府城の西北に当り行程7里。
家数26軒、東西5町50間・南北5町。
山の半腹に散居す。
東17町43間
三方村の界に至る。その村まで31町40間余。
西5町14間
吉田組平明村の界に至る。その村は未(南南西)に当り25町。
南12町40間
漆窪村の界に至る。その村まで14町40間余。
北11町40間
吉田組大船沢村の界に至る。その村まで23町。
また
辰巳(南東)の方23町34間
小土山村の界に至る。その村まで1里6町50間余。
亥(北北西)の方11町20間
吉田組小綱木村の界に至る。その村まで21町30間余。
もと大蘆村といいしが、寛永中(1624年~1645年)今の名に改む。
端村
中野
本村の南8町10間にあり。
家数3軒、東西1町20間・南北1町。
東南は田畠にて西北は山林に連なる。
小清水
本村の南10町30間にあり。
家数5軒、東西3町・南北2町。
東は山に倚り西南は田圃にて北は原野に連なる。
荒木
本村の東15町余にあり。
家数4軒、東西1町・南北2町。
東は荒木沢川に傍ひ西北は山林に雑わり南に田畠あり。
山川
館山
村より未(南南西)の方10町にあり。
登ること90間。
天正中(1573年~1593年)伊達氏会津を襲いけるときこの山に館を構えしという。
堀切の跡わずかに残れり。
今は雑木繁茂せり。
冨士山
※注:風土記本文では「富」と「冨」の記載が曖昧な所がある。ここでは手書き(国立公文書館)の記載に合わせた。
村南28町にあり。
高90丈計、衆山に秀つ。
もとこの山の頂に冨士権現の社ありし故この名ありという。
旱歳に女人多く峯に登り雨を祈れば験あり。また猥りに登ることあれば寒風早く来り五稼を傷うという。
石塔山
村より丑(北北東)の方12町にあり。
この山の半腹に塔婆に似たる1丈余の岩あり。因てこの名あり。
高50丈余。
陣峯峠
村より辰巳(南東)の方28町余、小土山村にゆく道なり(
小土山村の条下に詳なり)。
荒木沢川
端村荒木の東にあり。
大船沢村の境内より来り、南に流るること28町余
小土山村の界に入る。
大清水
村東、清水神社の傍にあり。
東西1間半・南北4間余。
出水多く、かつ清冽なり。
この水を穢せば必ず涸れるという。
この村の水田多くはこの水を養水とす。
原野
牧場
村北12町計にあり。
東西6町・南北3町計。
水利
堤2
一は村より辰巳(南東)の方12町にあり。周170間。鶴沼堤といい、貞享中(1684年~1688年)築く。
一は村南10町にあり。周60間余。元禄中(1688年~1704年)築く。中野堤という。
神社
清水神社
村東1町にあり。
鳥居あり。上三宮村高村能登これを司る。
諏訪神社
村中にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
諏訪神社
端村小清水の北2町余にあり。
鳥居あり。村民の持なり。
寺院
示現寺
清水神社の南にあり。
山號を福聚山という。真言宗なり。
開基の年月詳ならず。
永正中(1504年~1521年)越後国より春長という僧来て中興す。
府下道場小路観音寺の末山なり。
大日を本尊とし客殿に安ず。
観音堂
境内にあり。
十一面観音を安ず。
余談:富士山について
コメント欄にてとんりすんがりさんよりいただいた情報を記載します。
昔、富士山と立岩山が村の鎮守の座を賭けて満月の夜までにどちらが背を伸ばせるか競争をしたという伝説が残っています。山は人が見ていると背が伸ばせないそうで、最後の満月の晩に月の宮の天女が立岩山に微笑みかけてしまって背が止まってしまい、勝った富士山が村の鎮守となったそうです。負けた立岩山は怒って天女の羽衣を食いちぎってしまったので天女は空から落っこちてしまい、時折、立岩山からは天女が羽衣を織る音が聞こえてくるのだそうです。
また雨乞いにも使われていて雷山という別名があり、ある年の雨乞いで雷に穿たれた穴の開いた大杉が今も残っているそうです。
富士山は高松山とも書いたそうで、喜多方側では富士山、西会津側では冨士山と表記するようです。
小土山村の端村立岩にある(?)山神神社の祭神は富士山の神様のようです。
また同じ山でも土地により呼び方が違う(
荒海山。日光側では太郎山等)のは聞いた事がありますが記載の仕方が違うのですね。この村近辺の住所は「大字冨士~」で、富士山の南側は「大字笹川字藤川」と微妙に違っています。
最終更新:2020年09月13日 20:29