巻五 本紀第五つづき


  開元二十二年(734)正月己巳、東都にいった。
  二月壬寅、秦州で地震があり、圧死者の家一年間、三人の場合は三年間免税とした。
  四月甲辰、死罪以下を一等降した。甲寅、北庭都護の劉渙が反乱を計画し、処刑された。
  五月戊子、裴耀卿が侍中となり、張九齢が中書令となり、黄門侍郎の李林甫が礼部尚書・同中書門下三品となった。この日、大風で木が抜けた。
  六月壬辰、幽州節度使の張守珪が捕らえた奚・契丹を献上した。
  七月己巳、薛王李業が薨去した。
  十一月甲戌、関内・河南の八等以下の戸田で百畝にもならない者に今年の租を免除した。
  十二月戊子朔、日食があった。乙巳、張守珪が契丹と戦い、これを破り、その王の屈烈を殺した。

  開元二十三年(735)正月乙亥、藉田を耕した。大赦した。侍老で百歳以上に上州刺史を、九十歳以上に中州刺史を、八十歳以上に上州司馬を版授した。陪位の官に勲・爵を賜った。征防兵で父母が年七十歳の者は帰還させた。民間に三日の宴会を賜った。
  八月戊子、一人者、寡婦、自立して生活できない者に今年の税米を免除した。
  十月戊申、突騎施(テュルゲシュ)が辺境を寇した。
  閏十一月壬午朔、日食があった。
  この冬、東都の人の劉普会がそむき、処刑された。

  開元二十四年(736)正月丙午、北庭都護の蓋嘉運が突騎施(テュルゲシュ)と戦い、これを破った。
  四月丁丑、死罪以下を一等降した。
  五月丙午、醴泉の人の劉志誠がそむき、処刑された。
  八月甲寅、突騎施(テュルゲシュ)が和を請うた。乙亥、汴王李璥が薨去した。
  十月戊申、京師で地震があった。甲子、華州に行き、供頓した州のこの年の税を免除し、刺史・県令に考課の中上考を賜った。両京の死罪を一等降し、流以下を赦した。丁卯、東都から到着した。
  十一月辛丑、東都で地震があった。壬寅、裴耀卿張九齢が宰相を退いた。李林甫が中書令を兼ね、朔方軍節度副大使の牛仙客が工部尚書・同中書門下三品となった。
  十二月戊申、慶王李琮が司徒となった。

  開元二十五年(737)三月乙酉、張守珪が契丹と捺禄山で戦い、これを破った。辛卯、河西節度副大使の崔希逸が吐蕃と青海で戦い、これを破った。
  四月辛酉、監察御史の周子諒を殺した。乙丑、皇太子李瑛および鄂王李瑤・光王李琚を廃して庶人とし、かれらをみな殺した。
  十一月壬申、温泉宮に幸した。乙酉、温泉宮から到着した。
  十二月丙午、恵妃武氏が薨去した。丁巳、追冊して皇后とした。

  開元二十六年(738)正月甲戌、潮州刺史の陳思挺が反乱を計画し、処刑された。乙亥、牛仙客が侍中となった。丁丑、東郊にて迎気の祭礼を行った。死罪を一等降し、流以下は赦し、京兆の稲田を貧民に給付し、王公が珍物を献上するのを禁じ、文武官に帛を賜った。壬辰、李林甫が隴右節度副大使を兼ねた。
  二月乙卯、牛仙客が河東節度副大使を兼ねた。
  三月丙子、星孛が紫微にあった。癸巳、京師で地震があった。吐蕃が河西を寇し、崔希逸がこれを破り、鄯州都督の杜希望が其新城を落とした。
  四月己亥、役人に時令(『礼記』月令)を読ませた。死罪を一等下して、流以下を赦した。
  五月乙酉、李林甫が河西節度副大使を兼ねた。
  六月庚子、忠王李璵を立てて皇太子とした。
  七月己巳、大赦した。文武官の九品以上および五品以上の子で父の後嗣たる者に勲一転を賜い、侍老に粟帛を賜い版授を加えた。京畿の下戸にこの年の租の半分を免除した。民間に三日の宴会を賜った。
  九月丙申朔、日食があった。庚子、益州長史の王昱が吐蕃と安戎城で戦い、敗れた。
  十月戊寅、温泉宮に幸した。壬辰、温泉宮から到着した。

  開元二十七年(739)正月壬寅、栄王李琬が隴右を巡按した。
  二月己巳、群臣が尊号をたてまつって開元聖文神武皇帝といい、大赦した。この年の税を免除した。文武の官に階・爵を賜った。侍老の百歳以上に下州刺史を、婦人に郡君を版授した。九十歳以上に上州司馬を、婦人に県君を版授した。八十歳以上に県令を、婦人に郷君を版授した。民間に五日の宴会を賜った。
  八月乙亥、磧西節度使の蓋嘉運が突騎施(テュルゲシュ)を賀邏嶺で破り、その可汗の吐火仙を捕らえた。壬午、吐蕃が辺境を寇し、河西・隴右節度使の蕭炅がこれを破った。
  十月丙戌、温泉宮に幸した。十一月辛丑、温泉宮から到着した。

  開元二十八年(740)正月癸巳、温泉宮に幸した。庚子、温泉宮から到着した。
  三月丁亥朔、日食があった。壬子、益州司馬の章仇兼瓊が吐蕃を破り、安戎城を落とした。
  五月癸卯、吐蕃が安戎城を寇し、章仇兼瓊がまたこれを破った。
  十月甲子、温泉宮に幸した。寿王の妃の楊氏を道士とし、太真と号した。戊辰、徐州・泗州の二州で蚕がならなかったため、この年の税を免除した。辛巳、温泉宮から到着した。
  十一月、牛仙客が朔方・河東節度副大使を辞任した。

  開元二十九年(741)正月癸巳、温泉宮に幸した。丁酉、玄元皇帝(老子)の廟を立て、厚葬を禁じた。庚子、温泉宮から到着した。
  五月庚戌、道徳経および荘子・列子・文子を習わせた。死罪を一等降して、流以下を赦した。
  七月乙亥、伊水・洛水が氾濫した。
  九月丁卯、大雪が降った。
  十月丙申、温泉宮に幸した。戊戌、黜陟官吏を派遣した。
  十一月庚戌、邠王李守礼が薨去した。辛酉、温泉宮から到着した。己巳、雨が木を凍らせた。辛未、寧王李憲が薨去し、追冊して皇帝とし、その妃の元氏を皇后とした。
  十二月癸未、吐蕃が石堡城を陥した。

  天宝元年(742)正月丁未、大赦し、改元した。詔して京の文武官で刺史となるのにたえうる人材を自薦させた。侍老八十歳以上に粟帛を、九品以上に勲両転を賜った。甲寅、陳王府参軍の田同秀が「玄元皇帝(老子)が丹鳳門街に出現した」と報告した。
  二月丁亥、群臣が尊号をたてまつって開元天宝聖文神武皇帝といった。辛卯、玄元皇帝(老子)を新廟で享した。甲午、太廟で享した。丙申、天地を南郊で合わせて祭り、大赦した。侍老に版授を加え、文武の官に階・爵を賜った。侍中を改めて左相とし、中書令を右相とし、東都を東京とし、北都を北京とし、州を郡とし、刺史を太守とした。
  七月癸卯朔、日食があった。辛未、牛仙客が薨去した。
  八月丁丑、刑部尚書の李適之が左相となった。
  十月丁酉、温泉宮に幸した。十一月己巳、温泉宮から到着した。
  十二月戊戌、隴右節度使の皇甫惟明が吐蕃と青海で戦い、これを破った。庚子、河西節度使の王倕が吐蕃の漁海・遊弈軍に勝利した。朔方軍節度使の王忠嗣が奚と紫乾河で戦い、これを破り、そのまま突厥を討伐した。
  この冬、凍らなかった。

  天宝二年(743)正月乙卯、昇仙宮を作った。丙辰、玄元皇帝(老子)を加号して大聖祖といった。
  三月壬子、玄元宮に享し、大聖祖(老子)の父で周の上御大夫の李敬を追号して先天太皇といい、咎繇(皋陶)を徳明皇帝といい、涼武昭王を興聖皇帝といった。西京の玄元宮を改めて太清宮といい、東京を太微宮といった。
  四月己卯、皇甫惟明が吐蕃の洪済城を落とした。
  六月甲戌、東京の応天門観に落雷があって焼失した。
  十月戊寅、温泉宮に幸した。十一月乙卯、温泉宮から到着した。
  十二月壬午、海賊の呉令光が永嘉郡を寇した。
  この冬、雪がなかった。

  天宝三載(744)正月丙申、年を改めて載とした。死罪を一等降し、流以下を赦した。辛丑、温泉宮に幸した。辛亥、隕石が東南に堕ちた。
  二月庚午、温泉宮から到着した。丁丑、河南尹の裴敦復・晋陵郡太守の劉同昇・南海郡太守の劉巨鱗呉令光を討った。閏月、呉令光が処刑された。
  三月壬申、死罪一等を降し、流以下を赦した。
  八月丙午、抜悉蜜(バシュミル)が突厥を攻め、烏蘇米施可汗を殺し、来朝してその首を献じた。
  十月甲午、温泉宮に幸した。十一月丁卯、温泉宮から到着した。
  十二月癸丑、九宮貴神を東郊で祠り、大赦した。天下の家に孝経を蔵するよう詔した。文武の官に階・爵を、侍老に粟帛を、民間に三日の宴会を賜った。


  天宝四載(745)正月丙戌、王忠嗣が突厥と薩河内山で戦い、これを破った。
  三月壬申、外孫の独孤氏の娘を静楽公主とし、契丹の松漠都督の李懐節に嫁がせた。楊氏の娘を宜芳公主とし、奚の饒楽都督の李延寵に嫁がせた。
  八月壬寅、楊太真を立てて貴妃とした。
  九月、契丹・奚がともにその公主を殺して叛いた。甲申、皇甫惟明が吐蕃と石堡城で戦い、副将褚誗が死んだ。
  十月戊戌、温泉宮に幸した。十二月戊戌、温泉宮から到着した。

  天宝五載(746)正月乙亥、六品以下の員外官を停止した。
  三月丙子、黜陟官吏を派遣した。
  四月庚寅、李適之が宰相を退いた。丁酉、門下侍郎の陳希烈が同中書門下平章事(宰相)となった。
  五月壬子朔、日食があった。
  七月、括蒼郡太守の韋堅と播川郡太守の皇甫惟明を殺した。
  十月戊戌、温泉宮に幸した。十一月乙巳、温泉宮から到着した。
  十二月甲戌、賛善大夫の杜有鄰・著作郎の王曾・左驍衛兵曹参軍の柳勣・左司禦率府倉曹参軍の王修己・右武衛司戈の盧寧・左威衛参軍の徐徴を殺した。

  天宝六載(747)正月辛巳、北海郡太守の李邕・淄川郡太守の裴敦復を殺した。丁亥、太廟で享した。戊子、南郊で有事摂祭し、大赦し、流人・老人の致仕を許し、立仗鋜を廃止した。文武の官に階・爵を、侍老に粟帛を、民間に三日の宴会を賜った。
  三月甲辰、陳希烈が左相となった。
  七月乙酉、旱害のため死罪を一等降し、流以下を赦した。
  十月戊申、華清宮に幸した。
  十一月丁酉、戸部侍郎の楊慎矜およびその弟の少府少監の楊慎餘・洛陽令の楊慎名を殺した。
  十二月癸丑、華清宮から到着した。
  この年、安西副都護の高仙芝が小勃律国(ギルギット)と戦い、これを破った。

  天宝七載(748)五月壬午、群臣が尊号をたてまつって開元天宝聖文神武応道皇帝といい、大赦し、来たる年の租・庸を免除した。魏・周・隋を三恪とした。京城の父老に物人十段を賜った。七十歳以上に版授して本人を県令、婦人を県君とした。六十歳以上を県丞とした。天下の侍老で百歳以上を上郡太守、婦人を郡君とした。九十歳以上を上郡司馬、婦人を県君とした。八十歳以上を県令、婦人を郷君とした。文武官に勲両転を賜い、民間に三日の宴会を賜った。
  十月庚戌、華清宮に幸した。十二月辛酉、華清宮から到着した。

  天宝八載(749)四月、咸寧郡太守の趙奉璋を殺した。
  六月乙卯、隴右節度使の哥舒翰が吐蕃と石堡城で戦い、これを破った。
  閏月丙寅、太清宮に謁し、玄元皇帝(老子)に号をたてまつって聖祖大道玄元皇帝とし、祖宗の帝后に諡を増した。群臣は尊号をたてまつって開元天地大宝聖文神武応道皇帝とし、大赦し、男子七十歳・婦人七十五歳以上に一子侍を給し、文武官に階・爵を賜い、民で戸をなす者に古爵を封じ、三日の宴会とした。
  十月乙丑、華清宮に幸した。この月、特進の何履光が十道の兵を率いて雲南を討伐した。
  十一月丁巳、御史中丞の楊釗の別荘に幸した。

  天宝九載(750)正月己亥、華清宮から到着した。丁巳、詔して十一月に華岳にて封を実施することとした。
  三月辛亥、華岳の廟で火災があり、関内が旱魃となったから、封を停止した。
  五月庚寅、囚人を再審した。
  九月辛卯、商・周・漢を三恪とした。
  十月庚申、華清宮に幸した。太白山の人の王玄翼が「玄元皇帝が宝仙洞に降臨した。」といった。
  十二月乙亥、華清宮から到着した。
  この年、雲南蛮が雲南郡を陥し、都督の張虔陀がここに死んだ。

  天宝十載(751)正月壬辰、太清宮で朝献した。癸巳、太廟で朝享した。甲午、南郊で有事摂祭し、大赦し、侍老に粟帛を賜り、三日の宴会をおこなった。丁酉、李林甫が朔方軍節度副大使・安北副大都護を兼ねた。己亥、伝国の宝を改めて「承天大宝」とした。戊申、安西四鎮節度使の高仙芝が突騎施可汗および石国王を捕らえた。
  四月壬午、剣南節度使の鮮于仲通が雲南蛮と西洱河で戦い、大敗し、大将の王天運がここに死に、雲南都護府が陥落した。
  七月、高仙芝が大食と恒邏斯城で戦い、敗れた。
  八月、范陽節度副大使の安禄山が契丹と吐護真河で戦い、敗れた。乙卯、広陵で津波があった。丙辰、武庫で火災があった。
  十月壬子、華清宮に幸した。
  十一月乙未、楊国忠の邸宅に幸した。

  天宝十一載(752)正月丁亥、華清宮から到着した。
  二月庚午、突厥の部落の阿布思が辺境を寇した。
  三月乙巳、尚書省の八部の名を改めた。
  四月乙酉、戸部郎中の王銲と京兆の人の邢縡が反乱を計画し、処刑された。丙戌、御史大夫の王鉷を殺した。李林甫が安北副大都護を辞任した。
  五月戊申、慶王李琮が薨去した。甲子、東京で大風のため木が抜けた。
  六月壬午、御史大夫兼剣南節度使の楊国忠が吐蕃を雲南で破り、故洪城を落とした。
  十月戊寅、華清宮に幸した。
  十一月乙卯、李林甫が薨去した。庚申、楊国忠が右相となった。
  十二月丁亥、華清宮から到着した。

  天宝十二載(753)五月己酉、魏・周・隋を復して三恪とした。
  六月、阿布思部落が降った。
  八月、中書門下で囚人の再審を行った。
  九月甲寅、葛邏禄(カルルク)の葉護が阿布思を捕らえた。
  十月戊寅、華清宮に幸した。

  天宝十三載(754)正月丙午、華清宮から到着した。
  二月壬申、太清宮で朝献し、玄元皇帝(老子)の号を加えて大聖祖高上大道金闕玄元天皇大帝といった。癸酉、太廟に朝享し、祖宗の諡を増やした。甲戌、群臣が尊号をたてまつって開元天地大宝聖文神武証道孝徳皇帝といい、大赦し、左降官で父母の喪に遭った者は帰郷を聴した。孝や義で表彰された者に勲両転を賜った。侍老で百歳以上に本郡太守、婦人に郡夫人を版授した。九十歳以上を郡長史、婦人を郡君とした。八十歳以上を県令、婦人を県君とした。太守に爵一級を賜い、県令に勲両転、民間に三日の宴会を賜った。丁丑、楊国忠が司空となった。この日、土が降ってきた。
  三月、隴右・河西節度使の哥舒翰が吐蕃を破り、河源九曲を回復した。辛酉、大風で木が抜けた。
  五月壬戌、勤政楼で宴を見て、北庭都護の程千里が捕らえた阿布思を献上した。
  六月乙丑朔、日食があった。剣南節度留後の李宓が雲南蛮と西洱河で戦い、ここに死んだ。
  八月丙戌、陳希烈が宰相を退いた。文部侍郎の韋見素が武部尚書・同中書門下平章事となった。
  この秋、瀍水・洛水が氾濫した。
  十月乙酉、華清宮に幸した。十二月戊午、華清宮から到着した。

  天宝十四載(755)三月壬午、安禄山が契丹と潢水で戦い、これを破った。
  五月、浙西で天から声がした。
  八月辛卯、死罪を一等降して、流以下を赦した。この年の租・庸の半分を免除した。侍老に米を賜った。
  十月庚寅、華清宮に幸した。
  十一月、安禄山がそむき、河北諸郡を陥した。范陽の将の何千年が河東節度使の楊光翽を殺した。壬申、伊西節度使の封常清が范陽・平盧節度使となり、安禄山を討った。丙子、華清宮から到着した。九原郡太守の郭子儀が朔方軍節度副大使となり、右羽林軍大将軍の王承業が太原尹となり、衛尉卿の張介然が河南節度採訪使となり、右金吾大将軍の程千里が上党郡長史となり、安禄山を討った。丁丑、栄王李琬が東討元帥となり、高仙芝が副元帥となった。
  十二月丁亥、安禄山が霊昌郡を陥した。辛卯、陳留郡を陥し、太守の郭納を捕らえ、張介然がここに死んだ。癸巳、安禄山が滎陽郡を陥し、太守の崔無詖がここに死んだ。丙申、封常清安禄山と甖子谷で戦い、敗れた。丁酉、東京を陥し、留守の李憕・御史中丞の盧弈・判官の蒋清がここに死んだ。河南尹の達奚珣が叛いて安禄山に降った。
  己亥、恒山郡太守の顔杲卿何千年を破り、これを捕らえ、趙・鉅鹿・広平・清河・河間・景城・楽安・博平・博陵・上谷・文安・信都・魏・鄴の十四郡を落とした。
  癸卯、封常清高仙芝が処刑された。哥舒翰が持節・統領処置太子・先鋒兵馬副元帥となり、潼関を守った。甲辰、郭子儀安禄山の将の高秀巌と河曲で戦い、これを破った。戊申、栄王李琬が薨去した。壬子、済南郡太守の李随・単父尉の賈賁・濮陽の人の尚衡が兵をもって安禄山を討った。この月、平原郡太守の顔真卿・饒陽郡太守の盧全誠・司馬の李正が兵をもって安禄山を討った。

  天宝十五載(756)正月乙卯、東平郡太守の嗣呉王李祗が兵をもって安禄山を討った。丙辰、李随が河南節度使となり、安禄山を討った。壬戌、安禄山が恒山郡を陥し、顔杲卿袁履謙を捕らえ、鄴・廣平・鉅鹿・趙・上谷・博陵・文安・魏・信都の九郡を陥した。癸亥、朔方軍節度副使の李光弼が河東節度副大使となり、安禄山を討った。甲子、南陽郡太守の魯炅が南陽節度使となり、嶺南・黔中・山南東道の兵を率いて葉県に駐屯した。乙丑、安慶緒が潼関を寇し、哥舒翰がこれを破った。丁丑、真源令の張巡が兵をもって安禄山を討った。
  二月己亥、嗣呉王李祗安禄山の将の謝元同と陳留で戦い、これを破った。李光弼が常山郡を落とし、郭子儀が井陘を出て李光弼と合流し、安禄山の将の史思明と戦い、これを破った。庚子、賈賁が雍丘で戦い、ここに死んだ。
  三月、顔真卿が魏郡を落とした。史思明が饒陽・平原を寇した。乙卯、張巡安禄山の将の令狐潮と雍丘で戦い、これを破った。丙辰、戸部尚書の安思順と太僕卿の安元貞を殺した。乙丑、李光弼が趙郡を落とした。
  四月乙酉、北海郡太守の賀蘭進明が兵をもって平原を救援した。丙午、太子左賛善大夫の来瑱が潁川郡太守となり、招討使を兼ねた。
  五月丁巳、魯炅が安禄山と滍水で戦い、敗れ、南陽に逃れた。戊辰、嗣虢王李巨が河南節度使となった。
  六月癸未、顔真卿安禄山の将の袁知泰と堂邑で戦い、これを破った。賀蘭進明が信都を落とした。丙戌、哥舒翰安禄山と霊宝西原で戦い、敗れた。この日、郭子儀李光弼史思明と嘉山で戦い、これを破った。辛卯、蕃将の火抜帰仁哥舒翰を捕らえ、叛いて安禄山に降り、そのまま潼関・上洛郡を陥した。
  甲午、親征のことを詔した。京兆尹の崔光遠が西京留守・招討処置使となった。丙申、望賢宮を行在とした。丁酉、馬嵬に行き、左龍武大将軍の陳玄礼楊国忠および御史大夫の魏方進・太常卿の楊暄を殺した。貴妃楊氏に死を賜った。この日、張巡安禄山の将の翟伯玉と白沙堝で戦い、これを破った。己亥、安禄山が京師を陥した。辛丑、陳倉に行った。閑厩使の任沙門が叛いて安禄山に降った。丙午、河池郡に行った。剣南節度使の崔円が中書侍郎・同中書門下平章事となった。
  七月甲子、普安郡に行った。憲部侍郎の房琯が文部尚書・同中書門下平章事となった。丁卯、皇太子が天下兵馬元帥となり、朔方・河東・河北・平盧節度使を都統し、御史中丞の裴冕・隴西郡司馬の劉秩がこれを補佐した。江陵大都督の永王李璘が山南東路黔中江南西路節度使となり、盛王李琦が広陵郡都督・江南東路淮南道節度使となり、豊王李珙が武威郡都督・河西隴右安西北庭節度使となった。庚午、巴西郡に行った。太守の崔渙を門下侍郎・同中書門下平章事とし、韋見素を左相とした。庚辰、蜀郡に行った。
  八月壬午、大赦し、文武の官に階・爵を賜り、安禄山のため脅迫されて従わざるを得ず、そして自ら帰順した者は赦した。癸巳、皇太子が霊武で皇帝の位につき、上聞してきた。庚子、上皇天帝は誥して韋見素房琯崔渙を派遣し、皇帝を奉って霊武で冊立した。
  十一月甲寅、憲部尚書の李麟が同中書門下平章事となった。
  十二月甲辰、永王李璘がそむき、廃されて庶人となった。

  至徳二載(757)正月庚戌、誥して天下の孝悌で推薦されるべき者を求めた。甲子、剣南の健児の賈秀がそむき、処刑された。三月庚午、通化郡が玄元皇帝(老子)が降臨したと言上した。五月庚申、誥して貴嬪の楊氏を追冊して皇后とした。七月庚戌、行営の健児の李季がそむき、処刑された。庚午、剣南の健児の郭千仞がそむき、処刑された。十月丁巳、皇帝が京師を回復し、上聞してきた。誥して剣南の囚人の罪を一等降し、流以下を赦した。
  十二月丁未、蜀郡から到着し、興慶宮に居住した。至徳三載(758)、号をたてまつって太上至道聖皇天帝といった。上元元年(760)、西内甘露殿に居をうつした。元年建巳月、神龍殿で崩じ、年は七十八であった。


  賛にいわく、睿宗はそのの功績によって、在位は長くはなかったから、もとより称えるべきところはなかった。嗚呼、女子の人に禍することは甚だしいことよ。高祖より中宗に至るまでの数十年間、再び女禍にかかり、唐の系統は絶えたが再び続いたが、中宗はその身を免れず、韋氏は遂に一族を滅ぼした。玄宗は自らその乱を平らげ、鑑とすべきであったが、またしても女子のために失脚した。政務に精勤し、開元の時代はほとんど太平となり、なんと盛んであったことであろうか。奢侈のため一度心を動かされ、天下が楊貴妃の楽しみとするにたりないのではないかと伺いみて、楊貴妃への愛に溺れ、諌めとすべきことを忘れたから、身は逃れて国を失うに至っても後悔しなかったのである。その始終の違いを考えてみても、その性格や習慣の相違もまたこのように至ったのである。慎まなければならない、慎まなければ。

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