コメント > コメント

※上記の広告は60日以上更新のないWIKIに表示されています。更新することで広告が下部へ移動します。

  • 車峠の茶屋は昭和40年代まで住居として使われていたようです(なおその当時で電気が通っていなかったとの事)が、その後廃屋となり、昭和五十五年に雪害で潰れてしまったそうです。 - とんりすんがり (2020-05-27 22:03:41)
    • 昭和40年代って事は車トンネルが出来たタイミングで引っ越しされたんでしょうか。雪で潰れてしまったのは残念です。越後街道の遺産として何かの形で残して欲しいものですね。 - 管理人 (2020-05-28 08:00:38)
      • 車トンネル開通のタイミングで引っ越されたというのは大いに有り得ますね。高齢の男性が一人で住んでおられたとの事で、お子さんの家に移られたか或いはトンネル開通を待たずに亡くなられたのかもしれません。会津は豪雪地帯なので人の手入れが離れた建物は時を置かずして潰れてしまうので仕方ない面もありますが、いずれにせよ残念です。 - とんりすんがり (2020-06-07 08:24:37)
  • 長井集落、安倍仲麿神社に立ち寄ったところ縁起が記されていました。 ttps://dotup.org/uploda/dotup.org2167988.jpg 祭神は阿部仲麻呂その人で間違い無いようです。神社全景ttps://dotup.org/uploda/dotup.org2167996.jpg 奥の石鳥居は文久元年建立。ほか寛保元年建立の燈篭、講中安全の石碑がありました。 - 名無しさん (2020-06-07 08:43:29)
    • 阿部仲麻呂でしたか。祭られているのであれば間違いないのでしょうが、なぜ彼が唐突に表れたのか疑問が残りますね。 - 管理人 (2020-06-07 15:39:45)
  • 漆窪の田んぼの案内板は塩坪化石層についてのものでした。ttps://dotup.org/uploda/dotup.org2168000.jpg - 名無しさん (2020-06-07 08:47:11)
    • 情報ありがとうございます。太古会津盆地全域は海の中(阿賀川と口とした大きな入り江のような形)でしたが、その形跡が残る土地という案内板でしたか。 - 管理人 (2020-06-07 15:42:55)
  • 田子沼は安積疎水開削の際に灌漑されて水田になったそうです。 - とんりすんがり (2020-06-14 19:32:03)
    • (途中送信してしまいました)。とすると、風車から49号線を挟んで南側の水田一帯が田子沼だったのではないでしょうか。確証は持てませんが。 - とんりすんがり (2020-06-14 19:34:51)
      • 水田になってしまったんですね。たしかに位置的にも南側の水田があやしいですね。情報ありがとうございます。 - 管理人 (2020-06-15 17:52:28)
  • 白木城の集落は元々、酸川と長瀬川と合流点の東岸、国道115号線西側の - とんりすんがり (2020-06-14 21:29:20)
    • (つづき)三角に出っ張っているあたりにあったそうですが、明治21年の磐梯山噴火で琵琶沢の流れが変わったために集落に土砂が流れ込むようになり現在の地点に集落移転したそうです(対岸の渋谷集落も長瀬川寄りにあったのが移転したそうです) - とんりすんがり (2020-06-14 21:36:36)
      • (何度も途中送信すみません)天徳寺もこの際、現在の位置に移転したと思われます。 - とんりすんがり (2020-06-14 21:37:56)
        • なるほど。明治21年に移転したのですか。風土記の酸川の記述が北から西とあったので疑問に思っていたのですが、その地点にあったとのであれば記述通りですね。 - 管理人 (2020-06-15 18:06:19)
  • 琵琶沢についてですが、磐梯山東嶺から長瀬川に注いでいる川です(ttps://www.google.com/maps?q=37.592748,%20140.125118&t=k)。航空写真だと岸が鬱蒼としていてややわかり辛いですが…。この川は元々見祢村に注いでいたのですが、磐梯山噴火の際に発生した大量の土石流が沢を下って押し寄せ、見祢、白木城等各集落に甚大な被害を及ぼしました(見祢の大石もこの時運ばれて来ました)。その土砂のためにの元の沢は埋まってしまい、琵琶沢は現在の位置に注ぐようになったそうです。その後、まだ山腹に留まっていた大量の土砂が、雨が降る度に琵琶沢の流れに乗って白木城と渋谷の集落に流れ込むようになってしまい、生活が困難となって移転の已む無きに至ったようです。白木城の元の位置については、記事のリンクでの位置で大体合っています。 - とんりすんがり (2020-06-15 23:13:52)
  • 顯元原と言うのは秋元湖の底に沈んだ秋元原の事かと思われますが、あえてリンクを貼っていらっしゃらないのであれば差し出口申し訳ございません。明治21年の噴火の頃には木地集落が形成されており、住民の八割強が生き埋めとなる惨禍に見舞われましたが、風土記の記述から見ると人が定住したのはかなり後になってからだったようですね。袋原や千咲原なども原野としてしか記述が無く、開墾され人が住むようになったのはかなり最近と分かり、興味深いです。 - とんりすんがり (2020-06-15 23:33:30)
    • 秋元湖! …頭の中にありませんでした(汗)。情報ありがとうございます! - 管理人 (2020-06-16 14:12:46)
  • 塩川の諏訪神社は位置的にここですね。(https://www.google.com/maps?q=37.600184,139.885012&t=k) - 名無しさん (2020-06-30 22:28:37)
    • 情報ありがとうございます! 早速記事の方更新しました。 - 管理人 (2020-07-01 08:22:43)
  • 塩川の中心街(中町)は水利に目をつけた蒲生氏郷が故地日野から呼び寄せた近江商人が興した町で(現在の東邦銀行塩川支店にあった、会津藩本陣が近江屋だったり、近江商人〇〇代目とと掲げて営業しているお店が現在もあります)、彼らが日橋川の築堤工事で出来た湖を故郷を偲んで琵琶沼、琵琶阿湖と呼ぶようになったようです。御殿場公園や周辺の住宅地含め最大期で周囲一里ほどの湖だったようで(風土記の記述通り、だんだんと灌漑され縮小していったようです)、松平時代に藩主の避暑地として舟遊びや鷹狩りが行われ、御殿場と呼ばれるようになったようです。御殿場公園が整備されるまでは一帯は水田だったので(住宅地ができたのもここ二十年ほどです)、公園内の池は近年造成された無関係のもののようです。 - とんりすんがり (2020-07-01 00:23:52)
    • なるほど。氏郷公の時代から発展した商人の町だったんですね。御殿場公園にもそんな歴史があるとは知りませんでした。いつも情報ありがとうございます。 - 管理人 (2020-07-01 08:25:55)
  • 伝栗村(七宮)憲勝の墓(たまや)はこの場所に現存している事を確認しました。(https://www.google.com/maps?q=37.593575,139.887808&t=k)。五輪塔は他にもいくつかありましたが、一つだけ離れた高い位置にあり大きさも風土記の記述と一致するので間違いないかと。(https://dotup.org/uploda/dotup.org2189521.jpg)。手入れは全くされていない様子で寂しげでした。塚のの目印となる木が植えられていたようで幹も立派でしたが、、残念ながら枯れていました。 - 名無しさん (2020-07-01 21:53:33)
    • 情報ありがとうございます。位置的に道路と宅地で分断された阿弥陀寺の墓所の一角のようですね。どうしてこの地が「たまや」なのでしょうね。 - 管理人 (2020-07-02 14:20:13)
      • 恋人坂というのはここから見る会津盆地の夜景ががきれいだという事でアベック(死語)が多く訪れた事から近年つけられたローカルなデートスポットです。中には不心得な - とんりすんがり (2020-07-06 22:43:57)
  • 雲海なる怪力僧侶の塚も風土記の位置通りに現存していました。(https://www.google.com/maps?q=37.608686,139.882739&t=k)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2189530.jpg)。田んぼの一角に怪しい茂みがったので行ってみたらドンピシャでした。こちらの五輪塔は残念ながら崩壊していました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2189532.jpg)が、塔頭部分の大きさからすると完全な状態なら五尺ぐらいはありそうでした。 - とんりすんがり (2020-07-01 22:01:31)
    • 情報ありがとうございます。また田んぼ中まで御足労すみません。雲海の伝承はネットで調べても出てこないんですよね。名前に「海」の付く怪力僧なら平安末期に海尊がいて義経と一緒に奥州へ下ったとの伝承があるんですよね。雲海と関連があるかどうかは謎ですが。 - 管理人 (2020-07-02 14:30:07)
  • 佐瀬種常の墓はこちらです。五輪塔、文化二年建立の碑文共に現存し、町の史跡として整備されています。(https://www.google.com/maps?q=37.569686,139.963518&t=k) - 名無しさん (2020-07-05 09:34:50)
    • 情報ありがとうございます。町の史跡なのですね。磐梯町のHPには情報載っていませんでしたが…。 - 管理人 (2020-07-05 14:09:17)
  • 大和守種常の養嗣子、常雄の墓はこちらです。養父の墓同様に史跡として整備されています。https://www.google.com/maps?q=37.570758,139.955128&t=k) - 名無しさん (2020-07-05 09:46:43)
    • 川西組大寺村のの条にある会津の執権・金上盛備の墓はこちらです。金上壇と言う字名になっているようです。(https://www.google.com/maps?q=37.559399,139.983269&t=k) - 名無しさん (2020-07-05 09:55:01)
      • 情報ありがとうございます。ストリートビューで見る限り何か説明文が書かれた板があるようなので、ここも町の史跡として管理されていそうですね。 - 管理人 (2020-07-05 14:23:19)
    • 情報ありがとうございます。上原地区ではなく金屋地区にあるとは。何かあるなと思っていたのですが、よもや常雄の墓だったとは。 - 管理人 (2020-07-05 14:16:47)
  • 大寺村のページの金上遠江守盛備墓のgoogleマップへのリンクと表示がおかしくなっています。あと、金上壇が金山壇になっています。 - とんりすんがり (2020-07-06 21:57:23)
    • 大変失礼いたしました! ご指摘ありがとうございます - 管理人 (2020-07-07 12:27:55)
  • 小沼峠についてですが、地理院地図で見ると雄国滝のすぐ南につづれ折りの破線路が示されていますが、これが小沼峠の名残です。どういう線形を描いていたか今手元に資料が無いので詳しくはわかりませんが(数日前まで図書館から借りていたのですが;)北西に抜けていたようで、大正頃までは金沢峠よりも距離が短いこちらの方が多く利用されていたようです。雄国滝下流の堰は大塩村代官の平左衛門が文字通り全てをなげうって開削した雄国堀抜堰です。雄国滝もその際作られた人造滝です。赤羽堰は大塩川から引かれた南に流れる堰のようです。 - とんりすんがり (2020-07-06 22:33:38)
    • 情報ありがとうございます。雄国滝付近はあやしいと思っていたのですが、確証が得られずもんもんとしていました(汗 - 管理人 (2020-07-07 13:24:31)
  • 恋人坂というのはここから見る会津盆地の夜景ががきれいだという事でアベック(死語)が多く訪れた事から近年つけられたローカルなデートスポットです。中には不心得者もいたようで、面白い警告看板が設置されています(https://www.google.com/maps?q=37.624447,139.934817&t=k)。御覧の通りの長いまっすぐな坂なのでよくマラソンや自転車のトレーニングにも使われています。 - とんりすんがり (2020-07-06 22:47:28)
    • 恋人坂と恋人岬は、まぁ、冗談半分で記事に入れちゃったのでお気になさらずともよかったのですが。詳しい情報ありがとうございます(大汗 やはりというか、地元の人達の憩い(?)の場所だったんですね。 - 管理人 (2020-07-07 13:28:13)
  • 恋人岬というのは私も知らなかったのですが、やはり恋人坂同様夜景のきれいなデートスポットのようです。グアム島の恋人岬に形が似ているんだとかなんだとか。喜多方は青少年が遊べるような場所がほとんど無いせいか、デートといえば山や丘からの夜景!といった風習があるらしく、二十年以上前の話ではありますが高台の墓地で夜景目当てのカップルによる侵入が多発して問題になった事があります(汗)。 - とんりすんがり (2020-07-06 22:56:00)
  • 木地小屋の原と言うのは、御推察通り、現在の滝ノ原の事で間違いないです(少なくとも明治期には現在の名前になっています)。滝ノ原は昭和60年代に全住民が集落を離れ、廃村になってしまったそうです。数年前まで遅沢集落から車で訪れる事ができたようですが、今年探索を試みたところ、途中で路盤が徒歩でも無理なレベルで崩落しており断念しました。滝ノ原から雄子沢を通って猪苗代へ下る道が昔あり、猪苗代道と言っていたようで(取上峠はその鞍部だったようです)、このあたりから旧道に入れるのですが(https://www.google.com/maps?q=37.663651,%20140.029185&t=k)ほぼ藪化しており、こちらも一旦引き返しました。滝ノ原に電気を通していたと思しき電線がだるだるに垂れ下がっていました。 - とんりすんがり (2020-07-08 23:26:09)
    • いつも情報ありがとうございます。木地小屋集落という特性上交通の便が悪い場所だったでしょうし廃村は止むを得なかったのでしょうね。というか現地に行かれてたんですか。ええと、観光…ではないですよね? - 管理人 (2020-07-09 15:47:51)
      • どんな様子か気になったのと、かつてあった分校跡(鉄筋作に改装されと言う記録があるので、何かしら遺構は残っていそうです)と地形図にある神社を探しに行ったのですが、まぁ…観光と言えば観光かもしれません(汗)。豪雪地帯の上、土地も拡張性が乏しそうなので農村への転換も難しかったのでしょう。取上峠の旧道は電線の他、未舗装でしたがガードレールやコンクリ製の側溝も確認でき、近年一度作業道として整備されたのが林業の衰退で再び廃道化した感じでした。2000年の空中写真をを見ると道も集落跡も手入れがされている様子で、その頃までは人の出入りがあったようです。 - とんりすんがり (2020-07-09 23:15:26)
        • ええと、くれぐれも危ない所には近づかないようにしてくださいね(汗 でも、地図上に何か載っていれば現状を見てみたくなる気持ちはわかります! - 管理人 (2020-07-10 18:16:36)
  • 滝ノ原集落の名前の由来になったと思しき大滝(江戸時代に滝ノ原心中という心中騒ぎもあったと伝わります)も道の駅の観光案内板で名所として掲載している割に、細野峠の自動車道が廃道化しているせいで訪れるのが難しくなっているようです。せめてこちらは何とか手を打って頂きたいものです。 - とんりすんがり (2020-07-08 23:30:56)
    • …滝ノ原心中? また知らない単語が出てきました。北塩原村の観光協会は山塩以外の歴史文化財についてもっと力を入れて欲しいものですね。細野峠の整備も頑張って欲しいものです。 - 管理人 (2020-07-09 15:57:46)
      • 結ばれぬ間柄の若い男女が大滝に身を投げた事件があったのだそうです。以前、詳しい話も読んだのですが「北塩原村史」で読んだのだと思っていたら違っていました; - とんりすんがり (2020-07-09 23:07:51)
        • 細野峠沿いの大滝ですよね? やはりあの街道は復旧してほしいものです - 管理人 (2020-07-10 18:19:17)
  • 現存しない大塩の西福寺ですが、この赤い屋根の民家(https://www.google.com/maps?q=37.669242,139.987718&t=k)のあたりにあったようです。民家の裏手に墓所が確認できますが、元は西福寺の墓域だったようです。伊達政宗の謀略で檜原を追われた穴沢一族の残党がが一族の菩提を弔うために開基したという言い伝えがあり、明治の初め頃までは建在だったようですが、その後衰退して同宗派の長泉寺に吸収されたようです。 - 名無しさん (2020-07-11 18:09:35)
    • 情報ありがとうございます。お寺や神社等吸収合併した記録はほぼ残っていないので、このような情報は非常に助かります。 - 管理人 (2020-07-11 22:05:24)
  • 大塩村のページで亀甲坂?となっている地点ですが、神楽岩洞門という全く別のもののようです。この洞門の上に昔は道が通っており、神楽の一団が尾谷新田村から下川前村に向かう途中、あまりの険しさに神楽道具を谷底に落としてしまったという言い伝えから神楽岩と言われているようです(この話からすると風土記で既に廃村とされている遅谷新田村は洞門裏の山手にあったようです)。ただし本来の神楽岩は洞門よりやや東の山肌にあるそうで(樹木が生い茂っており目視できませんでした)、洞門が穿たれている岩壁は本来無関係なのだそうですが、今や混同されているようです。神楽岩洞門の道は昔は県道で、路線バスも走っていたそうですが、今の国道459号線が出来てから管理が放棄され、そのうち土砂崩れなどで通れなくなったそうです。 - とんりすんがり (2020-07-12 21:21:35)
    • 情報ありがとうございます。 現地に行かれたんですか?何か申し訳ないです。 亀甲坂については漆村の記述を見ている時に「何か勘違いしているかも」と思ていたのですがやはり違っていましたか。ちなみに、下郷の方にも洞門があり昔バスが通っていた廃道があるようです。 - 管理人 (2020-07-12 22:41:50)
      • 自分が気になって調べているだけなのでお気になさらず^^;現地の方のお話が聞けて貴重でした。大塩の歴史や伝承に詳しい方がいたとの事ですが、今は相当な御高齢で施設に入ってしまっているそうです(>_<;)。神楽岩については春先など木々が枯れている時期ならば見えるかもしれません。 - とんりすんがり (2020-07-12 22:58:40)
  • 亀甲坂についても調べてみましたが、大塩から大久保に向かう途中の道にあったようで、グダ沼という沼に住んでいた人食い亀を弘法大師が退治しその死体をを埋めた場所という説、グダ沼がが干上がった際にに住んでいた亀たちが亀甲石になった説と云われが複数あるようです。ただ、正確な場所についてははっきりわかりませんでした。地元の方にもお話を伺ったのですが、御存じないとの事でした。もう少し調べてみようと思います。 - とんりすんがり (2020-07-12 21:29:50)
    • さらに現地の方へ取材までなさって…。本当に申し訳ないです。 それにしても旧米沢街道という大きな道だったのに情報がほとんど無いのは不思議ですね。会津若松市なんて銀山街道というマイナーな道ですら地図があるというのに。北塩原村も遺跡の整備を頑張って欲しいものです。 - 管理人 (2020-07-12 22:47:30)
      • 米沢街道では大塩峠、蘭峠近辺は案内板があちこちに設置されていたり、旧道が遊歩道化されていたりするのですが、大塩以南は現在のところ、あまりそういった標識は無いですね;ただ、近年柏木城が発掘調査、整備されたりもしているのでだんだんと整備が進んでいくかもしれません。 - とんりすんがり (2020-07-12 23:02:21)
  • 大塩の話が続きます。塩井についてですが、風土記の記述通り、この辺りに(https://www.google.com/maps?q=37.669185,20139.986350&amp;t=k)二つの塩井が並んでいたそうで、東側を翁湯、西側を媼湯と言っていたようです。昭和42年5月26日に僅か2時間で100件以上が全焼する大火が大塩であり(郵便局や主だった旅館をはじめ、長泉寺も焼け落ちたそうです)それをきっかけに道路の拡張工事が行われ、その際に媼湯は取り壊されてしまったようです。さらに平成6年に大塩川の護岸工事が行われた際、残る翁湯も撤去されこの場所に移転復元されたとのことです(https://www.google.com/maps?q=37.669414,20139.989436&amp;t=k)。大塩山塩の会社の向井にあるのは虚空蔵様の御水屋(手と口をゆすぐ場所)のようです。ちなみに大塩山塩も平成29年から、この場所に移転しています(https://www.google.com/maps?q=37.665364,139.992740&amp;t=k)。 - とんりすんがり (2020-07-14 00:24:54)
    • 情報を元に記事を変更させていただきました。大火事は初耳でした。つい最近まで風土記の記述通りの場所にあったのですね。 - 管理人 (2020-07-14 17:13:34)
      • ありがとうございます。大塩の塩井の元の場所へのリンクがおかしくなっているようです。大塩は明治17年にも集落のほとんどが焼ける大火に見舞われており、二度の大火で古い建物と宿場の街並みは殆ど失われてしまったそうです。長泉寺は明治の大火でも焼失しており、明治19年から前の過去帳は残っていないそうです(昭和の大火時は他所で保管されていたため過去帳の焼失を免れたようです)。 - とんりすんがり (2020-07-15 00:17:07)
  • また、風土記に記述されていて現在見当たらない山神社は、実は今の温泉神社の事だそうです。風土記に記載のある温泉神社は、挿絵や記述の通り塩井の傍で祀られていたそうで「湯前神」「湯権現(ゆのごんげん)」とも言っていたそうです。明治の廃仏棄釈の際に二つの神社が統合させられ、場所は山神社の領域なのですが、祭神は温泉神社が昇格させられたのだそうです。 - とんりすんがり (2020-07-14 00:35:05)
  • また老嫗屋敷というのはこの古峯神社の石碑のあたりにあったようです(https://www.google.com/maps?q=37.667927,139.982400&amp;t=k)。地元では「おんば様」と呼ばれていたそうで、ここで祀られていた嫗は小萬という女性で、若く美しい山伏に化けた大蛇に魅入られて蛇の子を産み落とし、悲嘆のあまり自害しようとした所を弘法大師に諭され、生きながらにして像を作られお産の神様として祀られるようになったとの事です。小萬はその後も長生きし、大塩で初めて伊勢神宮に参拝したり、塔寺の恵隆寺にはじめて戸帳を奉納するなどしたそうです。弘法大師の像と嫗像も現存しているそうですが、昭和10年頃に道路拡張のため長泉寺に遷され今はそちらでお祀りされているとの事です。 - とんりすんがり (2020-07-14 01:02:04)
    • あ、ちょっと訂正致します。おんば様が移転した道路拡張工事は昭和42年の大火の後の拡張工事の方かもしれません。再度、調べなおします; - 名無しさん (2020-07-14 01:16:15)
      • 何度もすみません。風土記の老嫗屋敷とおんば様とは別物かもしれないですね。風土記に乗っているのは大塩塩井の縁起ですし…弘法大師と嫗の像という共通点で勘違いしてしまいました。或いは別々の話が伝わっているのかもしれませんが…再度よく調べます。長々と書いた上、この有様で申し訳ありません。 - とんりすんがり (2020-07-14 01:32:27)
        • いえいえ、情報いただけただけでも貴重ですし参考になります。いつもありがたく思っています。なお、おんば様は風土記でいう所の「婆神」と同じものなので大塩の老嫗の件とは別でしょう。 - 管理人 (2020-07-14 17:17:09)
  • 指摘ありがとうございます。すると本来の老嫗屋敷や護摩石のの行方が気になりますね…。 - とんりすんがり (2020-07-15 00:17:59)
  • 下川前村の大山祇神社は御推察どおり、このあたりにありました。(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.673112,139.965831&amp;t=k)。親切な地元の方に場所をおしえてもらいました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2202968.jpg)。石段がドクダミ天国と化しており足元を見辛く大変でした(https://dotup.org/uploda/dotup.org2202972.jpg)。 - とんりすんがり (2020-07-18 13:43:41)
    • やはり村西の林の中にありましたか。足元が危ない中取材ありがとうございます。 - 管理人 (2020-07-18 18:58:44)
  • 大山祇神社(山神社)の境内にいくつか石祠がありましたが、このうち一つは端村の小森山新田から遷されたものだそうです。(https://dotup.org/uploda/dotup.org2202973.jpg)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2202974.jpg)。 - とんりすんがり (2020-07-18 13:49:12)
    • おそらく一枚目の写真の方がそうなのかなぁと思いますが、確証はありません。小森山新田村は大谷川を越えた先、北西の森の平端部にあったそうで、17世紀の小沼組絵図では5軒と記されているそうですが、その後衰微し、風土記の記述ではすでに1軒を残すのみとなっており、明治を迎える事なく廃村になったようです。現地には水田跡と思しき段差や墓石が草木にに埋もれて残っているそうです。石祠は明治の末頃に下川前の住民の方が、小森山新田の跡地から背負って運んできたのだそうです。また来正寺には同じ頃に小森山新田から運んできた地蔵尊があるそうです。 - とんりすんがり (2020-07-18 13:57:33)
    • 神社に石祠がある神社は多々ありますが、由来が判らないものが多いですよね。 - 管理人 (2020-07-18 19:01:29)
  • 風土記には記載されていませんが、この位置に天狗石という大石がありました。(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.672889,139.968636&amp;t=k)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2202980.jpg)。下川前の上川前の間にある水田では旧暦の8月15日の午後1時から2時に、田んぼ1枚1枚全ての水面に満月が映るそうで、それを「田毎の月」と言うのだそうですが、それを見に来た天狗が田んぼの一枚一枚に全てに自分の顔が映り慌てて飛び降りた足跡が残っているそうです。実際、石の天辺には人間の左足の大きさと形をした凹みがありました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2202981.jpg)。案内してくださった地元の方は、子供の頃、みんなで川遊びをする時に、この足跡に自分たちの足をはめて遊んでいたそうです。 - とんりすんがり (2020-07-18 14:11:06)
    • そのような大岩があるのですね。情報ありがとうございます。 - 管理人 (2020-07-18 19:09:14)
  • 風土記とはまったく関係ありませんが、下川前と上川前の間にエミュー(https://dotup.org/uploda/dotup.org2202983.jpg)がたくさんいてびっくりしました(゜0゜;)。東京農大との協力で試験飼育しているそうです。 - とんりすんがり (2020-07-18 14:16:14)
    • エミューってオーストラリアの鳥ですよね? 大型の鳥なのでペット用ではないでしょうし、食用に飼育してるのでしょうか… 知りませんでした。 - 管理人 (2020-07-18 19:11:15)
      • おそらく食肉とタマゴの採取が目的で飼われていると思われます。人馴れしているのか、柵に近づいてものんびりした様子でした。 - とんりすんがり (2020-07-24 09:18:16)
  • 下利根川村の石碑はこの場所に現存しておりました。(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.614234,139.895851&amp;t=k)。風土記の記述と異なり、真福寺の境内にありましたが、どちらかが移転したのでしょうか?(https://dotup.org/uploda/dotup.org2204529.jpg)。市の文化財に指定されており、解説板が設置されておりました。(https://dotup.org/uploda/dotup.org2204530.jpg) - 名無しさん (2020-07-19 22:02:01)
    • 情報ありがとうございます。移動元については何とも言えないですよね。明治の地理院地図には寺自体の記載もありませんし、土地の整備の際にまとめて移転したのかもしれません。 - 管理人 (2020-07-21 18:53:04)
  • 漆村の石佛も四体全てが現存しておりました。まず南の石佛はこの位置、北塩原村と喜多方市の境(おそらく漆村と熊倉村の境)にありました(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.649081,139.927044&amp;t=k)。四つの石佛で唯一年号が明記されており、一番大きく立派であるためか、案内板が設けられてしっかり整備されておりました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2204579.jpg,https://dotup.org/uploda/dotup.org2204581.jpg)。 - とんりすんがり (2020-07-19 22:33:21)
  • 東の石佛はこちら、村立体育館の真南にありました。(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.652730,139.933741&amp;t=k)史跡の標柱が朽ちてしまっていましたが、よりによって真ん前に寝かしておくのはどうなのでしょうか…。(https://dotup.org/uploda/dotup.org2204586.jpg) - とんりすんがり (2020-07-19 23:20:54)
  • 西の石佛はこの位置にありました(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.657259,139.921174&amp;t=k)。なぜかこんな変な所(https://dotup.org/uploda/dotup.org2204627.jpg)にありました(゚o゚;)。おそらく耕地整理か何かの影響でこんなところに移動されたか、堰の流れが変わったものと思われます。 - とんりすんがり (2020-07-19 23:28:27)
  • 最後に北の石佛です(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.657886,139.932384&amp;t=k)。風土記の記述通り、大正寺の門前にありました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2204634.jpg)。 - とんりすんがり (2020-07-19 23:32:21)
    • 情報ありがとうございます。西の石佛の配置はおかしいですよね。なぜ水路の上に? 田んぼを整備する際に邪魔だったのでしょうか…。 - 管理人 (2020-07-21 19:09:29)
      • 耕地整理前の空中写真を見ると当該地点にぐねぐねとした細いあぜ道のようなものが確認でき、やはり田んぼを整理した際に移動したか、元あった地点が水路になる都合上、こんな置き方をされてしまったものと思われます。 - とんりすんがり (2020-07-24 09:29:43)
  • 確証は持てないのですが風土記の記述からすると天井沢村の端村、木戸口ははこの辺り(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.690712,139.882877&amp;t=k)(南に2町、3軒が散居)、十方宮はこの辺り(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.693414,139.887183&amp;t=k)(東に40間、南が田んぼで三方は山)ではないかと思いますが、いかがでしょうか?木戸口という地名は松山町鳥見山の小字として残っているようですが、正確にはどの辺りを指しているのかはわかりません。十方宮という地名はもう残っていないようです。 - とんりすんがり (2020-07-24 09:09:37)
    • 江戸時代と今では区画も変わっているでしょうし何とも言えない所ですね。何か史跡でもあれば記事として取り上げたい所ですが…。 - 管理人 (2020-07-24 18:35:26)
  • 余談ですが、小字がどの地点を指しているのが気軽に地図上で調べられれば歴史的な地名や寺社の調査がはかどるのですが(風土記の時代で廃村となっている地名も残っているケースが見られます)…明治時代の地籍図を探す、法務局から有償で公図を入手する、法人向けの高額なソフトウェアを導入するなど、いずれも手間がかかるか難しい手段がばかりでもどかしいです。 - とんりすんがり (2020-07-24 09:16:04)
    • 将来的に細かい地名まで載せたいとは思っているのですが、風土記本文の打ち込みもまだ終わっていない状態で深く掘り下げるのは現状が精一杯です(汗 何分個人で細々とやっているwikiですので…。 - 管理人 (2020-07-24 18:38:55)
      • あ、このwikiに対する要望として受け取られてしまわれたのならば誤解を与えてしまって、申し訳ありません(汗)これだけの量の情報をお一人で記事になさっている事に頭が下がる思いです。 - とんりすんがり (2020-07-24 19:08:22)
  • 熊倉宿の絵図を見ると代官所(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.642825,139.925245&amp;t=k)、検断屋敷(物江家屋敷)(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.642904,139.926807&amp;t=k)はそれぞれこの場所にあったようです。熊倉町の年配の方は米沢街道の宿場としての誇り高く、歴史的なしこり(六斎市の復活を小田付、小荒井両村に妨害されたそうです)もあり、喜多方市中心部への対抗心が強い方が多かったそうです。 - とんりすんがり (2020-07-25 09:52:00)
    • 情報ありがとうございます。調べてみたら熊倉町には案内板が設置されており検断屋敷があった場所も載っているようでした。いっそと思いそちらを記事に載せてみました。 - 管理人 (2020-07-26 06:49:52)
  • 一堰村の天神社は菅原神社の事を指すようです。東泉寺は明治7年に火災に遭って本尊の十一面観音諸共焼失してしまい、その後再建されなかったそうです。ただ、宗教法人としては現在も登録があるようです。正確な位置は不明ですが菅原神社の境内かすぐ近くにあったようです。 - とんりすんがり (2020-07-25 09:59:19)
    • そうなんです。天神社については悩んだのですよ。風土記では菅原神社を天満宮と記載しているので天神社はどうなのかと思っていた次第です。 また東泉寺は火災で焼失ですか…。600年以上前の仏像が失われたのは残念です。 - 管理人 (2020-07-26 07:00:05)
  • 小田付村の総社神社は明治4年に明治政府の政策の一環で出雲神社に改称され祭神も大国主命に変えられたそうです。風土記に記述のある市神石も境内の北東にお祀りされていました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2209336.jpghttps://dotup.org/uploda/dotup.org2209339.jpg)。もともと中田付村でお祀りされていたそうですが、佐瀬大和守種常が市を小田付に移した際に、一緒に遷されたそうです。余談ですが小田付の読みは行政上は「おたづき」なのだそうですが、地元の人は殆ど「おだづき(「き」も限りなく「ぎ」に近い発音)」と呼んでいます。 - とんりすんがり (2020-07-25 10:17:36)
    • 明治の宗教政策ということは悪名高き神仏分離の一環でしょうか。市神石が残っているのも良いですね。 - 管理人 (2020-07-26 07:17:13)
      • おっしゃる通り、おそらく神仏分離政策の一環と思われます。国家神道構築の上で、神仏の分離だけではなく由来のはっきりしない祭神を記紀神話に登場する神様に変更したり、自然石や樹木等の御神体が刀や鏡に変えられたりというのが多く行われたようです。 - とんりすんがり (2020-07-28 00:21:56)
  • 入田付村の記事で管理人様がお寺(?)とされている平沢集落の建物は、御推察の通り正福寺で間違いが無いようです。元々のお堂は東向き、ちょうど旧121号線に背を向ける形で立っていた(田付川の対岸に元々の集落の道があったそうです)そうですが、詳しい年代は不明ながら火災で焼失し、再建された際に現在の位置に移動したようです。現在は集落の集会所として使われているようです。 - とんりすんがり (2020-07-28 00:28:58)
    • 失礼しました。正福寺の東側に旧道が通っていたのは間違いなかったのですが、道があったのは田付川の対岸ではなく西土手だったようです。間違え申し訳ありませんでした。 - とんりすんがり (2020-07-28 00:41:12)
    • 情報ありがとうございます。正福寺は廃寺となってしまったのですね。他にも集落でも寺や神社の跡地を集会所として利用している所はあるんですよね。 - 管理人 (2020-07-30 07:54:28)
  • また風土記にある入田付の石佛(車地蔵)もこの位置(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.699434,139.913304&amp;t=k)に現存しておりました。確かに漆の石佛とよく似た形状ですね(https://dotup.org/uploda/dotup.org2212041.jpg)。ただ形的には隣にある石佛(https://dotup.org/uploda/dotup.org2212042.jpg)の方が車地蔵という名前がしっくりくる気もします(汗)。入田付の大橋は現在の場所よりもやや上流に架かっていたそうで、車地蔵も風土記の記述通り橋からやや北の旧道(現道より田付川寄りだったようです)に安置されていたようですが、明治時代に大峠道路が開通した際に、治里(入田付本村)の方々が現在の場所に遷したそうです。ちなみに車地蔵脇に車の轍が写っていますが、これが旧道の名残だそうです(田付川の流れに侵食されており完全に辿る事はできないようです)。 - とんりすんがり (2020-07-28 00:59:46)
    • なるほど大橋の場所が変わっていたのですか。確かに小さい像の方が地蔵っぽいです。 - 管理人 (2020-07-30 08:02:27)
  • 関柴村の小名である菅沼集落は現在廃村となってしまっており、4軒の空家と複数の小屋等が残されるのみとなっております(https://dotup.org/uploda/dotup.org2216726.png)。居住していた方々は風土記の記述通り、関柴合戦で葦名勢に撃退された伊達勢の敗残兵の子孫で、全戸が同じ姓の一族だったようです(集落の東の墓地にはその先祖が植えた桜の大木が昭和の頃まであったそうですが、現在は枯れてしまったそうです)。最盛期は9世帯が暮らしていたそうですが、やはり立地の不便さ故か高度経済成長以後は若い人から喜多方市街や他所に移りはじめ、平成10年代前半に最後まで暮らしていた3軒が平野部に移ってついに無住の地となったようです。現在も二軒在家集落から大仏山を横切る車道が通っており(ただし、車高の低い車や車体の大きな車で向かうのはお勧めしません…)、旧家、墓地の管理や畑仕事のために旧住人の方が定期的に出入りしている他、集落の電柱はまだ生きており、姥堂川を挟んだ大楚々木集落に電気を通しているので電力会社の方も整備に訪れるようです。斜面の少ない平地を利用して家屋が建てられており、その目の前はすぐ崖という立地で往時の苦労が忍ばれます。子供たちは大楚々木の分校に通っていたそうですが、関柴町に属しながら、ついに大楚々木とを結ぶ車道が敷かれる事はなかったようです。風土記には記述がありませんが、この位置(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.701557,139.935927&amp;t=k)に村の鎮守である山神社が現存しておりますが、春先の草が少ない時期でないと近づけない状態で、現在も管理されているかは不明です。 - とんりすんがり (2020-08-02 14:23:46)
    • やはり山間にある市街地へのアクセスが不便な地は廃れてしまいますよね。電気が通っていてもそれだけじゃ暮らしていけませんし。 - 管理人 (2020-08-03 10:22:13)
  • 同じく関柴村の端村である萱場(茅場)集落も現在廃村になってしまっております(https://dotup.org/uploda/dotup.org2216764.jpg)。こちらの集落も関柴合戦の敗残兵が開いたという言い伝えがあり、やはり集落の殆どが同じ姓を名乗っていたそうです(菅沼集落とはまた別の姓です)。こちらは「会津風土記」の方にもすでに記述があります。菅沼集落以上の奥地で、菅沼、両楚々木集落が昭和22年に通電が開始されたのに対し、萱場集落に電灯がともるのは昭和37年を待たなければならなかったようです。そのためか衰退は菅沼集落より早く、平成の初め頃には既に無住集落となっていたようです。この集落も大楚々木集落の旧分校(萱場の子供たちもここに通っていたようです)の脇から狭く険しいながらも車道が通っており、元住民の方が管理を続けているようです。姥堂川にかかった橋を渡るとまっすぐな坂道があり、その上に築かれた集落です。かつてはこの当り(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.709394,139.954043&amp;t=k)に山神社があったそうですが、集落が無住となる頃に関柴本村に遷座したようです(具体的な位置は現在調査中です;)。萱場の北東には風土記に記述がある秣場があったそうで、かつて寺院があったという言い伝えから和尚壇と呼ばれていたそうです。他に死人沢という恐ろし気な字名が残っており、姥捨山だったという言い伝えがあるそうです。 - とんりすんがり (2020-08-02 14:44:48)
    • 調査中って、無茶しないでくださいね。萱場集落こそ交通の便の悪さは極めつけでしょう。廃村も止むを得ないと思います。ただ、関柴合戦についての説明をどこか分かりやすい所(関柴の集会所?)に残しておいて欲しいものです。 - 管理人 (2020-08-03 10:31:34)
      • すみません。調査するのは関柴本村の遷座した先ですので、萱場の山中をうろつくわけではないので御心配なく^^;。こういった中山間地域が衰退したのは交通の便の悪さもそうですが、林業(山仕事)が仕事として成り立たなくなったところが大きいでしょうね。昭和の頃の空中写真を見るとこの界隈に限らず、どこの山もきれいに手入れされていた事がよくわかりますし、姥堂川上流の四集落全てで山神社を祀っていた所にも山との密接なかかわりを感じさせます。関柴合戦は喜多方市北部に種々の影響を与えているので(入田付大峠の最初の開削、打入、火付沢の地名等)もっと大きく取り上げられてもよさそうですね。 - とんりすんがり (2020-08-03 23:08:16)
  • 下柴村、小楚々木集落の山神社はこの地点(ttps://maps.google.co.jp/maps?ll=37.688779,139.946900&t=k)にありました。参道が見つけられずに大楚々木に向かう道路の上から屋根のみ撮影となってしまいました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2217900.jpg)。後で大楚々木集落の方に伺ったところ集会所の裏から登れたとの事でした。小楚々木集落は元楚々木とも言われていたそうで、はじめこちらに集落が形成され、時代が下ってから大楚々木集落が開拓されたそうです(https://dotup.org/uploda/dotup.org2217930.jpg)。訪れた際、どうも集落に人の気配が感じられず訝しんでいたのですが、最後まで住んでいた2世帯の方が昨年から今年にかけてそれぞれ他所に移り、小楚々木も廃村になってしまったとの事です。姥堂川上流の4集落で人が住んでいるのはとうとう大楚々木集落だけになってしまったようです。 - とんりすんがり (2020-08-03 22:13:22)
    • 小楚々木が廃村になったのは最近なのですね。ここも場所的に止むを得ない気もします。 - 管理人 (2020-08-04 08:16:20)
  • 大楚々木集落の山神社はこの地点(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.698337,139.943358&amp;t=k)にありました。集落の東側を抜けて北に曲がり(真っ直ぐ進むとかつては菅沼に続いていたそうですが現在は途中で藪になってしまい、かつて架かっていた橋もおそらく流されてしまっているとの事でした)、田んぼの脇を歩いていくと林の前に鳥居が立っておりそこを少し上ると小さなお社がありました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2217962.jpg)。お話を伺った集落の方によると子供の頃、夏休みになるとここが一番涼しいという事で、社の扉を開けて中で勉強をしていたそうで、今でも集落でお祭をしているとの事です。大楚々木集落は山都町の沼平と並び福寿草の名所として有名です(https://dotup.org/uploda/dotup.org2217969.jpg)。 - とんりすんがり (2020-08-03 22:36:15)
    • この地区の山神社はちゃんと祭礼があるのですね。風土記では「村民の持なり」とあるので、神主さんは地元の方なんでしょうか? - 管理人 (2020-08-04 08:21:13)
      • そこまでは聞かなかったのですが、話を聞いた方は「(お祭の時は)神主さんに来てもらう」とおっしゃっていたので、今は他所の神主さんが管理をしているものとおもわれます。 - とんりすんがり (2020-08-04 22:58:05)
  • また小楚々木集落から大楚々木集落に向かう途中の愛宕神社には由緒書きが設置されておりました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2217975.jpg)。参道は結構な急こう配でアブがブンブンと飛んでいたので参拝はまたの機会にしました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2217976.jpg)。ちなみに楚々木集落はネット上を見ると「そそぎ」と紹介しているサイトもあるのですが、お住まいの方や喜多方市内等近隣の方々はほぼ「そぞき」と発音しております。 - とんりすんがり (2020-08-03 22:43:08)
    • 愛宕神社の鎮座する場所は山の頂上付近が多いですよね。他の地区の愛宕神社で参拝を断念したことあります…。 - 管理人 (2020-08-04 08:28:12)
  • 塚原村のページに塗物町集会所のリンクが貼られておりますが、塗物町というのは喜多方駅北東、県道210号から南側、熊野神社や佐原病院、喜多方一中のあたりまで一帯を指します。管理人様も当該村のページで推察されておりますとおり、清治袋村というのは現在の塗物町一帯を指すようです。小荒井組の条での「村松新田・塚原・清治袋の3ヶ村は専ら漆器を塗て生計とす」の記述とも符合します。ちなみに旧塚原村(喜多方駅から見て北西の地区)一帯は現在は菅原町と呼びならわされています(菅原神社が由来です)。喜多方市内の漆器店はだいぶ数を減らしてしまいましたが、現在もこの地区には漆器店が集中しております(塚原館のほぼ真上に建っているもの漆器店兼喫茶店ですね)。ライオンドーことリオンドールの創業者も元々は菅原町で漆器店を営んでいたそうです。 - とんりすんがり (2020-08-03 22:59:57)
    • なるほど。県道210号沿いに漆器を扱う屋敷が並んでいたのですね。 ライオン堂の創業者って小池という方ですよね?あの方は若松出身だった気がするのですが… - 管理人 (2020-08-04 08:32:05)
      • ライオン堂の1号店はおっしゃる通り若松の神明通りなのですが、前身の小池漆器店は喜多方の菅原町に開かれていたようです(確かにwikiだと若松になっていますが…)。 - とんりすんがり (2020-08-04 23:21:15)
  • 塗物町に関する記述をを記事にして頂いてありがとうございます。ただ、塗物町すなわち旧清治袋村と思われますので、塗物町に関する記述はそちらにまとめられた方がよろしいかと(菅原町(旧塚原村)の話を一緒にしてしまった私の書き方が分かりづらかったら申し訳ありません…)。 - とんりすんがり (2020-08-04 23:20:41)
    • その通りですね。内容をそのまま清治袋村に移しました。ご指摘ありがとうございます! - 管理人 (2020-08-05 13:07:10)
  • 入田付村平沢の正福寺ですが焼失した時期が分かりました。明治10年前後に、村の子供たちが蜂の巣を焼いていた火が燃え移って全焼してしまい、建物こそ再建されたものの以後無住職となってしまったようです。 - とんりすんがり (2020-08-05 23:14:51)
    • 情報ありがとうございます。以前の内容にこの情報を混ぜ込んでみました。 - 管理人 (2020-08-06 15:31:55)
  • 木地小屋こと小屋集落は、、かつてこの地点に存在していました(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.785583,139.843175&amp;t=k)。蒲生氏郷が会津入府の際に、故地の近江から連れてきた木地師の一団を祖とし、以後四百年近く木地屋集落として続いていましたが、やはり高度経済成長以降、木地挽きが産業として成り立たなくなり、加えてあまりに市街地から遠い上に農業にも向かない立地であったがために生活が困難となり、昭和48年に当時残っていた7戸全てが旧熱塩加納村役場近くに造成された新崎団地に集団移転してその歴史を閉じました。現在も黒岩集落の脇から旧集落の到る道が続いていますが、旧住民の方(黒岩集落の方もか?)が細々と山仕事を続けているらしく、関係者以外立入が禁止されています。こういった表示がされているあたり冬場でも往来があるらしいのが驚きです(https://dotup.org/uploda/dotup.org2221638.jpg)。また江戸時代には小屋集落を通って御川沿いに大塚山に登り、広河原に抜けて米沢に向かう十文字峠という間道があったそうですが、現在は自然に還っているものと思われます。 - とんりすんがり (2020-08-07 23:38:46)
    • 航空地図で見ると木地小屋があったあたり轍の跡が見えますね。畑のようなものもあり人の手が入っている事が確認できますね。昔は米沢への道があったのかなと思ってはいたのですが本当にあったのですね。さすがに「喜多方 十文字峠」で検索しても何も見つけられませんでした(汗 - 管理人 (2020-08-08 15:07:57)
      • 冬場でも入口に雪の上にくっきり轍があったので、かなりマメに人が出入りしているものと思われます。黒岩集落も今や殆どの世帯が冬場は平野に下って生活しているそうで、通年で暮らしている世帯は少ないそうです。十文字峠は大塚山頂よりやや東の鞍部を越えて北ノ沢から広河原に下る道だったそうで、管理人様のおっしゃる通り、現在の御川沿いの林道が昔は米沢方面に通じていたものと思われます。木地小屋から米沢に向かう間道は他に御川から西の十鞍沢に沿って赤崩山を越え、谷内平から広河原に向かうルートがあったそうで、十文字峠に至る道は他に野辺沢から熊沢沿いに向かうルート、三ノ倉から陣馬山を越えていくルートがあったそうです。 - とんりすんがり (2020-08-12 21:20:58)
  • 山岩尾村の端村・塩ノ沢(塩野沢)はすでに廃村となっております。塩ノ沢の地名は山菜のシオデが群生していた事に由来するそうです。昭和までおそらく風土記の記述にある4軒がそのまま居住していたのですが、平成に入るまでに2軒に減り、平成10年頃に最後の1軒が転出して無住となってしまいました。この界隈は塩野沢峠(熊坂峠)とも呼ばれ五目、山岩尾、与内畑、背戸尻の各集落に分岐する交通の要衝で、旧山岩尾村の各集落でも一番平地に近かったにもかかわらず、一番最初に廃村となってしまいました。航空写真から見える建物のうち、道路側の1軒は数年前に雪で潰れてしまい、残る1軒と離れの小屋も崩壊寸前の状態です。風土記に記述はありませんが、この地点(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.726171,139.833501&amp;t=k)には熊坂地蔵という地蔵尊がお祭されており、五枚沢集落の人が若松の石工に頼んだ地蔵尊をここまでをここまで運んで来たそうですが、急にお地蔵様が重くなりどうにもこうにも動かせなくなってしまったので仕方なくここにお祀りしたという伝説があるそうです。 - とんりすんがり (2020-08-16 07:45:48)
    • 塩野沢地区には県道383号線も走っており、昔はそれなりに行き来があったんだろうとは思っていました。と、与内畑鉱山への道かとおもったら外れてました(汗 - 管理人 (2020-08-16 21:09:39)
  • 五枚沢集落に向かう途中にはもう一か所(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.741171,139.824854&amp;t=k)地蔵尊がお祀りされており、山岩尾からも五枚沢からも離れた場所で不思議だったのですが、昔、五枚沢集落の方がこの辺りに小屋掛けして炭を焼いていたそうで、ある年の春先雪崩が起こり、父親の仕事についてきて炭焼き小屋の周りで遊んでいた男の子が、小屋ごと雪に潰されて死んでしまったそうで、その供養のために立てられた地蔵尊との事です。五枚沢集落は木地集落であると同時に赤崩山越えの旅客相手の小規模な宿場としての性格があったそうで、戦後も山女魚や岩魚の養殖や渓流釣り客相手の民宿業で賑わった時期もあるようですが、今ではそれも衰えてしまい現在住んでいるのは2軒だけになってしまったようです。 - とんりすんがり (2020-08-16 07:58:25)
    • 地蔵尊が奉られている所は何かと謂れがあったりしますよね。 五枚沢の学校跡にあるあの穴は養殖の水槽だったんですね!航空写真で見て「なんだろう?」と思っていたんですよ。近くに小さな石碑もあるようですが、何と書いてあるのか分からなかったもので。 - 管理人 (2020-08-16 21:12:08)
  • 半在家村の阿寺沢も現在廃村になっており、蔵が1棟と崩れかかった廃屋が2軒残っております。明確な時期は不明ながら昭和50年頃には既に廃村になっていたようですが、現在でも耕作は続けられており見事な棚田が広がっています。満願寺跡というのはこの一角(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.710672,139.831911&amp;t=k)を指すそうで(航空写真では畑が拓かれていますが現在はヤブになっておりました)、確かに50メートル四方の平地が開かれていました。すぐ北側の黒くなっている部分は沼で、満願寺の御池だったという言い伝えがあり、現在はモリアオガエルの生息地となっているそうです(https://dotup.org/uploda/dotup.org2230044.jpg)。私が現地に行った際も平地ではあまり聞かない鳴き声のカエルが合唱しておりました。調べた所横須賀にある佐原義連の墓所も満願寺というそうで、現在は多少木にさえぎられていますにさえぎられていますが会津盆地が一望できる立地といい半在家にある墓との関係性が気になるところです。満願寺峠は寺跡脇を北に抜けて村杉・背戸尻方面に出る道があったそうですが(昭和の航空写真にはそれらしきものが映っています)道らしき痕跡は見受けられましたが草が生い茂っており、村杉側の出口付近も完全にヤブ化していたので現在は通じていないと思われます。 - とんりすんがり (2020-08-16 08:27:17)
    • 横須賀の義連の墓がある寺も満願寺とは勉強不足でした。義連公に関係して横須賀と会津で親交があるとの話は聞いていましたが、寺名も同じとくれば何か面白い話がころがっていそうですね。 - 管理人 (2020-08-16 21:26:00)
  • 五枚沢の養魚場はネット上で併設されている食堂を利用した記事を見かけた事があるので、少なくと10年くらい前までは営業していたみたいですね。集落も21世紀に入ってから急速に寂れてしまったようです…。分校跡の石碑は前に集落を訪問した際見た事があるのですが、2つとも分校の先生の顕彰碑でした(どういった方だったのかは聞けませんでした)。記憶違いでなければそれぞれ大正と昭和初期に集落の青年団が建立したものだったと思います。 - とんりすんがり (2020-08-17 22:28:46)
    • 食堂ですか!いやこんな所にとちょっと驚いてしまいました…と、これは現地の方には失礼か(汗 昔は人の出入りも多かったんですね。 - 管理人 (2020-08-18 21:33:26)
  • 塩ノ沢から与内畑鉱山へは今の沼ノ平方面に向かう舗装路(当時は無舗装)がそのまま使われていたみたいですね(今月通ろうとしたら、7月の雨のせいで板ノ沢集落から先が崩落してしまっており、現在通行止めになっています><;コンクリの橋や路面がウェハースを踏んづけたみたいにベキベキになってました…)。塩ノ沢集落を直接突っ切って与内畑に向かう道は地図上は確認できないですね…。人が住んでいた当時は近道があったかもしれないですが…。背戸尻・村杉方面から与内畑鉱山に直接向かう近道はあったみたいです(地理院地図では点線道で示されています)。村杉方面の入り口は笹で覆われていますが、与内畑側の入り口は春先の草の少ない時期なら五枚沢川の川床に下りるまでの道ははっきり辿れました(近年まで耕作されていた感じでした)。山岩尾から与内畑に直接向かう道は村道として管理されているみたいですが、今通じているかはわからないです…。鉱山があった頃は数十軒が暮らし商店もあった与内畑集落も今は3,4軒ほどしか住んでいないようです。閉山による影響ももちろんですが、地滑りの頻発地域のため行政が転出を勧奨した経緯もあるようです。分校からの昇格で設立された宮川小学校の跡もフェンスと錆びた雲梯、ブランコしか残っていませんでした。 - とんりすんがり (2020-08-17 22:58:27)
    • 今も各地で小さな地滑りはあるようで、先日とある林道を走行したときも道が崩れて車1台分しか幅が無く冷や汗出ました。熊の目撃情報も多々あるので取材(?)の際にはくれぐれもご注意を。 - 管理人 (2020-08-18 21:26:18)
  • 喜多方市街地(小荒井村)の西光寺は見頃の西光寺の説教所として明治40年代に開設され、大正になってから末寺に昇格したものだそうです(なので風土記には載っていないようです)。しかし見頃の西光寺の方は後継者が絶えてしまい、今は逆に小荒井の西光寺で管理しているとの事です。喜多方の旧市内(平成の大合併前)で浄土真宗のお寺はここだけのようです。 - とんりすんがり (2020-08-22 06:59:42)
    • どこのお寺さんも大変ですね。しかし、日本では多いと思っていた浄土真宗のお寺が1つだけとは。全国でも珍しいのでは? - 管理人 (2020-08-22 23:54:16)
  • 宮在家村(新町)の児塚ははおおよそこの辺り(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.652988,139.849213&amp;t=k)にあったそうですが、昭和40年代の耕地整理の際に取り壊されてしまったそうです(祟りは大丈夫だったんでしょうか?)。風土記では由来不詳となっておりますが、昔、舞台田の稚児舞に加わった千光寺(或いは末寺の西蓮寺)の稚児たちの間で喧嘩が起き、その際運悪く死んでしまった稚児を埋めたという言い伝えがあるようです。 - とんりすんがり (2020-09-02 22:12:44)
    • 稚児舞に関わる伝承があったんですね。ほんとに祟りは大丈夫だったのか、当時の新聞記事とか確認したくなりますね。 - 管理人 (2020-09-03 17:32:08)
  • また大聖歓喜天となっているお寺は旧長伝寺で間違い無いようですが、集落の方曰く50年以上無住職で正月のおではんにゃ(大般若会)の時ぐらいしか使われていなかったそうです(管理は慶徳寺がしていたようです)。なぜgoogle地図で大聖歓喜天となっているかはわかりませんでした。 - とんりすんがり (2020-09-02 22:18:31)
    • 昔からあるお堂は祭の時の集会所として残されている事が多いですよね。で、地図の大聖歓喜天についてですが旗や額に記載が無いのであれば、単に登録した方の勘違いじゃないかと。GoogleMapの建物名とかは個人の方でも登録できるので間違いが多かったりするんですよね。 - 管理人 (2020-09-03 17:39:34)
  • 背戸尻村は昭和49年に全戸が木地小屋集落と同じ新崎団地に移転して廃村となってしまいました。立地的な不便さもそうなのですが、この辺りは昔から地滑りが頻発していたそうで特に昭和の初めに起こった地滑りでは複数の死者が出たそうで、五枚沢川の東側に住んでいた方々は他所に移ってしまい廃村時で居住者は4戸しか残っていなかったようです。現在は廃屋が2軒残るのみで、一面草に覆われ人が訪れている気配も無くこれまで訪れた廃村でも特に寂しげでした。集落の名前も地図から消え欄干が錆び果てた橋に名前が残るのみになっています(https://dotup.org/uploda/dotup.org2249351.jpg)。同じく端村の村杉集落も背戸尻集落と同時に12戸が新崎団地に集団移転となったのですが、1軒だけ移転を拒んだ家があり、その方が数十年間集落唯一の住民として現在も生活しているようです。背戸尻には源義経が奥州に逃れる際に訪れたという伝説があり、せどじり橋の少し手前にあった田んぼにこの地で斃れた「太郎」という義経郎党の墓があったそうですが、今やそこも草木に埋もれてどこにあるのか判然としませんでした。 - とんりすんがり (2020-09-07 20:47:13)
    • やはり廃村になっていましたか。地図上から地名が消えるのは悲しいですが、これも時代の流れというやつでしょうか。 - 管理人 (2020-09-08 16:57:10)
    • 義経の都落ちにまつわる伝承ですが、会津地方西部にはたまに出てきますね。まぁ、実際には弁慶の方が多いのですが(坂下の気多宮とか)。平泉に行く際に会津を通っていた可能性はありまよね。 - 管理人 (2020-09-08 17:01:11)
  • 背戸尻観音は廃村後、新崎団地の近くに移されています(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.720186,139.874701&amp;t=k)。大正の頃、喜多方のとある呉服屋の大女将が病床で観音様の夢を見、拝み屋さんに見てもらったところ「戌亥の方角に寂しく不遇をかこっている観音様がいらっしゃるのでお祀りして差し上げよ」とのお告げを受け、一ノ木の方まで人をやって探した末、この観音様を見つけ改めてお祀りしたところ病気が治ったという事で評判になり戦前はかなり有名な観音様だったようです。賢谷集落の方に話を伺ったところ戦時中は武運長久の観音様という事で毎日のように参詣客があったそうですが、戦後はだんだんと寂れてしまったようです。とはいえ、現在も旧住民の方がお祀りしており、毎月17日に御開帳されるようです。お堂の手前の六地蔵様も背戸尻から遷されたもののようです。 - とんりすんがり (2020-09-07 21:03:34)
  • 村杉集落の神社は風土記に記述のある熊野神社で間違いありません。木々の間にお宮が現存しているのも確認したのですが、おそらく参道が村杉唯一の住人の方の田んぼを突っ切っていく形になっていて気後れして参拝はできませんでした; - とんりすんがり (2020-09-07 21:06:02)
    • 熊野神社、ですよね。今は人の手もあまり入っていないでしょうから、建物はあっても動物の住処になっているかもしれないですね。五枚沢川付近にはなぜか狸とつく山がちらほらありますし、今住んでるかもしれません(笑 - 管理人 (2020-09-08 17:03:49)
  • 板ノ沢集落の虚空蔵堂はおおよそこのあたりにあります(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.724129,139.810365&amp;t=k)。地図上目印になるものが無くやや不正確なのは申し訳ありません。集落の方に道を教えて頂いて沢沿いの道を進んでいくと斜面の上に小さなお堂がありました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2249414.jpg)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2249417.jpg)。またお堂の裏には元々お祀りされていたであろう岩窟も残っていました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2249418.jpg)。ただ風土記の記述にもある通り虚空蔵様の虫喰いが酷く(後日図版で拝見しましたが確かに虫食い穴だらけでした)、お堂に置いておいては管理が難しいという事で本尊は人に頼んで別の場所に安置されているそうで、今はお堂は空っぽだそうです。写真を撮った際は一週間ほど前に村の奥さんたちがみんなでお参りをした後でたまたま草刈りがされていたそうで、運が良かったです。板ノ沢、大塩、柳津の虚空蔵様は元は同じ一本の木から彫られた姉妹という言い伝えがあるそうでがあるそうで、板ノ沢の虚空蔵様が一番上の姉菩薩で、次が大塩の虚空蔵様、柳津の虚空蔵様は末の妹なのだそうで、また柳津の虚空蔵様は姉二人を追い出したという言い伝えもあり板ノ沢と大塩の方は柳津にはお参りしないのだそうです(その時に大塩の虚空蔵様は妹の蓮華座を盗んで来たのでそもそも顔向けができないという何とも人間臭い言い伝えも残っています^^;)。 - とんりすんがり (2020-09-07 21:44:57)
    • 思っていた所と違いました(汗 付近に蝸牛山らしき山が無いようなので後年移転したのかもしれないですね。更に今は別な場所に保管されていると。何とも落ち着かない虚空蔵様ですね。 - 管理人 (2020-09-08 17:42:18)
    • 大塩の虚空蔵との関連ですが、1本の木から3躯の像を掘り出した話はその柳津村の記にあり、他の2躯は千葉と茨城にあると書かれています。どうなんでしょう…。今になって本当はどこから来たのか調べるのも無粋な気もしますし、そういういい伝えがあった事を残して置くに留めるのが吉ですかね(汗 - 管理人 (2020-09-08 17:49:29)
  • 立岩山は富士山とは別の山でこの地点にあります(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.635875,139.702530&amp;t=m)。昔、富士山と立岩山が村の鎮守の座を賭けて満月の夜までにどちらが背を伸ばせるか競争をしたという伝説が残っています。山は人が見ていると背が伸ばせないそうで、最後の満月の晩に月の宮の天女が立岩山に微笑みかけてしまって背が止まってしまい、勝った富士山が村の鎮守となったそうです。負けた立岩山は怒って天女の羽衣を食いちぎってしまったので天女は空から落っこちてしまい、時折、立岩山からは天女が羽衣を織る音が聞こえてくるのだそうです。また雨乞いにも使われていて雷山という別名があり、ある年の雨乞いで雷に穿たれた穴の開いた大杉が今も残っているそうです。富士山は高松山とも書いたそうで、喜多方側では富士山、西会津側では冨士山と表記するようです。 - とんりすんがり (2020-09-12 08:49:34)
    • ですよね、違いますよね。失礼しました。何気に面白そうな伝承も残っていますね。山の話で女性が活躍しているのは珍しい - 管理人 (2020-09-13 20:31:53)
    • なお富士山の記述は耶麻郡大谷組高目村の方にあったので、いただいた情報をそちらに上げさせて頂きました - 管理人 (2020-09-13 20:33:32)
  • 背戸尻で葬られた「太郎」が誰なのか色々候補を挙げて頂き勉強になりました。確かに可能性としては熊井太郎が怪しいですね(歴史に名の残らなかった太郎がいた可能性もありますが)。五枚沢側の東岸には義経一行が通ったという古い道があったそうですが、やはりここも今や判然としません。板ノ沢の虚空蔵様の話も村に伝わっている話と圓蔵寺の由緒書きと全然ちがいますね^^;。大塩にも同じような話が伝わっているのですが、ここには板ノ沢の虚空蔵様は登場しないようです(追い出された仕返しに妹の蓮華座を盗んで来たというのは同じようです^^;)。また大塩の伝説では弘法大師が彫ったという事になっていて、室町時代の作という考古学的考証とは真っ向から対立しています。それぞれの地域にいろいろと異説があって「オラい村の虚空蔵様は~」という気負いが感じられて面白いです。 - とんりすんがり (2020-09-12 09:00:56)
    • 昔の話というのは、なんというか、ロマンですよね。同じモノでも伝わり方が違うというのが面白いんですよね。 - 管理人 (2020-09-13 20:36:28)
    • ただ、伝承は伝えていかないと廃れてしまうものなので、このWikiの記事が話を比較する元ネタになれればうれしいかなと思っています - 管理人 (2020-09-13 20:37:08)
  • 馬場野ですがgoogle地図で見るとここにありますね(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.633471,139.658696&amp;t=k)ここにありますね。人家や作業小屋のようなものがあり、居住もあるようです。 - とんりすんがり (2020-09-15 22:16:17)
    • 情報ありがとうございます。峠越えた先だったのですね。手前にあるものとばかり思ってました。 - 管理人 (2020-09-16 06:44:36)
  • 一竿の水神社と船神社ですが、塩坪橋から下流200メートルの県道下にあるという記述を頼りに探しに行ったところ、この位置で見つけました(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.605878,139.731872&amp;t=k)。二つの祠共に歩道から目視で発見でき、土手下に下りてお参りしてきました。ただ、浅学にしてどちらが水神社でどちらが舟神社かまではわかりませんでした。自分以外にも何枚かお賽銭が備えてあり忘れ去られているわけではないようです(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260132.jpghttps://dotup.org/uploda/dotup.org2260136.jpg)また二つの祠の間に石碑が一つあったのですが、文字は判読できませんでした(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260140.jpg)。自分は土手から下りて裏からお参りしてしまったのですが、正規の参道と思しき道も県道沿いに西側に伸びていました。ただ、どこから入るのかはわかりませんでいした(おそらく川岸が入り口?)。一竿の渡し場は昭和10年まで使われていたそうで、渡し守や筏師は必ずこの水神社と舟神社に差し掛かると北岸に向かって一礼したそうです。一竿から見て対岸の岩壁は「一竿のへつり」といい、4、50年ほど前まではこの岩壁を伝って塩坪集落と漆窪集落の間で行き来があったそうです(゚o゚;)。地理院地図にも点線道として載っています。 - とんりすんがり (2020-09-20 23:43:54)
    • あったんですね! 石祠だけではどちらの神社か判断できないですよね。しかも両方水の神様を奉っていますし…。一つに紋章らしきものがありますが、懸魚(けぎょ)の装飾にも見えます。何とも… - 管理人 (2020-09-21 08:45:23)
  • この一竿地区は石造物がほかにもいくつか見受けられ、今はひとけが無いながら昔は水運の要衝だったのではないでしょうか?県道北側の斜面に仙海聖人なる僧侶の供養碑、どういった人なのでしょうか…(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260182.jpg)。同じく県道北側に鬼子母神と何かの石碑(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260183.jpg)。他に塚越富五郎という小栗上野介家臣の供養碑がありました(https://maps.google.co.jp/maps?ll=37.607323,139.730056&amp;t=k)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260188.jpg)(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260190.jpg)。塚越富五郎の供養碑の所在地は一竿集落の共同墓地でもあるようで、水運を監督していたという田代家の墓もありました。 - とんりすんがり (2020-09-20 23:57:49)
    • 一竿の渡し守が越後国から来たとの話から、てっきり渡部氏かと思ったら田代氏でしたか。遺跡を見ると、昔は吹屋よりも一竿の方に人が多く住んでいた気がしますね。 - 管理人 (2020-09-21 08:53:59)
    • 仙海聖人??うーん。お坊さんの名前は記録にないとわからないですよね。吹屋に記載のある田代丹波・樋口佐兄弟ですら情報が無いですし。 - 管理人 (2020-09-21 08:58:48)
  • 吹屋の長圓寺は長らく無住職になっていたのが昭和43年に雪で潰れ、完全に廃寺になってしまい、観音堂だけが残った形のようです。観音堂と三十三観音は現在個人の方が所有、管理しているそうです。 - とんりすんがり (2020-09-21 00:03:00)
    • 観音堂だけ残った感じでしたか。また雪…。 - 管理人 (2020-09-21 09:08:00)
  • 荻野駅の北にあるお堂は風土記の記述にある岩窟の観音様のお堂でした。この観音様は岩屋観音と言っていたそうで、乳の出が悪い女の人がが乳袋に見立てた米を入れた袋をお供えし、その米を炊いて食べると乳が出るようになると評判でかつては参詣者も多かったようです。が、現地に行ってみるとご覧のようにかなり荒れ果てていました(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260214.jpg)、お堂を覗いてみると本尊の観音様もいらっしゃらないようでした…。途中の参道も地面がフカフカで相当人が足を踏み入れていない感じでしたが、実際近所の方に話を伺うともう何年も手入れをしていないとの事で、御本尊もどこにあるのかわからないとの事でした。若い方はそもそも観音堂の存在すら知りませんでした。今もそれなりに人が住んでいる集落で平安時代から続いていた信仰がここまで廃れてしまっているのというのは寂しいを通り越して不可解なものを感じました。旧高郷村の文化財目録を見ると個人所有の千手観音立像があり、もしかするとこれがかつての御本尊かもしれませんが…。岩屋も残っており、観音堂ははそれを塞ぐ形で立っている感じでした(https://dotup.org/uploda/dotup.org2260221.jpg)。 - とんりすんがり (2020-09-21 00:24:49)
    • 観音堂でしたか!ここだったんですね。会津は岩穴と仏様がセットで奉られていることがおおいですね。そう言えば、前に歴史研究家の石田さんが徳一がその文化を会津に持ち込んだと言っていまいしたね。 - 管理人 (2020-09-21 09:49:17)
    • 古臭い無駄と言われても伝承伝統は次世代への繋ぐ事が大事ですよね。せめて何か残せなかったのかと残念に思う事が多々あります。自分にできることは文字を打ち込む事くらいですが(汗 - 管理人 (2020-09-21 09:52:50)
  • 実川集落は平成14年に最後まで住んでいた五十嵐家の方が、高齢のために雪下ろしが出来なくなり、既に文化財指定されていた家屋を全て旧鹿瀬町に寄付して五泉市に移住し廃村になってしまったそうです(それ以前から厳冬期は五泉で過ごしていたようです)。小倉百人一首に載る猿丸大夫の「奥山に紅葉踏み分け鳴く鹿の~」の歌は実川で詠まれたという伝説があり文人の琴線に触れる地域だったようで、近代以降も河童絵で有名な小川芋銭や安倍能成といった文人が訪れ五十嵐家に泊まったそうです。山渓寺跡(廃寺)には五十嵐家の方が建立した芋銭の句碑があるそうですが正確な場所はまだ調べられていません。実川流域の村は小荒集落以外廃村という事で小荒井(向小荒)も廃村で確定のようです。地図に映ってる吊橋らしきものが気になります。 - とんりすんがり (2020-10-15 23:31:51)
    • 平成14年ってすぐこの間じゃないですか。それまで住んでいたという事実の方がびっくりしました。 - 管理人 (2020-10-16 20:11:03)
    • 向小荒の橋とはこれhttps://goo.gl/maps/neMM89iC6hE4TeYn6ですね。道が続いていないようなので、今は渡れるのかどうか…。 - 管理人 (2020-10-16 20:16:30)
最終更新:2020年10月16日 20:16