花畑

陸奥国 若松 郭外 花畑(はなばたけ)
大日本地誌大系第30巻 176コマ目

※国立公文書館デジタルアーカイブ『新編会津風土記21』より

外郭の南にて士屋敷1区あり。
蒲生氏の時花園ありし地(ゆえ)この名ありという。
またいつの頃にかこの邊に刑伐場有し由いい伝えれどその処を詳にせず。
今の町割りは文禄中(1593年~1596年)定る処なりとぞ。

(おほ)

東は南町花畑通の末より西は組町一番丁に至る。
長4町13間余・幅3間余、家数28軒。
南町通ともいう。
葦名氏の頃この邊に虚無僧多く住し(ゆえ)暮路屋小路といいしとぞ。

友善舎

この通の南頬にあり。
家人の班卑しきものっこに於いて学ばしむ。
その制総て甲賀町青藍舎に同じ国学日新館に隷す。

夫丸小屋

この通の南頬に一構の処あり。内に小屋数軒あり小者を置く所をす(夫丸とは方言に年限ありて抱えおく小者をいう)。

文明寺跡

この通の東の方にあり。延寶中(1673年~1681年)南町河原新丁に移せり。

花畑口(はなばたけぐち)

花畑口の郭門を出て大通に出る通なり。
南北1町10間余・幅3間余、家数5軒家。

隍端(ほりばた)

花畑口通より西に折れて西通に至る。
長40間・幅3間、家数4軒。

西(にし)

隍端通の西に並び、長1町19間余・幅3間、家数8軒。
南は大通より北は組町五番丁に至る。
最終更新:2020年03月01日 02:35