千石町

陸奥国 若松 郭外 千石(せんごく)
大日本地誌大系第30巻 169コマ目

※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記20』より

徒町の北にある1区にて通数条あり。
蒲生家の時知行100石を領せし者10人住せし地(ゆえ)この名ありとぞ。今多くは足軽同心の居とす。

一番丁

願成就寺前通の北に並ぶ東西の通なり。
長1町47間・幅2間、家数7軒。
西端より北に折て二番丁に出る小路あり。

二番丁

一番丁の北に並び、長1町38間・幅4間、家数35軒。
西は専福寺前通より東は田圃(たんぼ)に通す。この丁、一に千石町大通ともいう。
(千石町分の地雑れり)

角場

この丁の北頬にあり(千石町分の地なり)。

寺院

千手院

この丁の東端にあり。
捕陀落山と號す。大町一桂院の末寺真言宗なり。
文禄2年(1593年)高清という僧開けり。
本尊千手観音客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。

中間(ちゆうげん)

二番丁の北に並び、通2条あり。
南を一番丁といい東西1町29間・幅2間、家数46軒。
北を二番丁といい東西1町29間・幅2間、家数37軒。
中間*1共の居所なり。
(千石町分の地雑れり)

専福寺脇片原(せんぷくじわきかたはら)

中間町二番丁の北に並び、東西54間余・幅2間、家数11軒。
東端より南に折て中間町二番丁に出つ(東黒川千石町分八角分の地雑れり)

高井丁(たかいちやう)

高井丁の末に続き前の数丁の東にある小路なり。
長1町余、家数3軒。
(千石町分の地なり)

専福寺前(せんぷくじまへ)

前の数丁の西にて薬師前通の末に続く小路なり。
長1町26間余。
北は専福寺の門前に至る(この通みな東西の丁の裏行なり)。

寺院

専福寺

この通の北端にあり。
堂度真宗京師西本願寺の末山なり。應永の頃(1394年~1428年)助観という僧能登国よりここに来り本郡南青木組一堰村に一宇を結び遍く世俗を教化せり。天文中(1532年~1555年)助観より3世恵昌が時火災に罹り佛像経巻残なく焼失せり。永禄の始(1558年~)葦名盛氏恵昌が孫慶心という者に命じて寺を今の郭内米代の地に移さしむ(今その地詳ならず)。文禄元年(1593年)助慶が時蒲生氏の命によりて赤井丁(下町)に移れり。元和6年(1620年)助慶大谷本願寺に至り准如に謁し当寺の来由及び天文中火災に罹りしことを訴えしに准如即弥陀像、親鸞の影像、及び宗門の縁起等を授与し世々内陣に列せしむという。寛文中(1661年~1673年)災いに罹り今の地に移れり。
客殿
6間に5間半、西向。
本尊弥陀。
鐘楼
客殿の西にあり。
鐘径2尺5寸。寛文中(1661年~1673年)改め鑄る所なり。
『奥州會津若松縣專福寺大鐘寛永三丙寅曆仲冬十八日寛文七年未四月晦日願主釋覺源造冶工早山恒吉』と彫付あり。
※寛永3年=1626年。寛文7年=1667年。
寶物
  • 親鸞画像 一幅。裏に『慶長七年壬寅三月廿八日奥州會津郡門田庄若松專福寺常住物也本願寺釋准如願主釋助慶』とあり(慶長7年=1603年)。
  • 聖徳太子画像 一副。裏書同上
  • 顯如影像 一幅。『元和三年丁巳五月廿四日奥州會津門田郷若松專福寺常住物也釋准如判願主釋助慶』という裏書あり。
  • 聖徳太子木像 一軀。長2尺5寸。自作の由いい伝う。

薬師前(やくしまへ)

徒町願成就寺前通より北の方、臺町薬師堂の門まで長32間。
左は西に転じ臺町に出つ。長53間。
右は屈曲して専福寺前通に通す。長52間。
またはじめの通の中程より東に指たる行留の小路あり。長30間。
総て薬師前通と称す。
家数31軒。
(千石町分の地雑れり)

鷹匠(たかじやう)

専福寺前通より西に折れ臺町の北に続ける小路に出る通2条あり。
南は1町11間余・幅2間、家数17軒。
北は1町9間余・幅2間、家数17軒。
蒲生氏の時鷹匠を置きし(ゆえ)名けり。今も多くは鷹匠の居なり。
(千石町分の地雑れり)

餌指(えさし)

前の2条の北に並び、長1町6間余・幅2間、家数21軒。
蒲生氏の時餌指*2の者を置し所(ゆえ)名けり。
今もここに居住する者多くは餌指の者なり。

最終更新:2020年03月01日 02:32
添付ファイル

*1 「仲間」とも書く。武士の最下級で,侍の下,小者 (こもの) の上に位した。

*2 鷹の餌となる小鳥を捕らえること、またその職名