※国立公文書館デジタルアーカイブ「新編会津風土記85」より河沼郡地理之図
この郡は延喜式35郡の中に見えず。その後大沼郡と共に会津郡より分かれしにや。
【和名鈔】の細註に『今分て大沼河沼二郡と爲す』と見えたり。然れども【拾芥抄】36郡【節用集】54郡の中ににはこの郡なし。【節用集】に載たる稲我はこの郡の蜷川荘なるもしるべからず。寛文(1661年~1673年)中まで誤て稲河郡と称し会津4郡の一とせり。
東西に山あり。北を大河流れ中央に平衍の地多し。
その田は下の上、その畠は下の上なり。
代田・
笈川・
青津・
坂下組々は
広平に住し、
田圃多く、気候会津郡
平衍の組々に同じ。
牛沢・
野沢2組は山中にて農務も上の諸組よりは
稍遅く、立夏の前後を花候とす。
郷名
荘名
- 河沼
- 笈川組勝常村勝常寺、大永7年(1527年)葦名盛舜寄付状に河沼之荘笠之面とつたえることあり。
- 蜷川
- 佐原十郎左衛門尉義連の孫に蜷川景義あり。その人の所領にて蜷川荘と称せしにや。康安2年(1362年)左衛門尉基清が府下實相寺の寄付状にこの荘名見えたり。
組名
山川
飯谷山
牛沢組野老沢村の西にあり。
屈曲して登ること1里計、
野沢組小杉山村その西の半腹に住す。両村の界この峰を限りとす。
その頂6町計は甚嶮なり。この山向背なく、側より望むにその形飯を盛るに似たるゆえ名くという。
慶長16年(1611年)の地震にこの山崩れ今にその跡草木生せず。削り成すが如く極て奇峻なり。
この邊の諸山に秀て府下より正面に見ゆ。また野沢の邊より望むにその形尤美なり。
頂に飯谷明神の祠あり。
黒床山
台倉山
野沢組安座村の南にあり。
麓より登ること1里18町計。
半腹より上は雑木繁茂し廻麗みな萱原なり。
日橋川
その源は
猪苗代湖より出、
会津郡の界より
代田組に入り、
島村より
笈川組に入り、
沼上村の西にて黒川を過ぎ
青津組に入り、
立川村の東にて鶴沼川南より来り合し、
東青津村の西北にて宮川これに注ぎ、
津尻村より
坂下組に入り、
宮月村の西北にて只見川に合し
揚川となり、
野沢組に入り
小島村の西にて大槻川を過ぎ、
徳沢村より西に流して越後国
蒲原郡に入る。
この川、耶麻・河沼2郡の界にて大抵東より西に流る。
川さい、
鮠、ザコ、
鱒の類を産す。秋に至れば
鮭多く上れり。この川に合する諸流にもこれより往々に上れり。
広40間より100間に至る(
耶麻郡の条下を照見るべし)。
黒川
鶴沼川
会津郡中荒井組真渡村より
坂下組に入り、
塚原村より
青津・
笈川両組に入り、
佐野村(笈川組)に至り佐野川といい、
立川村(青津組)の東にて日橋川に入る。
大抵南より北に流る。
この川平地を流るる故田地に
漑ぐこと尤広し。されども洪水の時は数町の外に
泛溢し田圃を害することまた少なからず。常に幅8町計の間平沙となり水道常ならず。数派となり分流し
浅深広狭一ならず。
ザコ、
鮠、
鱒、川さいの類を産す。
年魚多し。
宮川
只見川
大沼郡滝谷組より北に流て
牛沢組に入り、
小野川村の北にて小野川これに注ぎ、
柳津村にて銀山川を過ぎ和泉田村より
野沢・
坂下両組の間を東北に流れ、
宮月村(坂下組)・
河井村(野沢組)の間にて日橋川に合す。
広60間計。
この川山間を経て両岸高ければ田地に
漑ぐべき便なし。
岩石多く急流なり。
川さいの類を産す。年魚多し。
水利
戸口堰
日橋堰
島堰
代田組島村の東にて日橋川を引き、島村及び
笈川組諸村の田地に
漑ぎ、凡220町余の養水となる。
高久堰
清水堰
栗村堰
牛沢堰
最終更新:2025年06月08日 19:15