※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より
外郭の西、黒川を隔て数条の通あり、総て新町と称す。
士人の居宅なり。
寛永12年(1635年)加藤氏新たに置きし処故名けりという。
河原町大橋の詰より黒川に沿て南の方石塚に行く通なり。
長1町42間余・幅5間、家数5軒。
西頬に住す。
湯川端通より西にさして一番丁に通ずる通2条あり。
北は長1町8間・幅4間余、家数6軒。
南は長1町15間余・幅4間、家数5軒。
湯川端通の西にあり。
南北2町31間・幅4間余、家数15軒。
一番丁の西に並び、長2町31間・幅4間、家数20軒。
二番丁の西に並び、長2町30間・幅4間、家数19軒。
一番丁の中程より西の方材木町に出る通なり。
長1町36間・幅4間、家居1軒。
南端にも東西の通あり。
東は観音裏通より西は材木町に至る。長2町35間・幅4間、家数10軒。
一番丁の東に並び、石塚観音堂の後にあり。
長2町40間・幅3間、家数5軒。
観音裏通の南端より西の方材木町に出る通なり。
長2町43間余・幅3間、家数24軒。
延寶中(1673年~1681年)置く所故新丁と称す。
中程に南北の小路あり。
南は田畝に通し北は横通に出つ。
最終更新:2020年09月30日 22:21