蒲原郡津川町

越後国 蒲原郡 津川(つかは)
大日本地誌大系第34巻 39コマ目

往古は下條組西村の界津川沢の(ほとり)にあり。貞治年中(1362年~1368年)ここに移るという。長岡領本郡新潟より往来する川船ここにあつまり、毎月6度の市日を定め、商売多く来り諸物を交易す。

この所は小川庄の中程にて、天正の頃(1573年~1593年)まで葦名の長臣金上氏ここに住し、引続て元和の頃(1615年~1624年)までもこの所にて荘中の仕置を沙汰せしにや。されば今に町と称し諸組に属せざるもその形見なるべし。

府城の西に当り行程14里30町。
家数294軒、東西9町・南北2町20間。
新発田街道を挟み両頬に連なる。

東の入口を柳原(やなきはら)町という。次を上田(かみた)町、次を(かみ)町、次を(よこ)町、次を(なか)町、次を(みなと)町、次を下田(しもた)町、次を柿木(かきのき)町という。
また寺門前裏町等の小名あり。

東北は室谷川に傍ひ、北は揚川に臨み、西南は田圃(たんぼ)なり。

新発田街道駅所にて、海道組天満村駅より30町18間ここに継ぎ、ここより2里9町39間下條組行地村駅に継ぐ。
町中に本陣を置く。
官より令せらるる掟条目の制札を懸く。
また、小川通とてここより西村・小花地・谷沢・五十蔦等の諸村を経て、公領本郡水原村及び公領五泉に通る径路あり。

東6丁(町?)15間海道組平堀村の界に至る。その村まで14町10間余。
西13町9間西村の界に至る。その村まで18町30間余。
南20町58間上條組拂川村の界に至る。その村まで1里10間余。
北は町際にて下條組角蔦村に界ひ揚川を限りとす。その村まで3町。
また
寅(東北東)の方12町30間鹿瀬組鹿瀬村の界に至る。その村まで23町30間。

町より寅(東北東)の方6町計に家居1軒あり。滑沢(なめさは)という。
辰(東南東)の方7町計に家居1軒あり。奥田(おくた)という。
また、町中に一里塚あり。

山川

道徳坂(たうとくさか)

町の西南3町計にある小坂なり。
この所、昔は新発田街道なりしとぞ。

姥堂川(うはとうかわ)

上流を拂川という。
拂川村の界より来り、町中を過ぎ東に至り室谷川に入る。
境内を経ること20町余。
広3間計。

室谷川(むろやかわ)(内川/常波川(とこなみかわ)

俗に内川という。また常波川ともいう。
平堀村の境内より来り、北に流るること15町計町の東北に至り揚川に入る。
広30間。
小船を設け隣村に往来す。

揚川

鹿瀬村の境内より来り、町北に至り下條組京瀬村の地を過ぎ西北に流れ西村の界に入る。
境内を経ること17町計。
広2町。
この川新潟に往く水路にて、西村・京瀬・谷沢・岩谷・五十蔦・石間・佐取等の諸村を経て小松村に至り、西の方新潟に達す。

清水

町より申(西南西)の方にあり。
周6間。
ケヤキ清水という。

関梁

船番所

町の北端にあり。
番人を置き川船の往来を察せしむ。

船渡場

町北にて揚川を渡す。
新発田街道なり。

姥堂橋

町中にあり。
姥堂川に架す。
長9間半・幅2間、勾欄あり。

水利

堤4

一は町より未(南南西)の方13町計にあり。周250間。寛永中(1624年~1645年)築く。
一は町より17町計未(南南西)の方にあり。周120間。慶安中(1648年~1652年)築く。
一は町より5町計未(南南西)の方にあり。周70間。延享中(1744年~1748年)築く。
一は町南33町計にあり。周150間。寛政中(1789年~1801年)築く。

郡署

代官所

町中にあり。
役人を置き津川町及び鹿瀬・街道・上條・下條4ヶ村を支配せしむ。
陸奥国河沼郡野沢組上野尻村郡役所に属す。

倉廩

米倉

町中にあり。
津川町及び海道組平堀村、上條組拂川村、下條組西村・大牧村・京瀬村・角島村の米を納む。

神社

住吉神社

祭神 住吉神?
相殿 稲荷神
   宗像神
鎮座 不明
町中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。

神職 手代木摂津

5世の祖対馬定森という者元禄の頃(1688年~1704年)当社の神職となる。相続いて今の摂津定雄に至る。

腰王神社

祭神 腰王神?
相殿 風神
鎮座 不明
町南7町、小山の上にあり。
玉泉寺これを司る。

伊勢宮

祭神 伊勢宮
鎮座 不明
町中にあり。
鳥居幣殿拝殿あり。修験胎蔵院これを司る。

寺院

新善光寺

町の西南にあり。
山號を佛光山という。京師智恩院の末寺浄土宗なり。
縁起に、往古は西村の界津川沢という所にあり。建久中(1190年~1199年)尾州の産定尊という沙門信濃国善光寺に参り、霊夢の告ありとて等身弥陀の銅像を鑄て当寺に安置し、始て新善光寺と称せしとぞ(この佛像、世に災あれば汗を流し、疫病ある者祈願すれば応験(おうけん)ありとて人多く信仰す)。
その後170余年を経て貞治の頃(1362年~1368年)感生という僧この所に移し、堂宇の結構昔時(せきじ)に倍せり。感生(かつ)て上生理寉という僧を共に佛法弘通(ぐずう)の願を起こし、常陸国鷲宮にいたり神殿に通夜し一鯉魚(りぎょ)を捕ふと(ゆめ)む。後に感生当寺を再興す。因て寺内に鷲明神を勧請せり。
感生より5世の後岌梅という僧の時、津川・角嶋・塩野沢(しほのさは)大戸瀬(おほとのせ)等の所(町より亥(北北西)の方8町計に大戸瀬という河原あり。町南の河畔に塩野沢という所あり。もと村落ありし所と見えたり)(ことごと)く寺領となり、僧侶多く集り堂舎壮麗なり。寛正(1460年~1466年)より永正(1504年~1521年)の間兵乱うちつづき、吉見忠春という者に寺産を奪われ、僧徒離散し殿堂破壊せり。されども角嶋・塩野沢等の租税は当寺に収む。
文禄元年(1593年)豊臣家検地ありしとき、寺領を没収せらる。

制札

総門に入る左の方にあり。

総門

2間に1間4尺、東向き。
佛光山という額あり。

十王堂

総門を入て右にあり。

鐘楼

客殿の前にあり。
2間四面。
鐘径2尺8寸。当寺21世の僧岌務鋳造す。『享保三戊戌年林鐘如意珠日』と彫付けあり(享保3年:1718年)。銘あれども煩わしければ略す。

客殿

10間半に9間半、丑寅(北東)に向かう。
本尊弥陀。

庫裏

客殿の西に続く。
18間に6間。

秘佛堂

客殿の前にあり。
2間半四面の塗篭なり。
三尊弥陀の銅像を安ず。即定尊霊夢に感じ冶鋳(やちゅう)するものこれなりとぞ。
額『秘佛堂』とあり。

鷲神社

境内、東の方にあり。
貞治の頃(1362年~1368年)沙門感生勧請す。
石鳥居あり。

負樹院

秘佛堂の南にあり。
3間、東向き。
弥陀及び聖徳太子の木像を安ず。
(以下当寺の塔頭なり)

寶善院

負樹院の東に並ぶ。
6間に5間、東向き。
弥陀の木像を安ず。

聖徳院

寶暦6年(1756年)焼失の後再建未だならず。
院跡は庫裏の西にあり。

寶物

三尊弥陀    本尊、長2尺。脇立、長1尺3寸。慈覚作という。
二十五菩薩画像 1幅。筆者しれず。古画と見ゆ。
山越弥陀画   1幅。筆者しれず。当寺7世岌州寄付という。州は生江氏の子にて後京師百万遍に住職せり。父母を帰省せし時、(しばら)く当寺に寓居(ぐうきょ)し、佛法僧の聲を聞いて
なつかしや 都にちかき 高野山 佛法僧と なく鳥の聲
と詠せしとぞ。
岌州寄付のもの多くありしが、ただこの佛画のみ遺れり(州が事は陸奥国河沼郡青津組青木村の条下に詳なり)。
恵心襟掛名號  1幅。肥後守正容寄付。
六字名號    1幅。圓光筆。
過去帳     1冊。当寺10世良翁天正年(1573年~1593年)書写して伝えるものなり。
古文書     1通。その文如左(※略)

玉泉寺

新善光寺の西にあり。
寶珠山と號す。高野山遍照光院の末寺真言宗なり。
開基の年月詳ならず。
貞治年中(1362年~1368年)中西村の界よりここに移るという。
永禄4年(1561年)良禅という僧住し金上氏の祈願所となる。因て良禅を中興とす。

客殿

8間に7間、東向き。
本尊不動、長9寸5分。運慶作という。

肉身佛堂

客殿の東南にあり。
3間四面、戌亥(北西)に向かう。
当寺第3世の僧淳海死に臨んで「肉身成佛せんこと我願なり。滅後堂中に安置すべし」と遺言す。時に年78歳寛永13年(1636年)9月9日なり。今に全身朽腐(きゅうふ)せず、その形枯魚(こぎょ)に似たり。

密蔵院

玉泉寺の西北にあり。
真言宗高照山と號す。高野山明王院の末山なり。
開基の年代しれず。
貞治年中(1362年~1368年)源覚という僧再興すという。

客殿

7間半に6間、東向き。
本尊弥陀。

牛頭天王堂

客殿の前にあり。
3間四面、東向き。

寶物

不動画像    1幅。空海筆という。
竹布両界曼荼羅 2幅。筆者しれず。寛文中(1661年~1673年)まで裏に『寛正二年越後国蒲原郡密蔵院辨覚法印求持』とありしという(寛正2年:1461年)。寶求3年(1706年)表装を改む。因てこの裏書なし。
槍       1本。鋒6寸3分、無銘。吉見忠春寄付という。

正法寺

密蔵院の北にあり。
明海山と號す。公領本郡草水村観音寺の末山曹洞宗なり。
開基の年代しれず。
天文の頃(1532年~1555年)器堂という僧住せりとぞ。
客殿に勝軍地蔵の木像を安ず。長1尺、古物なり。縁起に、像背に文字あれども分明ならず。ただ『永正六己巳年』という6字読べしとあり(永正6年:1509年)。今はこの文字も見えず。

愛宕堂

客殿の南にあり。

古蹟

狐戻塁跡(きつねもとし るいあと)

※国立公文書館『新編会津風土記101』より

町の東北2町にあり。
頂上まで3町・周1里計の岩山なり。その形麒麟に似たりとて麒麟山(きりんさん)とも名く。
西端の頂上に本丸の趾あり。東西8間・南北12間計。
半腹に二、三の丸、或は出丸・馬場等の遺趾あり。
西南は室谷川に臨み東北に揚川を()る。2水山下を(めぐ)り、西に至て流れを合す。
東は石壁高く屏風をたてたるが如し。その(けん)狐も過ることあたわず、ここに至て却歩(きゃくほ)す。故に狐戻の名ありとぞ。()く双びなき要害なれども水に乏しく、桔槹(きっこう)*1にて水を汲みし趾山の中ほどにあり。南の方に(ほり)を回らし、往々石垣も遺れり。
また東南の山麓に周18間の沼あり。鶴沼(つるがぬま)という。その上の方に旧城門ありしとて今天守と称す。相伝て、往古安倍貞任これに居り、また宗任これに居るともいう。一説には建長4年(1252年)葦名の臣藤倉伯耆守盛弘という者これを築き、子孫相続いて14代遠江守盛備までここに住すという。
天正18年(1590年)より蒲生氏の臣北川土佐某、慶長4年(1599年)より上杉の臣小国対馬某、同6年(1601年)より蒲生氏の臣岡半兵衛重政、同18年(1613年)より本山豊前某城代としてここに居る。同19年(1614年)下野守忠郷その弟中務大輔忠知に与ふ。忠知幼ければ蒲生五郎兵衛郷春城代たり。
元和元年(1615年)に(こぼ)つ。城付のものなりとて馬鞍・旗竿・鉛子等あり。今津川町の倉に蔵む。

御小屋館跡(おこや やかたあと)

真理より戌(西北西)の方30間計にあり。
高1町余の小山なり。上に東西20間・南北40間計の平あり。
東北は揚川に臨み、西南は山連なる。
大永2年(1522年)吉見左京包廣これを築き、その子兵庫忠親、その子式部忠春まで3代住せしといい伝う。
菜圃(さいほ)となれり。

人物

金上遠江守盛備

その先葦名遠江守盛連が三男藤倉三郎盛義より出という(案ずるに、陸奥国河沼郡坂下組金上村に館跡あり。因て金上を氏とせしなるべし)。代々葦名氏の長臣にて越後の押えとしてこの地に居る。
天正9年(1581年)葦名盛隆三浦介に任ぜられし時、盛備使者として京師に上り遠江守に任せらる。その後も主命を奉じて(しばしば)京師に往来せり。
豊臣家の時上洛して、西国の使者と共に進見し退出せるあとにて、西国の使者は禮にならえり。会津の使者は東鄙(とうひ)のものにて事象武骨に見ゆるなど謂う者あり。秀吉公聞給い、西国の使者は小身なるものにて常に腰を屈むるに(なら)い、会津の使者はその家の大身(たいしん)なれば常に屈みなれざる故、そのさま野鄙(やひ)なるべしと(のたま)いしとぞ。盛備弓矢取て、名あるのみならず旁ら和歌を嗜み風雅の士なり(細川藤孝の贈れる書翰(しょかん)四家合考に見ゆ。その文下に出す)。或年秀吉公
女も鎧きるとこそきけ
という前句を出し「盛備は風雅にすけるものと聞き及びぬ。一句つけよ」と宣いしに、盛備(かしこ)みて
姫ゆりかとも草すりに花ちりて
と申し出たりければ、深く鑑賞ありしという。また、在京の内或人の許にて茶の給仕しける小姓の眉目よきを見て、めこい御兒子(おちご)かなとてほめたるを座中(ざちゅう)興あるごとにして笑いしに、盛備古歌にも花のめこさよとよみたれば、左まで東鄙の(ことば)とも覚えずといいければ人みな辞なかりしとぞ。
天正12年(1584年)盛隆(しい)せられ幼子亀王丸もまたいくほどなく早世しければ、盛備沼沢出雲等と相議(あいぎ)して佐竹喜重の二男義廣を迎えて養君とす(この頃太田三楽の贈れる書翰四家合考にあり。その文下に出す)。同16年(1588年)盛備会津を起て京師に上る。近江国志賀山を過しとき
雪ならばいくたひ袖を拂はまし しくれをいかに志賀の山越
という歌を口號(こうごう)しとぞ。同11月23日洛を出て奥に下る。この時豊臣家より伝馬の朱印を賜わる(その写あれば下に出す)。同17年(1589年)6月5日磨上の軍味方敗績(はいせき)せるを見て、盛備慷慨(こうがい)大方ならず「我葦名累代の家臣にて国恩に浴すること深し。(いやしく)(まのが)るべからず臣命を致すべきときなり」とて(おい)来る伊達の兵をささえて血戦し終に国難に(したが)いけり。
(葦名家記には、この合戦及び盛備討死を6月6日の事とす。家士高峯某が家に、盛備死に臨み白岩権左衛門という郎等を津川に帰し2人の子に贈れる書翰の写あり。その文下に出す。葦名家記は全くこの書翰の趣に符合し、ただ白岩某を白橋某に作れり。今四家合考及び新善光寺過去帳の記す所に従う。盛備墳墓陸奥国耶麻郡川西組大寺村の北にあり。併せ見るべし)。
その子平六郎父の志を継ぎ恢復(かいふく)の功をはかりしに、事ならず流落(りゅうらく)せり。今その詳なること知れざれども、盛備討死の後石田三成等が与えし書翰の写あり。(ちなみ)にその文を下に出す。
珎札披見本懐候厥后従此方可令啓之處倚
不得風便不任心中候抑先年之御一巻相達
之由尤以玖重候御書中之趣紹巴江面之刻
可申届候其邉不被得寸隙之中風雅御心懸
殊勝千萬候連連可申通候於京師相應之子
細承不可有踈意候次白鳥一送給候遠路御
志不浅候猶追ゝ可申述候恐ゝ謹言
百萬返可申談候私古今集之事先年三條亜
相被成御相傳候去年實澄俄被相煩御遠行
候其刻被召寄當流相承之説御息中納言殿
可還送之由御遺戒候依之當年我等中納言
公國卿相傳申候誠家之面目満足候不入雖
申事候別御数奇之事候間如此候巨細申度
候得共近日出陣之子細候間取亂書中不能
詳候事ゝ期來信候
   七月十日     藤孝
   金上兵庫頭殿 御返報

當春者未申承候抑義廣貴國御移以御稼如
此之由承及奇特之迄候春夏間以使可申達
候云ゝ恐ゝ謹言
        三楽齋
   三月七日  道譽
   金上殿

従會津使者金上遠江入道下國之間 於其元宿等并其方領内内人夫傳馬以下入候者申付 可有馳走候也
   十一月廿三日 朱印
   羽柴北庄侍従とのへ
※羽柴北庄:丹羽長重

今六日の暮磨上原え翔着候處 味方敗軍壹人も不残落失候 葦名代々之宿老を始大方政宗へ令降参 討死之者とては富田殿計之由無念之事に存候 依之我等事只今政宗陣中へ翔入討死と存詰候 其元義者必命ヲ全いたし 山ノ内之者へ心を合 盛重公之御行衛をも尋 今一度義兵を揚本望を可達候 尚白岩口上に可申候也
   六月六日   遠江守
       平六との
       岩松との
※政宗:伊達政宗、盛重茂公:葦名義廣

重而申候 此状出候所へ侍壹人來討死之供願候 佐瀬平八家來之由 平八は敵大勢追懸候 盛重公を討取可申處 平八踏止り致討死候内に盛重は會津之城へ御退被成候處 此侍其節不居合 主人平八に後れ候義無念と存 我等討死之供を願候寄特之事ニ候 平八は父河内
(以下文字残缺(ざんけつ)す)
案ずるに、四家合考に天正18年(1590年)葦名義廣会津に還住せん事を石田三成により太閣へ歎訴(たんそ)せしに、義廣葦名の家継し上は平氏代々の一字「盛」某など名乗るべきに、義廣と称する事その謂れなしと内々に三成が云しに依て盛重と改めしとあり。
(葦名家記には初佐竹より来りしとき盛重と称せしよし見ゆれども、古文書等みな義廣としるし義重と署せしものを見ず)
この書簡に盛重とあるは不審、されども後人の偽作とも見えざれば(しばら)くここに載て考證とす。

猶々爰元之様子具雖可申入候 荒外様本右様御両人具申入候而 不能巨細候 猶近々可申入候 以上
雖未申通候如此候 仍今度御親父様不慮之段中々不及是非次第候 乍去被對義廣御忠節之段 無其隠候
一 其表御かなへ太儀に付 一段治部少輔入精被申 則越後への始末共被申越候旨 従彼方御馳走定而御油断有間敷候
一 其許為様子愼成以使者治部少輔被申越候事
一 先御手前へ御用ニも立可申かと鐵炮百丁 鉛・ゑんせる・いわう被遺候 則越後まで船にて越可申候間 参着次第其方へ可相達候
一 義廣へ此等通御取成所仰候 其外何へも以書状可申入候へ共 急申候間被成御意得候て可被下候 渋助左へも別紙雖可申入候 右通奉願候
一 被達上聞候間 定伊達曲事旨可被仰出候間 御本意程有間敷候 少間無緩御かせぎなされ 無異儀様ニ御才覚尤候 治部少輔入精候段 右通日本國神不偽候 定而御手前可為御取亂候へ共 此節候間態飛却被仰付 様子被仰上而可然存候 具承度候 恐惶謹言
  七月朔日        素 休(花押)
              徳 子(花押)
              潜 齋(花押)
      金上平六郎殿 人々御中
追伸入候兵粮等於御用者 早々可被仰上候 於越後可被申付候 以上
※治部少輔:石田三成

尚々令申候 各へ以別紙可申候へ共此等の趣同前に御傳言尤候 於其方中目殿各御入魂候て 御調儀可然由被申候間 可被得其意候事肝要存候以上
追而申候各御退散之衆御兵粮之儀景勝様え被申越候間 定而可被参候 自然於相違者 従治部少輔先五百石可被参由其御心得尤候 委細段者中目殿え被申間 御行之儀景勝様次第ニ可被成候 猶與一郎方へ申し渡候 恐惶謹言
              素 休(花押)
  七月十二日       浄 源(花押)
              徳 子(花押)
      金上平六郎殿 人々御中
舊事雑考に、素休・徳子は石田が歌人なるべしとあり。

追而貴所御為迄に寺内織部佐差下候 何様にも可被仰談候以上
去六日之書状今日廿六日京着 御書中并使者口上一々令得心候 抑今度御親父討死之儀不慮之次第難盡紙面候 併被對義廣御忠節 且京家御奉公且御手柄都鄙無其隠候 然而貴所事去比御親父拙者任口入 對越國御約束候旨無相違 景勝御手前偏御頼之通無餘儀候 義廣御供無之儀は不可成御越都度候 莵角御手前之御計策專一候 公儀御取成并於其伺兵粮米等今日此方差下候鐵炮同玉薬之事 何ケ年も候へ御難儀之中□可相積候間可被心安候 乍去御本意幾程在之間敷候 委曲使者可為演説候間令欠略候 恐々謹言
  七月廿六日     (石田三成 花押)
      金上六郎殿 御返報

旧家

弥一兵衛

この町の者なり。先祖は二平長門宗隆とて、建久4年(1193年)佐原遠江守盛連に従い会津に来り二平地という所に住居せり。
宗隆が7世の孫を熊倉宗光という。下條組新谷村に住し氏を新谷と改む。金上氏の旗下なりしとぞ。
宗光より6世の後、勘解由左衛門政長という者この所に住せしより弥一兵衛まで7世なりという。
火災にかかり古文書を失い、先祖の事跡を詳にせず。

傳次郎 權十郎 仁太郎 臺吉

みな先祖より世々この所い住し船道(ふなたう)という事を勤む。その起は昔暦應の頃(1338年~1342年)、新田の一族越前国杣山城に籠りし時陸奥・出羽の方より多く兵粮を運送せり。乱世の事なれば、舟積荷物の運賃を出さず我意に任せて押通り、居人甚だ苦しめり。因て領主金上等が計にて葦名氏に請て川船通漕の掟条目を定め、民居8人に命じその事を(つかど)らしむ。今の4人は彼等が子孫にて、自他領の差別なく川筋に破船等あれば往てその事を計ること古例に随う。
慶長15年(1610年)3月18日、彼等が家火災に罹り掟条目を始め旧記等残らず焼失し、昔よりの事実しれず。当家封に就いて後も船道ということを勤めしむること旧の如し。



余談。
津川町は津川城が狐戻城と呼ばれているように、狐にまつわる伝承が多く残っています。昔は狐火(鬼火)の目撃例が世界一だった事もあるそうです。狐の嫁入りもその一つで今では町興しにも一役買っています。

蛇足。
磐越西線の津川駅がある所は津川町ではなく角島地区です。津川町に行くには全長約240mの麒麟橋を渡る必要があります。ここからの阿賀野川と麒麟山の眺めは中々だとか。
最終更新:2020年10月19日 22:13
添付ファイル

*1 はねつるべの事