たてかべ和也

登録日:2015/06/13 Sat 21:05:13
更新日:2025/04/15 Tue 14:05:39
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たてかべ和也(たてかべ かずや)は、日本の俳優、声優
本名及び1970年代までの芸名は「立壁和也」(読み同じ)。
愛称は「カベさん」で、役者仲間からは強面に見合った豪胆な人柄と面倒見の良さからよく親しまれていた。


◇概要

1934年7月25日生まれ。北海道出身。
日本大学芸術学部演劇学科卒業後、日本テレビで大道具係として勤務しながら声優として活動を開始。
テレビアニメの黎明期から様々な作品で活動してきた大御所中の大御所。

ドラえもん(大山版)』のジャイアン、『ど根性ガエル』のゴリライモ、『タイムボカンシリーズ』の三悪の力自慢担当など、
大柄で豪快なガキ大将的ポジションのキャラ役が代表的だが、晩年はおじいさん役を演じることが多かった。
あまり知られていないが、地声はかなりダンディであり、昔は好青年の役などを普通に貰っていた。
ただ本人は大ボスや敵役を演じるのが好きだとか。

特に新人発掘において高い実績を残しており、堀内賢雄矢島晶子、水谷優子、折笠愛小林沙苗など数々の著名な声優陣を見出した。
矢島に『クレヨンしんちゃん』のオーディションを斡旋し、水田わさびを『ドラえもん』と引き合わせたのもこの人である。
新人時代、「ミスター味っ子」の見学に来ていた高木渉を呼び止め、同作でのデビューに導いたのも彼である。
その他、講演活動や声優志望者に向けての案内書の製作など後進の育成に精力的に取り組んでいた声優界の重鎮である。

所属事務所は個人事務所としてオフィス央を運営していたが、ぷろだくしょんバオバブに吸収合併されたのち、ケンユウオフィスに移籍した。
ケンユウオフィスは親交の深かった弟子の一人、堀内賢雄が立ち上げた声優事務所で、生涯未婚で親族もほとんどいないたてかべにとって堀内は家族のような存在であり、声優仲間は「賢雄くんはカベさんの息子」とまで称している。

ヤッターマン(リメイク版)』放送が佳境に入った頃に末期のスキルス性胃ガンを患っていた事が判明。
それでも最後までトンズラーをやり遂げたいと仕事を続け、その後も自らの仕事を優先していた。
番組終了後、堀内賢雄からの熱心な説得もあり、医者嫌いながらも手術を受けることとなった。
胃をすべて摘出するほどの大手術になってしまったが、マネージャーなど様々な方からのサポートもあり、辛いリハビリにも耐え、病気を克服する事に成功した。
しかし高齢での大手術ということもあって、手術を乗り越えて以降の晩年は、癌の再発こそなかったものの身体はかなり弱っていっていたそうだ。
それでも本人は声優の現場を好んでおり、出来る限りアフレコに参加。最期に演じた役もジャイアンのパロディキャラであった。
また、肝付兼太の運営する劇団の公演や肝付の誕生会には、足を悪くしている中でも顔を出したという。

2015年6月18日、急性呼吸器不全により入院先で死去。享年80。

死去5日前に堀内賢雄と話した際には、「すべてたのむ」という言葉で、後の事を託した。
遺体には愛用の帽子とジャイアンのトレードマークであるオレンジ色のTシャツが着せられ、
出棺の際には事務所の意向で白い鳥を模した風船80個が飛ばされた。
死去後もケンユウオフィスでは「永劫所属」としてプロフィールが残された他、事務所内にはたてかべの遺影が飾られ、好きだった酒がお供えされている。

ちなみに好きな球団は阪神タイガースで、ヤットデタマンで主人公メカの名前が「大巨人」だったと聞いて激怒し、名前を変えさせたという嘘か真かわからない逸話すらある。

◇剛田武(ジャイアン)役に関して

26年間も演じた代表キャラであるジャイアンは、ご存じのとおり乱暴者のガキ大将という役どころだが、
たてかべの小さい頃はむしろのび太のような引っ込み思案で勉強嫌いな一人っ子だったと語っている。
また、ドラえもん役の大山のぶ代曰く、感動的なエピソードで一番泣いていたのは実は彼だったと言う。

一番印象に残っている作品は『南海大冒険』で、この時には原作者の死去など様々な事態が重なり、
もうジャイアンを演じることが出来なくなるのではないかと悩んでいた時にこの映画の製作が決まったことで、
たてかべは今後もジャイアンを演じられると非常に喜んだ、と語っている。
ただ、いつも乱暴者のジャイアンが映画になると途端にヒーローになるのはやはり違和感を感じた時もあるとか。

なお、ジャイアンを演じ始めた最初は、自己紹介で「『ドラえもん』でジャイアンという太った悪ガキをやってるたてかべです」と言っていたのが、
だんだん「ジャイアンをやってる」で通じるようになり、後期には「たてかべさん…あのジャイアンの!」と認知されるようになったという。
これについて本人は、たてかべ=ジャイアンと認識されるようになったことは有難いことであり、一生付き合える役と出会えて幸せ者だと語っている。

1993年放送の『ドラえもん15周年記念SP』ではよくジャイアンの声で結婚式のスピーチを頼まれ、バカ受けするという一方、
間違えて変なことを言ったりすると「今のすべてジャイアンでーす」とジャイアンのせいにしていると言い、アニメのジャイアンが「ひどいよ~」と困る場面が見られた。

そして、ドラえもんのキャスト交代の時には、ぜひジャイアン役を継ぐ声優=木村昴と一緒に飲みたいとこっそり連絡を取りたがっていたが、
この時まだ木村は14歳と未成年だった事もあり、お預けとなってしまった(5年は長生きして飲みたいと語っていた)。
しかしその後は自宅と木村の学校が近かったこともあり、食事の席を用意したり、文化祭に顔を出したりしてかなり交流は深かった。
ある番組で「ドイツ生まれのたてかべ育ち」と言われたのはこのため。雑誌のインタビューで共演した事もある。

そして木村がめでたく成人を迎えてしばらく経った後、ついに盃を交わす時が実現。
「ふたりのジャイアン」は何度も二人でグラスを重ね、乾杯したと言う。

また、同作品でスネ夫を演じた肝付兼太とは半世紀以上の親友であり、互いに協力し合いながら若手の育成に当たっていた。
通夜・告別式で肝付は弔事を読み、通夜の時は「のび太のくせに生意気だぞ」を捩って「ジャイアンのくせに何故先に逝っちゃうんだよ…」と呼びかけ、
告別式の時も涙で声を震わせながら「昨日はまだ(カベさんが)近くにいるんだと、僕の気持ちに余裕がありましたが、一夜明けて今日でお別れ何だと思うと本当に悲しいです」読み上げ、「ジャイアーン!」とスネ夫の声で故人に呼びかけた。
その肝付も一年四ヶ月後の2016年10月20日に肺炎により80歳で他界。ファンからはまるでたてかべの後を追うようだったと称された。

歌は非常に上手く、ジャイアンのように下手に歌うのに苦戦したと語っている。
ジャイアンのテーマソング『おれはジャイアンさまだ!』も彼が作詞を担当している(実際は別の作詞家との共同制作だったが、その方の意向で単独名義になった)。
これを含め、劇中の大半の曲はアドリブで演じたとか。
ちなみに、「本人は歌が上手いので、役として下手に歌うのに苦労した」というのは、ジャイアン役を継いだ木村も同じことを語っている。


◇主な担当キャラクター

「☆」印はタイムボカンシリーズの三悪メンバー。



オ~レ~は冥殿~ガキ大将~
追記・修正の達人だぜ~

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最終更新:2025年04月15日 14:05