夷口七峠。会津から東の地や白河へと抜ける峠道の総称。東口七峠、東七ツ口とも。
(説明文は「
峠データベース」の概略より引用)
馬入峠(岫峠)
天栄村多良尾と郡山市(湖南町福良)との間の峠。県道235,237号。
この近辺の馬入峠、勢至堂峠、鶏峠、諏訪峠、三森峠、萋卉峠、御霊櫃峠の七つの峠を合わせて「東七ツ口」「夷口七峠」と呼ばれ、会津の玄関口であった。馬入峠は若松から白河へ出る白河街道の脇道で、猪苗代湖と羽鳥湖を最短でつなぎ、白河にも近かった(勢至堂峠を越えるより六里ほど近い)ことからよく利用されたようである。
藩境問題のごたごたから、南側の峠道は太平洋戦争の前後まで荒廃したままだった。『会津の峠』にはその旨が微に入って記されている。また副題には「鎌倉街道岫峠・新国道」とあるが、本文では「岫峠」「鎌倉街道」について触れられていない。
追記)
岫峠には戊辰戦争時に白虎隊士の安達藤三郎が早馬で通り過ぎる土方歳三と会話を交わしたとの伝承がある。
勢至堂峠(山王坂・三王坂)
長沼町と郡山市湖南町との境にある国道294号の峠。トンネル上の舗装路旧国道。
若松からこの峠を越えて白河に至る道は、会津側からは「東通り」「茨城街道」と呼ばれた。佐渡の金も越え、湖南地方では「越後街道」という呼ぶこともある。言い伝えでは宝亀十一年(780)征東大使藤原小黒麿がこの峠を越えて反乱軍を征伐したという。その頃から杣道があったが、道として整備されたのは天文十五年(1546)。芦名盛氏がその頃通じていた板橋銅山道を拡張し、さらに天正十八年(1580)豊臣秀吉の会津入りの際に使われている。
街道は江戸時代の加藤嘉明の入部と同時に整備が行なわれた。寛文七年(1667)には保科正之によって一里三十六町制が敷かれ、のち幕命によって一里塚が築かれている。出典では「いま道の両側に残っているもの」として八田野・穴切・黒森峠・三代とこの峠南側にあるものの5つを挙げている。
元禄元年(1688)には領外の勢至堂村にあった口留番所を領内の三代村に移し、さらに中腹の唐沢に出番所を置いた。このため会津側では天保以降も唐沢峠、御代峠が正式名であったようだ。
鶏峠
岩瀬村と猪苗代湖畔の中野(郡山市)との境の破線路の峠。笠ヶ森の南を越える。
会津領から二本松飛領の安佐野を経て盤瀬の長沼領や白河領へ抜けるための脇街道。「夷口七峠」の一つとして、上杉景勝の時代には徳川勢を迎え討つための堡塁が築かれた。戊申戦争ではこれを再現補強する形で会津の国境要害としている。
峠の名の由来は、峠の前後の杣屋で鶏を飼っていたとか、珍しい野鶏が繁殖していたとか、野盗が鶏の声をまねて旅人に危害を加えたなどさまざまな説がある。また奥州の乱に際して八幡太郎義家が八幡岳に陣を構えていた時、峠の天狗岩で金の鶏が戦機の熟したのを告げたという伝説もある。この金鶏に導かれて八幡岳にのろしをあげ、背炙に陣していた友軍に連絡して、いよいよ北進が開始されたのだという。
江戸時代には西側が二本松領の飛び地であったこともあり、会津からの抜け荷や抜け参りが多く越えた「裏道」であった。
諏訪峠
岩瀬村と猪苗代湖畔の中野(郡山市)との間の県道67号の峠。
天喜年中(1053)、源義家が安倍貞任討の際に、戦勝を祈願して峠の上に諏訪明神を勧請して祭ったのが名前の由来とされる。会津の東境「夷口七峠」の一つとして早くから開かれ、他の道よりも雪が薄かったことなどもあってよく利用された。車道の開削も早かったようである。出典では主に戦国時代の峠を挟んだ攻防に焦点をあてる。
三森峠
郡山市の、多田野と猪苗代湖畔の中野との間の県道6号のトンネル。全舗装。
峠道の改修運動が始まったのは明治十二年。安積、田村、石城、楢葉の各郡から改修新道工事の歎願書が出されている。明治十四年にも続けて出されているが、結果的には三森峠ではなく中山峠を車道とする裁定が下る。大正十二年に三森峠道の新道開発の計画が認可されたが、本格的な工事が始まったのは昭和七年。捗らないうちに戦争へ突入し、工事が再開されたのは昭和二十四年で、工事と中断の連続に、地元の人は「雨だれ峠」となじったという。300mのトンネルを含む新道が完成したのは昭和三十七年のことで、70年がかりの悲願達成であった。
峠の付近には珍しい高地性集落遺跡がある(出典では「復元された」とある)。
萋卉峠
御霊櫃峠の南、地形図に記載なし。出典によれば「猪苗代湖東岸の浜路村から、御霊櫃峠登山口を通り、程なく浜路山の南沢へ分れていく。御霊櫃峠は浜路山の北沢を登り、萋卉峠は南側の沢を登る。従って頂上も山一重の隔りで、昔は北の湯へ行く細道だった」とある。地図に描かれた峠は・970と・920のピークの間にある。上記経緯度はそれらしき地点のもの。
天正十八年に蒲生氏郷が会津に入部後、奥羽山脈の東側に三之沢金山を開発。その金を浜路へ送るためにこの峠を改修したという。明治から戦前にかけては、湖南の産馬を運ぶ路として御霊櫃峠とともに活用された。
「萋卉」とは金山から北の湯あたりに育つ植物で、ウドに似た緑肥用の草。また一説には「サワキ」であり「鬼ウド」ともいう。出典ではこの他、麓にあった楢崎という旅篭町の伝説を載せる。
御霊櫃峠
郡山市の多田野と猪苗代湖畔の浜路との間の峠。全舗装。
前九年の役の際に総奉行の鎌倉権五郎景政が賊徒を討ち、国土安全を願って総鎮守御霊の宮を祭った。その後賊徒の霊が祟って冷害凶作が続いたため、この御霊の宮を奉じて山上の櫃石に勧請したところ験あって五穀豊饒となった。以来この石を御霊櫃ととなえ、そこから峠の名もついたという。一方で御霊とは平安時代の御霊信仰に由来するもので、失脚した貴族の霊を祭ったものであろうとも出典は記す。「積達信大概記」という書物を引いて、御霊の宮→五郎の宮(只野本社の祭神)で、景政の五子五派を祭るために五霊櫃という説も掲げている。峠には御霊の宮のほか風神・雨神のほこらもあったという。猪苗代湖から吹き上げてくる冷たい風のおかげで、付近は見事な山ツツジの群落である。
のちに「夷口七峠」の一つとして発展。戊申戦争の際には会津軍と仙台軍が砲火を交わした。明治・大正期には湖南地方の馬が輸出されるメインルートであった。安積郡全町村が合併したとき、湖南町と多田野村ではその記念に峠を車道化、昭和四十二年に完工している。出典の編まれた時にはまだ未舗装だった。
他資料より
湖南七浜七峠概略図
白河街道略図
最終更新:2025年07月14日 23:18