耶麻郡小田付組下柴村

陸奥国 耶麻郡 小田付組 下柴(しもしは)
大日本地誌大系第32巻 90コマ目

府城の北に当り行程5里5町。
家数26軒、東西1町40間・南北1町46間。
四方田畠にて北は山に近し。
また北4町30間余に家居1軒あり、芝原という。

東1町34間熊倉組下吉村の界に至る。その村まで3町10間余。
西2町32間熊倉組平林村の界に至る。その村は申(西南西)に当り6町40間余。
南4町25間熊倉組京出村の界に至る。その村は未(南南西)に当り6町余。
北2里余檜原村の山に界ふ。
また
戌(西北西)の方4町8間関柴村に界ひ姥堂川を限りとす。その村まで7町50間余。

端村

小松(こまつ)

本村の北4町にあり。
家数20軒、東西2町31間・南北4町18間。
散居す。
東北は山に傍ひ西は姥堂川に近く南は平地なり。

石堂(いしたう)

小松より北7町20間余、姥堂川の東にあり。
家数3軒、東西36間・南北32間。
山間に住す。

大楚々木(おほそそき)

石堂の北28町40間余にあり。
東西2区に住し、その間1町余を隔つ。
東の1区、家数3軒、東西30間・南北50間。
西の1区、家数5軒、東西33間・南北55間。
共に山間に住す。

小楚々木(こそそき)

大楚々木より巳(南南東)の方9町にあり。
家数12軒、東西50間・南北1町2間。
重山の間に住す。

山川

大舘山

村北30町にあり。
高5町。
南の方小舘山と並び峙つ。
昔何人か館と築きしことありという。
小舘山の南に熊沢(くまがさは)大沢(おほがさは)・二本木・葉山堂の小山連なり小沼組漆村に界ふ。
松樹多し。
またこの山の中にホツコウアンという字あり。蒲生時代にこの山を本村と今の端村小松にて争いしことあり。その時の裁許状今に肝煎が家に蔵む。その文如左(※略)。

姥堂川

村西にあり。
源を片木平山(高曽祢山の南の方なり)より発し、端村大楚々木・石堂・小松の西を経て南に流るること3里余京出村の方に注ぐ。

水利

小松堰

端村小松の北にて姥堂川を引き田地の養水とす。
この堰を平林村と争いしとき蒲生家より与える文書あり。その文如左(※略)。

端村小楚々木の北20町、山奥にあり。
暗住堤という。
東西2町・南北40間。
姥堂川に注いで養水を補う。

神社

稲荷神社

祭神 稲荷神?
相殿 伊勢宮 2座
   山神  2座
   稲荷神
   熊野宮
   天神
   諏訪神
鎮座 不明
端村小松の寅(東北東)の方2町にあり。
鳥居拝殿あり。熊倉村山口美濃これを司る。

日光神社

祭神 日光神?
相殿 熊野宮
鎮座 不明
端村石堂の辰(東南東)の方50間計、山上にあり。
老樹繁陰して神殿を(おお)う。
石堂より戌(西北西)の方1町計山麓に石の寶塔あり。2層にて高6尺5寸。最古代の制と見ゆ。意うにこの社に奉納せしにや。また石堂と称するもこれに因るといい伝う。
鳥居拝殿あり。
山口美濃が司なり。

根伐杉(ねきれのすぎ)

本社の前にあり。
根株きれて大木の杉にかかれる枯木なり。
村老の口碑に、萬治中(1658年~1661年)の頃端村石堂の農民この杉を伐しに倒れずして並びたる杉にかかり、日を経て幹合し根なけれども葉を生じ繁茂すること久し。享保10年(1725年)にやや衰えて終に枯れしという。農民後火災に逢い種々の災いありければ、その土に住むこと能わず家を本村に移せり。今はその子孫も断絶すという。

白山神社

祭神 白山神?
鎮座 不明
村より丑(北北東)の方1町余にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

麓山神社

祭神 麓山神?
勧請 不明
石堂より丑(北北東)の方6町計山上にあり。
拝殿あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
端村小楚々木の亥(北北西)の方にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

山神社

祭神 山神?
創建 不明
端村大楚々木の北1町にあり。
鳥居拝殿あり。村民の持なり。

寺院

聖光寺

村南50間にあり。
浄土宗來迎山と號す。入田付村光徳寺の末山なり。
慶長3年(1598年)圓誉という僧創造し、後光徳寺に移て木食(もくじき)の行法を勤む。後江戸源空寺を造立すという。
本尊弥陀客殿に安ず。

太子堂

境内にあり。

稲荷神社

同上。

安樂寺

村北にあり。
菩提山と號す。昔は臨済宗相陽五山の法流を酌しが、中頃衰廃し境内半ば田圃となる。天文4年(1535年)入田付村光徳寺の僧侶天融という僧再興してより光徳寺の末山浄土宗となる。
弥陀を本尊とし客殿に安ず。

古蹟

圓通寺跡

端村小松の北、山際にあり。
天正の頃(1573年~1593年)関柴村を領せる松本備中が菩提所にて華構(かこう)の道場なりしが、備中亡て廃寺となる。今は畠となり大門という字残り、往々五輪の崩れたるを堀得るとぞ。

旧家

宇田小傳次

この村の肝煎なり。先祖は小澤大蔵とて初め信夫郡宇田村を領し、後会津に来り蒲生秀行より知行200石を賜る。この時の證文今に家に伝う。その文左に載す(※略)。寛永の初(1624年~)蒲生忠郷死後禄を失い稲田村に寓居(ぐうきょ)す。貞享年中(1684年~1688年)その子孫肝煎となり今に相続す。





追記
コメント欄にてとんりすんがりさんより情報頂きました。

小楚々木集落について

小楚々木集落は元楚々木とも言われていたそうで、はじめこちらに集落が形成され、時代が下ってから大楚々木集落が開拓されたそうです。
訪れた際、どうも集落に人の気配が感じられず訝しんでいたのですが、最後まで住んでいた2世帯の方が昨年から今年にかけてそれぞれ他所に移り、小楚々木も廃村になってしまったとの事です。姥堂川上流の4集落で人が住んでいるのはとうとう大楚々木集落だけになってしまったようです。
なお山神社は集会所の裏から登れるそうです。

大楚々木集落の山神社について

大楚々木集落の山神社はこの地点(上のリンク参照)にありました。集落の東側を抜けて北に曲がり(真っ直ぐ進むとかつては菅沼に続いていたそうですが現在は途中で藪になってしまい、かつて架かっていた橋もおそらく流されてしまっているとの事でした)、田んぼの脇を歩いていくと林の前に鳥居が立っておりそこを少し上ると小さなお社がありました。
お話を伺った集落の方によると子供の頃、夏休みになるとここが一番涼しいという事で、社の扉を開けて中で勉強をしていたそうで、今でも集落でお祭をしているとの事です。
大楚々木集落は山都町の沼平と並び福寿草の名所として有名です。
ちなみに楚々木集落はネット上を見ると「そそぎ」と紹介しているサイトもあるのですが、お住まいの方や喜多方市内等近隣の方々はほぼ「そぞき」と発音しております。

愛宕祠(神社)の由緒書きについて


愛宕神社由来
 標高六四五米
その昔、八幡太郎義家が「前九年の役」の途中に寄った愛宕神社からの展望の良さに感激し創建されたといわれています。
地区では火伏の神様として信仰され、旧三月二十四日例祭と定め毎年祭をしています。現在は四月二十四日が火伏祭となっています。昔は大勢の参拝者で現在は地区で祭礼行っております。
神社からの眺めは多少木にさえぎられていますが会津平野や磐梯山などが一望でき、いつもと違う眺めに感激を覚えます。
多分ですけど義家は前九年の役(1051年~1062年)の時には会津に来てないと思います。若松の滝沢町に八幡宮を創立したのが後三年の役(1083年~1087年)の後(1087年~1094年)なのです。そもそも前九年の役の時源氏の大将は父頼義で主戦場は宮城~岩手でしたし、出羽国あたりで戦っていたのは清原武則です。
最終更新:2020年08月04日 08:25