千軒道

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[[若松]] [[郭外>若松#郭外町名]] &ruby(せんげん){千軒}道 &blanklink(大日本地誌大系第30巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179191} 186コマ目 #expand(500){{{ -[[紫雲寺前通>#紫雲寺前通]]、[[木戸千軒道>#木戸千軒道]] #image(23-9.jpg,width=500) ※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より [[滝沢町妙法寺前通>滝沢町#妙法寺前通]]より西の方、紫雲寺前通に至る。 長1町56間・幅2間。 この邊昔は家数1000軒ありし&ruby(ゆえ){故}名くという。 今は寺院のみにて他の家居なし(下屋敷を註せざるものこれに倣う)。 **寺院 ***蓮華寺 この通の北頬にあり。 浄土真宗京師西本願寺の末山なり。 始は郭内[[米代]](その地詳ならず)にありて壮麗の寺なししが、天文の頃(1532年~1555年)無頼の住持ありて寺宝を携て出奔す。一族了誓というもの葦名氏に請て再興す。&ruby(ゆえ){故}にこれを中興の祖とす。 文禄中(1593年~1596年)城郭修築の時今の地に遷れり。 本尊弥陀客殿に安ず。 ***浄国寺 蓮華寺の西に並べり。 古今山と號す。[[大町>上町#大町]][[融通寺]]の末寺浄土宗なり。 相伝う、京師東山禪林寺の学侶空山という者文禄元年(1593年)この地に来て開けり。 本尊弥陀客殿に安ず。 ****観音堂 境内にあり。 ***定善寺 浄国寺の西にあり。 山號を光明山といい下野国大澤圓通寺の末寺浄土宗なり。 慶長16年(1611年)利圓という僧この寺を草創す。 本尊弥陀客殿に安ず。 ****白山神社 境内にあり。 *&aname(紫雲寺前通){&ruby(しうんじまへ){紫雲寺前}通} [[馬場町>上町#馬場町]]の末より北の方[[西黒川>西黒川]][[石堂分>西黒川#石堂分]]の&ruby(たんぼ){田圃}に出る通なり。 長1町32間・幅2間。 ***非人小屋 この通の西、紫雲寺の北にあり。 寛永中(1624年~1645年)置く所なり。 (この地は[[西名子屋町>下町>西名子屋町]]長命寺の荼毘処なり) **寺院 ***紫雲寺 この通の西頬にあり。 山號を龍淵山といい南青木天寧村天寧寺の末山曹洞宗なり。 文禄元年(1593年)中税という僧建立し、相伝て4世に到れども宗旨定らず。後幾も無しで堂宇荒廃せしを天祐という者再興し天寧寺の住僧恕山を請て開山とせり。 本山地蔵客殿に安ず。 ***福證寺 紫雲寺の南に並べり。 京師西本願寺の末山浄土真宗なり。 文禄元年玄海という僧本願寺に至り寺號を請てこの寺を草建す。 本尊弥陀客殿に安ず。 また鐘楼に懸る所の鐘あり。径2尺3寸『安永五丙申四月奥州會陽城北福證寺釋智充冶工星野宗七重喜』と彫付あり(安永5年=1776年)。 ***清林寺 この通の東頬にあり。 照光山と号す。浄土宗[[五之町>上町#五之町]][[高巌寺]]の末寺なり。 天文19年(1550年)憐海という者草創す。初めは東典寺とて府城の西南にあり、3世岌鷹鷲という僧文禄中(1593年~1596年)外郭修理の時この地に移し今の寺号に改む。 本尊三尊弥陀、長2尺6寸・脇立各長1尺6分6分惠心作、客殿に安ず。 縁起に、往古源義経梶原が讒に因て都を落ち本州に&ruby(のが){竄}れる。一女子蹟を恋てこの地に来り、義経既に高館城にて生害すと聞き河沼郡代田組藤倉村の難波池に身を投げて死せり。時に彼女ゆかりの者跡を追て藤倉村に至りその始末を聞き悲哀に堪えず池邊に堂を建て女が携来る所の三尊弥陀を安置す。その後数多の星霜を経て堂宇廃毀し、慶長中(1596年~1615年)当寺に移せり。今の本尊これなりという(この事藤倉村の条下に載する所皆鶴か事蹟に似たり。併せ見るべし) ****鐘楼 境内にあり。 鐘の径2尺5寸7分。『寛延三庚午曆仲夏望日沙門良感遠欽白』と彫付あり(寛延3年=1750年)。 ****宗像神社 同上。 ****寶物 &bold(){地蔵画像} 1幅。義経を慕い来りし女子の携えし所をいう。 *&aname(木戸千軒道){&ruby(きどせんげん){木戸千軒}道} 馬場町と[[大町>上町#大町]]との間にありて東西の通なり。 両端に木戸あり&ruby(ゆえ){故}にこの名あり。 **寺院 ***東雲寺 この通の北頬にあり。 境沢山と號す。[[材木町]][[秀長寺>材木町#秀長寺]]の末山曹洞宗なり。 始めは高久組界沢村にありといい伝えれどもその詳なることを知らず。 天正の頃(1573年~1593年)殿宇荒廃せしを存祝という僧領主に請てこの地に移す。故に存祝を以て中興とす。 本尊釈迦客殿に安ず。 ***満福寺 東雲寺の西に並べり。 浄土真宗京師東本願寺の末寺なり。 天文6年(1537年)清玄という僧京師に至り本願寺10世證如に請て寺號を受け、城南黒川の傍に一寺を建て中島満福寺と號す。大3世重玄水災を患て領主に訴え、文禄元年(1593年)この地に移れり。 本尊弥陀客殿に安ず。 鐘楼門あり。懸る所の鐘・径2尺2寸余。『寶永七庚寅年八月初二日釋圓比丘』と彫付あり(寶永7年=1710年)。 ***本光寺 満福寺の西に並べり。 浄土真宗京師西本願寺の末山なり。 永禄3年(1560年)唯心という僧、地を葦名氏に請て当寺を開き本願寺を號すという。 相伝う、天正中(1573年~1593年)蒲生氏郷本郷に移るに及て江州((近江国。現在の滋賀県))堅田慈教寺の住僧訴る旨あり。氏郷慈教寺に命じ子弟の内1人木地挽を率いて会津に供すべしとあり。三男了性という者木地挽頭佐藤和泉その子新助等5人と共に本郷に来る。この時当寺無住なりし&ruby(ゆえ){故}了性をして住せしむ。今所々木地挽当寺の旦越たる者多きはこの因ある故なりとぞ(木地挽の事耶麻郡川東組酸川野村の条下を併見るべし) 本尊弥陀客殿に安ず。 ****寶物 &bold(){正像末和讃} 13首。親鸞筆といい伝う。 ***本行寺 この通の北頬にあり。 寶壽山と號す。[[滝沢町]][[妙法寺]]の末山法華宗なり。 文禄元年(1593年)日受という僧建立す。 ****三十番神社 境内にあり。 }}}
[[若松]] [[郭外>若松#郭外町名]] &ruby(せんげん){千軒}道 &blanklink(大日本地誌大系第30巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179191} 186コマ目 #expand(500){{{ -[[紫雲寺前通>#紫雲寺前通]]、[[木戸千軒道>#木戸千軒道]] #image(23-9.jpg,width=500) ※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より [[滝沢町妙法寺前通>滝沢町#妙法寺前通]]より西の方、紫雲寺前通に至る。 長1町56間・幅2間。 この邊昔は家数1000軒ありし&ruby(ゆえ){故}名くという。 今は寺院のみにて他の家居なし(下屋敷を註せざるものこれに倣う)。 **寺院 ***蓮華寺 この通の北頬にあり。 浄土真宗京師西本願寺の末山なり。 始は郭内[[米代]](その地詳ならず)にありて壮麗の寺なししが、天文の頃(1532年~1555年)無頼の住持ありて寺宝を携て出奔す。一族了誓というもの葦名氏に請て再興す。&ruby(ゆえ){故}にこれを中興の祖とす。 文禄中(1593年~1596年)城郭修築の時今の地に遷れり。 本尊弥陀客殿に安ず。 ***浄国寺 蓮華寺の西に並べり。 古今山と號す。[[大町>上町#大町]][[融通寺]]の末寺浄土宗なり。 相伝う、京師東山禪林寺の学侶空山という者文禄元年(1593年)この地に来て開けり。 本尊弥陀客殿に安ず。 ****観音堂 境内にあり。 ***定善寺 浄国寺の西にあり。 山號を光明山といい下野国大澤圓通寺の末寺浄土宗なり。 慶長16年(1611年)利圓という僧この寺を草創す。 本尊弥陀客殿に安ず。 ****白山神社 境内にあり。 *&aname(紫雲寺前通){&ruby(しうんじまへ){紫雲寺前}通} [[馬場町>上町#馬場町]]の末より北の方[[西黒川>西黒川]][[石堂分>西黒川#石堂分]]の&ruby(たんぼ){田圃}に出る通なり。 長1町32間・幅2間。 ***非人小屋 この通の西、紫雲寺の北にあり。 寛永中(1624年~1645年)置く所なり。 (この地は[[西名子屋町>下町#西名子屋町]]長命寺の荼毘処なり) **寺院 ***紫雲寺 この通の西頬にあり。 山號を龍淵山といい南青木天寧村天寧寺の末山曹洞宗なり。 文禄元年(1593年)中税という僧建立し、相伝て4世に到れども宗旨定らず。後幾も無しで堂宇荒廃せしを天祐という者再興し天寧寺の住僧恕山を請て開山とせり。 本山地蔵客殿に安ず。 ***福證寺 紫雲寺の南に並べり。 京師西本願寺の末山浄土真宗なり。 文禄元年玄海という僧本願寺に至り寺號を請てこの寺を草建す。 本尊弥陀客殿に安ず。 また鐘楼に懸る所の鐘あり。径2尺3寸『安永五丙申四月奥州會陽城北福證寺釋智充冶工星野宗七重喜』と彫付あり(安永5年=1776年)。 ***清林寺 この通の東頬にあり。 照光山と号す。浄土宗[[五之町>上町#五之町]][[高巌寺]]の末寺なり。 天文19年(1550年)憐海という者草創す。初めは東典寺とて府城の西南にあり、3世岌鷹鷲という僧文禄中(1593年~1596年)外郭修理の時この地に移し今の寺号に改む。 本尊三尊弥陀、長2尺6寸・脇立各長1尺6分6分惠心作、客殿に安ず。 縁起に、往古源義経梶原が讒に因て都を落ち本州に&ruby(のが){竄}れる。一女子蹟を恋てこの地に来り、義経既に高館城にて生害すと聞き河沼郡代田組藤倉村の難波池に身を投げて死せり。時に彼女ゆかりの者跡を追て藤倉村に至りその始末を聞き悲哀に堪えず池邊に堂を建て女が携来る所の三尊弥陀を安置す。その後数多の星霜を経て堂宇廃毀し、慶長中(1596年~1615年)当寺に移せり。今の本尊これなりという(この事藤倉村の条下に載する所皆鶴か事蹟に似たり。併せ見るべし) ****鐘楼 境内にあり。 鐘の径2尺5寸7分。『寛延三庚午曆仲夏望日沙門良感遠欽白』と彫付あり(寛延3年=1750年)。 ****宗像神社 同上。 ****寶物 &bold(){地蔵画像} 1幅。義経を慕い来りし女子の携えし所をいう。 *&aname(木戸千軒道){&ruby(きどせんげん){木戸千軒}道} 馬場町と[[大町>上町#大町]]との間にありて東西の通なり。 両端に木戸あり&ruby(ゆえ){故}にこの名あり。 **寺院 ***東雲寺 この通の北頬にあり。 境沢山と號す。[[材木町]][[秀長寺>材木町#秀長寺]]の末山曹洞宗なり。 始めは高久組界沢村にありといい伝えれどもその詳なることを知らず。 天正の頃(1573年~1593年)殿宇荒廃せしを存祝という僧領主に請てこの地に移す。故に存祝を以て中興とす。 本尊釈迦客殿に安ず。 ***満福寺 東雲寺の西に並べり。 浄土真宗京師東本願寺の末寺なり。 天文6年(1537年)清玄という僧京師に至り本願寺10世證如に請て寺號を受け、城南黒川の傍に一寺を建て中島満福寺と號す。大3世重玄水災を患て領主に訴え、文禄元年(1593年)この地に移れり。 本尊弥陀客殿に安ず。 鐘楼門あり。懸る所の鐘・径2尺2寸余。『寶永七庚寅年八月初二日釋圓比丘』と彫付あり(寶永7年=1710年)。 ***本光寺 満福寺の西に並べり。 浄土真宗京師西本願寺の末山なり。 永禄3年(1560年)唯心という僧、地を葦名氏に請て当寺を開き本願寺を號すという。 相伝う、天正中(1573年~1593年)蒲生氏郷本郷に移るに及て江州((近江国。現在の滋賀県))堅田慈教寺の住僧訴る旨あり。氏郷慈教寺に命じ子弟の内1人木地挽を率いて会津に供すべしとあり。三男了性という者木地挽頭佐藤和泉その子新助等5人と共に本郷に来る。この時当寺無住なりし&ruby(ゆえ){故}了性をして住せしむ。今所々木地挽当寺の旦越たる者多きはこの因ある故なりとぞ(木地挽の事耶麻郡川東組酸川野村の条下を併見るべし) 本尊弥陀客殿に安ず。 ****寶物 &bold(){正像末和讃} 13首。親鸞筆といい伝う。 ***本行寺 この通の北頬にあり。 寶壽山と號す。[[滝沢町]][[妙法寺]]の末山法華宗なり。 文禄元年(1593年)日受という僧建立す。 ****三十番神社 境内にあり。 }}}

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