日新館

※国立公文書館デジタルアーカイブより


米代二之丁の北頬にあり。周垣6町余。
四方通にて東を大町通とし西は桂林寺町通にて北は米代一之丁なり。
はじめ肥後守正之学を好み山崎闇齋を(へい)して師とし学びしが、入封の初にていまだ国学設立の事に暇なくまつ。郭外桂林寺町に(わずか)の学舎を構え志ある者はここに入て学ぶことを得しむ。その後肥後守正容父の継ぎ元禄元年(1688年)本一之丁に国学を建て中に聖廟を営みこれを講所と称せり。天明8年(1788年)学政を改め師員を増し国の子弟みな学に入て業を受け、別に武技の稽古所をも構えて射御刀槍の技まで(ことごと)く学はしむ。されども学舎狭小にして稽古の便あしければ、寛政11年(1799年)よりこの地に営作の事を始め享和3年(1803年)殿堂齋舎大かた成就し日新館と名く。同年11月遷座の式を行い孔聖*1及び顔子*2の像を安置して毎年春秋釈尊の禮を行わしむ。文化元年(1804年)文武の学寮悉く造畢(ぞうひつ)*3しければ百の技藝(ぎげい)残なく(あわ)(せ)学て人材を養育す。
凡国の子弟10歳より已上(いじょう)毎朝塾に入り誦師に就て業を受け習書寮に入て学び11歳より禮客及び配膳等の儀を学び13歳より算術を学び15歳より武学寮に入て弓馬刀槍を兼学はしむ。塾の生徒学業勝れたる者を撰て大学に(のぼ)るかく文学武技の場一処になりしかは子弟常にこの中に身を寄せ生徒総額千人の左右あり東西の塾分て四とす。毛詩三禮・尚書ニ経これなり。みな司業に分ち属し誦師及び佐助数員を置く。諸生大抵10人を一組としその長を建て出入往来の行儀を輔導(ほどう)し諸の学寮みな師範及び佐助数員ありて生徒を督課す。総じて文武の学政は司成の(つかさど)る所にて家老をして職を分ち総統せしむ。さきに天明中(1781年~1789年)学政を改めしとき功令十二条を定て六科と名けまた糾科八条を記して糾則と名け常に諸生に示して勧戒(かんかい)を加ふれども(なお)孝悌忠信の風厚からしめん為に童子訓二巻を著はしてこれを子弟に分ち与へその実行を励ませり。

南門

戟門

東塾

西塾

泮水

石橋

泮宮

渡殿

禮器

大学

文庫

東門

掌饌所

文武師範居宅

武学寮

武講

射弓亭

北門

教場

観台

教場の北にあり。基趾方12間余・上方5間半・高3間半。
天文稽古の為に設く。

放銃教場

司役舎


最終更新:2020年02月22日 22:18
添付ファイル

*1 孔子

*2 孔子の門人

*3 作り終える