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ご意見ご要望等、何かあればこちらまで。(過去ログ
  • 一竿の水神社と船神社ですが、塩坪橋から下流200メートルの県道下にあるという記述を頼りに探しに行ったところ、この位置で見つけました(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.605878,139.731872&t=k)。二つの祠共に歩道から目視で発見でき、土手下に下りてお参りしてきました。ただ、浅学にしてどちらが水神社でどちらが舟神社かまではわかりませんでした。自分以外にも何枚かお賽銭が備えてあり忘れ去られているわけではないようです(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260132.jpghttps://dotup.org/uploda/dotup.org2260136.jpg)また二つの祠の間に石碑が一つあったのですが、文字は判読できませんでした(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260140.jpg)。自分は土手から下りて裏からお参りしてしまったのですが、正規の参道と思しき道も県道沿いに西側に伸びていました。ただ、どこから入るのかはわかりませんでいした(おそらく川岸が入り口?)。一竿の渡し場は昭和10年まで使われていたそうで、渡し守や筏師は必ずこの水神社と舟神社に差し掛かると北岸に向かって一礼したそうです。一竿から見て対岸の岩壁は「一竿のへつり」といい、4、50年ほど前まではこの岩壁を伝って塩坪集落と漆窪集落の間で行き来があったそうです(゚o゚;)。地理院地図にも点線道として載っています。 - とんりすんがり (2020-09-20 23:43:54)
    • あったんですね! 石祠だけではどちらの神社か判断できないですよね。しかも両方水の神様を奉っていますし…。一つに紋章らしきものがありますが、懸魚(けぎょ)の装飾にも見えます。何とも… - 管理人 (2020-09-21 08:45:23)
  • この一竿地区は石造物がほかにもいくつか見受けられ、今はひとけが無いながら昔は水運の要衝だったのではないでしょうか?県道北側の斜面に仙海聖人なる僧侶の供養碑、どういった人なのでしょうか…(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260182.jpg)。同じく県道北側に鬼子母神と何かの石碑(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260183.jpg)。他に塚越富五郎という小栗上野介家臣の供養碑がありました(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.607323,139.730056&t=k)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260188.jpg)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260190.jpg)。塚越富五郎の供養碑の所在地は一竿集落の共同墓地でもあるようで、水運を監督していたという田代家の墓もありました。 - とんりすんがり (2020-09-20 23:57:49)
    • 一竿の渡し守が越後国から来たとの話から、てっきり渡部氏かと思ったら田代氏でしたか。遺跡を見ると、昔は吹屋よりも一竿の方に人が多く住んでいた気がしますね。 - 管理人 (2020-09-21 08:53:59)
    • 仙海聖人??うーん。お坊さんの名前は記録にないとわからないですよね。吹屋に記載のある田代丹波・樋口佐兄弟ですら情報が無いですし。 - 管理人 (2020-09-21 08:58:48)
  • 吹屋の長圓寺は長らく無住職になっていたのが昭和43年に雪で潰れ、完全に廃寺になってしまい、観音堂だけが残った形のようです。観音堂と三十三観音は現在個人の方が所有、管理しているそうです。 - とんりすんがり (2020-09-21 00:03:00)
    • 観音堂だけ残った感じでしたか。また雪…。 - 管理人 (2020-09-21 09:08:00)
  • 荻野駅の北にあるお堂は風土記の記述にある岩窟の観音様のお堂でした。この観音様は岩屋観音と言っていたそうで、乳の出が悪い女の人がが乳袋に見立てた米を入れた袋をお供えし、その米を炊いて食べると乳が出るようになると評判でかつては参詣者も多かったようです。が、現地に行ってみるとご覧のようにかなり荒れ果てていました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260214.jpg)、お堂を覗いてみると本尊の観音様もいらっしゃらないようでした…。途中の参道も地面がフカフカで相当人が足を踏み入れていない感じでしたが、実際近所の方に話を伺うともう何年も手入れをしていないとの事で、御本尊もどこにあるのかわからないとの事でした。若い方はそもそも観音堂の存在すら知りませんでした。今もそれなりに人が住んでいる集落で平安時代から続いていた信仰がここまで廃れてしまっているのというのは寂しいを通り越して不可解なものを感じました。旧高郷村の文化財目録を見ると個人所有の千手観音立像があり、もしかするとこれがかつての御本尊かもしれませんが…。岩屋も残っており、観音堂ははそれを塞ぐ形で立っている感じでした(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260221.jpg)。 - とんりすんがり (2020-09-21 00:24:49)
    • 観音堂でしたか!ここだったんですね。会津は岩穴と仏様がセットで奉られていることがおおいですね。そう言えば、前に歴史研究家の石田さんが徳一がその文化を会津に持ち込んだと言っていまいしたね。 - 管理人 (2020-09-21 09:49:17)
    • 古臭い無駄と言われても伝承伝統は次世代への繋ぐ事が大事ですよね。せめて何か残せなかったのかと残念に思う事が多々あります。自分にできることは文字を打ち込む事くらいですが(汗 - 管理人 (2020-09-21 09:52:50)
  • 実川集落は平成14年に最後まで住んでいた五十嵐家の方が、高齢のために雪下ろしが出来なくなり、既に文化財指定されていた家屋を全て旧鹿瀬町に寄付して五泉市に移住し廃村になってしまったそうです(それ以前から厳冬期は五泉で過ごしていたようです)。小倉百人一首に載る猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の~」の歌は実川で詠まれたという伝説があり文人の琴線に触れる地域だったようで、近代以降も河童絵で有名な小川芋銭や安倍能成といった文人が訪れ五十嵐家に泊まったそうです。山渓寺跡(廃寺)には五十嵐家の方が建立した芋銭の句碑があるそうですが正確な場所はまだ調べられていません。実川流域の村は小荒集落以外廃村という事で小荒井(向小荒)も廃村で確定のようです。地図に映ってる吊橋らしきものが気になります。 - とんりすんがり (2020-10-15 23:31:51)
    • 平成14年ってすぐこの間じゃないですか。それまで住んでいたという事実の方がびっくりしました。 - 管理人 (2020-10-16 20:11:03)
    • 向小荒の橋とはこれhttps://goo.gl/maps/neMM89iC6hE4TeYn6ですね。道が続いていないようなので、今は渡れるのかどうか…。 - 管理人 (2020-10-16 20:16:30)
  • お久しぶりです。永井野組蛇喰村について調べて分かった事があったので報告します。この村は昭和35年に最後の一軒が離村して廃村になったようです。冬はほぼ雪に閉ざされて外界と隔絶されていた秘境中の秘境で、屋根近くまで雪が積もって家の中からは昼夜もわからないほどだったそうです。最後まで電気は通らず郵便物も隣村の菅沼(ここも現在廃村)までしか配達されずそこまで取りに行っていたそうです。明治期にはすでに2軒だけとなり、そのうち1軒は大正時代に離村して、以来ずっと1軒だけが暮らしていたようです(正確には一時期他所から1軒移って来て暮らしていた時期があったようです)。建物も一軒も残っておらず基礎などの遺構と字家ノ前と字壇ノ陰にそれぞれ墓地が残っているだけのようです。字家ノ前には山神社があり昭和期まで鳥居、社殿があったようですが現在は石祠と燈篭の残骸が残っているだけのようです。 - とんりすんがり (2021-12-19 23:30:50)
  • 大塩組大岐村について昭和44年に金山町全土を襲った大水害で土石流に飲み込まれ5人が死亡、全戸が全半壊、農地も埋没という壊滅的打撃を蒙り横田地区に集団移転となって廃村になってしまったようです。同じく大塩組山入村の端村沼岐(沼ノ又)地区も被害を受け1名が死亡、複数家屋が被害を受け、再発の可能性が高いとの事で昭和51年までにやはり横田地区に全戸が移転して廃村となったようです。 - とんりすんがり (2021-12-19 23:43:44)
  • 大沼郡大塩組山入村の端村山中も廃村です。平成24年まで老夫婦が茅葺屋根の家で暮らしていたそうですが、奥さんがまず亡くなり遺された旦那さんも村を離れる事を決めて神社の遷宮などの準備を進めていた最中亡くなってそのまま廃村になってしまったようです。今年現地を訪れたのですが、茅葺屋根の家はほぼ崩壊していて骨組みが辛うじて立っている形となってしました。もう1軒、トタン屋根の家が残っており軽トラと乗用車が止まっていて周りの草刈りなどもされていたので旧住民の方が頻繁に訪れているようです(別の場所で作業されていたのか人には行き会いませんでした)。 - とんりすんがり (2021-12-19 23:51:56)
  • 会津風土記さんのページの諏訪神社のところを読むと、こういう石があるとの記述があります。 隠里石 西廻廓の外にあり。高8尺余・幅4尺余。 そこで、和漢三才図会の第65巻にも諏訪神社の記述があるのですが、それには声をかけると答える石の話が出てきます。 社の傍に神石有り、高さ六尺、幅三尺、籬を以って之を圍ふ。八月二十七日祭の日に、之に向て物申と謂へば、石答て、誰と曰の音有り。此の日、醴酒に芒穂を挿て之を供す。 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0860/bunko31_e0860_0045/bunko31_e0860_0045_p0006.jpg これが昔から気になっていたのですが、諏訪神社に行くと高さ八尺くらいの赤茶色の板状の石が2つ立てられていて、そのうちの1つはこの隠里石あたりの位置にあり、もう一つは参道の左側にあります。 この現存する2つの赤茶色の石と、隠里石と、答えを返してくれる石とがどういう関係にあるか不明ですが、会津風土記さんのページで「隠里石」というのもあることがわかりました。ありがとうございました(^^) 和漢三才図会の石が答える話の出所も気になるところです。 - 灰羽ラッカ (2022-05-04 20:24:43)
  • その高さ八尺の石の写真を撮ってあったので載せておきます。隠里石の位置(拝殿に向かって左)の石 https://i.imgur.com/Y3UhaWC.jpg と、参道の石 https://i.imgur.com/3Bb0ezW.jpg です。どちらも石碑状ですが碑文はありません。 - 灰羽ラッカ (2022-05-04 20:40:23)













最終更新:2020年07月02日 14:33