若松の中央にあり。
京師を去こと191里。江戸を去こと65里。
平山城にて周廻凡20町計。
後小松院至徳元年(1384年)葦名直盛の築く所にて、安倍某と云う者をしてこの地を祝祭せしめ鶴城と名く。或は黒川城とも称す。
葦名氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏相因て居れり。
初は二之丸・三之丸共に本丸の東に続き、北と西とは直に馬出を付け、南の方に牛沼とて大なる沼ありしを隍に象り、芝土居を築て要害を堅固にし、東を追手とし西を搦手とし、本丸の内に屋形を営み城主の居とせり後、天文7年(1538年)火災に罹て新たに経営せしかは、隍壘の形勢も革れること多しとぞ。
天文18年(1549年)蒲生氏郷封に就て再び改築のことあり。初氏郷藝州広島の城を模し築んと志し東照宮に見え奉りこの事に及しに、東照宮仰せけるは
「凡て居城の大小はその主の分限に関る事なれは預め論し難しと雖、大抵本丸を初めニ三の郭等は塀櫓共に如何にも堅密にし、また外郭も一二の門升形等は速に成かたき者故豫め設置て不虞に備ふへし。長堀の年経ちたるは倉卒の際に臨て、用立難きものなれは外角は土居石垣のみにて置くも悪からす、必しも広島の如く塀を環らすには及はさるへし。松永久秀か工夫にて和州志貴城に設たる多門櫓はニ三の郭の内に構置て一際便なる物そな」
と細やかに示し給ひしかは、氏郷それ仰に従ひ文禄元年(1593年)の夏より大いに役夫を起し経営を始む。その臣曽根内匠等に命し、甲州流の縄張等を用て内外の郭を築き中央に天守を建て多門櫓馬出悉く具足し、堞壁高く峗ち塹溝深く治りて全く府城の體をなせり。また、西北の馬出を広めて出丸とし芝土居を石垣にし空隍に水を湛え二三の郭の中にありし小郭を毀ち内郭の地勢を担夷にせしは、寛永16年(1639年)加藤家の改むる所にて今なお因循せり。
本丸
周480間余。太守の左右より東南に折廻して石垣を環らし西北の方を帯郭とす。
東は高石垣を積み上げ、南は芝土居の上に石垣を築き、城主の屋形をはじめ諸の役署この内にあり。
天守
本丸の中央にあり。
蒲生氏のとい肥前国名護屋にて豊臣家の建てられし所を模すという。
旧七重なりしが、寛永中(1624年~1644年)加藤氏上の二重をこほてり。
表門
本丸の西にあり。
帯郭へ出る追手にて北向の多門なり。
扉、柱、皆鐵にて包みし故鐵門とも呼ぶ。
番所北向。
裏門
本丸の北にあり。
帯郭へ通ずる門にて、東向きの多門なり。
番所東向き。
櫓3
一は本丸の南にあり。
月を賞するに佳とて月見櫓と名く。
一は茶壺櫓とて本丸の東南の隅にあり。
そのかみ氏郷茶を好み、坐つづきに小亭を営み自ら庭石を居へて数寄屋とす。
今二百余年をへてその時の経営全く存す。古雅幽棲のさま今時の結構に比すべからず。
件の櫓はこの数寄屋に近ければ常に茶壺を蔵め置きし故この名ありとぞ。
一は本丸の西南広間前にあり。
共に二重なり(凡城中の櫓みな二重なり。故に毎條これを註せず)。
帯郭
本丸の西北なり。
氏郷修築のとき本丸の内を三分にして、二を本丸とし一をこの帯郭とす。
(本丸の條中に見ゆ)
大鼓門
この郭の北にあり。
多門東向。北出丸に通ずる追手門なり。
坂を下ること20間余。なだらかなる雁歯あり。左右に下り塀あり。
この多門の内に先の城主より伝るところの太鼓あり。径5尺8寸、胴は欅の繰貫にて極めて古物なり。門の名これによるという。
番所東向。
廊下橋門
この郭の東の方にあり。
四建作にて虎口南に向ひ升形あり。道東に折れ雁歯数級を下り橋に至る。
右の方丸の高石垣にて、隍は搦手の牛沼に続く。水際より高きこと6丈余。昔は縄の勝手あしく顯はに場外より見えし故橋上に廊下を設け置きしが、加藤氏の時毀て橋のみ残れり。
西中門
この郭の西の方にあり。
多門北に向ひ西出丸に通す。
弓櫓の側にある故弓門ともいう。
坂を下ること20間計担易なる石階あり。
番所北向。
櫓4
一は西にあり。
一は西北の隅にあり。
一は北にあり。
一は東にあり。
鐘撞堂
北野土居の上にあり。時守を置て晝夜の時を報せしむ。
旧事雑考応永34年(1427年)の記に「越中州新河郡布世保小河山千光寺大檀那式部丞藤原長盛大工沙彌了性應永丗四歳次丁未八月廿八日」と彫付し古鐘耶麻郡熱鹽村示現寺にありしを、天正の頃(1573年~1592年)移てこの堂に懸けしに寛文中(1661年~1673年)に破るという。因て同11年(1671年)改め鑄延亨中に再び鐘を鑄る。「大工早山掃部介安次同六郎右衛門吉茂同清右衛門伊次延亨四年丁卯六月十九日」と彫付あり。
※延亨4年=1747年
兵器蔵
表門の外にあり。
塩蔵
兵器蔵の南にあり。
金蔵 二屋
共に北にあり。
廐
金蔵の西にあり。
稲荷神社
| 祭神 |
倉稲魂神 |
| 創設 |
至徳元年(1384年) |
北の土居の上にあり。祭神は倉稲魂神。至徳元年、直盛今の郊外北小路の社を勧請せりと云う。
寛文8年(1668年)当社を修営し、神體をは吉川従時をして天羽軍に封せしめ唯一社とし、従古より祭りおきし神體圭冠浄衣の木像(長1尺3寸)をは神職盛右京か宅地に別祠をたてて祭らしむ。
寛永6年(1629年)相殿の神を祀り神璽は吉川従時これを封す。
祭神は深く秘して神職の外しれるものなし。
もと開運霊社と称へしか今は脇社と称ふ。
鳥居
両柱の間6尺余。
本社
5尺余に3尺、南向。三方に玉垣を環らせり。
幣殿
2間四面。
拝殿
2間に1間半。
神楽殿
2間に1間半。
末社
本社の東にあり。
元禄10年(1697年)の勧請にて、これまた神號を秘して神職の外知るものなし。
神職 盛攝津
郭外半兵衛町に住す。
その先は葦名盛興の庶子力丸とて、母はその臣片平助右衛門氏範が女なり。懐姙の初、本妻の妬をさけ父氏範がもとに在てこの力丸をうめり。後、程なく盛興卒して嫡子なかりしかば、老臣等相謀て一族二階堂盛隆をもて養子とし葦名家を続かしめ血脉の力丸をは棄て顯はさす。盛隆また程なく卒してその子亀王丸も世を早くせしかば、片平この度は力丸をこそを思いしに、案に相違して佐竹義廣を養子と定めしかは、氏範病と称して己が所領に籠り居しが憂憤に堪ず葦名家を叛て伊達政宗に降りぬ。この時力丸は母と共に民間に竄れ紀氏の家に育はれ、漸く年長して当山派の修験となり盛法院と號せり。蒲生氏の時当社の別当職となり館下という所に宅地を賜りて住居せしとぞ。また中新井組館村ならび田村山村、南青木組慶山村、滝沢組牛墓村等を社領に附せしもこの頃の事なりと言い伝れると。その時の文書焼失し詳なること伝えず。
力丸より6世大乗院が時に至て盛紀右京と改名して神職となる。
今の摂津義陽はその10世の孫なり。盛紀と称せしは盛興の盛と紀氏の紀とを取れるなり。今は紀の字を省く。
根入石
稲荷神社の前にあり。
昔何人にかこの石を鑿りしに、深くしてその根を窮ること能ず。故にこの名あり。また鶴石とも称るは当城の名に因れるなり。
遊女石
太鼓門の側、石垣中の一なり。
石面1丈余。
文禄中(1592年~1596年)城郭修理の時処々より大石を運びしに、この石運送に苦みしかば役夫の憊を慰めん為多の遊女をこの石に登せ種々の俳優をなさしめし故遂に名となるという。
二之丸
本丸の東に続く。
周300間余。
元和の頃まで(~1624年)はこの郭の北に馬脇丸という小郭あり。いつの頃にか両郭を合して今の地形とす。
蒲生氏の時までこの郭にも士屋敷あり。加藤氏に至て皆毀てり。
この郭の東の土居を隍の内へ築出し薬師を安置せしが、寛永14年(1637年)内郭修理の時滝沢村に移す。今の台町薬師堂是なり(
台町の條中に詳なり)。
東門
東にあり。
多門。
南に向ひ三之丸に通す。
(今鎖て往来を禁ず)
南門
南にあり。
多門。
西に向ひ三之丸に通す。
番所西向。
納戸蔵
東の土居際にあり。
文庫
納戸蔵の北にあり。
米倉 三屋
共に文庫の北にあり。
三之丸
二之丸の東に続く。
周840間余。
この郭も元和7年(1621年)の頃までは稲荷郭とてこの内に別郭ありしが、後毀て地勢を平かにす。又、当家就封の初までこの郭中に官署士屋敷等ありしが、承応中(1652年~1655年)外郭に移し蹟に屋形を建て長門守正頼、筑前守正経住居せり。肥後守正容時代より本丸の屋形に住せしかば是を毀つ。今にこの郭中往来を禁せざれども乗馬の通行を許さず。
(旧事雑考:至徳元年の記に往昔この郭に如法寺という寺ありし由見ゆ)
埋門
この郭の北にあり。
門西に向ひ本一之丁に通す。
左右高石垣にて門殊に卑しき故この名あり。
番所南向。土橋なり。
(この他内郭の虎口皆土橋にて外郭に通す。故に毎條これを註せず)
南門
南にあり。
南に向ひ外郭に通す。
平門作なり。
番所西向。
無常口
東にあり。
東向。簀戸門なり。
番所北向。
別墅
南門の北にあり。
大的場
二之丸の隍際にあり。
家士及び弓組の足軽大的の技を肄ふ所なり。
雑物蔵
大的場の東にあり。
北出丸
帯郭の北にあり。
周160間余。
この郭旧角馬出なり。加藤氏の時今制に改むという。
追手門
東にあり。
多門。
南に向ひ、道は東にさして北に折れ本一之丁に通す。
升形あり。
番所南向。
西門
西にあり。
門南に向ひ、道西に折て大町通に出つ。
傍に小門を開て常に往来を通す。棟門ともいう。
升形あり。
番所南向。
櫓2
一は東北の隅にあり。
一は西北の隅にあり。
大腰掛
追手門の外にあり。
龍石
太鼓門の前、雁牙石の中にあり。
この石晴天といえども雨気あれば色黒みて潤ひ、雨中といえども霽んとする時は色白くして乾けり。人この石を以て晴雨を卜するに違はず。因て名けしとぞ。
西出丸
帯郭の西にあり。
周190間余。
もとは小郭なり。加藤氏に至て広むという。
西追手門
この郭の北にあり。
多門。
東に向ひ、道は北にさして西におれ大町通に通す。
番所東向。
内讃岐口
南にあり。
南門ともいう。
虎口東に向ひ、道は南に折て五軒丁に通す。
升形あり。
今は鎖して往来を禁ず。
蒲生氏の時、河北讃岐という者の屋敷に近かりし故名となりしという。
櫓2
一は西北の隅にあり。
一は西南の隅にあり。
塩硝蔵
西の土居下にあり。
玉薬蔵
南の土居下にあり。
蠟蔵 四屋
共にこの丸の中程にあり。
漆蔵
同上。
大腰掛
西追手門の外にあり。
外部リンク等
最終更新:2026年02月19日 01:00