白髭の水

会津郡の項に本洪水の記載があります。
天文5年(1536年)6月28日の洪水(この時白髭の老人屋棟に騎りて流れ去りし故ゆえ白髭洪水と云う。今に至るまで称して洪水の極とす)に岩崎の麓より決して北に流れて今の水道となり、故道は塞て陸となり、寛永の初め田圃を開く。
因って今は岩崎より下流は大沼郡の界にあらず。
川の流域すら変えてしまう程の大水でした。

会津の伝承にもいくつか記載があり、猪苗代町にはこのような伝承があります。
夏の土用に紫の雪を降らせたので、吾妻山権現はそれから八〇〇年の閉門を仰せつけられた。
間もなく大雨が降って大洪水が起こり、洪水の波に乗って白髭の老翁が下ったので、この洪水を白髭の水という。また白髭の老翁は閉門になったので、山を下った吾妻権現といわれている。

会津若松史にも白髭の水による川筋の変化について記載がありましたので引用します。
川筋の変化
蒲生・加藤時代に最も多くの新田が開かれたのは、本郷町から会津高田の北東をへて会津坂下の鶴沼川すじに通ずる旧大川跡である。この鶴沼川の名称は宮川の下流部と、岩瀬郡の大白森山を源とする大川の一支流とにつけられている。この二つはむかし一すじにつながっていて、上下流を通じ鶴沼川とよばれていた。それが本郷町以北で大川が現在のような流れになっても、会津平の現在のの大川すじを鶴沼川とよんでいた。ただし本郷町以北では黒河川・蟹川・佐野川などと呼ばれる区間もあった。「旧事雑考」にのっている「鶴沼川会津大沼両郡界図」では、会津平の現在の大川にあたる部分に、「これは応永のころ、黒河川の名あるは、黒河の市井に近き故名づくるか」と注記してある。黒川の町、すなわち後の若松町の近くを流れるので黒河川とよんだのであろう。また「寛文風土記」によると黒川は湯川の別名としても使用されているが、「旧事雑考」にいう黒河川はこの黒川ではなく、大川をさしていることは疑いない。「旧事雑考」にはまた「岩崎辺より蟹川にいたる間呼んで大川という」と記し、「此の大川の分応永の頃黒河川というべし」と注記している。この大川が応永二十六年(1419)の大洪水の南を迂回して濁川にそそぎ、宮川すじをたどって現在の鶴沼川にぬけた。羽黒下は向羽黒(むかいはぐろ)ともいわれ、本郷町郊外南東にある丘陵である。
「旧事雑考」では「塔寺略記」を引用して、「応永二十六己亥(1419)七月、黒河川今の羽黒下(向羽黒(むかいはぐろ))より押切り鶴沼につくという」と述べている。「旧事雑考」は保科正之会津入部の寛永二十年(1643)までの旧事が記されているが、括弧内の向羽黒はその頃の呼称で「塔寺略記」ではここを羽黒下といっていた。
黒河川すなわち大川が羽黒下で押切り、鶴沼川に合流していたのである。この川が天文五年(1536)の白髭水(しらひげみづ)といわれる洪水でまたほぼもとの流路にもどり、向羽黒から北方に直進して立川村付近で日橋川と合流することになった。この会津地方有史以来最大の規模の白髭水の災害によって、応永二十六年以来ほぼ120年間、会津・大沼両郡の界をなしていた岩崎・橋詰(爪)間8(キロメートル)余の旧川道は陸化し、それ以下の旧川道も大部分は廃川敷(はいかわしき)となった。この廃川敷の幅は7~800米から1粁に達したと推定されるが、岩崎から会津坂下北方の日橋川との合流点まで、ほぼ30粁ほどあるから、その面積は2,400~3,000ヘクタールにおよんだのである。この会津、大沼の郡界となった旧大川の流路は、応永二十六年にはじめてつけられたのではなく、もっと遠い過去において同じ流路をたどっていて、郡界にえらばれたものと思われる。しかしこのうち岩崎・橋爪間ではしばしば、川すじがきれ、会津・大沼両郡にまたがって橋爪組がひろがることになたのであろう。岩崎すなわち弁財天の北東から、大川は勾配(こうばい)のゆるい扇状地を作り、流路を方々にかえたのである。
これを見る限り、長い年月の間に大川の川筋は何回か変わっているとの事


新旧河川図:「鶴沼川会津大沼両郡界図」と「鶴沼下流決為大川之図」

※北会津村誌(国立国会図書館デジタルアーカイブ)より引用
最終更新:2025年06月17日 20:07
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