長命寺


この町の西頬にあり。
浄土真宗京師東本願寺の坊地なり。江戸築地朝草両坊と同じく掛所*1と称す。本願寺12世教如の時蒲生秀行に請て一宇を営み輪番の地とす。その時は今の甲賀町の地に在にあり。院地狭隘(きょうあい)なるにより寛文中(1661年~1673年)に請てここに移れり。初三河国の僧祏金という者輪番として当寺に来りその後相続て諸国の僧輪番せり。肥後守正之この地に封ぜらすすに及で出羽国最上泉徳寺住職幸甫という者長命寺と號しこの地の留主居となりき。然るに年久く祖師親鸞等身の影像とて本願寺の木像を模写せる画像なかりしを幸甫より5世の法孫幸観寛政中(1789年~1801年)京師に登り本願寺より請受てここに安置す。昔この邊に花蔵院とて真言宗の寺ありしが後に廃せり。意ふに当寺その旧跡なるべし。

総門

東向。北に番所あり。前に7尺計の石を建て『本願寺御門跡掛所』と刻めり。

中門

4間に1間半

本堂

10間に8間。本尊弥陀外に七高祖ならびに聖徳太子の画像祖師親鸞等身及び列祖の影像を安じ十字名號一幅(親鸞筆)を掛く。歴代の帝號ならびに今上皇帝の尊儀を安置し奉る。この本堂の飾は掛所の験なりという。

鐘楼

本堂の南にあり。延寶の頃(1673年~1681年)植木重嗣という商人あり。風塵を厭ひ当麻山東明寺(大町)の境内に草庵を結で住し称名念佛の外他事なかりしが三鐘を鑄て本州福島浄土寺と耶麻郡五目組上三宮村願成寺と当山とに寄付せり。『延寶八歳次庚申初冬十五日植木吉兵衛重嗣』と彫れり。当山第8世幸胤が作る所の銘あり。煩はしければ略す。

但心寺

門を入りて左にあり。8間に4間、当寺の塔頭なり。

泉徳寺

破壊の後再建未だ成らず。

寶物

  • 親鸞影像 1幅。
  • 顯如影像 1幅。『本願寺釋教如慶長十五庚戌年四月十七日奥州會津郡門田荘若松』という裏書あり(慶長15年=1610年)
  • 教如影像 1幅。裏書に『本願寺釋宣如元和二丙辰十二年十二月奥州會津若松』と記せり(元和2年=1616年)
  • 宣如真筆之書 1冊
  • 蓮如真筆之號 1幅
  • 親鸞絵画 4幅。裏に『大谷本願寺親鸞聖人傳繪釋教如慶長十六辛亥年四月十四日奥州會津若松』とあり(慶長16年=1611年)
  • 法然一枚起請 1幅。後鳥羽定宸翰といい伝う。
  • 猫画 1幅。古法眼元信筆
  • 中丸石
    • 当寺の庭前泉石中の一なり。寛文の頃(1661年~1673年)家士関藤右衛門というものあり。郡奉行を勤めしが私欲寡なく常に民事に力を(つく)せり。初村民用水にくるしみ田畝少かりしを藤右衛門深く憂いて新たに渠を穿ち水田闢けて大に利を得たり。村民その徳あふき時の郷頭中丸某というものに謀り(中丸石と名くる事これに因れり)この石を運び来り中庭の歓娯となさん事を請う。藤右衛門いいけるは、余さきに渠を開きしは国の為にて専ら汝等がためのみにあらず今更報を得べき理なし。然りといえどもかかる大石を20里に余れる行程を経てはこび来れるに受ざるも本意にあらず、長命寺は余が祖先の菩提所なれば彼寺におさめんとて(やが)て当寺に転送せしとぞ。後渠の邊に碑を建てこれを祭る。今に至て村民参詣して香花を供すという(碑は大沼郡大石組本名村にあり併みるべし)

最終更新:2020年02月27日 02:21

*1 真宗の寺院で地方に設けられた別院