会津郡


※国立公文書館デジタルアーカイブ「新編会津風土記45」より会津郡地理之図

続日本紀 元正天皇 養老二年(718年)五月
『常陸国の石城(いわき)標葉(しねは)行方(なめがた)宇太(うた)白理(はくり)菊田(きくた)六郷を割ち、石城国を置く。白河(しらかわ)石背(いわせ)会津(あいづ)安積(あさか)信夫(しのぶ)五郡を割て、石背国を置く。常陸国多阿郡の郷二百一十(えん)を割て名て菊田郡と曰。石背国に属す(えん)
とある。この郡の国史に見えたる初なり。
これより先(すで)にこの郡を建て相津の地に置し郡なる(ゆえ)名け常陸国に属し、石背国を置れし時割て石背国に属し、石背国廃して後陸奥(むつ)国に属せしにや詳ならず*1

耶麻・大沼・河沼この郡より分かれし後も三郡に比するに猶大なる故にや俗に大会津郡と称す*2。寛永の頃(1624年~1645年)より会津郡の称を失い誤て大沼郡と称す。中にも小出・弥五島・松川・楢原・田島・河島・高野・熨斗戸・古町・和田・黒谷・大塩組の地は郡名を失う。寛文中(1661年~1673年)肥後守正之この誤を正し始て古名に復せり。

東は岩瀬郡に交わり二岐嶽(ふたまたがたけ)小嶽山(こたけやま)を界とし下野国那須郡・塩屋郡に隣り、小嶽山・大峠(おほとおげ)山王峠(さんわうとおげ)を界とす。
西は上野国利根郡に接し藤原峠(ふちはらとおげ)を界とし越後国魚沼郡に並び藤原峠・枝折峠(しちりとおげ)大鳥嶽(おおとりがたけ)朝草山(あさくさやま)と界とす。
南は下野国都賀郡に隣り帝釈山(たいしゃくやま)長田代山(ながたしろやま)赤安山(あかやすやま)を界とし上野国利根郡に隣り赤安山・小瀬峠(おぜとおげ)と界とす。
北は大沼郡に隣り畳子沢(たたこさわ)松坂峠(まつさかとおげ)船鼻山(ふねがはなやま)関山峠(せきやまとおげ)を界とす。
また辰巳(南東)の方は下野国都賀郡に並び荒貝嶽(あらかいがたけ)枯木峠(かれきとおげ)を界とす。
未申(南西)の方は上野国利根郡に接す至佛山(しふつやま)を界とす。
戌亥(北西)の方は越後国蒲原郡に隣り赤芝山(あかしはやま)を界とす。
丑寅(北東)の方は屈曲して安積・大沼2郡に挿入し府城その中にあり。東は安積郡に交わり久我山(くかやま)黒森峠(くろもりとおげ)布引山(ぬのひきやま)を界とす。西は大沼郡に連なり藤倉山を界とす。また丑寅の方は安積・耶麻2郡に績ぎ猪苗代湖(いなはしろこ)に至る。

東西22里余(東は岩瀬郡の界五輪峯より・西は越後国魚沼郡の界朝草峠に至る)。
南北16里余(南は上野国利根郡の界小瀬峠より・北は大沼郡の界松坂峠に至る)。

この郡は四方に高山連なり平地少なく民居大抵山間に住す。
その田は中の下その畠は下の上なり。

暑は(おそ)く寒は早くして甚だ強し。大凡(おおよそ)10月より雪積もり3月まで消えず。冬月疾風あれば吹雪大いに起こり平野昿野(こうや)にて迷仆する者往々あり。是を吹倒(ふきたふれ)とて甚だ恐れ風雪の日は門戸を出る者稀なり。また雪車(そり)を以って牛馬に代わって諸物を運転す。

滝沢・高久・中荒井・橋爪・南青木の組々は平衍(へいえん)にして田園多く鶴沼黒川の流れその土を潤す。共に府城の四面を環れり。
気候全く府下に(ひと)し。芒種(6月6日頃)の前後に苗を植え寒露(10月8日頃)の頃に晩稲(おくて)を刈る。
原組は山中にて湖浜に臨み雪深く寒気(やや)強し。
小出・弥五島・松川・楢原・高野・田島・河島・熨斗戸の組々は山中なる故寒暖遅速有て花候農務上の諸組より(やや)遅し。
和泉田・古町・黒谷・大塩4組は本郡の西偏にて尤も深山幽谷なり。

9月中旬より雪降り1丈5~6尺積もり4月上旬に漸く消え梅・桜・桃同時に花咲く。
春耕は平衍(へいえん)の地よりは20日計遅き処あれども秋収は大抵同時なり。

この郡の習俗は村中にて家屋を営めば、木を伐り縄を綯て営作を助け、屋上に修めるには芦萱を(おく)り、農月には互いに力を通じ、時候に遅るることなからしめ、疾病あれば親隣代って田を打ち苗を取る。

婚姻の明日新婦始て茶をたて舅姑に進む。是を舅姑に事えるの初とす。昔は婿始て舅の家に至る時水を灌くことあり。今は絶てなし。
嫁娶の後3年の間は媒妁に茶と餅とを(おく)(り)て歳首を賀す。産婦ある時兒を洗う者にも3年の間餅を(おく)る。
葬は土葬して墓を築く。正之入国(1643年)の頃までは小出・弥五島・松川・楢原・高野・田島・河島・熨斗戸八組のみ火葬せず。その余は火化多くして土葬少なくなりしに、正之(しばしば)火化の不幸に近きことを諭さしめてこの俗漸く改めり。近隣に死人あれば3日髪と衣とを洗わず、小兒死すれば同年の兒童ある家にて耳塞餅(みみふさぎもち)とて餅を製し兒童の耳を覆いその後水中に流す。

農務の始は正月11日を用いる所多し。この日馬把(うまくは)に付ける縄をない初めその後農器を修理す。この月初めて山に入り木を伐るに紙に白米昆布を包み木の枝に付けて山神を祭る。
農月種子蒔の時余米(よまい)を焼米とし田神に供す。鳥口(とりのくち)とてこの米少許を苗代の水口に散すれば諸鳥種子を損せずという。
田植()(え)て吉日を選び田神を祭る。酒少許を馬把に灌ぎ酒食をそなへ相集まりて宴飲す是を早苗破(さなふり)と云う。
秋月早稲(わせ)場に登る時また焼米を作って田神に供う。
収穫の後刈上餅(かりあげもち)とて餅を製して田神を祭り、農業を助ける者を請し、奴婢を饗す。

10月吉辰を選び蜡祭の遺意にならい、代官東黒川蚕養国神社・南青木組御山村八幡宮・高久組高久村八幡宮を祭り稲荷神を配し祭る。農事に功有りて余沢(よたく)人に及ぶ者は皆享に興る*3
()えて代官所にて酒饌(しゅせん)を倶え70以上の農民を饗す。郷頭一人を主人とし90以上を上賓とし(90以上の者なければ村役人を勤めし者の70以上なるを用ゆ)、その次を次賓とし、その次は衆賓とす。主人禮服(らいふく)を着て賓を門外へ迎え帰る時門外に造る。その後安否を問う賓又来て門外に謝す。

旱歳には高山深淵にゆき、鐘鼓を鳴らし高聲に雨を乞う。大風あれば村々の神社に参籠(さんろう)して晴を祈り、又風神雷神を祭る。田圃に虫付は虫造とて紙と小旗を作り、竹竿に付けて人多く集まり村々の界を送出し、小旗を水中に投ず。

二百十日には年毎に大風田圃を傷うとて前夜より村々にて神社に参籠す。
正月14日を望の年越とも女の年取ともいう。昔は15日なりしに蒲生秀行の時より改めてこの日を用ゆという。この日若木の枝に団子を飾り諸神に供し年穀の豊饌を祈る。この夜かぜとり来る(共に府下に詳なり)。
15日早朝より諸鳥を追う。この日鳥を追えば秋稼を損せずという。又雪上に田圃の形を作り諸穀の稈を植ゆ。この日風あれば諸木多く実を結ぶといい伝う。この月より福よし田植躍(たうえおどり)村々に廻る(共に府下に詳なり)。
2月8日竹器の目ある者を竿上に懸け、11日つぼ団子を製す(共に府下に詳なり)。
7月7日衣服を竹竿にかけ七夕に借すという。兒童大豆の圃中を奔走しその後水邊に行って遊泳す。是を眠流(ねむたながし)という。
10月10日虫供養とて農月殺せし諸虫の為に佛名を唱う。又この日を菜年越(なのとしこし)という。(つる)(かぶ)(つた)(ふく)を食わず。
12月朔日餅を製して水神を祭れば水難に逢わずという。是を川びたり餅と称う。
節分の夜儺豆(なまめ)を拾い月数に像り、灰上に並べ熳火に焼き白黒を見て一歳の雨晴れを占う。白者は晴れ多く黒者は雨多しといい伝う。

郷名

倭名鈔に出る所

  • 伴伴
  • 多具(たく)
  • 長江(なかえ)
    • 今荘名に残れり
  • 倉精
  • 菱方(ひしかた)
    • 安積郡福良組を菱潟荘と称す。因て菱方は安積郡の郷なるを誤てこの郡に出せるならんという説あり。もしくは昔はこの郡の境内にて後転態して安積郡となりしにや。寛元4年(1246年)満月という僧福良組伏龍寺の縁起を書して浅香郡菱縣荘といえり。この頃既に安積郡に属す。
  • 大島(おほしま)
    • 橋爪組の村名に残れり
  • 屋代(やしろ)
  • 大江(おほえ)
    • 今河沼郡牛沢組に大江村あり。河沼郡はもとこの郡の内なり。
  • 餘戸

今称する所 10

  • 黒川(くろかは)
    • この郷の諸村多く市廛となりし(ゆえ)今わずかに残れりという。
  • 湯原(ゆのはら)
  • 九九布(くくふ)
  • 楢原(ならはら)
  • 田島(たしま)
    • 高野組下塩沢村鷲神社永享4年(1432年)の鰐口に『奥州長江荘田島郷』と彫付けあり。
  • 針生(はりふ)
  • 関本(せきもと)
  • 立岩(たていは)
    • 熨斗戸組森戸村の西に立岩とて高15丈計の岩あり。郷名これに因れりという。また湯原以下を俗に南山(みなみのやま)七郷という。
  • 伊南(いな)
  • 伊北(いほく)
    • 和泉田組梁取村成法寺の佛像に『奥州伊北郷梁取村成法寺應長元年七月廿八日』と書付あり(應長元年:1311年)。

荘名

  • 門田(もんでん)
    • 後光巌院貞治の頃(1362年~1368年)の頃より門田ということ見ゆ(平井次郎三郎明秀が府下寶相寺の寄付状等に)。荘名なりや否ならず。府下高巖寺所蔵葦名盛舜大永2年(1522年)の寄付状に『門田荘東黒川』とあり。
  • 長江(なかえ)
    • 長江はもと郷名なり。後に荘となりしと見えて。後花園院永享4年(1432年)に長江荘と記せし鰐口あり(高野組下塩沢村鷲神社にあり)。また寛文の頃(1661年~1673年)までは熨斗戸組木賊村熊野宮にも長江荘と彫付けたる鰐口ありしという。

組名


山川

布引山(ぬのびきやま)

南青木組二幣地村の東南にあり。頂まで1里余、延亘すること9里計。
東北は安積郡に属す。
黒川・原川の水源にて鶴沼川またその南麓を廻れり。
山深く木立茂り山竹多し。村民、筍を採る者往々帰路を失う(ゆえ)所々に火を焼置て山に入る。
この山、猪苗代湖の北の諸村より望めば、東西に長く布を引くが如き佳景(かけい)なり。
本郡・安積郡数ヶ村入逢(にゅうあい)の山なり。
兼載の歌に『三年へてをりをり見たる布引を今日をたちそめていつか来て見む』

二岐嶽(ふたまたがたけ)

松川組水門村の東にあり。頂まで27町計。2峯あり。
東は岩瀬郡に属し、北は弥五島組芦原村に属す。
山北に白川領岩瀬郡湯本村に越る路あり。

大戸嶽(おほとがたけ)

南青木組闇川村の南にあり。高70丈余。
布引山の西に並び、南は小出組・弥五島組諸村に属す。
雑樹茂れり。
山頂に蟻戸渡(ありのとわたり)という処あり。極めて嶮絶(けんぜつ)なり。
ざらめきという処より雲母土を産す。光彩すくなし。

小野嶽(おのがたけ)

小出組小野村の西北にあり。頂まで1里計。大戸嶽に西に並べり。
小出組・楢原組・数村に亘り松・楓多し。
昔、足借山(あしがらやま)と称せし者是なり絶頂を堂平(だうだひら)と称す。
小野明神の鎮座ありし処とて社跡(なお)存せり。また、昔この山中に住居せし人ありしにや。長者屋敷牛道なと称ふる旧跡残れり(小出組小野村の条下に詳なり)。
今は木立深くしてたやすく登ること能はず。只、小出組沼尾村より少しく通路あり。

船鼻山(ふねがはなやま)

高野組高野村の西にあり。登ること1里計、形船を覆すが如し。
西は金井沢村に属し、北は大沼郡に属す。
山北に船鼻峠とて大沼郡野尻組大芦村に行く路あり。

荒貝嶽(あらかひがたけ)

熨斗戸組岩下村の東南にあり。頂まで20町計。
北は本郡河島組滝原村に属し、東は下野国塩屋郡河島組芹沢村属し、太郎嶽という峯を以て界とす。

田代山(たしろやま)

熨斗戸組木賊村の東南にあり。登ること2里計、山中に広き原あり。その中に田畝の遺形ありという。
東は水引村に属し、東南は下野国都賀郡に属し峯を界とす。

帝釈山(たいしゃくやま)

木賊村の南にあり。登ること2里計。
西は古町組檜枝岐村に属し、南は下野国都賀郡に属し峯を界とす。
頂に大なる岩あり。土人、駒神堂権現と称し年々参詣して隕霜五稼(ごか)を害すること無ならんことを祇誓す。
山中に「ツカ」黒檜「サハラ」の木多し。

駒嶽(こまがたけ)

古町組檜枝岐村の西北にあり。頂まで1里余。5峯あり。
南北に綿延(めんえん)することを得ず、檜枝岐・大沼・小立岩3ヶ所に属す。
黒檜・姫松・雑木茂り、夏秋の間残雪駒の形をなす処あり。故にこの名あり。

朝日山(あさひやま)

黒谷組黒谷村の南にあり。頂まで1里24町余。
駒岳の北に続く。
半腹より上は山石多く草木生せず。四時(しじ)雪消えず。
伊北郷の諸村は深山中に住する(ゆえ)、晏て後始て日を見る。
只、この山のみ詰朝(きっちょう)に日を見る故に名とす。
黒谷・石伏・楢戸・田子倉4ヶ村に属す。

朝草山(あさくさやま)(鬼面山)

鬼面山(おにがつらやま)ともいう。黒谷組田子倉村の西にあり。頂まで2里余。
伊北郷第一の高山にて躋攀(せいはん)すべからず。
四時雪を戴き、半山は草木地に(めぐ)れり。
「ノコギリハ」という処あり。峯尖鋸歯(きょし)の如く、その勢恐るべし。
遠方より望めば極めて奇観(きかん)なり。
田子倉・叶津両村に属す。西は越後国魚沼郡に属し峯を界とす。
山中に2つの沼あり。1つは強清水沼(こわしみづぬま)という。周160間。1つは小三本沼(こさんほぬま)という。周280間。
田子倉村よりこの山の南の腰を超えて魚沼郡大白川新田村に出るを六十里越という。叶津村より北の腰を越えて蒲原郡芦平村に出るを八十里越という。共に難所にて牛馬の往来なし。

白峰(しらふ)

檜枝岐村の西にあり。
寛永の頃(1624年~1645年)より銀坑を開き、出ること多く、諸国より人多く集まり小屋千軒に及びしに、寶永3年(1706年)に廃す。その後坑を開て鉛をとりしが、数年ならずしてまた廃す。→白峯銀山
黒檜松樹茂り黄連を産す(加藤氏の時、寛永19年越後国魚沼郡高田領と境を争い官に訴えしに、正保3年に大鳥嶽より南は小瀬沼只見川の中央を以って境とし、上野国利根郡及び魚沼郡の支配の地となる。この山及び枝折峠・藤原峠・至佛山・小瀬峠この地にあり)

枝折峠(しちりとおげ)

白峰の西にあり。魚沼郡と峯と界とす。

藤原峠(ふぢはらとおげ)

枝折峠の南にあり、利根郡魚沼郡と峯を界とす。

至佛山(しぶつやま)

藤原峠の南にあり。山勢けはしく削り成すが如し。四時雪あり。
利根郡と峯を界とす。

小瀬峠

小瀬

黒川(湯川)

俗に湯川という。
布引山より南青木組二幣地村に流れ出て、湯本村を経て府城の南より西を廻り、高久組に入り平沢村の西にて応湖川来り注ぎ、界沢村より河沼郡笈川組に入り。
湯本村温泉この川に入る(ゆえ)湯川の名あり。
湯本村より水上は断崖絶壁の間を流れ、水清く奇石にして別境に入るが如し。紅葉の事遊観するに宜し。
この川、元は府城の北を流る。應永26年(1419年)に水道変じて今の地に遷る。
郭内車川その故路なりとぞ。
広15間計、大抵南より北に流る。
この川に産する魚は(やまへ)杜父魚(かじか)(はえ)、「ボヤ」、蜂魚(はちうお)、また石蝦蟆(いしかへる)多し。

鶴沼川(つるぬまかわ)(大川)

俗に大川という。
水源1つあり。1流は岩瀬郡鶴沼より流れ出てこの郡に入り、布引山の南を経て弥五島組に入る。(もう)1流は河島組糸沢村山王峠より出て荒貝川に合し、中荒井村より田島組に入り丹藤村の西にて檜沢村と合し、長野村より松川・楢原両組に入り、塔岪(たうのへつり)を経て小出組に入り、小塩村より南青木組に入り、大沼郡の東側を流れ飯寺村より高久・中荒井両組に入り、中荒井組真渡村より河沼郡坂下組にはいる。
この川昔は岩崎(大沼郡橋爪組本郷村)の北麓より西に流れ、橋爪村(大沼郡橋爪組)の東に至り、転じて北に流れ、大島村(本郷橋爪組)・安田村(大沼郡高田組)の間を流れ、河沼郡に入る。因って南関山峠(せきやまとおげ)より北河沼郡の境までこの川を以って会津・大沼二郡の界とせしに、天文5年(1536年)6月28日の洪水(この時白髭の老人屋棟に騎りて流れ去りし(ゆえ)白髭洪水と云う。今に至るまで称して洪水の極とす)に岩崎の麓より決して北に流れて今の水道となり、故道は塞て陸となり、寛永の初め田圃を開く。因って今は岩崎より下流は大沼郡の界にあらず。
この川、広平の地を流れ処々に井出をせき田地に灌ぐ。然れども水勢つよく洪水の時往々田圃を害する故、両岸に土堤を築き多く柳を栽て水害に備う。
河原広く7、8町の間平砂にして水道常なし。
岩魚(いはな)(やまへ)杜父魚(かじか)(はえ)(ます)を産す。年魚(あゆ)、「サケ」上がる。
大抵南より北に流る。

只見川(ただみかわ)

水源は小瀬沼より出て、古町組檜枝岐村の山中を流るること10里計、只見村の東にて檜枝岐川と合し、叶津村の北にて叶津川流れ入り、大塩組に入り蒲生村の南にて蒲生川来注ぎ、塩沢村にて塩沢川・畳子沢(たたこさわ)流れ入り、大沼郡大塩組に入る。
大抵南より北に流る。
広70間計。
産最中は岩魚(いはな)(やまへ)(はえ)杜父魚(かじか)(ます)

檜枝岐川(ひのえまたかわ)

檜枝岐村の山中より流れ出て落合村の東にて立岩川来注ぎ、宮床村より和泉田組に入り二軒在家村の東にて塩岐川(しおのまたかわ)流れ入り、小林村のにて布沢川(ふさはかわ)来注ぎ、黒谷川に入り黒谷村の東にて黒谷川流れ入り、黒沢村の西南にて只見川と合す。
大抵南より北に流る。
広60間。
産魚只見川に同じ。

※藤原峠が現在の地名に見つからない

原野

小瀬平

小瀬

水利

黒川堰(くろかはせき)

南青木組院内村の南にて黒川を引き、南青木組及び東黒川・高久組諸村の田地に灌ぎ、凡76町余の養水となる。

門田堰(もんてんせき)

南青木組上雨屋村の西にて鶴沼川を引き、南青木組諸村及び東西黒川の田地に灌ぎ、凡203町余の養水となる。

思鑿堰(おもひほりせき)

大沼郡橋爪組の東にて鶴沼川を引き、橋爪・中荒井両村の田地に灌ぎ、凡479町余の養水となる。


補足:郷名について

『倭名抄*4に出る所 伴伴 多具(たく) 長江(ながえ)(今荘名に残れり) 倉精』と記述があるのですが、つまり長江という名以外今は残っていないという事です。国立公文書館で公開されている新編会津風土記25のP.12を見て頂ければ分かりやすいです。ちなみに大日本地名辞典(下巻)によれば、「伴々」は伴部(ともべ)郷、「多具(たく)」 は高久を指すとの事です。残念ながら「倉精」はよくわかりませんでした。



添付ファイル