会津高野山(冬木沢)

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会津高野山(冬木沢) - (2020/05/02 (土) 21:27:49) のソース

陸奥国 [[河沼郡]] [[代田組>河沼郡代田組]] [[冬木沢村>河沼郡代田組冬木沢村]] 
&blanklink(大日本地誌大系第33巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179220} 87コマ目
#image(fuyukizawa.jpg, width=500)

**&aname(八葉寺){八葉寺}
村北にあり。
昔は九品念佛の一派なり。
今は府下大和町金剛寺の末寺真言宗となる。
縁起を案ずるに、当寺は空也の開基なり。

空也。
諱は光勝とて延喜3年(903年)に生る。
容貌極て醜く右手開かず。因て&ruby(あらの){曠野}に棄られしに、いつくともなく1の小鹿来りて撫育す。
弱冠に及で尾州国分寺に於て&ruby(ちはつ){薙髪}しその後諸国を経歴せしに、奥羽2州は&ruby(へんえい){辺裔}の地にて佛化至ること少きにより自ら佛像及び経巻を負来り、下野・陸奥の境にて北天に紫気あるを望みこれを奇異としその地を尋てここに至り、康保元年(964年)1伽藍を創め携え来る所の弥陀の像を安置し、&ruby(あか){閼伽}井を堀りしが中に八葉の蓮花を生せしとかや、因て如来山八葉寺と名け、また多年勝地をもとめ今この処を得るとて悉地成就院と號す。その時1人の老翁現し空也に向い「吾は伊豆神なり。この地佛法有縁の地なり。熊野の神と共に鎮護せん」といい畢て失去(今の權現塚山その地なりとぞ)。&ruby(かく){斯}て空也ここに住し、天禄3年(972年)9月11日浄衣をつけ香炉を執り弟子に告て曰く「無量の聖衆來迎して空に満り」と。遂に気絶ゆ。時に年70なりしとぞ。
また縁起に空也を延喜((延喜帝:醍醐天皇))第三の皇子とす。元亨釈書に空也の伝を載て氏族をいわずとあれども延喜帝の御子という説も世に言い、旧たる事なれば実しかありけんも知べからず。その傳は元亨釈書に詳なれば&ruby(ここ){爰}に略す。
空也滅後の法系詳ならず。
亨徳2年(1453年)当寺回禄に罹りしよし塔寺村八幡宮長帳に見ゆ。
天正17年(1589年)伊達氏の乱に、住僧宥傳は葦名の重臣富田美作が弟なれば葦名の為に恩を報せんとて防戦の用意をなしけるに、義廣没落のよしを聞き宥傳力なく逐電せり。政宗この振舞をきき院々に火を懸しかば、1宇も残らず焼失す。
昔は今の阿弥陀堂と共に1構の地にて八葉時の境内なりしと見ゆれども、何の頃よりか境地を分て今は2ヶ所となる。

**&aname(阿弥陀堂){阿弥陀堂}
八葉寺の東30間にあり。
これ即ち八葉寺の本尊堂にてこの地を俗に会津の高野と唱え、毎年7月朔日より11日まで遠近の男女相集り、死者の為に遺歯を堂中に納め奥院に香花・茶湯を奠し盂蘭盆会あり。この時諸村より市子あつまり亡者の為に過去将来の事を語る。参詣多し。
***仁王門
南向き。3間に2間。
左右の力士、各長5尺1寸。古物なり。
***鐘楼
二王門を入て右にあり。
8尺四面計。
鐘の径2尺1寸。
『寶永七庚寅年秋七月一日本願主冬木澤村佐藤太兵衛浅野村束原八右衛門』と彫付あり(寶永7年:1710年)。
***本堂
3間半四面、南向き。
四方に庇縁あり。
本尊は空也の持来る所の弥陀の像なり。秘佛にて見るものなし。
また堂前に石燈籠6基あり。
***空也水
本堂の辰巳(南東)にあり。
3尺四方計の石槽を埋め、上に1間に3間余の屋あり。
水最甘冷なり。
災あらんとする時は水色孌すという。
空也みづから堀りし所なりとぞ。
***閼伽井
本堂の前にあり。
東西6間・南北3間。
空也水を引てここに注ぐ。
昔八葉の蓮花を生すというはこの池なりとぞ。
***十王堂
本堂の東にあり。
2間四面、南向き。
***開山堂
本堂の西にあり。
2間四面、南向き。
空也の木像を安ず。
長5尺3寸。冷骨癯貌生るが如し。
空也自作るという。
***奥院
本堂の北、石階を登り小山の上にあり。
3間半四面、南向き。
弥陀の木像を安ず。
鰐口1口あり。径9寸余。
もとは何れの堂に懸しにか表裏に文字あり。
表に『□□□郷目札山熊野宮檀那□□視大夫永禄八年乙丑六月吉日』(永禄8年:1565年)、裏に梵字と『奥州會津八葉寺鰐口旦那念佛衆天正十三年乙酉七月廿五日機興即生口一銭半文之助成重爲自證化他善根偏抜苦與楽也願主遠藤半内』(天正13年:1585年)と彫付けあり。磨滅して見えざる者6字。
また南脇に1間半に1間の茶湯場あり。
***空也塚
開山堂の北、奥院の西南にあり。
後に古き数圍の欅あり。その前に『空也大上人天禄三壬申年九月十一日入滅』(天禄3年:972年)と彫付けたる石塔あり。塔は近世の物なれども古より空也の塚とす。
またここより戌(西北西)の方に高3尺余の古き石塔を建て祖陵と称す。相伝て延喜帝の為に建しという。文字見えず。
***古碑
本堂より辰巳(南東)の隅にあり。
高5尺計の野面石なり。
草書にて文字を彫る。
字体&ruby(らいらく){磊落}にて古雅なり。その文如左(※略)
***千本松趾
本堂より40間余辰巳(南東)の方にあり。
空也千株の松を植し一なりとて近頃まで老樹1株残れり。
今は枯れてなし。
***寶物
空也画像 1幅。
筆者知らず。自画なりともいう。
鹿角 1雙。
空也&ruby(かつ){甞}て曠野に棄られし時野鹿の助ありしゆえ、供養のためにその角を&ruby(しゅじょう){拄杖}の頭につけ磬をかけ念佛を唱え修行すという。
一は六字の名號を彫り、一は彫付なく形もやや異なり。
その図左に載す(※略)

**&aname(姥堂){姥堂}
阿弥陀堂の西北に続く
草建の年月知らず。
奪衣婆の木像を安ず。
八葉寺司る。


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-Google Map
--[[八葉寺>https://goo.gl/maps/p7nY1Y5Gzb1j5oEc7]]