耶麻郡猪苗代

陸奥国 耶麻郡 猪苗代(いなはしろ)
大日本地誌大系第31巻 151コマ目
※猪苗代城下の図

猪苗代(古文書或いは稲苗代に作る。寛文の頃(1661年~1673年)まで今の川東・川西両組の地を河沼郡と称せしが、延喜式に磐椅神社を本郡に出せる(ゆえ)肥後守正之その訛を正し本郡に隷せり)は本郡の東にある大邑の名なり。数十の村落城下の四方に相並び湖山の間に開ける1区の境地にて、寒早く暑遅く風気やや剛勁(ごうけい)にして土風自ら異なり。
相伝ふ。何の頃にか磐椅明神の霊験に因り野猪来てこの所を走り行て苗代田とす。因て穀実を播種(はしゅ)せしゆえこの名ありと。
河沼郡牛沢組塔寺村八幡宮所蔵の長帳に始て寶徳3年(1451年)にイナハシロトノとあれば(この所合戦の事を記せしと見ゆれども蠧魚(しみ)の為にその文亡て事跡を弁じ難し)その前既に佐原氏の子孫地名に因て()く唱えしと見えたり。元和の末(~1624年)より寛文の初(1661年~)までは今の川東・川西両組の地を猪苗代内或いは猪苗代領と唱え、諸侯の領地の如くなりしは数十百年この城下に隷せし(ゆえ)この唱ありしにや。今になお両組の諸村に猪苗代の名を冠らしめ荘名の如く称すれどもその実は城下の総称なり。
昔領主在住の頃は弦峯の西より本町の東南まで市廛(してん)を開きしが、今は番城となれども諸士同心等の宅地及び商家・民屋なお多ければ遠近の諸村より日々に来集して東北鄙の一大邑なり。

東西7町40間(東は堤町の末より、西は土町の末に至る)。
南北7町余(南は本町の末より、北は新町の末に至る)。

西に弦峯ありて城郭これに拠り、北は磐梯山の麓に連なり、東南は田圃(たんぼ)なり。
本町を川西組とし、新町・中町・土町を川東組とす。





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