若松




会津郡の東北曠平(こうへい)の地にあり、そのかみ黒川と称す(の条下に詳なり)。
街坊200余屋を比し軒を連ね府城の四面に(めぐ)る。
東西1里2町余(東は天寧寺町の東端より西は材木町の末に至る)。
南北28町余(南は南町午橋通より北は糠塚町の末に至る)。
東奥の一都合なり。

東は滝沢・南青木両組の民居間近くつとひ、西南北は平野にして耶麻・大沼・河沼三郡の村落数十里の外に連なり、田圃(たんぼ)碁の如く敷き、黒川・鶴沼川の長流その土を潤し、地みな膏膄にして重嶺四方に環れり。

相伝う、至徳元年(1384年)芦名直盛城築の時は今の内郭のみにて外には士民雑居し又は寺院の道場なとありしが、蒲生氏就封の後文禄元年(1593年)今の内郭の四方数町に土居を築き(ほり)を環らし外郭とし初て士民の居を分かつ。その法内郭の形勢にしたかひ東西南北に道路と通し両頬に家居を営み諸士の居とし、外郭の四方16門を開て市店に通る郭外もまた郭内の制に准へ縦横に街衢(がいく)を通し列肆を設け新たに一都合をなせり時に、氏郷郷士を()い近江国蒲生郡若松森の名によりて黒川の號を改め若松と称せしより今に至り府下の総称とす。


府城

府城

郭内

※国立公文書館アーカイブより

外郭

この郭は府城の四面を擁し東に小田垣あり、西に米代あり、南に権現下郭あり、北に本丁あり、四方に郭を擁し(めぐ)らし外溝を廻し士庶内外の間を隔つ。
東西16町20間余(東は天寧寺口より、西は融通寺町口に至る)。
南北11町40間余(南は南町口より、北は大町口に至る)。

縦横に通路あり、東西を縦とし南北を横とす。郭の四方16門あり市店に通す。天寧寺町口・徒町口(常に鎖して往来を禁ず)・三日町口・六日町口・甲賀町口・馬場町口・大町口・桂林寺町口・融通寺町口・河原町口・花畑町口・南町口・外讃岐町口(常に鎖して往来を禁ず)・熊野口・小田垣口・寶積寺口(常に鎖して往来を禁ず)これなり。

郭内町名

  • 本丁
    • 本一之丁、本二之丁、本三之丁、本四之丁、五之丁、六之丁
  • 横通
    • 寶積寺(はうしやくし)通、三日町(みつかまち)通、六日町(むいかまち)通、甲賀町(かふかまち)通、大町(おほまち)通、桂林字町(けいりんじまち)通、諏訪(すは)通、融通寺町(ゆつうじまち)
  • 米代
    • 米代一之丁、米代二之丁、米代三之丁、米代四之丁
  • 小田垣
    • 一番丁、二番丁、袋丁
  • 権現下郭
    • 五軒(ごけん)

郭外


外郭の外に在て府城の四面をめぐれり。士屋敷・組屋敷・市(みせ)雑はれども各一区なり。
市廓の地は城北に上町・下町、東に天寧寺町、西に河原町・材木町、南に南町あり(昔は大町・馬場町・新町・後町を四町と称し、南町・河原町・材木町は大町に属し、甲賀町は馬場町に属し、博労町・天寧寺町は新町に属せり。今も郭外の町々にて事あれば常にこの四町の撿斷(けんだん)これを捌くことはこの因ある(ゆえ)なり。
外郭の諸門より街衢(がいく)*1連続して縦横相通し、商売(みせ)をつらね工匠(こうしょう)軒をならぶ。葦名氏の時まで(~天正17年(1589年))は市鄽多く郭内の地に在て士商雑居せり。蒲生氏就封の初(天正18年(1590年)~)市街宅地を改制する志ありしが、軍務に暇なく未(だ)その事に及ばざりしに
 黒かはを 袴にたちて きて見れば
      まちのつまるは ひたの狭さに
という落書あり。氏郷弥志を決して文禄元年(1593年)6月に馬場町より西の町々を郭外に移し甲賀町より東の町々を増広め、毎月の市日を定め町々に市立有て(一八・馬場町、二七・本郷町、三三・三日町、四九・桂林寺町、五十・大町、六六・六日町)、遠近より群集して有無を交易するに便よく家々給し人々足りて今日に至れり。

昿平(こうへい)の地にあれども四方に高山連ねる(ゆえ)暑は晩く寒は早し。大抵大暑の頃より暑気すすみ8月より冷気催し9月四山に雪降り10月中旬より平地に積り6~7尺に至ることあり。11月より寒気烈しく氷雪凝結し道路滑にして行人(げき)*2を着ることを得ず、藁沓(わらぐつ)を踏て通行す。牛馬轎輿(きょうよ)の往来途絶え雪車(そり)を以て諸物を運送す。簷下(のきした)の氷条大なる者(たるき)*3の如く下垂して地に至る。家々の戸牖(こゆう)新薦(あらこも)をかけて風寒を防ぐ。年の寒暖により遅速あれども大様春分の頃より宿雪(やや)消し梅花(ようや)く綻び、榖雨*4の頃を花候とす。

習俗は葦名・蒲生・加藤家士の子孫残れる遺風にや書を読み武器を習う者往々にあり。近頃より7歳以上より15歳までの兒童を町々に会集して、個人の嘉言善行を講し身を慎み威儀を正うする事を教ふ。
昔は婚姻後始て舅家にゆく時水を灌くことあり。この戯に因て(しばしば)闘争に及びし(ゆえ)萬治2年(1659年)に禁じて今はなし。
近隣の者死すれば一日店を閉て商売せず。2、3日の間は営作の事をなさす。
往還の旅人病に罹る者をば留置て医療を加え平癒して帰国せしむ。
主人遠方にゆき兒女家を守り、或は鰥寡孤獨(かんかこどく)の類は五人組にて冬月道路(さらに)屋上の雪を拂う。

正月10日大町の初市なり。大晦日より大町の南に春日明神・北に住吉明神の假屋を構置き、10日の朝白米5升を方器2に盛り祈年の祭りあり。その後米引とて白米5升を俵に入れ、一人翁の面を蒙り古圑を携え荷杖を衝き俵を背負い検断(けんだん)*5倉田という者の屋上に(のぼ)り俵を街上に投す。総町の若者大勢待受け両方に分れ力を出して引(き)争う。東南の方勝ばその年の米価貴く、西勝てば米価安しといい伝う。また方器の米を紙に包み屋上に置く。初稲買とて参詣の者これを求て家に帰る。総町の米穀を売買する者倉田が家に集り諸穀の価値を定む。この日遠近より群集して諸物を商うこの市祭は、至徳元年(1384年)葦名直盛府城を築きし初より今にその事絶えずという。
14日家々にて(みづ)木という木の枝(この木を若木と称す)に団子をさし座中に飾り諸神に供し豊年を祈る。20日の朝に取をさむ。この団子を煎たる湯を取おき、果園にゆき刃物にて梨柿等の諸木にすこしく疵付この湯少許(しょうきょ)を灌げば実を結ぶこと多しという。この夜「かせとり」という者来る。簑笠を着(け)面を覆い宝貨農具の類を(えが)き人家に持ちゆき門戸を叩けば、内より米銭を持出与て水を灌ぐ(農家にては「かせとり」に水を灌げばその年の養水乏からずという)。「かせとり」に出る者はその年疾病なしという。葦名亀王丸2歳の時、府下に「かせとり」を出せしことありといい伝う。
この月の中、穢多福吉蠶種數(ふくよしこたねかぞひ)をいう事を称へ家々に来て歳首を賀す。→福吉の詞・蚕種数の詞
近村より田植躍(たうえおどり)早乙女(さおとめ)ともいう)とて男子女籹に出立ち、太鼓を打ち農歌をうたひ来る。5日頃より家々にて親戚を合し宴楽す。これを名けて節合という。
2月8日竹器の目多きものを懸れは疫神家に入らすとて、竿上に竹籠をかけ高く掲く。
15日穀屋酒屋唐にて「つぼ団子」というものを製す。地上の諸穀を集置きこの日団子を作り食す。
彼岸7日の間滝沢・高久・南青木組より獅子踊いつる。雌獅子雄獅子大夫獅子の3頭あり。笛を吹き太鼓を打ち剣舞弓くぐり等の芸あり。
5月5日菱巻というものを製す。笹の葉に糯米を包み形三稜にして菱角に似たり、因て名く。
7月朔日百堂参とて諸寺諸堂に参詣す。大町東明寺閻魔堂に近村の老父集り念佛太鼓を打つ。先廻向とて念佛の功徳を称し鉦鼓を合奏す。また新たに憂にあたる者は今日より河沼郡冬木沢村八葉寺に参詣す。今夜より兒童多く小挑燈(ちょうちん)を燃し街上を群行す。盆中店を閉て家業をととめ親戚共に祖先の墓所に参て挑燈を燃やし門戸に燈籠を懸く。遊観する者多し。
26日より28日まで郭内諏訪神社の祭禮あり。この神は総町の生土神なる(ゆえ)社内に至て祭式の設に供給し老若参詣して神楽を奏し家毎に燈籠をかけ近邊の町々にて親戚を饗す。
8月5日同社の授光(しゆくわう)祭なり(諏訪神社の条下と併見るべし)。府下町々を二分にし神輿を供奉して郭内外を巡行す。町毎に萬度の秡形に綵剪の花柳を飾り屋臺に故事の人物を作り兒女の華飾を争い糸竹の新曲を競う。人数凡2000余人、見物の男女遠近より群集す。明日再び神殿にて詣で神酒を拝飲しその残りの街衢を廻る。
14日より16日まで鳥居町伊舎須弥神社の祭禮なり。社前に商人多く集り十五夜明月に供する。諸菓をひさく上町にて家毎に燈籠を懸け親戚を請す。
10月10日菜年越(なのとしこし)とて蔓・菁・蘿葡を食はず。
12月朔日「川びたり餅」を製し節分の夜儺豆を焼く(共に会津郡の部に詳なり)。


郭外町名

  • 上町
    • (おほ)町、馬場(ばば)町、一之町、二之町、三之町、四之町、五之町、甲賀(かふか)町、大工(だいく)町、六日(むいか)町、博労(ばくらう)町、鳥居(とりい)町、(そま)丁、(つきのき)町、堅三日(たつみつか)町、本郷(ほんがう)町、中六日(なかむいか)町、野伏(のぶし)町、中六日町横(なかむいかまちよこ)丁、堀江(ほりえ)丁、横三日(よこみつか)町、行人(ぎやうにん)町、南横(みなみよこ)町、屋敷(やしき)町、愛宕(あたご)町、阿彌陀(あみだ)町、(だいの)町、(てら)町、東名子屋(ひがしなごや)町、(くみ)
  • 下町
    • (おとな)町、北小路(きたこうち)町、七日(なぬか)町、紺屋(こんや)町、(はらの)町、道場小路(だうぢやうごうぢ)桂林寺(けいりんじ)町、後分(ごのぶん)町、諏訪四谷(すはよつや)赤井(あかい)丁、當麻(たいま)丁、大和(やまと)町、融通寺(ゆつうじ)町、西名子屋(にしなごや)町、當麻中(たいまなか)町、針屋(はりや)町、善久(ぜんきう)
  • 天寧寺町
  • 徒町
    • 上長(かみなが)丁、下長(しもなが)丁、藥園前(やくえんまへ)通、(しん)丁、一乗寺前(いちじやうじまへ)通、(なか)丁、浄光寺(じやうくわうじ)通、隍端(ほりばた)通、下隍端(しもほりばた)六軒(ろくけん)丁、東大工(ひがしだいく)丁、浄光寺前(じやうくわうじまへ)通、法林寺前(ほふりんじまへ)通、(よこ)通、願成就寺前(ぐわんじやうじゆじまへ)通、清水(しみづ)丁、高井(たかい)
  • 千石町
    • 一番丁、二番丁、中間(ちゆうげん)町、専福寺脇片原丁(せんぶくじわきかたはらちやう)高井丁(たかいちやう)通、専福寺前(せんぶくじまへ)通、藥師前(やくしまへ)通、鷹匠(たかじやう)町、餌指(えさし)
  • 外小田垣
    • 隍端(ほりばた)一番丁、同二番丁
  • 小田町
    • (くみ)町、(うまや)町、長柄(ながえ)町、(よこ)通、長柄(ながえ)町、小田(おだ)町、宗英寺河原(そうえいじかはら)通、極樂寺前(ごくらくじまへ)通、河原新(かはらしん)
  • 南町
    • (なか)町、花畑(はなばたけ)通、晒屋(さらしや)町、十五軒(じうごけん)町、河原新(かはらしん)丁、中横(なかよこ)町、常慶寺(じやうけいじ)町、十軒(じつけん)丁、西横(にしよこ)町、(たつ)町、湯川端(ゆがはばた)丁、二十軒(にじつけん)町、年貢(ねんぐ)町、若葉(わかば)
  • 象眼町
    • (ゆみ)丁、鐵炮(てつぱう)町、稲荷(いなり)
  • 漆原組町
    • 一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、五番丁、六番丁、(たつ)町通
  • 花畑
    • (おほ)通、花畑口(はなばたけくち)通、隍端(ほりばた)通、西(にし)
  • 花畑組町
    • 河原(かはら)通、(うら)通、一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、五番丁、片頬(かたがは)丁、石塚向河原(いしづかむかひかはら)丁、石塚向(いしづかむかひ)
  • 石塚
    • 石塚六軒(いしづかろくけん)
  • 新町
    • 湯川端(ゆかはばた)通、(よこ)通、一番丁、二番丁、三番丁、(よこ)通、觀音裏(くわんおんうら)通、(しん)
  • 河原町
  • 材木町
  • 河原町新丁
  • 片原町
  • 柳原組町
    • 一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、(よこ)通、柳原(やなぎはら)
  • 半兵衛町
    • 烏橋(からすばし)通、水主(かこ)丁、横丁(よこちやう)通、新丁(しんちやう)通、(しん)丁、(よこ)丁、(ふくろ)丁、中河原(なかがはら)
  • 半兵衛町組町
    • 一番丁、二番丁、三番丁、四番丁、五番丁、(よこ)
  • 手明町
    • 極樂寺北(ごくらくじきた)
  • 滝沢町
    • 妙法寺前(めうほふじまへ)通、八十人町長(はちじうにんまちなが)丁、同(なか)丁、同一番丁、同二番丁、同三番丁、同四番丁
  • 持筒町
  • 四軒丁
    • 同心(どうしん)町、滝沢(たきざは)町、蠶養口(こがひぐち)中村(なかむら)
  • 千軒道
    • 紫雲寺前(しうんじまへ)通、木戸千軒(きどせんげん)
  • 糠塚町
    • (とほり)丁、松円寺前(しようえんじまへ)通、(うら)町、外裏(そとうら)町、(うら)町、木椎(さいづち)町、新田(しんでん)


町分(まちぶん)

※国立公文書館デジタルアーカイブより

府下の四方に東西黒川と称し数箇の年貢地あり。その地分散して居民多くは府下の四方に続き、或いは雑居し完く1区をなるものなし。因て府下に連なるものはここに付してこれを註し、ここにもまたその大較(たいこう)を挙く。煩重(はんちょう)に似たりといえども見るに便あらんことを欲する(ゆえ)なり。
田圃(たんぼ)少なく諸物を(ひさ)いで産業とす。さればその民村里の俗にも異にして肆鄽(してん)の習わし多きに居れり。また藺草(いぐさ)を植え席に織て生計を資く、俗にこれを融通寺表と称す。西黒川より多く出せり。
東黒川に属するもの5区、西黒川に属するもの4区。総てこれを町分(肆店の条下にその分の地なり・某分の地雑れりと註するものこれなり)と称す。
代官を置いて支配せしむ。本郷中荒井組中荒井郡役所に隷す。

町分区名





余談の余談。
福島県立博物館の方『陸奥之内会津城絵図(会津若松郭内外絵図)』をデジタルアーカイブにして公開してもらえないでしょうか?