府城

陸奥国 若松 府城
大日本地誌大系第30巻 94コマ目

若松の中央にあり京師(けいし)*1を去こと191里、江戸を去こと65里。
平山城にて周廻凡20町計。
後小松院至徳元年(1384年)葦名直盛の築く所にて、安倍某と云う者をしてこの地を祝祭(しゅくさい)せしめ鶴城と名く。或は黒川城とも称す。
葦名氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏相因て居れり。
初は二之丸・三之丸共に本丸の東に続き、北と西とは直に馬出を付け、南の方に(うし)沼とて大なる沼ありしを(ほり)に象り芝土居を築て要害を堅固にし、東を追手とし西を搦手とし本丸の内に屋形を営み城主の居とせり後、天文7年(1538年)火災に罹て新たに経営せしかは、隍壘*2の形勢も革れること多しとぞ。
天文18年(1549年)蒲生氏郷封に就て再び改築のことあり。初氏郷藝州*3広島の城を模し築んと志し、東照宮に見え奉りこの事に及しに、東照宮仰せけるは(すべ)て居城の大小はその主の分限(ぶんげん)に関る事なれは預め論し難しと(いえど)、大抵本丸を初めニ三の郭等は塀(やぐら)共に如何にも堅密にし、また外郭も一二の門升形等は速に成かたき者(ゆえ)豫め設置て不虞(ふぐ)に備ふへし。長堀の年経ちたるは倉卒(そうそつ)の際に臨て、用立難きものなれは外角は土居石垣のみにて置くも悪からす、必しも広島の如く塀を環らすには及はさるへし。松永久秀か工夫にて和州*4志貴城に設たる多門櫓はニ三の郭の内に構置て一際便なる物そなと細やかに示し給ひしかは、氏郷それ(おおせ)に従ひ文禄元年(1593年)の夏より大いに役夫を起し経営を始む。その臣曽根内匠等に命し、甲州*5流の縄張等を用て内外の郭を築き中央に天守を建て多門櫓馬出悉く具足し堞壁(ちょうへき)高く峗ち塹溝深く治りて全く府城の(たい)をなせり。また、西北の馬出を広めて出丸とし芝土居を石垣にし空隍に水を湛え二三の郭の中にありし小郭を(こぼ)ち内郭の地勢を担夷(たんい)にせしは、寛永16年(1639年)加藤家の改むる所にて今なお因循(いんじゅん)せり。

本丸

天守

表門

裏門

櫓3


帯郭

大鼓(たいこ)

廊下橋(らうかはし)

西中門

櫓4

鐘撞堂

兵器蔵

塩蔵

金蔵 二屋

稲荷神社

祭神 倉稲魂(うかのみたま)
創設 至徳元年(1384年)
北の土居の上にあり。
至徳元年直盛今の郊外北小路の社を勧請せりと云う。
寛文8年(1668年)当社を修営し、神體(しんたい)をは吉川従時をして天羽軍に封せしめ唯一社とし、従古より祭りおきし神體圭冠浄衣の木像(長1尺3寸)をは神職盛右京か宅地に別祠をたてて祭らしむ。
寛永6年(1629年)相殿の神を祀り神璽は吉川従時これを封す。
祭神は深く秘して神職の外しれるものなし。
もと開運霊社と称へしか今は脇社と称ふ。

鳥居

本社

幣殿

神楽殿

末社

本社の東にあり。
元禄10年の勧請にてこれまた神號を秘して神職の外知るものなし

神職盛攝津

根入(ねいり)

遊女石(ゆうじよ)


二之丸

東門

南門

納戸蔵

文庫

米倉 三屋


三之丸

(うづみ)

南門

無常口

別墅

大的場

雑物蔵


北出丸

追手門

西門

櫓2

大腰掛

(りう)


西出丸

内讃岐(うちさぬき)

櫓2

塩硝(えんしょう)

玉薬蔵

蠟蔵 四屋

漆蔵

大腰掛



余談。
若松城の絵図は「新日本古地図学会」さんの所がわかりやすいです。
若松城鶴ヶ城明細圚 []
最終更新:2020年02月21日 18:04

*1 京の都

*2 隍(ほり)壘(とりで)

*3 安芸国

*4 大和国

*5 甲斐国