「博物館動物園駅跡 K電鉄株式会社」夕闇の中、そう刻まれたレリーフの後ろに小ぢんまりと古びた石造りの建物が静かに佇んでいる。
「ペンギン、見に来たのか?」
ぼんやりとその建物を見上げていた中学生くらいの少年に、背中越しにかけられる声。
のろりと振り返る少年は軽く首を振る。
「……きれいな建物だなと思って」
振り向いて答える少年の目に入ったのは、薄汚れたコートを着たひょろりとやせた無精ひげの中年の男。
何日も風呂に入ってない人間特有の体臭がむわりと寄せてきて、不快感よりなによりも続けて数回くしゃみが止まらなくなる少年。暫くして呼吸が整えば改めて相手の顔を見上げて。
「ペンギンって?」
「ペンギンの壁画があるんだよ、この中にさ。この駅から動物園に向かうときに、まず目に入る場所にさ。
知らないか?結構有名だぞ。あれは、いい画だぜ。
俺ももう一度見てェな。まあ、今は立ち入り禁止だがね、ごらんのとおり」
がはは、と大きく口を開けて男は笑う。
「ぼーずも、絵を描くんだろ?」
少年が小脇に抱えたスケッチブックと画材のかばんを指さして、男が尋ねた。
汚れたコートの裾からひょいと伸ばされた腕には手首が無い。
手首の先はきちんとあって、少年を指さしているが、前腕とその手をつなぐ手首のあたりにはぽかんと空間が広がり、
コートの裏地が透けて見える。
「う、わ!? 手、どうなってんのそれ?」
男の質問に答えるよりも驚きのほうが大きくて、少年は叫んで彼に駆け寄ると、まじまじとその手を覗き込む。
「ふふふ、俺ァ、魔法使い、だからな?」
驚きの反応に満足したのか、得意げにそんなことを言いながら男はひらひらと、手首のない腕を隠す様子もなく差し出して見せる。
間近でまじまじと見れば、立体感とともに視差の魔法は簡単に効力を失い、
手首に計算された角度で精緻に描かれたコートの裏地模様が浮かび上がった。
「……なんだ、絵なんだ。……でも、凄い」
「おもしれえだろ? ボディペイントって言うんだぜ」
じゃあな、と手を振って、気まぐれに声をかけた男はそのままほてほてとその場を歩き去ろうとする。
少し戸惑ったのち、軽い足音が後を追いかけてくるのに、男は驚いた顔で後ろを振り返り、尋ねた。
「家帰らないと、もう遅ェぞ?」
「帰りたくない」
***
どうしても家に帰りたくないという少年を、丈二は仕方なく自分の「家」へ連れて行った。
拾い集めたアルミシートやらトタン板やらポリ袋やらの、『ゴミ』としか呼ばない人間のほうが多いであろう彼の城へ。
声をかけたのも気まぐれなら、彼の「絵」を見せたのも気まぐれ、何やら家出息子風であるにも関わらず家に連れ込んだのも気まぐれ。
ただの気まぐれではあったが、あまり口を利かないその少年と過ごすのは存外に楽しかった。
色々なことを話し、そのうちの8割は下らない日々の出来事やら自分の過去の身の上話やら、
少年にとっては特に興味もないことだろうと思うような話でも、何故かその少年は黙って聞いている。
「子供のくせに人の話を聞くのが上手いな、
ミサコは」
「ひとりで勝手に下らない話ずっと喋るひとなら、二人知ってる」
「誰だよ」
「親」
家出の理由を問い詰めるタイミングなのかもしれない、と思ったが、続ける言葉が浮かばず、丈二は黙り込む。
そうとも、こんな暮らしをしている自分がそんなまっとうぶった大人の態度で何かモノをいうのも口幅ったい。
「ま、俺の話も下らネェけどな?」
「全然。面白い」
きっと誰かが、こんな暮らしにそぐわない中学生を目にとめた親切で良心的な社会人の誰かが、すぐに警察にでも通報して彼を連れ戻してくれるだろう。
それまでは、良い身なりの割には抵抗なくすんなりと俺の「城」に馴染んで、俺の話や絵を興味津々に見聞きしてくれるこの珍客を、
俺なりにオモテナシさせて貰っても、そうそうでかい罰が当たるものでもあるまいさ。
***
「強盗・誘拐の容疑で逮捕する」
だから、そんな数週間ののち、とある夜、駆け込んできた警察官にそういわれた時も、いつの間に話はそんなにでっかい事になったんだ、と、思っただけだった。
警察官たちが、俺の城をひっくり返して、まったく見慣れないジュラルミンケースを引っ張り出し、その蓋を開けて見慣れない札束を懐中電灯で照らしながら頷き合い、
俺の手に手錠をかけようとした時ですら、現実感は厚紙数枚隔てた向こう側にふらふらと漂っているようだった。
「丈二さん、に、げないと」
手錠を構えた警察官にそこらのものを投げつけ、俺の腕を家の外へと引っ張ったのは、ミサコだった。
逃がすな、だの、撃つな、子供にあたる、だの、至急応援を、だのの警察官の声が背中ごしに遠くなる。
コイツは逃げ切れると思っているんだろうなあ、と腕を引っ張って走る少年の顔を眺め、荒い息であとをついて走りながらもぼんやりと考えた。無理だろう?
このT都で、警察組織に追われたホームレス一人、しかもなんだか手の込んだペテンにかけられているらしい。あの大金はなんなんだ?
「……駅のペンギン、見にいくか」
もう走れない、と思ったあたりでチョイと片手をあげて、丈二はなおも腕をぐいぐいと引っ張る少年の足を止める。
「そんな場合じゃ。俺のせいだ、丈二さん、なんかのついでにはめられたんだ。絶対捕まる」
この子は何かこの事態の原因に心当たりがあるのだろうか。
ひどく動揺した表情でこちらを見上げてそう言う少年に、なけなしの意地で一つ頭を撫でて少し笑ってみせる。
「トンネルの脇から、コッソリはいれる通路があるのさ。俺しか知らない秘密だけどな。工事にちょいとかかわってたからよ、昔。
……入れちまえば、暫く見つからない。あそこは立ち入り禁止だ。そのうち、見せてやりてぇと、思ってた」
***
トンネル脇の、半ば土に埋もれた鉄の扉を開けると、丈二の言った通りに地下へ続く古ぼけた梯子がそこにあった。
ぽつり、と時折非常灯がともるほかは真っ暗な駅の構内まで、長く動いていない空気に特徴的な湿った匂いを嗅ぎながら、
そろり、そろりと二人は進む。
「はは。そこの階段上ったら、ペンギンの画があるんだけど、真っ暗だから見えねェなあ……。いい画なんだぜ、あれは」
闇に多少目が慣れたあたりで、丈二がそう言って、ゆるりと駅の階段を登り切ったあたりを指さした。
それが、合図だったかのように。
真っ暗な駅の電源が急激に生き返る。 天井の照明が、いくつか切れた蛍光管以外は一斉に、
旧式なそれの点滅光ののちに構内を隅々まで照らし出す。
階段の踊り場の上に、あちこちはげてくすんだペンギンの壁画が浮かび上がる。
しゃんとまっすぐに、背を伸ばして、並んでどこか遠くの海へと視線を投げる、飛べない鳥。
突然の光にくらまされた視界が戻るまでには丈二の意識はほぼ同時に背後から続けて放たれたいくつもの銃弾により奪い去られた。
「……ぼっちゃん、おいたがすぎますよ」
「まあ、ひと気のない『都合の良い場所』を選んではくれましたが」
何人もの警官がそうして少年をとりかこむ。その服のボタンに偽装された発信機を、男たちの一人がニヤニヤと笑って引っ張った。
「さあ、おうちに帰りましょう。『犯人』は片付きましたし、ぼっちゃんも『多額の身代金』も無事とりもどせてよかった。
お父様もお喜びになるでしょう。ご心配なさっていましたよ?」
***
大学近くのU野駅方面に向かうK電鉄電車の扉に凭れて窓の外を眺めていると、ほどなく流れる景色がトンネルの闇に閉ざされる。
そうしてしばらくすると、今はトンネルの非常口代わりになっているその駅の灯りがちらりと一瞬だけ過る。
ペンギンの壁画は、覚えていない。
見るべきだったのだ。
せめて俺はあの画を見るべきだった。
彼が見たかった、あの画を。
<了>
最終更新:2016年03月04日 16:14