※国立公文書館『新編会津風土記99』より
小川荘
小川荘は蒲原郡の東端にあり。
昔越後城四郎長茂、本郡を割て陸奥国耶麻郡
恵日寺の衆徒頭乗丹坊に与ふ。これより会津領に属すという。
荘名の起を伝えず。
天正18年(1590年)豊臣家蒲生氏郷を会津に封せられしとき、地勢会津領の
山嶽に連なり往古より会津領に属せるにより氏郷に賜り、その後上杉・蒲生・加藤氏を歴当家封に就に至てまた封内に属すること旧のごとし。
東は陸奥国河沼郡に隣り鳥居峠・高陽山を界とし、西は公領・本郡の諸村に交わり、南は陸奥国大沼郡に続き鉾峠・猩々森山・馬尾滝山・赤柴山を界とし、北は米沢領出羽国置賜郡及び本郡黒川領・新発田領に連なり飯豊山・内蔵川・境川を限りとす。
東西10里(東は
河沼郡の界鳥居峠より、西は公領草水村の界境石に至る)。
南北12里12町(南は
大沼郡の界鉾峠より、北は新発田領中山村の界境川に至る)。
この地山峻しく谷深く道路
嶮坂多し。
飯豊・
高森・
御神楽・
駒嶽・
次狩等の高山四面に
峙ち、揚川の長流その中を流れ、土地漆杉に宜く漆蝋を産す。上品なり。
村里みな
重山の間にあり。暑は遅くして弱く、寒は早くして強し。
大凡10月より雪積り3、4月の頃まで消つきず。深山の村々は8月末より雪降り寒気
甚だ強し。
田圃多からず
苅野畑とて山間の草木を焼きその後に粟・稗・蕎麦・麻等を植え、冬春の際熊・猿・
羚羊を猟す。
津川町及び上條組中村・太田村等の左右のみ平地にて田圃あり養水みな渓流を灌ぐ。因て実り快からず。また
旱魃の患あり。その田は下の下、その畠は下の上なり。
津川村は本荘の中央にて上下の河船ここに集まり、商買の便より農業のみならず市店をひらき交易を以て生産とす。
その習俗は陸奥国
会津郡に載る所と大抵異ならざればここに略しす。
組名
山川
飯豊山
鹿瀬組実川村の東北にあり。
山勢西にひき奥羽越3州に跨り双ひなき高山なり(陸奥国
耶麻郡の条下に詳なり)
御神楽嶽
上條組室谷村の東にあり。
陸奥越後の地に跨り、東北に峙てるを笠倉山といい末那板倉山という。皆高山なり。中にもこの山衆峯の間に特起し最も峻麗なり。
麓より頂まで3里計、数十里の外まで俯瞰すべし。村落山下に棊布し東南の方1線の長流を眼下に見る。即ち只見川なり。半腹より上つかたは岩山にて仲夏の頃までも雪消せず。
昔高田村伊佐須美明神この山に鎮座ありし時、西山日光寺の僧覺道神楽を奏せり。山の名これに因るという。今頂上15間・南北50間計の平坦なる所その社跡にて、覺道盥漱の水なりとて5尺四方に2尺四方計の小池2あり。
また山中に水晶多し。遠く望めば日暉映発し銀波の如し。懸崖斗絶にして採ることを得ず。
高陽山
上條組柴倉村の辰(東南東)の方にあり。
麓より頂上まで1里計。雑木
蕃茂せり。
南は
大沼郡に属し東は
河沼郡に接し奥越の界なり。
柴倉川これに出つ。
鉾峠
高陽山の西に並ぶ。
麓より頂まで30町計。
南は
大沼郡に属す。陸奥越後の界なり。
ここを越えて
大沼郡大石組宮崎村に至る。
揚川
河沼郡野沢組徳沢村の界より鹿瀬組に入り処々渓流を得て津川町の東北に至り室谷川を受け下條組に入り川口村の南にて新谷川・中津川来り注ぎ公領本郡草木村の界に入る。
山間を流れ曲折数回なれども大抵東より西に流る。広50間より120間に至る。
この川津川町より西村・京瀬・大牧・小花地・谷沢・吉津・岩谷・五十島・熊渡・石間・佐取等の諸村を経て小松村に至り、西して新潟に達する川船上下の水路なり。津川町より上流は山間急瀬多く船の往来自由ならず多く筏を下す。
鮭・
鱒・
鱸・
鱓の類を産す。年魚多し。
室谷川
その源は会津郡八十里越の山中より出、上條組に入り駒嶽・塩倉両山の間を環折し所々の渓流を受け大田村の北にて粟瀬川来り注ぎ西川となり海道組に入り天満村の南て小出川を受け天満川といい津川町の東北に至て内川となり揚川に入る。広30間より70間にいたる。
山中を流れ曲折あれども大抵南より北に流る。
川ザイ・ザコ・鱒・鮎・鱖の類を産す。
- 参考資料
- 東蒲原郡史蹟誌(国立国会図書館)
- 昭和3年(1928年)に東蒲原郡教育会(寺田徳明 編)より出版された東蒲原郡の地史。
- 紹介しておいて何ですが、まだちゃんと内容を見れていません…
- 越後佐渡デジタルライブラリー
- 新潟県立図書館を含めた県内の蔵書をデジタル化したものを公開しています。すごく便利です。特に神社明細帳がほぼ揃っているのは素晴らしいです(多分ですが、両面に記載があるものは片面しかスキャンされていないようです…)。
最終更新:2020年11月10日 21:01