耶麻郡檜原村

陸奥国 耶麻郡 檜原(ひはら)
大日本地誌大系第32巻 64コマ目

昔は檜木谷地(ひのきやち)という。
本郡の東北にあり。四方に大山峙ち、朝夕日光を隠し霜雪早く降り嵐気常に甚し。その境内広きこと1組の地面に比すべしといえども大抵山谷の間にて山野相交わりみな萱原なり。土地また瘠薄不毛の地にひとしければ村民専ら木地をひき望陀(まうた)の皮を剥ぎ、或は旅店を設け駄馬を追て生計をなす。故に歳入常額外の地にて租税丁役なく、村と称すれども諸組に属せず耶麻郡に隷するのみなり。

府城の北に当り行程8里。
家数59軒、東西2町30間・南北1町37間。
出羽国米沢に通る街道に住す。

村中に官より令せらるる掟条目の制札を懸く。

東は西吾妻山を隔て川東組酸川野村に界ひ中津川を限りとす。
西は小田付組入田付村小沼組大塩村に隣り高曽祢山の峯を界ふ。
南は磐梯山に連なり川西組大寺村に界ふ。その村は未(南南西)に当り6里4町。
北1里19町米沢領出羽国置賜郡に界ひ檜原峠を限りとす。
また
巳(南南東)の方3里5町余川東組渋谷村に界ひ七曲坂(ななまかりさか)を限りとす。その村まで5里。
未申(南西)の方1里4町小沼組大塩村の界に至る。その村まで2里4町余。

この所米沢街道の宿場にて大塩村駅より2里9町ここに継ぎ、ここより2里29町米沢領綱木村駅に継ぐ。

村の西端に一里塚あり。

この村昔よりの宿場にて、慶長年中(1596年~1615年)蒲生家国替えの時石田治部少輔三成・直江山城守兼続が下せし掟書なりとて村民等持伝えしに、今は焼失しその文書舊事雑考にあれば左に載す。

   掟  ひはら村
一 今度藤三郎殿國替に付て諸侍被罷上候砌
  或は駄賃手をつかへ或はてんまとヽこほ
  り此邉には足をやすめ申す折節地下人と
  め宿かりにたいしいわんさるやかららふ
  せきあらは糺明をとけしゆうるいともに
  くせ事にをこのうへし又にもつ誂え置や
  から在之念を入ちそふいたすへき事
一 たひ人として地下人にたいし或は宿ちん
  不出或はをしうりをしかい其外いわれさ
  るやから申かくる事あらはしたにて申こ
  と不仕其所の奉行にそせふ可申事
一 今迄藤三郎殿かヽえの領分さい〱田地田
  畠少もつくり申候ものせんほう衆めしつ
  れ罷上ともからかたくちやうしのあいた
  自然めしつれられ候とて参候ものあらは
  その身の事は不及申ふるいくせ事たるへ
  し又さいせんのみしんかたとこふし又は
  をんてんをんまいとかふし百姓めしつれ
  られ候事ちやうし畢しよせん前ゝよりの
  ほうこう人の外相上事可為曲事者也
慶長三年
 二月十六日   直江山城守(花押)
         石田治部少(花押)

木地小屋

戸倉(とくら)

本村の東18町にあり。
家数10軒、東西44間余・南北30間。
戸倉沢に傍ひ西吾妻の西麓に住す。
萬治中(1658年~1661年)本村より移れり。
早稲沢(わせさわ)という渓流に近き(ゆえ)一名を早稲沢ともいう。専ら木地挽を産業とす。下の小屋3ヶ所生産をなすことこれに同じ(木地挽の来歴は川東組酸川野村高森小屋の条下を照らし見るべし)。

戸倉山(とくらやま)

本村より辰(東南東)の方3里にあり。
小野川に傍ふ。故に小野川ともいう。
家数3軒。1町程の間に住す。
戸倉より移りし故この名あり。

雄子沢(おこさは)

本村の辰巳(南東)の方2里4町にあり。
萬治3年(1660年)木曽組一戸村より移る。
家数13軒、東西36間余・南北57間。
東南の山中より黒沢という渓水を引き水を鑿て家居の前を流し用水とす。ならびなき清水にて潺湲(せんかん)*1愛すべし。
この所は山中なれど雄子沢通とて猪苗代より米沢に通る小径にて常に往来のものもあり。家居のさまも自余(じよ)*2の木地小屋よりはやや人里に近き所に似たり。
近年磐梯山の温泉浴するに便ならずとて相謀てここに引く。いくほどなくて12町計の間にて湯凝て筧の内にて石となりその功ならずして止む。

細野(ほその)

本村の巳(南南東)の方1里10町にあり。
東西1町11間・南北30間余、家数7軒。
東西は山に近く南北は萱原なり。
安永4年(1775年)小田付組入田村中小屋という所よりここに移る。

山川

西吾妻山(にしあつまやま)

村東20町余、数山の奥にあり。
頂上まで1里14町。
凍雪を踏にあらざれば登ることを得ず。山上は常に風烈しく五葉松・姫松の類みな地に(わだかま)れり。半腹は竹木繁茂し夏日なお残雪あり(本郡の条下に詳なり)。

東鉢山(とうはちやま)

村より寅(東北東)の方、衆山の奥1里18町計にあり。
頂上まで8町余。
その形状鉢に似たる故名く。
北は米沢と峯を界ふ。
この山に(のぼ)れば、出羽国月山を遥かに子(北)の方に臨み朝日山を近く亥(北北西)の方に見る。眺望甚だ佳なり。

磐梯山

雄子沢小屋の南にあり。
南は川東・川西両組の諸山に連なる(本郡の条下に詳なり)。

檜原峠(大峠)

また大峠という。
村北1里11町にあり。
登ること8町、頂上に境塚あり。米沢との境を標す。
この辺木立深く大木多し。木海苔というものを産す。食すべし。
峠を南に下りて一里塚あり。
永禄7年(1564年)4月伊達輝宗、会津を襲討んとて家人石川但馬という者に軍勢をつけ向かわしむ。穴澤加賀・同新右衛門父子出向い防戦し所なり。

迷沢高森山(まようがさわたかもりやま)

村より丑(北北東)の方1里20町計にあり。
頂まで6町余。
相伝ふ。昔狐狸の類人を迷わせし故かく名けしとぞ。
西に連なりて十郎高森(しふらうたかもり)大川入高森(おほかわいりたかもり)という2山あり。十郎高森は頂まで5町余、大川入高森はやや高し。
この山の峯を櫛曽祢とも長峯(なかみね)ともいう。
北は米沢に界ふ。

高曽祢山

村西23町にあり。
頂まで16町。入田付村と大塩村と峯を界ふ。
また鷹の巣を架する所境内の山中10余所にあり。共に絶嶮(ぜっけん)にして人至ることあたわず。

この余高山四面に重なり、それぞれの字あれども一一(いちいち)挙げるにいとまあらず。

蘭峠(あららきとうげ)

村の申(西南西)の方21町、若松に行く道なり。
躋ること2町余、ここを下りて辰巳(南東)の方30間計に物見岩(ものみいわ)とて、半面は山につき半面は径20間余・高3丈余の岩あり。
その側に深1間計・径8尺徑余の石窟あり。昔文明の頃(1469年~1487年)山賊ここにかくれて往来のものを(うかが)いし所なりとぞ。
総てこのわたり山峙ち谷深く極めて幽邃なり。されば山に傍い岩をつたえて斜めに板橋を架し径路を通す。故に岩岪(いはへつり)と名く。この辺にて時々鶏聲を聞くことあり。
ここより西の方数町に一里塚あり。
また葱管(そうかん)・葇芦柳・葉蘭(はらん)を産す。

立岩(たちいわ)

細野小屋の西20町にあり。
高15丈・周40間余。岩茸を産す。
懸崖(けんがい)斗絶(とぜつ)屏風を立たる如く、人跡いたることあたわず。

温泉

戸倉山小屋の北2里3町、西吾妻山の中にあり。
硫黄を産す。湯味酸渋なる(ゆえ)渋湯と名く。
浴するものあらず。

檜原川

上流を大川という。
源を高森山に発し、魚沢(うおさわ)大雪頽沢(おほなてさわ)中荒木沢(なかあらきさわ)等の渓流を得て、1里28町余東南に流れ村西に至る。広6間余。荒砥沢西より来てこれに注ぎ、また9町余東南に流れ長井川北より来てこれに注ぎ、また7町計南に流れ吾妻川東より来てこれに注ぐ。また20町計南に流れて上岩魚川(かみいはなかわ)を得て(ここに至て広13間計)、また西南に折れて33町計流れ細野川(ほそのかわ)黄蓮沢(わうれんさわ)盆小屋沢(ほんこやさわ)等の水沢を得て、また東南に屈して38町余流れ雄子沢川(おこささわかわ)渋沢(しふさわ)黒沢(くろさわ)湯川(ゆのかわ)小深沢(こふかさわ)楚原川(そはらかわ)などいえる渓流を得て、また6町計東南に流れ小野川北より来てこれに会す。また5町計東南に流れて大深沢(おほふかさわ)の流れを得て、また東南に流るること15町計中津川に会し渋谷村の界に入る。水源よりここに至り里程(りてい)合して5里17町余。
(ます)岩魚(いはな)(やまへ)杜父魚(かしか)・マルタという魚を産す。

荒砥川(あらとかわ)

荒砥を産する(ゆえ)名く。一名を会津川という。若松に行く道の左右に流るる故の名なりとぞ。
村の未申(南西)の方30間計にて檜原川に入る。水源よりここに至て東に流るること28町。
広2間計。

長井川(なかいかわ)

長井荘米沢に行く道の左右に流るる(ゆえ)名くろいう。
源を大峠と迷沢高森山に発し、田代沢(たしろさわ)等の渓流を得て1里24町余南に流れ、村東に至り西に折れ檜原川に注ぐ。
広6間。

吾妻川

村の卯辰(東~東南東の間)13町にあり。
西吾妻山の布滝(ぬのたき)より出、東戸倉(ひかしろくら)西戸倉(にしとくら)の2渓を受けて吾妻川となり、西に流るること34町檜原川に注ぐ。
広6間余。

小塩川(こしほかわ)

源は高曽祢山より出、若松街道の左右に従い1里4町西南に流れ大塩村の方に注ぐ。
広4間計。

小野川(おのかわ)

西吾妻山にある百貫清水の下流大冷水(おほひやみつ)小冷水(こひやみつ)という2水を受けこの川となり、戸倉山小屋の南を過ぎ南に流るること2里計檜原川に注ぐ。
広6間余。

中津川(なかつかわ)(小蔵川)

一に小蔵川という。
村の卯辰(東~東南東の間)の方3里10町余にあり。
西吾妻山の東地獄(ちこく)けたいう所より出、南に流るること3里32町倉川(くらかわ)に合し、また西南に流るること10町径檜原川に会す。
広10間余。
(この川に滝あり。酸川野村の条下に出す)

タケヒル沢

村の丑寅(北東)の方30町計にあり。
下流長井川に入る。
タケヒルという草を産する(ゆえ)名けしとぞ。この草形状気味大蒜(おおびる)に似たり。食すべし。

この余、渓流数十ありて枚挙すべからず。

百貫清水(ひやくくわんしみず)

戸倉小屋の卯辰(東~東南東の間)の方1里余、吾妻山の中にあり。
深2尺余。湧出る勢つよく中央9尺四方は落葉を浮かべず。水底清冽愛すべし。
昔都下の人ここに来り、この泉(いやし)くも*3我庭際にあらば
百貫の価にも換えからずといいし故この名ありとぞ。

闇隅淵(くらすみふち)

※国立公文書館『新編会津風土記58より』
雄子沢小屋の東1里余にあり。
檜原川の下流幽谷(ゆうこく)の間にて長1町計・幅14、5間、水色青碧にして深測るべからず。
淵の上に滝あり。左右より怪岩相束ね、その間1間余の所より水勢激して直下す。
この所昔魚登らず。元和中(1615年~1624年)左右の岩を削り水の怒をそいでより上流に網罟(もうこ)の利ありという。
淵の左右は古木繁陰し常に猿嘯(えんしょう)を聞く。ものすごき境地なり。
北岸は削成(さくせい)せる石壁屏風を立てるがごとく長1町余の間数10折す。中程に至て岩の高きこと3丈計、左右は漸く卑し。その上に躑躅(つつじ)・桜樹相交わり古藤蔓衍(まんえん)す。花時極めて佳景(かけい)なり。
南岸は悪岩奇石錯乱布置し、水勢いの激する所岩根を齧り石窟をなす。
その幽遠なるさまいうべからず。

丹後淵(たんこふち)

村の亥(北北西)に当り21町、大川の西岸にあり。
永禄8年(1565年)の合戦に穴澤丹後という者敵と引組てこの淵に陥り、下の瀬に流れ出て終に首級を獲たり。故に名くという。

寒水滝(かんすいたき)

戸倉小屋の東32町、吾妻川にあり。
高10丈・幅1間余。
碧岩に傍い噴流直下し匹錬(ひつれん)*4を曵に似たり。故に一名を布滝(ぬのたき)ともいう。

不動滝

戸倉山小屋の北12町、大冷水川にあり。
高15丈・幅5間。
その側に不動の石像あり。故に名く。

一渡戸(いちのわたりと)

村西1里4町、蘭峠を下り小塩川を渡る所なり。
穴澤廣次という者一族郎従相卒て五島孫兵衛が小谷山の塁を攻め偽り敗れて引退き、この所にて返し合せ五島終にうち負て小谷山の塁に入るというはここなり。

真渡戸(まわたと)(盗渡戸)

また盗渡戸ともいう。
細野小屋の寅卯(東北東~東の間)の方13町、檜原川を歩渡して雄子沢小屋にゆく所なり。
広15間余。
洪水すれば水勢激突して流れを常にせず橋梁(きょうりょう)を架することあたわず。
天文2年(1533年)の秋、穴澤俊直一族引具しこの川のほとりに臨み、席を連ね杯を伝えて秋の遊を催す時に盗賊等50余人打つれ来りければ、俊直馳合せ(たちま)ち盗賊30余人を川岸に斬ひたす。この時穴澤が郎等9人討死し歳直も痛手被てその日の暮れに死せりとぞ。故に盗渡戸の名あり。

関梁

檜原口

村の北端にあり。
これより檜原峠を越えて米沢に達す。
木戸門を設け、左は山に傍ひ右は数町の榿木(はんのき)林ありて要害とす。
番戍を置き往来を察せしむ。

橋5

一は村西にあり。長7間・幅9尺、大川に架す。
一は村西1里4町ばかり大塩村界にあり、境橋と名く。長5間・幅5尺、小塩川に架す。一渡戸という所即これなり。
ともに若松道なり。
一は村東5町、猪苗代道にあり。長5間・幅5尺、長井川に架す。
一は戸倉山小屋の南1里4町、雄子沢通にあり。長8間半・幅1間。
一は細野小屋の東北3町、戸倉山小屋に通る小径にあり。長7間・幅4尺。
ともに檜原川に架す。

神社

山神社

祭神 山神?
相殿 熊野宮
   権現
鎮座 不明
村北山麓にあり。
長亨2年(1488年)穴澤越中俊家再興せりという。
祭禮4月17日。
小沼組高柳村山本大隅これを司る。

石橋

幅6尺・長3尺。
社前の小溝に架す。ここを渡て左右に石燈籠2基あり。

鳥居2

一ノ鳥居、両柱の間9尺5寸。
二ノ鳥居、両柱の間8尺。

本社

1間半余に1間余、南向き。
男女の木像2軀を安ず。長各9寸余。衣冠の座像、古物、その形状分明ならず。

幣殿

1間2尺に1間。

拝殿

5間に2間。

山神社

祭神 山神?
鎮座 不明
戸倉小屋の東1町余にあり。
村民の持なり。

寺院

崇徳寺

村北、山神社の西にあり。
檜原山と號す。下野国大沢圓通寺の末山浄土宗なり。
永正の頃(1504年~1521年)穴澤俊家建立し蘭山檜原寺と名け菩提所とす。その頃は真言の道場なり。
天正13年(1585年)伊達氏兵戈(へいか)の日火災に罹り、穴澤が氏族も所々に牢落す。その後穴澤が余裔再びここに住せし時、湯殿山参詣の僧ここを通りしを留めて寺を再建し先祖の霊牌を安ず。
承應2年(1653年)始て浄土宗となり寺號を今の名に改む。
三尊弥陀を本尊とし客殿に安ず。

墳墓

石塔

村北1町30間余にあり。
長2尺8寸余、全面に法名と『元和八年正月九日穴澤助十郎廣次』と彫付けあり(元和8年:1622年)。

古蹟

館跡

村より亥(北北西)の方3町、戸山(とやま)にあり。
東西35間・南北1町6間、土居空隍の蹟遺れり。
南を大手とす。
文明18年(1486年)この地に山賊多く文太郎といえるものを張本とし、無頼の悪党集めて往来の旅人をなやます。
会津の領主葦名盛高、穴澤越中俊家という者に命じこれを誅せしむ。越中300余人の郎等を引具して馳向い山賊270余人を討取て還りければ、盛高賞して貞宗の刀と境野(さかひの)寺入(てらいり)道知窪(たうちくほ)(共に大沼郡にあり)3ヶ村をあたえてこの地に置き出羽国の押とす。越中即この館を築いて移住し檜木谷地を改めて檜原と號く。檜木多く東南の方萱原なるによるという(舊事雑考に穴澤に命じて檜原の境を守らせしは永正年中(1504年~1521年)の事とす。今その家の伝わる所に従う)。
越中が孫加賀信徳に至て永禄7年(1564年)4月伊達大膳大夫輝宗、石川但馬という者に1500余の勢をつけてこの館を攻んとす。加賀これを聞き会津と米沢の境檜原峠に出向い厳しく防戦し勝軍しければ、石川逃れて米沢に帰る。同8年(1565年)伊達氏再び兵を発して鳥川村の方より山をこえ、迷沢を経てただちに戸山を襲わしむ。加賀防戦手を(くだ)きければ、寄手また敗れて引き返す。同9年(1566年)正月伊達勢1000余人不意に村の入口の木戸に火をかけ(とき)をつくりて攻め入る。加賀父子速に出合て一戦し寄手多く討死す。葦名修理大夫盛氏その戦功を賞し耶麻郡大荒井(おほあらい)村を与ふ。
(かく)て加賀年老ければ嫡子新右衛門信堅に家を譲り、岩山(いはやま)に館を築いて隠居す。
天正10年(1582年)4月小荒井(こあらい)村の地頭小荒井阿波という者と大荒井村、税租の事により私に闘爭に及ぶ。その罪軽からずとて大荒井村を没収せらる。
同12年(1584年)伊達左京大夫政宗その事を聞き伝え、七宮伯耆という者を使いとして穴澤を語ふ(伯耆はもと葦名家の臣なり。故ありて伊達家に仕え新右衛門と旧友の好あり)。新右衛門信堅(この時は俊光と称す)容を改めて伊達殿忽御親族の好を忘れ国奪うべき為に某を語り給うと見えたり。某(いやし)くも累代葦名家に仕ふ、死を守てその旧恩に報すべし。伊達殿もし葦名家に合力し幼主を(たす)け国内の安寧ならんことを謀り給わば誰がこれを防ぐべき。伊達殿若この地に御進発あらば某路頭に馳向い、さび矢1つまいらせて後腹切て国難に(したが)うべし。(さて)また御辺(ごへん)*5は葦名譜代の旧臣にあらずや。然るにその厚恩を忘却するのみならず某等をして不義の人たらしめんとす。(もっとも)その意を得ざる所なり。速に立帰りその旨を達すべしとて
伯耆をは帰しけり。
その後政宗また穴澤が支族四郎兵衛某という者を招しに、四郎兵衛忽一族の好みを忘れ政宗に内応し、同年11月26日伊達勢を引入れたばかりて加賀父子を始め一族郎党数を尽して討れぬ。この時新右衛門が嫡子助十郎廣次、加賀が6男善七郎(後善右衛門と称す)正清等は居合せざりければ、幸に死を脱れて大塩村の地頭中島左馬信清が館に遁れ(信清は穴澤加賀が5男なり。中島美濃というものに養われその家を嗣)、同14年(1586年)4月廣次一族引具して大塩村より檜原に至り、小谷山に籠れる五島孫兵衛を襲い偽敗れて伊達勢を(おび)き、蘭峠の麓一渡戸という所にて返し合せ敵兵許多(あまた)を討とる(この外穴澤が一党大塩村に在て、夜に乗じてその虚を襲い或は山をこえて不意をうつ。その志偏に父祖の讐を報い日原の地を恢復(かいふく)せんと欲するにあり。いたづがわし*6ければ略す)。
同17年(1589年)6月5日磨上原の軍敗れて、葦名義廣会津を去て常陸佐竹氏に寓候たり。穴澤等もまた大塩村を落ちて道知窪村の山中に隠る。
いくほどなくて伊達氏ここを収公せられ蒲生氏封につく。助十郎廣次その家に仕え再びこの村に帰住せりという。その後出羽の秋田に至り旧主義廣に謁しければ、その志を感じ義廣自ら扇面に古歌をかき形見とも見よとて廣次にあたふ。その扇今に伝えて家宝とす。上杉・加藤両家この地を知りし時もここに居住しぬ。
寛永20年(1643年)肥後守正之封に就し時、廣次が子新八郎光茂という者に禄をあたえここに居らしめ、村の北端に木戸門を営し番戍を置き、穴澤に属し非常をいましめ往来を察し境を守らしむ。
光茂が子孫相続いて当家に仕え今に至る。その先祖家人の子孫代々ここに住せるもの今に30人あり。

館跡

村南8町、岩山にあり。
東西45間・南北25間。
土居空隍の形崩れてさだかならず。
永禄12年(1569年)穴澤加賀これを築き退隠の所とす。

馬場蹟

村の辰巳(南東)の方6町にあり。
今萱原となる。
天正13年(1585年)伊達政宗会津を襲わんとて、この地に滞留すること50余日朝ごとに自ら馬を調習す。6月13日朝霧にまぎれ穴澤善右衛門という者大塩村より弓矢携えて山づたいに忍び寄りけるに、政宗いかに思いけん馬場中より馬をかえして馬場末に至らず。善右衛門本意なく思い、矢立とり出て鏥矢一つまいらせんためにかく狙い候いぬ。御運いみしくわたらせ給う故是非なく候かく申ものは穴澤某なり、と書付け馬場末に立て帰ける。その後は政宗(おそれ)て馬を乗ざりしといえり。

塁蹟

村の寅(東北東)の方14町、小谷山にあり。
本丸蹟、東西27間・南北66間余。
二丸蹟、東西15間・南北45間。
空隍の蹟(めぐ)れり。
南の方山の尾さきに堀切2ヶ所あり。
またその南1町余を隔て萱原に東西4町の土居あり。ここを大手馬出しとせしとぞ。
天正13年(1585年)5月、伊達氏松本備中が内応により入田付越より兵を出し政宗もこの口より大塩村の方に襲来りしに、大雨降て渓霧たちおおい前後を忘れせしかば萱峠より引き返し、この塁を築きとどまること50余日にして家人五島孫兵衛某籠置いてその身は長井に引取けり。
同14年(1586年)穴澤助十郎廣次ここを攻め合戦ありし所なり(寛文中(1661年~1673年)撰述せし風土記に檜原堀山の塁あり今その地詳ならず、意ふにこの塁の事なるべし)。

金山蹟(かねやませき)

境内数ヶ所にありて枚挙するに暇あらず。
土人いう。天正の頃(1573年~1593年)始て好金出、慶長10年(1605年)熊野派の修験中常坊というもの来て坑を穿ち多く金銀を採る。金坑の中今五十両という字残るも一月に50両の好金を出せし所なり。この頃は諸国より人多く集り小屋数も1000軒計有て許多(あまた)の金銀を採る、といえども前後得る所の総額詳ならず。
またその頃戸倉沢に大正寺という寺院あり。後小沼組漆村に移り寺蹟は萱原となる。漆村の大正寺これなりと安ずるに、漆村大正寺は弘仁中(810年~824年)に開く所の古刹なり。意ふに慶長の頃(1596年~1615年)この地の金山盛にて人多く集りし故、土人寺を創め大正寺に請てこれを掌らしめ仮にその本號に従て大正寺と称し、山衰え人散して寺また廃せしなるべし。凡て小屋蹟なりとて山麓に絡てうち開けし萱原所々にあり。

旧家

豊吉

この村の肝煎を勤む。その先は藤原氏なり。應永の頃(1394年~1428年)兵三郎弘範という者あり。甲斐の武田に随い信州相原に住せり。因て相原氏を称せしとぞ。弘範が後裔孫六弘久始て穴澤に随いこの村に住し、伊達勢を防ぎて功あり。天正12年(1584年)11月26日穴澤加賀・同新右衛門と共に戦死せり。
子孫相続いてここに住し豊吉正範まで凡8世という。(かつ)て火災に罹り系譜を失い履歴詳ならず。先祖よりの物なりとて無名1尺寸の脇刀を家に蔵む。

幸十郎

この村の肝煎なり。先祖は二瓶蔵人某とて天正12年(1584年)11月討死せり。その後といい伝えれども系譜なければ詳なる事を知らず。
鑓1本を持伝う。

甚助

この村の農民にて遠藤與九郎某が子孫という。與九郎は天正中(1573年~1593年)穴澤父子と共に討死せり。明和年中(1764年~1772年)の火災に家譜焼失し世次詳ならず。
鑓と脇刀を持ち伝う。

左傳次

この村の農民なり。天正12年(1584年)穴澤父子と共に討死せし。高橋介太郎某が後なりという。族譜なければ世代の順叙しれず。

勘次郎

この村の農民なり。穴澤父子と共に討死せし大竹平内某が子孫といい伝えれども世次知らず。家譜なきに依てなり。

半右衛門

この村の農民なり。畠山荘司次郎重忠の後という。天正の頃(1573年~1593年)目黒善内某という者穴澤父子と共に討死せり。半右衛門まで数世ということを伝えず。

甚之助

この村の農民にて豊島縫殿之助某が末孫なり。縫殿之助は天正12年(1584年)穴澤等と討死せしその一人なり。系譜なければ世次しれず。

兵左衛門

この村の農民なり。先祖を赤城内匠利弘をいう。天正12年(1584年)穴澤父子と共に討死せり。その子を鴨之助某という。天正11年(1583年)4月穴澤新右衛門信堅に随て小荒井阿波と相戦い、敵徒萬部院という修験の為に左の眼を射させけるが、少しもひるまず萬部院を討取しという剛の者なり。今の兵左衛門は利弘が9世の孫といい伝う。

菊池倉之助

穴澤助十郎譜代の家来なり。先祖内蔵助某、穴澤父子と共に討死す。当時倉之助に至るまでの世次しれず。

佐藤直吉

これも助十郎が譜代の家来なり。先祖は佐藤次郎左衛門とて天正12年(1584年)穴澤父子と同く討死せしものなり。直吉まで幾世ということを伝えず。

穴澤悦之助

先祖は主計家清とて加賀信徳が父越前次郎俊直が子なり。天正12年(1584年)その子新九郎信春と共に討死せり。二男孫兵衛春清幼にして家にあり。母に抱かれ大塩村に遁れるという。悦之助は8世の孫なり。



明治21年(1888年)7月15日に磐梯山が噴火し、檜原村近辺(裏磐梯)は大きく様相が変わってしまいました。それ以前に作成された地図がいくつか残っていますのでご紹介します。

最終更新:2020年07月12日 23:02
添付ファイル

*1 水が清く、さらさらと流れるさま。また、その音を表わす語。

*2 このほか。そのほか。

*3 身分不相応にも。柄でもないが。もったいなくも。

*4 滝や湖の表面が練絹に似る形容

*5 目上の人に使う二人称。あなた

*6 わずらわしい。面倒