巻八 本紀第八

唐書巻八

本紀第八

穆宗 敬宗 文宗 武宗 宣宗


  穆宗睿聖文恵孝皇帝は、諱を恒といい、憲宗の第三子である。母は懿安皇太后郭氏といった。始め建安郡王に封ぜられ、遂王に進封され、彰義軍節度使を遙領した。元和七年(812)、恵昭太子が薨去すると、左神策軍中尉の吐突承璀が澧王李惲を立てようとしたが、李惲の母が卑賎だったため立てることができず、遂王を立てて皇太子とした。

  元和十五年(820)正月庚子、憲宗が崩ずると、陳弘志吐突承璀澧王を殺した。辛丑、皇太子に柩の前で皇帝の位につくよう詔を遺し、司空兼中書令の韓弘が葬儀を取り仕切った。
  閏月丙午、皇太子太極殿で皇帝位についた。丁未、皇甫鎛が左遷されて崖州司戸参軍となった。戊申、聴政を始めた。辛亥、御史中丞の蕭俛・中書舎人で翰林学士の段文昌を中書侍郎・同中書門下平章事とした。乙卯、を尊んで皇太后とした。戊辰、京師で地震があった。
  二月丁丑、大赦をおこなった。文武の官に階・爵を、老人に粟帛を賜い、二王三恪(北魏・北周・隋の後裔)・文宣公(孔子)・嗣王・公主・県主・建国の功臣および第一等の功臣の家の一子に官位を与えた。掖庭に没籍された者を解放した。丹鳳門に行幸して俳優を観賞した。丁亥、左神策軍に幸して角觝・倡戯(いずれも雑技)を観賞した。乙未、吐蕃が霊州を寇した。丙申、丹王李逾が薨去した。
  三月乙巳、杜叔良が吐蕃と戦い、これを破った。戊辰、大風にして雹が降った。辛未、楊清が処刑された。
  五月庚申、聖神章武孝皇帝景陵に葬った。
  六月丁丑、韓弘が宰相を罷免された。
  七月丁卯、令狐楚が宰相を罷免された。
  八月乙酉、容管経略留後の厳公素が黄洞蛮と神歩で戦い、これを破った。戊戌、御史中丞の崔植が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  九月辛丑、魚藻宮で競渡・角觝を観賞し、音楽を用いた。
  十月庚辰、王承宗が亡くなった。辛巳、成徳軍観察支使の王承元が鎮州・趙州・深州・冀州の四州をもって官吏に帰順した。癸未、吐蕃が涇州を寇し、右神策軍中尉の梁守謙が左右神策・京西・京北行営都監となってこれを禦いだ。丙戌、吐蕃が遁走した。
  十一月癸卯、鎮州・趙州・深州・冀州の四州の死罪以下を赦し、成徳軍の将兵に銭を賜った。
  十二月庚辰、城南で狩猟した。壬午、右神策軍で撃鞠し、ついで城西で狩猟した。甲申、苑北で狩猟した。

  長慶元年(821)正月己亥、太清宮で朝献した。庚子、太廟で朝享した。辛丑、南郊を有事摂事にて祀った。大赦し、改元し、文武の官に階・勲・爵を賜った。己未、翼に孛(ほうきぼし)が入った。壬戌、蕭俛が宰相を罷免された。丁卯、太微が星孛に入った。
  二月乙亥、麟徳殿にて楽を観賞した。丙子、神策諸軍の雑伎を観賞した。己卯、劉総が盧龍軍八州をもって官吏に帰順した。壬午、段文昌が宰相を罷免された。翰林学士・戸部侍郎の杜元穎が同中書門下平章事となった。辛卯、麟徳殿で撃鞠した。
  三月庚戌、太白(金星)が昼に見えた。丁巳、幽州・涿州・檀州・順州・瀛州・莫州・営州・平州の八州の死罪以下を赦し、一年間扶持した。盧龍の軍士に銭を賜った。戊午、弟の李憬を封じて鄜王とし、李悦を瓊王とし、李恂を沔王とし、李懌を婺王とし、李愔を茂王とし、李怡を光王とし、李恊を淄王とし、李憺を衢王とし、李㤝を澶王とした。子の李湛を鄂王とし、李涵を江王とし、李湊を漳王とし、李溶を安王とし、李瀍を潁王とした。この月、李湛を移封して景王とした。
  五月丙辰、建王李審が薨去した。
  六月、彗星が昴に出現した。辛未、吐蕃が青塞烽を寇し、塩州刺史の李文悦がこれを破った。
  七月甲辰、幽州盧龍軍都知兵馬使の朱克融がその節度使の張弘靖を捕らえてそむいた。壬子、群臣が尊号をたてまつって文武孝徳皇帝といった。大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜った。壬戌、成徳軍大将の王廷湊がその節度使の田弘正を殺してそむいた。
  八月壬申、朱克融が莫州を陥落させた。癸酉、王廷湊が冀州を陥落させ、刺史の王進岌がここに死んだ。丙子、瀛州軍が乱を起こし、その観察使の盧士玫を捕らえ、叛いて朱克融についた。王廷湊が深州を寇した。丁丑、魏博・橫海・昭義・河東・義武の兵が王廷湊を討った。己丑、裴度が幽・鎮招撫使となった。
  九月乙巳、相州軍が乱を起こし、その刺史の邢濋を殺した。
  十月丙寅、諸道塩鉄転運使・刑部尚書の王播が中書侍郎・同中書門下平章事となった。裴度が鎮州西面行営都招討使となった。左領軍衛大将軍の杜叔良が深州諸道行営節度使となった。戊寅、王廷湊が貝州を陥落させた。己卯、易州刺史の柳公済朱克融と白石で戦い、これを破った。庚辰、橫海軍節度使の烏重胤王廷湊と饒陽で戦い、これを破った。辛卯、霊武節度使の李進誠が吐蕃と大石山で戦い、これを破った。
  十一月甲午、裴度王廷湊と会星で戦い、これを破った。丙申、朱克融が定州を寇すると、義武軍節度使の陳楚がこれを破った。
  十二月庚午、杜叔良王廷湊と博野で戦い、敗れた。丁丑、陳楚朱克融と望都で戦い、これを破った。乙酉、朱克融を赦した。己丑、陳楚朱克融と清源で戦い、これを破った。

  長慶二年(822)正月庚子、魏博軍が南宮で潰滅した。癸卯、魏博節度使の田布が自殺し、兵馬使の史憲誠が留後を自称した。海州の海が凍った。
  二月甲子、王廷湊を赦した。辛巳、崔植が宰相を罷免された。工部侍郎の元稹が同中書門下平章事となった。戊子、昭義軍節度使の劉悟がその監軍使の劉承偕を捕らえた。
  三月乙巳、武寧軍節度副使の王智興がその節度使の崔群を追放した。戊午、守司徒・淮南節度使の裴度が同中書門下平章事となった。王播が宰相を罷免された。
  四月辛酉朔、日食があった。壬戌、成徳軍節度使の牛元翼が京師に逃れ、王廷湊が深州を陥落させた。
  五月壬寅、邕州刺史の李元宗が叛き、黄洞蛮に亡命した。
  六月癸亥、宣武軍宿直の将の李臣則がその節度使の李愿を追放し、衙門都将の李㝏がそむいた。甲子、裴度元稹が宰相を罷免された。兵部尚書の李逢吉が門下侍郎・同中書門下平章事となった。乙丑、大風が太廟の鴟尾を落とした。癸酉、吐蕃が霊州を寇し、塩州刺史の趙旰がこれを破った。
  七月丙申、宋王李結が薨去した。戊申、李㝏が宋州を陥落させた。丙辰、兗鄆節度使の曹華李㝏と宋州で戦い、これを破った。丁巳、忠武軍節度使の李光顔がまた尉氏県で李㝏を破った。
  八月壬申、宣武軍節度使の韓充がまた郭橋で李㝏を破った。丙子、李㝏が誅殺された。癸未、詔して汴州・宋州・鄭州の三州の戦没者を埋葬し、その家は三年間扶持した。
  九月戊子、鎮海軍の将の王国清が反乱を計画し、処刑された。丙申、徳州軍が乱を起こし、その刺史の王稷を殺した。
  十月己卯、咸陽で狩猟した。
  十一月庚午、皇太后華清宮に幸した。癸酉、皇太后を迎え、驪山で狩猟した。丙子、集王李緗が薨去した。
  十二月丁亥、重病となり、五坊の鷹・隼および狩猟の狐・兎を放った。癸巳、景王李湛を立てて皇太子とした。癸丑、死罪以下を降し、文武常参及び州府の長官の子が父の跡を継いだ者に両転を勲し、宗子(宗族の嫡子)・諸親に一転を賜った。
  この冬、凍結することがなく、草木が萌えいでた。

  長慶三年(823)三月壬戌、御史中丞の牛僧孺が戸部侍郎・同中書門下平章事となった。癸亥、淮南・浙東西・江南・宣歙で旱害があり、宣撫の使を派遣し、獄囚を再審し、官吏を査察した。
  四月甲午、陸州の獠がそむいた。
  五月壬申、京師に雨雹が降った。
  七月丙寅、黄洞蛮が欽州を陥落させた。
  九月壬子朔、日食があった。
  十月己丑、杜元穎が宰相を罷免された。辛卯、黄洞蛮が安南を寇した。

  長慶四年(824)正月辛亥、死罪以下を降し、流人に一年服役を減じた。文武の官および宗子・賀正使に階・勲・爵を賜った。詔百官言事。辛未、皇太子を権勾当軍国政事とした。壬申、皇帝清思殿で崩じ、年は三十であった。


  敬宗睿武昭愍孝皇帝は、諱を湛といい、穆宗の長子である。母は恭僖皇太后王氏といった。始め鄂王に封ぜられ、景王に移封された。

  長慶二年(822)十二月、穆宗が撃毬のためににわかに病み、群臣を謁見しないこと三日。左僕射の裴度が三たび上疏して、皇太子を立てるよう請願して、翰林学士・両省官も相次いで皆請願した。数日をへて、穆宗の病がやや癒えた時、宰相の李逢吉景王を立てて皇太子とするよう請願した。

  長慶四年(824)正月、穆宗が崩じた。癸酉、門下侍郎・平章事の李逢吉が葬儀を取り仕切った。丙子、皇太子太極殿で皇帝位についた。
  二月辛巳、聴政を始めた。癸未、を尊んで皇太后とし、皇太后を太皇太后とした。辛卯、掖庭・内園に入れられた者を解放した。丁未、中和殿で撃鞠した。戊申、飛龍院で撃鞠した。黄洞蛮が降った。己酉、撃鞠し、楽を用いた。
  三月壬子、大赦をおこなった。京畿・河南の青苗税を免じ、宮中の経費・乗輿・服膳を減らし、鷹犬の貢納をやめさせた。元和年間(806-820)以来、両河の藩鎮で帰順した者の一子に官を与えた。庚午、太白が天を通過した。
  四月丙申、清思殿で撃鞠した。染坊匠の張韶がそむき、左神策軍に幸し、張韶が処刑された。丁酉、宮殿に帰還した。
  五月乙卯、吏部侍郎の李程と戸部侍郎・判度支の竇易直が同中書門下平章事となった。
  六月庚辰、大風で延喜門景風門が壊れた。
  この夏、漢水が氾濫した。
  八月丁亥、太白(金星)が昼に見えた。丁酉、中官の季文徳が反乱を計画し、処刑された。黄洞蛮が安南を寇した。
  十一月戊午、環王と黄洞蛮が陸州を陥落させ、刺史の葛維がここに死んだ。庚申、睿聖文恵孝皇帝光陵に葬った。

  宝暦元年(825)正月己酉、太清宮で朝献した。庚戌、太廟で朝享した。辛亥、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこない、改元した。乙卯、牛僧孺が宰相を罷免された。
  四月癸巳、群臣が尊号をたてまつって文武大聖広孝皇帝といった。大赦をおこなった。文武の官に階・爵を賜った。
  五月庚戌、魚藻宮で競渡を観賞した。
  九月壬午、昭義軍節度使の劉悟が卒し、その子の劉従諌が留後を自称した。
  十一月丙申、子の李普を封じて晋王とした。

  宝暦二年(826)正月甲戌、神策六軍を発して禁中で池を掘らせた。
  二月丁未、山南西道節度使の裴度が司空を代行し、同中書門下平章事となった。
  三月戊寅、魚藻宮で競渡を観賞した。
  四月戊戌、横海軍節度使の李全略が卒し、その子の李同捷がそむいた。
  五月戊寅、魚藻宮で競渡を観賞した。庚辰、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の朱克融を殺し、その子の朱延嗣が節度使を自称した。
  六月辛酉、臨碧池で漁を観賞した。甲子、驢鞠(ポロ)・角觝(雑技)を三殿で観賞した。
  七月癸未、衡王李絢が薨去した。渼陂を尚食局に下属させ、民間の漁業を禁じた。
  八月丙午、競渡を新池で観賞した。
  九月甲戌、百戯を宣和殿で観賞し、三日してやめた。戊寅、幽州盧龍軍兵馬使の李載義朱延嗣を殺して、留後を自称した。壬午、李程が宰相を罷免された。
  十一月甲申、李逢吉が宰相を罷免された。己丑、朝官・方鎮が私的に宦官を置くことを禁じた。
  十二月、中官の劉克明がそむいた。辛丑、皇帝が崩じ、年は十八であった。


  文宗元聖昭献孝皇帝は、諱を昂といい、穆宗の第二子である。母は貞献皇太后蕭氏といった。始め江王に封ぜられた。

  宝暦二年(826)十二月、敬宗が崩ずると、劉克明らが詔をいつわり、絳王李悟を勾当軍国事とした。壬寅、内枢密使の王守澄楊承和、神策護軍中尉の魏従簡梁守謙江王を奉じてこれを立て、神策六軍と飛龍兵を率いて劉克明を誅し、絳王を殺した。乙巳、江王(文宗)が宣政殿で皇帝の位についた。戊申、聴政を始めた。を尊んで皇太后とした。庚戌、兵部侍郎・翰林学士の韋処厚が中書侍郎・同中書門下平章事となった。庚申、宮人三千を追放し、教坊・楽工・翰林の伎術の冗員千二百七十人を省き、五坊の鷹・犬を放ち、纂組・雕鏤・金筐・宝飾・牀榻の貢納を罷めさせた。

  大和元年(827)二月乙巳、大赦をおこない、改元した。京兆ではこの年の夏税を半分免除した。九廟に陪位の者の子孫に二階を、立功の将士に階・爵を賜い、始めて諸王の後を封じて一子を官に就かしめた。
  五月戊辰、宰臣奏事の監捜を廃止した。丙子、横海軍節度使の烏重胤李同捷を討った。
  六月癸巳、淮南節度副大使の王播が尚書左僕射・同中書門下平章事となった。乙卯、旱のため京畿の死罪以下を降した。
  七月癸酉、睿武昭愍孝皇帝荘陵に葬った。
  十一月庚辰、横海軍節度使の李寰李同捷を討った。
  十二月庚戌、王智興が滄州行営招撫使となった。

  大和二年(828)正月壬申、地震があった。
  六月乙卯、晋王李普が薨去した。己巳、大風で木が抜けた。乙亥、峰州刺史の王昇朝がそむき、処刑された。
  この夏、黄河が氾濫し、棣州城を破壊した。越州で津波があった。
  七月辛丑、魏博節度使の史憲誠が同捷と平原で戦い、これを破った。甲辰、彗星が右摂提に出現した。
  八月己巳、王廷湊がそむいた。壬申、義武軍節度使の柳公済王廷湊と新楽で戦い、これを破った。己卯、劉従諌がまた臨城でこれを破った。辛巳、史憲誠李同捷と平原で戦い、これを破った。癸未、劉従諌王廷湊と昭慶で戦い、これを破った。
  九月癸卯、柳公済がまた王廷湊を博野で破った。丁未、岳王李緄が薨去した。庚戌、安南軍が乱を起こし、その都護の韓約を追放した。
  十月庚申、史憲誠李同捷と平原で戦い、これを破った。丁卯、洋王李忻が薨去した。癸酉、竇易直が宰相を罷免された。戊寅、史憲誠李同捷と平原で戦い、これを破った。壬午、幽州盧龍軍節度使の李載義がまた李同捷を長蘆で破った。
  十一月壬辰、棣州に一年間給付し、戦士で傷痍の者に終身扶持した。甲辰、昭徳寺で火災があった。
  十二月乙丑、魏博行営兵馬使の丌志沼がそむいた。壬申、韋処厚が薨去した。戊寅、兵部侍郎・翰林学士の路隋が中書侍郎・同中書門下平章事となった。

  大和三年(829)正月丁亥、宣武・河陽の兵が丌志沼を討った。庚子、丌志沼は鎮州に逃れた。
  三月乙酉、教坊日直楽工を罷めた。乙巳、太原兵馬使の傅毅を義武軍節度使としたが、義武軍は命を受けず、都知兵馬使の張璠が節度使を自称した。戊申、張璠を義武軍節度使とした。
  四月戊辰、滄景節度使の李祐が徳州を落とし、李同捷が降った。乙亥、滄徳宣慰使の柏耆李同捷をもって京師に帰順し、将陵でこれを殺した。
  五月辛卯、滄州・景州・徳州・棣州の四州に一年間給付した。
  六月甲戌、魏博軍に乱があり、その節度使の史憲誠を殺し、都知兵馬使の何進滔が留後を自称した。
  八月辛亥、相州・衛州・澶州の三州を相衛節度使に隷属させたが、何進滔は命を受けなかった。辛酉、旱害のため京畿の九県のこの年の租を免除した。壬申、王廷湊を赦した。甲戌、吏部侍郎の李宗閔が同中書門下平章事となった。
  十月癸丑、仗内で火災が発生した。
  十一月壬辰、太清宮で朝献した。癸巳、太廟で朝享した。甲午、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこなった。詔して製造困難な非常の物の献上を廃し、糸布・撩綾・機杼を焼いた。この月、雲南蛮が巂州・邛州の二州を陥落させた。
  十二月丁未、鄂岳・襄鄧・忠武軍が雲南蛮を討伐した。庚戌、雲南蛮が成都を寇し、右領軍衛大将軍の董重質が左右神策及諸道行営西川都知兵馬使となってこれを討伐した。己未、雲南蛮が梓州を寇した。壬戌、蜀州を寇した。

  大和四年(830)正月戊子、子の李永を封じて魯王とした。辛卯、武昌軍節度使の牛僧孺が兵部尚書・同中書門下平章事となった。甲午、王播が薨去した。
  二月乙卯、興元軍に乱があり、その節度使の李絳を殺した。
  三月癸卯、京畿の狩猟を禁じた。
  四月丁未、奚が辺境を寇し、李載義がこれを破った。
  六月丁未、裴度が平章軍国重事となった。
  この夏、舒州の江が氾濫した。
  七月癸未、尚書右丞の宋申錫が同中書門下平章事となった。
  九月壬午、裴度が宰相を罷免された。

  大和五年(831)正月庚申、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の李載義を追放し、莫州刺史の張慶初を殺し、兵馬使の楊志誠が留後を自称した。
  三月庚子、宋申錫を左遷して太子右庶子とした。癸卯、漳王李湊を降封して巣県公とした。
  六月甲午、梓州の玄武江が氾濫した。

  大和六年(832)正月壬子、死罪以下を降した。
  二月、蘇州で地震があり、白毛が生じた。
  五月庚申、民間にあって疫病で死んだ者に棺を、十歳以下で自活できない者に二ヶ月間糧食を給付した。
  七月戊申、原王李逵が薨去した。
  十一月甲子、魯王李永を立てて皇太子とした。
  十二月乙丑、牛僧孺が宰相を罷免された。己巳、珍王李諴が薨去した。

  大和七年(833)正月壬辰、呉・蜀の冬の貢茶をやめさせた。
  二月丙戌、兵部尚書の李徳裕が同中書門下平章事となった。
  三月辛卯、幽州盧龍軍節度使楊志誠が春衣使奉鸞・送奚契丹使尹士恭を捕らえた。辛丑、和王李綺が薨去した。
  六月甲戌、地震があった。乙亥、李宗閔が宰相を罷免された。
  七月壬寅、尚書右僕射・諸道塩鉄転運使の王涯が同中書門下平章事となった。
  閏月乙卯、旱害のため正殿を避け、膳を減らし、音楽をやめ、宮女千人を出し、五坊の鷹・犬を放った。
  八月庚寅、死罪以下を降し、文武および州府の長官の子で父の跡を継いだ者に二階級を賜う。
  十二月庚子、不豫。

  大和八年(834)二月壬午朔、日食があった。庚寅、病が癒えたため、死罪以下一等を降した。
  四月丙戌、詔して笞罪に鞭の背を禁じた。
  五月己巳、飛龍・神駒の中の厩で火事があった。
  六月丙戌、莒王李紓が薨去した。
  七月辛酉、定陵の寝宮が震動した。癸亥、郯王李経が薨去した。
  九月辛亥、彗星が太微に出現した。
  十月辛巳、幽州盧龍軍の大将の史元忠がその節度使の楊志誠を追放し、権勾当節度兵馬を自称した。庚寅、山南西道節度使の李宗閔が中書侍郎・同中書門下平章事となった。甲午、李徳裕が宰相を罷免された。
  十一月癸丑、成徳軍節度使王廷湊が卒し、その子の王元逵が権句当節度事を自称した。丙子、莫州軍が乱を起こし、その刺史の張惟汎を追放した。
  十二月己卯、京畿の死罪以下を降した。

  大和九年(835)正月癸亥、巣県公李湊が薨去した。
  二月辛亥、冀王李絿が薨去した。乙卯、京師で地震があった。
  四月丙申、路隋が宰相を罷免された。戊戌、浙江東道観察使の賈餗が中書侍郎・同中書門下平章事となった。辛丑、大風で木が抜け、含元殿の鴟尾が落ちて、門観を壊した。
  五月辛未、王涯が司空となった。
  六月壬寅、李宗閔を左遷して明州刺史とした。
  七月辛亥、御史大夫の李固言が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  九月癸亥、陳弘志を殺した。丁卯、李固言が宰相を罷免された。己巳、御史中丞の舒元輿が刑部侍郎となり、翰林学士・兵部郎中の李訓が礼部侍郎・同中書門下平章事となった。
  十月辛巳、観軍容使の王守澄を殺した。
  十一月乙巳、武寧軍監軍使の王守涓を殺した。壬戌、李訓および河東節度使王璠・邠寧節度使郭行余・御史中丞李孝本・京兆少尹羅立言が宦官の誅殺を計画したが、失敗して、李訓は鳳翔に逃れた。甲子、尚書右僕射の鄭覃が同中書門下平章事となった。乙丑、権知戸部侍郎の李石が同中書門下平章事となった。左神策軍中尉の仇士良王涯賈餗舒元輿李孝本羅立言王璠郭行余・鳳翔少尹魏逢を殺した。戊辰、昼でも暗かった。鳳翔監軍使の張仲清がその節度使の鄭注を殺した。己巳、仇士良が右金吾衛大将軍の韓約を殺した。
  十二月壬申、左金吾衛将軍の李貞素と翰林学士の顧師邕を殺した。丁亥、京師死罪以下の罪一等を減じた。

  開成元年(836)正月辛丑朔、日食があった。大赦をおこない、改元した。大和五年(831)以前の未納税と京畿のこの年の税を免除し、文武の官に階・爵を賜った。
  二月乙亥、猛禽・猟犬の献上を停止させた。
  三月、京師で地震があった。
  四月辛卯、淄王李恊が薨去した。甲午、山南西道節度使の李固言が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  七月、滹沱が氾濫した。乙亥、土が雨で降った。
  十二月己未、漵王李縦が薨去した。

  開成二年(837)二月丙午、彗星が東方に出現した。己未、均王李緯が薨去した。
  三月丙寅、彗星を見て膳を減らした。壬申、素服で正殿を避け、音楽をやめた。死罪を降し、流以下を復した。五坊の鷹・隼を放ち、京畿での採捕を禁じた。
  四月戊戌、工部侍郎の陳夷行が同中書門下平章事となった。乙卯、旱害のために正殿を避けた。
  六月丙午、河陽軍が乱を起こし、その節度使の李泳を追放した。己未、綿州の獠がそむいた。
  七月癸亥、党項羌が振武を寇した。
  八月庚戌、兄の子の李休復を封じて梁王とし、李執中を襄王とし、李言揚を𣏌王とし、李成美を陳王とした。癸丑、子の李宗倹を封じて蒋王とした。
  十月戊申、李固言が宰相を罷免された。
  十一月乙丑、京師で地震があった。丁丑、隕石が興元に落ちた。

  開成三年(838)正月甲子、賊が李石を傷つけた。戊申、大風で木が抜けた。諸道塩鉄転運使・戸部尚書の楊嗣復と戸部侍郎の李珏が同中書門下平章事となった。丙子、李石が宰相を罷免された。
  夏、漢水が氾濫した。
  八月己亥、嘉王李運が薨去した。
  十月乙酉、義武軍節度使の張璠が卒し、その子の張元益が留後を自称した。庚子、皇太子が薨去した。乙巳、彗星が軫に出現した。
  十一月壬戌、死罪以下の罪を降した。

  開成四年(839)正月癸酉、彗星が羽林に出現した。閏月丙午、巻舌に出現した。
  五月丙申、鄭覃陳夷行が宰相を罷免された。
  七月甲辰、太常卿の崔鄲が同中書門下平章事となった。
  八月辛亥、鄜王李憬が薨去した。
  十月丙寅、陳王李成美を立てて皇太子とした。甲戌、地震があった。
  十一月己亥、京畿の死罪以下を一等降した。
  十二月乙卯、乾陵の寝宮で火事があった。

  開成五年(840)正月戊寅、不豫。己卯、左右神策軍護軍中尉の魚弘志仇士良が潁王李瀍を立てて皇太弟、権勾当軍国事とし、皇太子李成美を廃して陳王とした。庚辰、仇士良が仙韶院副使の尉遅璋を殺した。辛巳、皇帝太和殿で崩じ、年は三十三であった。


  武宗至道昭粛孝皇帝は、諱を炎といい、穆宗の第五子である。母は宣懿皇太后韋氏といった。始め潁王に封ぜられ、かさねて開府儀同三司・検校吏部尚書を加えられた。

  開成五年(840)正月、文宗が重病となると、神策軍護軍中尉の仇士良魚弘志は、詔をいつわって皇太子李成美を廃して再び陳王とし、潁王を立てて皇太弟とした。辛巳、柩の前で皇帝の位についた。辛卯、陳王李成美および安王李溶賢妃楊氏を殺した。甲午、聴政を始めた。を追尊して皇太后とした。
  二月乙卯、大赦をおこなった。庚申、彗星が室・壁に出現した。
  四月甲子、大風で木が抜けた。
  五月己卯、楊嗣復が宰相を罷免された。諸道塩鉄転運使・刑部尚書の崔珙が同中書門下平章事となった。壬寅、大風で木が抜けた。
  六月丙寅、旱害のため正殿を避け、囚人を再審し、河北・河南・淮南・浙東・福建が蝗疫のため、州は徭を免除した。
  七月戊寅、大風で木が抜けた。
  八月甲寅、雨。壬戌、元聖昭献孝皇帝章陵に葬った。内枢密使の劉弘逸薛季稜が兵をもって仇士良を殺そうとしたが、勝てず、処刑された。庚午、李珏が宰相を罷免された。
  九月丁丑、淮南節度副大使の李徳裕が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  十月癸卯、回鶻が天徳軍を寇した。
  十一月戊寅、彗星が東方に出現した。魏博節度使の何進滔が卒し、その子の何重霸が留後を自称した。
  十二月、子の李峻を封じて𣏌王とした。

  会昌元年(841)正月己卯、太清宮で朝献した。庚辰、太廟で朝享した。辛巳、南郊を有事摂事にて祀った。大赦し、改元した。
  三月、御史大夫の陳夷行が門下侍郎・同中書門下平章事となった。
  七月、彗星が羽林に出現した。壬辰、漢水が氾濫した。
  九月癸巳、幽州盧龍軍の将の陳行泰がその節度使の史元忠を殺し、知留務を自称した。
  閏月、幽州盧龍軍の将の張絳陳行泰を殺し、主軍務を自称した。
  十月、幽州盧龍軍が張絳を追放し、雄武軍使の張仲武が幽州に入った。
  十一月壬寅、彗星が営室に出現した。辛亥、正殿を避け、膳を減らし、囚人を再審し、土木事業を廃止した。癸亥、崔鄲が宰相を罷免された。

  会昌二年(842)正月、宋・亳の二州で地震があった。己亥、李徳裕が司空となった。回鶻が横水柵を寇し、天徳・振武軍を攻略した。
  二月丁丑、淮南節度副大使の李紳が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  三月、回鶻が雲州・朔州を寇した。
  四月丁亥、群臣が尊号をたてまつって仁聖文武至神大孝皇帝といった。大赦し、文武の官に階・勲・爵を賜った。
  五月丙申、回鶻の嗢沒斯が降った。
  六月、陳夷行が宰相を罷免された。河東節度使の劉沔が回鶻と雲州で戦い、敗れた。
  七月、左神策に行幸し軍を閲兵した。尚書右丞兼御史中丞の李譲夷が中書侍郎・同中書門下平章事となった。嵐州の民の田満川がそむき、処刑された。回鶻可汗が大同川を寇した。
  九月、劉沔が回鶻南面招撫使となり、幽州盧龍軍節度使の張仲武が東面招撫使となり、左金吾衛大将軍の李思忠が河西党項都将西南面招討使となった。
  十月丁卯、子の李峴を封じて益王とし、李岐を兗王とした。
  十一月、白鹿原で狩猟した。
  十二月、子の李嶧を封じて徳王とし、李嵯を昌王とした。癸未、京師で地震があった。

  会昌三年(843)正月庚子、天徳軍行営副使の石雄が回鶻と殺胡山で戦い、これを破った。
  二月庚申朔、日食があった。辛未、崔珙が宰相を罷免された。
  この春、大雨と大雪があった。
  四月乙丑、昭義軍節度使の劉従諌が卒し、その子の劉稹が留後を自称した。
  五月甲午、落雷で、東都の広運楼が火災となった。辛丑、成徳軍節度使の王元逵が北面招討沢潞使となり、魏博節度使の何弘敬が東面招討沢潞使となり、河中節度使の陳夷行・河陽節度使の王茂元劉沔とともに劉稹を討った。戊申、翰林学士承旨・中書舎人の崔鉉が中書侍郎・同中書門下平章事となった。武寧軍節度使の李彦佐が晋絳行営諸軍節度招討使となった。
  六月、西内神龍寺で火事があった。辛酉、李徳裕が司徒となった。
  この夏、望仙観を禁中に作った。
  七月庚子、河東のこの年の秋税を免除した。
  九月辛卯、忠武軍節度使の王宰が河陽行営攻討使を兼ねた。丁未、長雨のため、囚人を再審し、京兆府の秋税を免除した。
  十月己巳、晋絳行営節度使の石雄劉稹と烏嶺で戦い、これを破った。壬午、日中に月が太白(金星)を隠した。この月、党項羌が塩州を寇した。
  十一月、党項羌が邠・寧を寇した。兗王李岐が霊夏六道元帥・安撫党項大使となり、御史中丞の李回を副使とした。安南軍が乱を起こし、その経略使の武渾を追放した。
  十二月丁巳、王宰が天井関で勝利した。

  会昌四年(844)正月乙酉、河東の将の楊弁がその節度使の李石を追放した。
  二月甲寅朔、日食があった。辛酉、楊弁が処刑された。
  三月、石雄が冀氏行営攻討使を兼ね、晋州刺史の李丕がその副使となった。
  六月己未、中書・門下・御史台の再審した。
  閏七月壬戌、李紳が宰相を罷免された。淮南節度副大使の杜悰が尚書右僕射となり、中書侍郎・同中書門下平章事を兼ねた。丙子、昭義軍の将の裴問が邢州刺史の崔嘏に城をもって降った。この月、洺州刺史の王釗と磁州刺史の安玉が城をもって降った。
  八月乙未、昭義軍の将の郭誼劉稹を殺して降った。戊戌、沢・潞・邢・洺・磁の五州に一年間給付し、太原・河陽および懐・陝・晋・絳の四州で秋税を免除した。戊申、李徳裕が太尉となった。
  十月、鄠県で狩猟した。
  十二月、雲陽で狩猟した。

  会昌五年(845)正月己酉、群臣が尊号をたてまつって仁聖文武章天成功神徳明道大孝皇帝といった。この日、太清宮に朝献した。庚戌、太廟に朝享した。辛亥、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこない、文武の官に階・勲・爵を賜り、文宣公・二王三恪(北魏・北周・隋の後裔)の一子に告身を与えた。仙台を南郊に作った。庚申、皇太后が崩じた。
  三月、日照りがあった。
  五月壬子、恭僖皇太后光陵に葬った。壬戌、杜悰崔鉉が宰相を罷免された。乙丑、戸部侍郎の李回が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  六月甲申、神策軍に望仙楼を作った。
  七月丙午朔、日食があった。この月、山南東道節度使の鄭粛が検校尚書右僕射、同中書門下平章事となった。
  八月壬午、大いに仏寺を毀し、僧尼を還俗させて民とした。
  十月、虎牢関に昭武廟を作った。

  会昌六年(846)二月癸酉、旱のため死罪以下を降し、この年の夏税を免除した。庚辰、夏綏銀節度使の米曁が東北道招討党項使となった。
  三月壬戌、重病となった。左神策軍護軍中尉の馬元贄が光王李怡を立てて皇太叔、権勾当軍国政事とした。甲子、皇帝大明宮で崩じ、年は三十三であった。


  宣宗元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝は、諱を忱といい、憲宗の第十三子である。孝明皇太后鄭氏といった。始め光王に封ぜられた。性格は厳重かつ寡黙で、宮中であるいは愚かだと思われていた。

  会昌六年(846)、武宗の病が次第に重くなり、左神策軍護軍中尉馬元贄光王を立てて皇太叔とした。
  三月甲子、柩の前で皇帝位についた。
  四月乙亥、聴政を始めた。を尊んで皇太后とした。丙子、李徳裕が宰相を罷免された。辛卯、李譲夷が司空となった。
  五月乙巳、大赦をおこなった。翰林学士承旨・兵部侍郎の白敏中が同中書門下平章事となった。辛酉、子の李温を封じて鄆王とし、李渼を雍王とし、李涇を雅王とし、李滋を夔王とし、李沂を慶王とした。
  七月、李譲夷が宰相を罷免された。
  八月辛未、大行宮で火事があった。壬申、至道昭粛孝皇帝端陵に葬った。
  九月、鄭粛が宰相を罷免された。兵部侍郎・判度支の盧商が中書侍郎・同中書門下平章事となった。雲南蛮が安南を寇し、経略使の裴元裕がこれを破った。
  十二月戊辰朔、日食があった。

  大中元年(847)正月壬子、太清宮に朝献した。癸丑、太廟に朝享した。甲寅、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこない、改元した。左遷された死者の官爵を復し、文武の官に階・勲を、父老に帛を賜い、文宣王後及び二王後・三恪の一子に官を与えた。
  二月癸未、旱のため正殿を避け、膳を減らし、京師の囚人を再審し、太常教坊の習楽をやめ、百官の食を減らし、宮女五百人を召し放ち、五坊の鷹犬を放ち、飛龍馬の粟を廃止した。
  三月、盧商が宰相を罷免された。刑部尚書・判度支の崔元式が門下侍郎となり、翰林学士承旨・戸部侍郎の韋琮が中書侍郎となり、ともに同中書門下平章事となった。
  閏月、大いに仏寺を復した。
  四月己酉、皇太后が崩じた。
  五月、張仲武が奚の北部落と戦い、これを破った。吐蕃・回鶻が河西を寇し、河東節度使の王宰がこれを討伐した。
  八月丙申、李回が宰相を罷免された。庚子、貞献皇太后光陵に葬った。
  十二月戊午、太子少保の李徳裕を左遷して潮州司馬とした。

  大中二年(848)正月甲子、群臣が尊号をたてまつって聖敬文思和武光孝皇帝といった。大赦をおこなった。宗子房でまだ仕官していない者や宗室の出身者、文武の官に階・勲・爵を賜った。
  三月、子の李沢を封じて濮王とした。
  五月己未朔、日食があった。崔元式が宰相を罷免された。兵部侍郎・判度支の周墀と、刑部侍郎・諸道塩鉄転運使の馬植が、同中書門下平章事となった。己卯、太皇太后が崩じた。
  七月己巳、功臣を凌煙閣に描いた。
  十一月壬午、懿安太皇太后景陵に葬った。韋琮を左遷して太子賓客とし、東都を分司させた。

  大中三年(849)二月、吐蕃が秦・原・安楽の三州と石門・駅蔵・木峽・制勝・六盤・石峽・蕭の七関をもって官吏に帰順した。
  三月、詔して待制官と刑法官・諌官に奏答させた。馬植が宰相を罷免された。
  この春、霜が降って桑を枯らせた。
  四月乙酉、周墀が宰相を罷免された。御史大夫の崔鉉が中書侍郎となり、兵部侍郎・判戸部事の魏扶が同中書門下平章事となった。癸巳、幽州盧龍軍節度使の張仲武が卒し、その子の張直方が留後を自称した。
  五月、武寧軍が乱を起こし、その節度使の李廓を追放した。
  十月辛巳、京師で地震があった。この月、振武軍と天徳軍、霊武・塩夏の二州で地震があった。吐蕃が維州をもって官吏に帰順した。
  十一月己卯、弟の李惕を封じて彭王とした。
  十二月、吐蕃が扶州をもって官吏に帰順した。

  大中四年(850)正月庚辰、大赦をおこなった。
  四月壬申、長雨のため、京師に詔して関輔の囚人を再審し、度支・塩鉄・戸部の未納の税をとりやめた。
  六月戊申、魏扶が薨去した。戸部尚書・判度支の崔亀従が同中書門下平章事となった。
  八月、幽州盧龍軍が乱を起こし、その節度使の張直方を追放し、衙将の張允伸が留後を自称した。
  十月辛未、翰林学士承旨・兵部侍郎の令狐綯が同中書門下平章事となった。
  十一月、党項羌が邠州・寧州を寇した。
  十二月、鳳翔節度使の李安業と河東節度使の李拭が招討党項使となった。

  五年(851)三月、白敏中が司空となり、南山・平夏の党項を招討し、行営兵馬都統をつとめた。
  四月、平夏の党項羌を赦した。辛未、霊塩夏三州・邠寧・鄜坊等の道の三年免税とした。
  六月、子の李潤を封じて鄂王とした。
  八月乙巳、南山の党項羌を赦した。
  十月、沙州の人の張義潮が瓜・沙・伊・粛・鄯・甘・河・西・蘭・岷・廓の十一州をもって官吏に帰順した。白敏中が宰相を罷免された。戊辰、戸部侍郎・判戸部の魏謩が同中書門下平章事となった。
  十一月、崔亀従が宰相を罷免された。
  十二月、景陵の門戟が盗賊に折られた。
  この年、湖南で飢饉があった。

  大中六年(852)三月、彗星が觜・参に出現した。
  七月、雍王李渼が薨去した。
  八月、礼部尚書・諸道塩鉄転運使の裴休が同中書門下平章事となった。
  九月、獠が昌州・資州の二州を寇した。
  十一月、弟の李惴を封じて棣王とした。
  この年、淮南で飢饉があった。

  大中七年(853)正月丙午、太清宮で朝献した。丁未、太廟で朝享した。戊申、南郊を有事摂事にて祀った。大赦をおこなった。

  大中八年(854)正月丙戌朔、日食があった。
  三月、旱のため獄囚を再審した。
  九月、子の李洽を封じて懐王とし、李汭を昭王とし、李汶を康王とした。

  大中九年(855)正月甲申、成徳軍節度使の王元逵が卒し、その子の王紹鼎が留後を自称した。
  閏四月辛丑、嶺外の民の男女の献上を禁じた。
  七月、旱害のために使者を派遣して淮南を巡撫させ、お上に供される兵糧運送を減らし、未納の租をとりのぞき、粟を出して民に施した。丙辰、崔鉉が宰相を罷免された。庚申、淮南・宣歙・浙西の冬至・元日の常貢を止め、下戸の租税に代えた。この月、浙江東道軍で乱が起こり、その観察使の李訥を追放した。

  大中十年(856)正月丁巳、御史大夫の鄭朗が工部尚書・同中書門下平章事となった。
  九月、子の李灌を封じて衛王とした。
  十月戊子、裴休が宰相を罷免された。
  十二月壬辰、戸部侍郎・判戸部の崔慎由が工部尚書・同中書門下平章事となった。

  大中十一年(857)二月辛巳、魏謩が宰相を罷免された。
  五月、容管軍が乱を起こし、その経略使の王球を追放した。
  七月庚子、兵部侍郎・判度支の蕭鄴が同中書門下平章事となった。成徳軍節度副大使の王紹鼎が卒し、その弟の王紹懿が留後を自称した。
  八月、子の李澭を封じて広王とした。
  九月乙未、彗星が房に出現した。
  十月壬申、鄭朗が宰相を罷免された。

  大中十二年(858)正月戊戌、戸部侍郎・判度支の劉瑑が同中書門下平章事となった。
  二月、穆宗の忌日を廃止し、光陵で朝拝および守陵宮人とした。壬申、崔慎由が宰相を罷免された。
  閏月、十月から雨が降らず、この月になって雨が降った。
  三月、塩州監軍使の楊玄价がその刺史の劉皋を殺した。
  四月庚子、嶺南軍が乱を起こし、その節度使の楊発を追放した。戊申、兵部侍郎・諸道塩鉄転運使の夏侯孜が同中書門下平章事となった。
  五月丙寅、劉瑑が薨去した。庚辰、湖南軍が乱を起こし、その観察使の韓琮を追放した。
  六月丙申、江西都将の毛鶴がその観察使の鄭憲を追放した。辛亥、南蛮が辺境を寇した。
  七月、容州の将の来正がそむき、処刑された。
  八月、宣歙の将の康全泰がその観察使の鄭薰を追放し、淮南節度使の崔鉉が宣歙池観察処置使を兼ねてこれを討った。丁巳、太原で地震があった。
  十月、康全泰が処刑された。
  十二月、毛鶴が処刑された。甲寅、兵部侍郎・判戸部の蒋伸が同中書門下平章事となった。

  大中十三年(859)正月戊午、大赦し、度支・戸部の未納の税をとりのぞき、宮人を放った。
  八月壬辰、左神策軍護軍中尉の王宗実が鄆王李温を立てて皇太子、権句當軍国政事とした。癸巳、皇帝咸寧殿で崩じ、年は五十であった。諡を聖武献文孝皇帝といった。咸通十三年(872)、元聖至明成武献文睿智章仁神聡懿道大孝皇帝と加諡した。


  賛にいう、春秋の法は、君主が弑殺されて賊が討伐されなければ、すなわち深くその国を責める。それは臣子が無いとみなすからである。憲宗が弑逆されたが、三世を経てもなお逆賊は生存していた。文宗の代になってからも、陳弘志らの罪悪は明らかにならなかった。国の典刑を正して、わずかに殺すにいたったのみである。これは嘆くべきことである。穆宗敬宗は幼童で徳を失い、在位が長くなかったから、天下は敗乱に到る前に、敬宗がその身を終えたのである。これでどうやって討賊の志を実行できたというのであろうか。文宗はうやうやしく道理に優れ、天性の才があった。かつて太宗の『貞観政要』を読み、慨然としてこれを慕った。即位するにおよんで、意を鋭して治世にはげみ、延英殿にて宰臣とまみえるごとに、漏下十一刻を率いた。唐制では、天子が二日に一度朝政を見、すなわち輟朝・放朝を命じてみな双日とした。おしなべて官吏の任免に際して必ず召見訪問し、親しくその良悪を見た。そのため大和年間(827-835)の初頭、政事は修飾して清明と号した。しかしながらその仁政は果断さに欠け、父兄の代からの弊害を受け、宦官は専横し、制しようとしてもその方法すらなく、ために終りの苦しみははそれが原因となった。甘露の変で、禍は忠良に及び、冤憤にたえず、恨みを飲むだけであった。そのためこれを申して陳弘志を殺害できたのは、またその志を酌むに足るものであったからである。


  昔、武丁はただ傅説を得て商の高宗となった。武宗はただ李徳裕を得て、ついにその功烈をなした。しかしその奮然ぶりは浮図の法(仏教)を除去するのにはなはだしく鋭かったのであって、自身は道家の符録を受け、服薬に長寿を求めた。この部分を見て聡明で迷いのない者ではないとするのは、特に良し悪しの意見が分かれるところである。宣宗は政務に精励し明察であったが、仁恩の意に復することがなかった。嗚呼、これより以後、唐は衰えるのだ。



   前巻     『新唐書』    次巻
巻七 本紀第七 『新唐書』巻八 本紀第八 巻九 本紀第九

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2025年01月19日 02:50
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。