コメント

ご意見ご要望等、何かあればこちらまで。(過去ログ
  • お久しぶりです。永井野組蛇喰村について調べて分かった事があったので報告します。この村は昭和35年に最後の一軒が離村して廃村になったようです。冬はほぼ雪に閉ざされて外界と隔絶されていた秘境中の秘境で、屋根近くまで雪が積もって家の中からは昼夜もわからないほどだったそうです。最後まで電気は通らず郵便物も隣村の菅沼(ここも現在廃村)までしか配達されずそこまで取りに行っていたそうです。明治期にはすでに2軒だけとなり、そのうち1軒は大正時代に離村して、以来ずっと1軒だけが暮らしていたようです(正確には一時期他所から1軒移って来て暮らしていた時期があったようです)。建物も一軒も残っておらず基礎などの遺構と字家ノ前と字壇ノ陰にそれぞれ墓地が残っているだけのようです。字家ノ前には山神社があり昭和期まで鳥居、社殿があったようですが現在は石祠と燈篭の残骸が残っているだけのようです。 - とんりすんがり (2021-12-19 23:30:50)
  • 大塩組大岐村について昭和44年に金山町全土を襲った大水害で土石流に飲み込まれ5人が死亡、全戸が全半壊、農地も埋没という壊滅的打撃を蒙り横田地区に集団移転となって廃村になってしまったようです。同じく大塩組山入村の端村沼岐(沼ノ又)地区も被害を受け1名が死亡、複数家屋が被害を受け、再発の可能性が高いとの事で昭和51年までにやはり横田地区に全戸が移転して廃村となったようです。 - とんりすんがり (2021-12-19 23:43:44)
  • 大沼郡大塩組山入村の端村山中も廃村です。平成24年まで老夫婦が茅葺屋根の家で暮らしていたそうですが、奥さんがまず亡くなり遺された旦那さんも村を離れる事を決めて神社の遷宮などの準備を進めていた最中亡くなってそのまま廃村になってしまったようです。今年現地を訪れたのですが、茅葺屋根の家はほぼ崩壊していて骨組みが辛うじて立っている形となってしました。もう1軒、トタン屋根の家が残っており軽トラと乗用車が止まっていて周りの草刈りなどもされていたので旧住民の方が頻繁に訪れているようです(別の場所で作業されていたのか人には行き会いませんでした)。 - とんりすんがり (2021-12-19 23:51:56)
  • 会津風土記さんのページの諏訪神社のところを読むと、こういう石があるとの記述があります。 隠里石 西廻廓の外にあり。高8尺余・幅4尺余。 そこで、和漢三才図会の第65巻にも諏訪神社の記述があるのですが、それには声をかけると答える石の話が出てきます。 社の傍に神石有り、高さ六尺、幅三尺、籬を以って之を圍ふ。八月二十七日祭の日に、之に向て物申と謂へば、石答て、誰と曰の音有り。此の日、醴酒に芒穂を挿て之を供す。 https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_e0860/bunko31_e0860_0045/bunko31_e0860_0045_p0006.jpg これが昔から気になっていたのですが、諏訪神社に行くと高さ八尺くらいの赤茶色の板状の石が2つ立てられていて、そのうちの1つはこの隠里石あたりの位置にあり、もう一つは参道の左側にあります。 この現存する2つの赤茶色の石と、隠里石と、答えを返してくれる石とがどういう関係にあるか不明ですが、会津風土記さんのページで「隠里石」というのもあることがわかりました。ありがとうございました(^^) 和漢三才図会の石が答える話の出所も気になるところです。 - 灰羽ラッカ (2022-05-04 20:24:43)
  • その高さ八尺の石の写真を撮ってあったので載せておきます。隠里石の位置(拝殿に向かって左)の石 https://i.imgur.com/Y3UhaWC.jpg と、参道の石 https://i.imgur.com/3Bb0ezW.jpg です。どちらも石碑状ですが碑文はありません。 - 灰羽ラッカ (2022-05-04 20:40:23)

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最終更新:2020年07月02日 14:33