっかりしていて、中で暮らすには丁度良い。
 思わず安堵のため息が出た。
 買出しのために地獄のような人里にでて早数時間。苦行が終わり、報われる時がきたのだ。
「ただいま。帰ってきたよ」
 えっちらおっちらと荷物を抱えて拝殿に入ろうとする上地が、足を止めた。
「お父様」
 日差しを遮る古びた屋根と、拝殿の部屋々々の合間を流れる風が作った清涼な空気の中を、さらに涼やかな声が通ってゆく。
「やあ、待たせてしまったね」
 いよいよ彼の顔が、笑顔になる。声の主へと、暑さで胡乱気だった視線が集中する。
 サイズの合っていないカッターシャツ一枚という、大雑把とも、ともすれば倒錯的ともとれる服装の少女がいた。
 身長は百五十半ばほどで、上地より頭一つ分低い。年は、高校生に成り立てといった程度であろうか。整った顔は人間味を感じさせない無表情。抜けるような白い肌。摩訶不思議な苔色をしたボブカットの髪。頬や、裾から覗く手には白色の鱗のようなものが数枚生えている。
 常人とは隔絶した、山中にいることが極めて自然と他者に感じさせる存在感。
 彼女は、この廃寺院の住人だった。
 彼女は、上地の唯一の家族だった。
 彼女は、上地の娘だった。
 上地と彼女は、人里を避けてたった二人で、この廃寺院で暮らしているのだった。


参。
「お父様、荷物、わたしが持ちます」
 体重を感じさせない軽やかさで、娘が父親の隣へ駆け寄る。
 上地は大丈夫だと微笑んで首を横に振るが、彼女は有無を言わさず、さっさと荷物を奪い取った。
 ――ビニール袋だけではなく、上地の背負うリュックサックも。当然、背負い主ごと。
 恐ろしいことに片手で、えんぴつ一本でも持つかのような気軽さで。
 そのまま歩いて拝殿の中へ。大人の男と大荷物の重みでか、床がきしむ音を立てた。
「うわッ、こら、やめなさ――」
「やめません。四時間三二分と一五秒、わたしは一人でした」
「そ、それは仕方ないだろう! ここからスーパーまで随分距離があるんだから――」
「知りません。四時間……二十八分と……ええと、五五秒? わたしは一人でした」
「ああ、時間は細かいところうろ覚えなんだ――じゃなくて!」
 相も変わらずの無表情で淡々と寂しさアピールをする娘の頭に、手加減したチョップを一つ落とす。
「痛いです」
 そういうも、やはり表情はピクリとも動いていなかった。
「この後君に、乱暴に床に投げ落とされるであろう未来のぼくは、きっともっと痛い思いをしている」
「未来のお父様ということは、未だ来ていないお父様ということです。『している』という現在形の表現には矛盾が見られるかと」
「ならば言い直そう。君が不器用であることはよく知っている。というか、前にもこれと同じ状況に陥り、痛い目を見た経験がある。故に、この後ぼくは以前と同様に君によって痛い目をみるのだと予測できた。その未来を回避するためにぼくは君を止めねばならない」
「安心してください。今度は前よりも丁寧に降ろします」
 意固地になっているのか、チョップを意に介さず、父を担ぎ上げたまま奥の本殿へと向かう。
 娘の様子に観念してか、上地も抵抗をやめて脱力する。
 少なくとも寂しい思いをさせてしまったのは事実なのだ。埋め合わせというわけではないが、少しは言うことも聞いてあげよう。多少痛いが、その程度は受け止めるのが父の度量というものである。
 そうして居間代わりに使っている部屋の一つに入ると、看板でも突き立てるように、
「投げないで、置く」
 ――勢いよく上地を床に突き立てた。
 床板が抜けた。
「……正座」
「ごめんなさい」
 家を壊す娘を怒るのも、父親の役目だろう。

 都会から離れた田舎の山の中、誰も近寄らない廃寺院。そこには奇妙な父娘が住んでいる。
 この二人が再び世間に――その闇に関わるのは、まだしばらく先のこと。

 日常&殺伐編につづく。かもしれない。

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最終更新:2016年01月08日 21:07