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町分

陸奥国 若松 町分(まちふん) (蚕養宮村附)
大日本地誌大系第30巻 188コマ目
※国立公文書館『新編会津風土記24』より

府下の四方に東西黒川と称し数箇の年貢地あり。その地分散して居民多くは府下の四方に続き、或いは雑居し完く1区をなるものなし。因て府下に連なるものはここに付してこれを註し、ここにもまたその大較(たいこう)を挙く。煩重(はんちょう)に似たりといえども見るに便あらんことを欲する(ゆえ)なり。
田圃(たんぼ)少なく諸物を(ひさ)いで産業とす。さればその民村里の俗にも異にして肆鄽(してん)の習わし多きに居れり。また藺草(いぐさ)を植え席に織て生計を資く、俗にこれを融通寺表と称す。西黒川より多く出せり。

東黒川に属するもの5区、西黒川に属するもの4区。
総てこれを町分(肆店の条下にその分の地なり・某分の地雑れりと註するものこれなり)と称す。
代官を置いて支配せしむ。本郷中荒井組中荒井郡役所に隷す。

東黒川

西黒川

付録


参照・補足

(五)町分
若松の周囲には東黒川と西黒川といわれる年貢地があった。「寛永二十年(1643)故肥後守(保科正之)拝領之本高」の大沼郡の内に達磨分・石堂分・赤岡分・小界宮分・八角分がみえている。「寛文年中会津町村細見調」(初瀬川家蔵)には次のような町分が記されている。
東黒川
 上河原(かみかわら)分 八角(やすみ)分 蚕養宮(こがいみや)村 千石(せんごく)町分 南町分 材木町分 天寧寺町分
西黒川
 石堂(いしどう)分 達磨(だるま)分 小黒川(こぐろがわ)
これらの町分は城下町の周囲にあるために年貢地ではあったが、民家が一ヶ所に集まっておらず、町屋に続いて家を持ち、あるいは町屋と雑居しており、普通の村落とは風俗も異なっていた。町分として取り扱われるのは、このためであるという。
町分は普通の村と同じく、肝煎・地首・小走などの村役人がおかれ、その上には郷頭がおかれていた。ただし、郷頭は町検断が兼任する場合が多かった。
(例えば寛文年間の東黒川の郷頭は新町検断新田外記が兼任していた)※寛文年間:1661年~1673年
また、町分の支配は「郡奉行が御用を承る」とあるから、町奉行の支配ではなく一般の村と同じく郡奉行の支配下にあったのである。
ただし、町分の人々の生活は、耕作の暇に商売をしたり、工職または御扶持奉公勤めの者も暇を見て耕作をしていた者があった。このように風俗は一定せず一般村落とは異なっていた(東黒川分覚書)。
また、隣村の百姓でこの地に出作する者も多かったという。
「町分」の呼称は、いつから使われたか明らかでないが、寛文年間に前述のように新町検断が東黒川分の郷頭を兼ねているから、それ以前であることは確実である。

行政図(明治6年若松市街区画)

外部リンク等

最終更新:2026年01月11日 00:54