巻七 本紀第七つづき



  順宗至徳弘道大聖大安孝皇帝は、諱を誦といい、徳宗の長子である。母は昭徳皇后王氏といった。始め宣城郡王に封じられ、大暦十四年(779)六月、宣王に進封された。十二月乙卯、立てられて皇太子となった。

  人となりは寛容で、学芸を喜び、隸書をよくし、師傅への礼儀を重んじて、面会すればたちまち先に拝礼した。徳宗に従って奉天に行幸し、常に弓矢をとって左右にいた。郜国公主は巫蠱の事で罪となり、太子妃はその娘であったから、徳宗は疑い、廃妃にしようとすることは何度もあったが、李泌の保護をたのみ、免れた。後に魚藻宮での宴に侍り、水上遊戯し舟を彩りし、宮人に舟唄を歌わせ、楽を演奏させると、徳宗は非常に喜び、太子に振り返って、「今日はどういうことか」と尋ね、太子は詩経の「音楽を楽しんでも頽廃することはない」によって答えた。裴延齢韋渠牟が重用され、世間では宰相になるのではないかと恐れたが、太子は候るごとに顔色を伺うから、不可だと述べた。そのため二人はついに用いられなかった。

  貞元二十年(804)、太子は風病により口がきけなくなった。

  貞元二十一(805)年正月、朝廷に参加することができなくなった。この時、徳宗は重病となり、諸王は全員左右に侍っていたが、ただ太子だけが病で臥せり、見舞いすることができず、徳宗は悲しみのあまり涙を流し、病の進行が進んだ。癸巳、徳宗が崩じた。丙申、太極殿で皇帝の位についた。
  二月癸卯、群臣を紫宸門で朝した。辛亥、吏部侍郎の韋執誼が尚書左丞・同中書門下平章事となった。甲子、大赦した。宮市を廃止した。民で百歳に下州の刺史を、婦人に郡君を版授した。九十歳以上に上佐を、婦人に県君を版授した。乙丑、塩鉄使の月進を廃止した。
  三月庚午、後宮の三百人を放った。癸酉、後宮および教坊の女妓六百人を放った。癸巳、広陵郡王李純を立てて皇太子とした。
  四月壬寅、弟の李諤を封じて欽王とし、李諴を珍王とした。子の建康郡王李経を進封して郯王とし、洋川郡王李緯を均王とし、臨淮郡王李縦を漵王とし、弘農郡王李紓を莒王とし、漢東郡王李綱を密王とし、晋陵郡王李総を郇王とし、高平郡王李約を邵王とし、雲安郡王李結を宋王とし、宣城郡王李緗を集王とし、徳陽郡王李絿を冀王とし、河東郡王李綺を和王とし、子の李絢を封じて衡王とし、李纁を会王とし、李綰を福王とし、李紘を撫王とし、李緄を岳王とし、李紳を袁王とし、李綸を桂王とし、李繟を翼王とした。戊申、皇太子を冊立したから、死罪以下を一等降し、文武官の子で父の後嗣となる者に勲両転を賜った。
  七月辛卯、横海軍節度使の程懐信が亡くなり、その子の程執恭が留後を自称した。乙未、皇太子を権勾当軍国政事とした。太常卿の杜黄裳が門下侍郎となり、左金吾衛大将軍の袁滋が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。鄭珣瑜高郢が宰相を罷免された。

  永貞元年(805)八月庚子、皇太子を立てて皇帝とし、自ら称して太上皇といった。辛丑、改元した。死罪以下を一等降した。良娣王氏を立てて太上皇后とした。

  元和元年(806)正月、皇帝が群臣を率いて尊号をたてまつって応乾聖寿太上皇とした。この月、咸寧殿で崩じ、年は四十六で、諡を至徳大聖大安孝皇帝といった。大中三年、至徳弘道大聖大安孝皇帝と増諡された。


  憲宗昭文章武大聖至神孝皇帝は、諱を純といい、順宗の長子である。母は荘憲皇太后王氏といった。貞元四年(788)六月己亥、広陵郡王に封じられた。貞元二十一年(805)三月、立てられて皇太子となった。

  永貞元年(805)八月、順宗の詔により立って皇帝となった。乙巳、太極殿で皇帝の位についた。丁未、聴政を始めた。庚戌、祥瑞の献上を廃止した。癸丑、剣南西川節度使の韋皋が卒し、行軍司馬の劉闢が留後を自称した。戊午、天で西北に声があった。己未、袁滋が剣南西川・山南西道安撫大使となった。癸亥、尚書左丞の鄭余慶が同中書門下平章事となった。
  九月己巳、教坊の楽工の正員官を廃止した。
  十月丁酉、曾太皇太后のために挙哀した。賈耽が薨去した。戊戌、舒王李誼が薨去した。袁滋が宰相を罷免された。己酉、神武聖文皇帝崇陵に葬った。
  十一月己巳、睿真皇后元陵の寝宮に祀った。壬申、韋執誼を左遷して崖州司馬とした。夏綏銀節度留後の楊恵琳がそむいた。
  十二月壬戌、中書舎人鄭絪が中書侍郎・同中書門下平章事となった。

  元和元年(806)正月丁卯、大赦し、改元した。文武の官に階・勲・爵を、民で高年の者に米・帛・羊・酒を賜った。癸未、長武城使の高崇文が左神策行営節度使となり、左右神策京西行営兵馬使の李元奕・山南西道節度使の厳礪・剣南東川節度使の李康を率いて劉闢を討った。甲申、太上皇が崩じた。劉闢が梓州を陥落させ、李康を捕らえた。
  三月丙子、高崇文が梓州を落とした。辛巳、楊恵琳が処刑された。
  四月丁未、杜佑が司徒となった。壬戌、邵王李約が薨去した。初めて尚書省の六品・諸司の四品以上の職事官、太子師傅・賓客・詹事、王府傅を、一日二人の待制とした。
  五月辛卯、を尊んで皇太后とした。
  六月癸巳、死罪以下を一等降した。百姓で父母・祖父母の八十歳以上がいる者に粟二斛・物二段を、九十歳以上がいる者に粟三斛・物三段を賜った。丙申、大風で木が抜けた。丁酉、高崇文劉闢と鹿頭柵で戦い、これを破った。癸卯、厳礪がまた石碑谷でこれを破った。
  閏月壬戌、平盧軍節度使の李師古が亡くなり、その弟の李師道が留後を自称した。
  七月壬寅、至徳大聖大安孝皇帝豊陵に葬った。癸丑、高崇文劉闢と玄武で戦い、これを破った。
  八月丁卯、子の平原郡王李寧を進封して鄧王とし、同安郡王李寛を澧王とし、延安郡王李宥を遂王とし、彭城郡王李察を深王とし、高密郡王李寰を洋王とし、文安郡王李寮を絳王とした。子の李審を封じて建王とした。
  九月丙午、厳礪劉闢と神泉で戦い、これを破った。辛亥、高崇文が成都で勝利した。
  十月甲子、剣南東西川・山南西道のこの年の賦を減らし、脅かされて従った将官・役人を許した。戦死者を葬り、その家に五年間免税とした。戊子、劉闢が処刑された。
  十一月庚戌、鄭余慶が宰相を罷免された。
  この年、召王李偲が薨去した。

  元和二年(807)正月己丑、太清宮で朝献した。庚寅、太廟で朝享した。辛卯、南郊を有司摂祭で祀り、大赦した。文武の官に勲・爵を賜り、文宣公・二王後・三恪・公主・諸王の一子に官を、老年者に米帛羊酒を賜い版授を加えた。乙巳、杜黄裳が罷免された。己酉、御史中丞の武元衡が門下侍郎となり、中書舎人の李吉甫が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
  二月己巳、両省官の次対(待制官)を廃止した。癸酉、邕管経略使の路恕が黄洞蛮を破り、その首領の黄承慶を捕らえた。
  九月乙酉、密王李綢が薨去した。
  十月、鎮海軍節度使の李錡がそむき、留後の王澹を殺した。乙丑、淮南節度使の王鍔が諸道行営兵馬招討使となってこれを討った。丁卯、武元衡が宰相を罷免された。癸酉、鎮海軍兵馬使の張子良李錡を捕らえた。己卯、潤州でこの年の税を免除した。
  十一月甲申、李錡が処刑された。
  十二月丙寅、剣南西川節度使の高崇文が邠寧節度・京西諸軍都統となった。

  元和三年(808)正月癸巳、群臣が尊号をたてまつって睿聖文武皇帝といい、大赦した。諸道で任期満了による新旧官吏交代時に奉銭をたてまつることを廃止した。
  三月癸巳、郇王李総が薨去した。
  四月壬申、大風が含元殿の西の闕檻を壊した。
  六月、西原蛮の首領の黄少卿が降った。
  七月辛巳朔、日食があった。
  九月庚寅、山南東道節度使の于頔が司空・同中書門下平章事となった。丙申、戸部侍郎の裴垍が中書侍郎・同中書門下平章事となった。戊戌、李吉甫が宰相を罷免された。

  元和四年(809)正月壬午、山南東道・淮南・江西・浙東・湖南・荊南でこの年の税を免除した。戊子、簡王李遘が薨去した。
  二月丁卯、鄭絪が宰相を罷免された。給事中の李藩が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  三月乙酉、成徳軍節度使の王士真が亡くなると、その子の王承宗が留後を自称した。
  閏月己酉、旱魃のため、京師の死罪で殺人者ではない者に一等を降し、刺史の管轄内での専売税の税率・諸道で詔令外の進献、嶺南・黔中・福建で良民を拐い奴婢とすることを禁じ、飛龍厩の馬を減らした。己未、雨。丁卯、鄧王李寧を立てて皇太子とした。
  七月癸亥、吐蕃が和を請うた。
  八月丙申、環王が安南を寇し、都護の張舟がこれを破った。
  十月辛巳、成徳軍節度使の王承宗がそむき、保信軍節度使の薛昌朝を捕らえた。癸未、左神策軍護軍中尉の吐突承璀が左右神策・河陽・浙西・宣歙・鎮州行営兵馬招討処置使となってこれを討った。戊子、吐突承璀が鎮州招討宣慰使となった。癸巳、死罪以下を一等降し、文武官の子で父の後継者に勲両転を賜った。
  十一月己巳、彰義軍節度使の呉少誠が亡くなり、その弟の呉少陽が留後を自称した。

  元和五年(810)正月己巳、左神策軍大将軍の酈定進王承宗と戦い、ここに死んだ。
  三月甲子、大風で木が抜けた。
  四月丁亥、河東節度使の范希朝・義武軍節度使の張茂昭王承宗と木刀溝で戦い、これを破った。
  七月丁未、王承宗を赦した。乙卯、幽州盧龍軍節度使の劉済が亡くなり、その子の劉総が留後を自称した。
  九月丙寅、太常卿の権徳輿が礼部尚書・同中書門下平章事となった。
  十月、張茂昭が易・定の二州をもって官吏に帰順した。辛巳、義武軍都虞候の楊伯玉がそむき、処刑された。この月、義武軍兵馬使の張佐元がそむき、処刑された。
  十一月甲辰、会王李纁が薨去した。庚申、裴垍が罷免された。

  元和六年(811)正月庚申、淮南節度使の李吉甫が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  二月壬申、李藩が宰相を罷免された。己丑、忻王李造が薨去した。
  二月戊戌、隕石が鄆州に落ちた。
  十二月己丑、戸部侍郎李絳が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  閏月辛卯、辰州・漵州の首領の張伯靖がそむき、播州・費州の二州を寇した。辛亥、皇太子が薨去した。

  元和七年(812)正月癸酉、振武河が氾濫し、東受降城を破壊した。
  四月癸巳、詔して民の田畝に桑の樹二本を植えさせた。
  六月癸巳、杜佑が宰相を罷免された。
  七月乙亥、遂王李宥を立てて皇太子とした。
  八月戊戌、魏博節度使の田季安が亡くなり、その子の田懐諌が知軍府事を自称した。
  九月、京師で地震があった。
  十月乙未、魏博軍が田季安の将の田興を知軍事とした。庚戌、降死罪以下、文武官の子で父の後嗣である者に勲両転を賜った。この月、魏博節度使の田興が六州をもって官吏に帰順した。
  十一月辛酉、魏州・博州・貝州・衛州・澶州・相州の六州で赦し、一年間の免税を給い、老年者・一人者・病人に粟帛を賜い、軍の兵士を賞した。

  元和八年(813)正月辛未、権徳輿が宰相を罷免された。
  二月丁酉、于頔を左遷して恩王の傅とした。
  三月甲子、剣南西川節度使の武元衡が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  四月己亥、黔中経略使の崔能張伯靖を討った。
  五月癸亥、荊南節度使の厳綬張伯靖を討った。丁丑、大隗山が崩れた。
  六月辛卯、渭水が氾濫した。辛丑、宮人を出した。
  七月己巳、剣南東川節度使の潘孟陽張伯靖を討った。
  八月辛巳、湖南観察使の柳公綽張伯靖を討った。丁未、張伯靖が降った。
  十二月庚寅、振武の将の楊遵憲がそむき、その節度使の李進賢を追放した。

  元和九年(814)二月癸卯、李絳が宰相を罷免された。
  三月丙辰、巂州で地震があった。丁卯、霜がおりて桑を枯らせた。
  五月乙丑、桂王李綸が薨去した。癸酉、旱魃によって京畿の夏の税を免除した。
  六月壬寅、河中節度使の張弘靖が刑部尚書・同中書門下平章事となった。
  閏八月丙辰、彰義軍節度使の呉少陽が亡くなり、その子の呉元済が知軍事を自称した。
  九月丁亥、山南東道節度使の厳綬・忠武軍都知兵馬使の李光顔・寿州団練使の李文通・河陽節度使の烏重胤呉元済を討った。
  十月、太白(金星)が昼に見えた。丙午、李吉甫が薨去した。甲子、厳綬が申・光・蔡招撫使となった。
  十一月戊子、京兆府で十二月に狐や兎を献上することを廃止した。
  十二月、刑部・大理官に詔して朔(一日)・望(十五日)に質疑に返答させた。戊辰、尚書右丞の韋貫之が同中書門下平章事となった。

  元和十年(815)正月乙酉、宣武軍節度使韓弘が司徒となった。
  二月甲辰、厳綬呉元済と磁丘で戦い、敗れた。冬からこの月にいたるまで雨が降らなかった。丙午、雪が降った。壬戌、河東の守将の劉輔が豊州刺史の燕重旰を殺し、処刑された。
  三月庚子、忠武軍節度使の李光顔呉元済と臨潁で戦い、これを破った。四月甲辰、また南頓でこれを破った。五月丙申、また時曲でこれを破った。
  六月癸卯、盗人が武元衡を殺した。戊申、京師で大捜査が行われた。乙丑、御史中丞の裴度が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  七月甲戌、王承宗に罪があり、その朝貢が絶えた。
  八月己亥朔、日食があった。丁未、李師道の将の訾嘉珍が東都でそむき、留守の呂元膺がこれを破った。乙丑、李光顔呉元済と時曲で戦い、敗れた。
  九月癸酉、韓弘が淮西行営兵馬都統となった。
  十月、地震があった。
  十一月壬申、李光顔烏重胤呉元済と小溵河で戦い、これを破った。丁丑、李文通がまたこれを固始で破った。戊寅、盗人が献陵の寝宮を焚いた。
  十二月甲辰、武寧軍都押衙の王智興李師道と平陰で戦い、これを破った。
  この年、丹王李逾が薨去した。

  元和十一年(816)正月己巳、張弘靖が宰相を罷免された。乙亥、幽州盧龍軍節度使の劉総王承宗と武彊で戦い、これを破った。癸未、賊と隣接する州で二年間の税を免除した。甲申、盗賊が建陵の門の戟を切断した。
  二月庚子、王承宗が蔚州を焼き払った。乙巳、中書舎人の李逢吉が門下侍郎・同中書門下平章事となった。乙丑、地震があった。
  三月庚午、皇太后が崩じた。
  四月庚子、李光顔烏重胤呉元済と凌雲柵で戦い、これを破った。乙卯、劉総王承宗と深州で戦い、これを破った。己未、京畿で二年間の未納の税を免除した。
  五月丁卯、宥州軍が乱を起こし、その刺史の駱怡を追放したので、夏綏銀節度使の田縉がこれを破った。丁亥、雲南蛮が安南を寇した。
  六月、密州で津波があった。甲辰、唐鄧節度使の高霞寓呉元済と鉄城で戦い、敗れた。
  七月壬午、韓弘が元済と郾城で戦い、これを破った。丙戌、淮西の賊と隣接する州の夏税を免除した。
  八月甲午、渭水が氾濫した。壬寅、韋貫之が罷免された。戊申、西原蛮が賓・巒二州を陷した。己未、昭義軍節度使の郗士美王承宗と柏郷で戦い、これを破った。庚申、荘憲皇太后豊陵に葬った。
  十一月乙丑、邕管経略使の韋悦が賓州・巒州の二州を落とした。甲戌、元陵で火事があった。
  十二月丁未、翰林学士・工部侍郎の王涯が中書侍郎・同中書門下平章事となった。己未、西原蛮が巖州を陷した。
  この冬、桃李が花咲いた。

  元和十二年(817)正月丁丑、地震があった。戊子、彗星が畢に出た。
  四月辛卯、唐鄧隋節度使の李愬呉元済と査岈山で戦い、これを破った。乙未、李光顔がこれを郾城で破った。五月辛酉、李愬がまたこれを張柴で破った。
  七月丙辰、裴度が淮西宣慰処置使となり、戸部侍郎の崔群が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
  八月癸亥、烏重胤呉元済と賈店で戦い、敗れた。
  九月丁未、李逢吉が宰相を罷免された。甲寅、李愬呉元済と呉房で戦い、これを破った。
  十月癸酉、蔡州を落とした。甲戌、淮南節度使の李鄘が門下侍郎・同中書門下平章事となった。甲申、淮西に二年免税とし、旁州で来る年の夏税を免除した。戦死者を葬り、その家に五年免税とした。
  十一月丙戌、呉元済が処刑された。甲午、恩王李連が薨去した。
  この年、容管経略使の陽旻が欽州・横州・潯州・貴州の四州を落とした。

  元和十三年(818)正月乙酉、大赦し、元和二年以前の未納の税を免除し、老年者に米・帛・羊・酒を賜った。
  三月戊戌、御史大夫の李夷簡が門下侍郎・同中書門下平章事となった。李鄘が宰相を罷免された。己酉、横海軍節度使の程権が滄州・景州の二州をもって官に帰順し、程権が京師に入朝した。
  四月甲寅、王承宗が徳州・棣州の二州を献じた。庚辰、王承宗を赦した。
  六月癸丑朔、日食があった。癸亥、徳州・棣州・滄州・景州の四州に一年の免税を賜った。辛未、淮水が氾濫した。
  七月乙酉、宣武軍魏博義成軍横海軍李師道を討った。辛丑、李夷簡が罷免された。
  八月壬子、王涯が宰相を罷免された。
  九月甲辰、戸部侍郎の皇甫鎛、諸道塩鉄転運使の程异が工部侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
  十月壬戌、吐蕃が宥州を寇したので、霊武節度使の杜叔良が定遠城でこれを破った。
  十一月丁亥、山人の柳泌を台州刺史として薬を求めるよう命じた。
  十二月、庚戌、仏骨を鳳翔で迎えた。

  元和十四年(819)正月丙午、田弘正李師道と陽穀で戦い、これを破った。
  二月戊午、李師道が処刑された。
  四月辛未、程异が薨去した。丙子、裴度が宰相を罷免された。
  七月戊寅、韓弘が汴州・宋州・亳州・潁州の四州をもって官吏に帰順し、韓弘が京師に入朝した。己丑、群臣が尊号をたてまつって元和聖文神武法天応道皇帝といった。大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜った。黜陟使を全国に派遣した。辛卯、沂海の将の王弁がその観察使の王遂を殺し、留後を自称した。丁酉、河陽節度使の令狐楚が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  八月己酉、韓弘が中書令となった。
  九月戊寅、王弁が処刑された。
  十月壬戌、安南の将の楊清がその都護の李象古を殺してそむいた。癸酉、吐蕃が塩州を寇した。
  十一月辛卯、朔方の将の史敬奉が吐蕃と瓠蘆河で戦い、これを破った。
  十二月乙卯、崔群が宰相を罷免された。

  十五年(820)正月、宦者の陳弘志らがそむいた。庚子、皇帝が崩じ、年は四十三で、諡を聖神章武孝皇帝といった。大中三年(849)、昭文章武大聖至神孝皇帝と諡を加えられた。


  賛にいわく、徳宗は猜疑心があって酷薄で、物事に精通していて実行力があると自任していたから、正論に屈せられるのを恥じておきながら、悪者の阿諛に欺かれていることを忘れるのである。そのため蕭復が自分を軽んじているのではないかと疑い、姜公輔が実直で名声を重んじる人であると言われても、受け入れることができなかったのである。盧𣏌趙賛を用いて、国家の危機に陥るとようなことがあっても、ついぞ後悔しなかった。奉天の難によって、深く自ら以前の失敗を戒め、遂に姑息の政治を行った。これによって朝廷はますます弱くなって、方鎮はいよいよ強くなり、唐の滅亡へと至った患いは、これによったのである。憲宗は剛明かつ果断で、即位のはじめより、心を発奮させ、志は朝廷に叛く者を平定することで、よく忠謀の者を用い、群議に惑わされず、ついに成功を収めた。呉元済が誅殺されてから、強力な藩鎮や将は皆悔い改めて帰順したいと思った。この時にあたって、唐の威令は、ほとんど以前のように振るったから、その優劣は、比較せずとも知ることができよう。その晩節になると、ろくでなしを信用し、その業は終わらず、身は不測の災いに遭い、それは徳宗よりもひどいものであった。ああ、小人の国を衰退させるのは、必ずしも愚君・暗主ではなく、聡明・聖智とはいえ、かりそめにも惑されることがあれば、心配しないものはおらず、昔韓愈が、「順宗は東宮にあること二十年、天下は密かにその恩恵を受けた。しかし国を継承してから日が浅くして、不幸にも病にかかり、なにもできなかった」と述べたが、また悲しむべきことである。


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最終更新:2025年01月16日 02:56
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