半兵衛町組町

陸奥国 若松 郭外 半兵衛(はんびやうえ)町組町
大日本地誌大系第30巻 182コマ目

※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より

半兵衛町士屋敷の北に並び、東西の通3条あり。
すべてこれを半兵衛町組町という。
足軽同心等の居処なり。

一番丁

半兵衛町水主丁の北に並び、東西1町40間・幅9尺余、家数41軒。
(材木町分の地雑れり)

二番丁

一番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数44軒。

三番丁

ニ番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数42軒。

四番丁

三番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数44軒。

五番丁

四番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数37軒。
(材木町分の地雑れり)

的場

この丁の北頬にあり

横通

前の5条の中ころに南北の通あり。長1町30間・幅2間。
東の端にも南北の通あり。長1町30間・幅3町。
南端より東に折れ半兵衛町横丁通に出る小路あり。家数14軒。
一番丁の末より北に折れ五番丁の末に通する小路あり。家数7軒。
また四番丁の末長源寺の北に1区あり、家数15軒、東に小路あり四番丁の末に通す。
(小黒川分の地雑れり)

角場

三ヶ処あり。
一ヶ処はは長源寺の西にあり、二ヶ処は共に五番丁の西北田圃(たんぼ)の間にあり。

寺院

長源寺

四番丁の西にあり。
浄土宗、山號を深岸山という。岩城郡専称寺の末山なり。開基詳ならず。
寛永の初(1624年~)天台・曹洞等の諸僧かわるがわる住して宗旨一ならず。これに於いて壇越離散し堂塔破壊せしがその
頃半兵衛町極楽寺に寓居せる良圓という僧、領主の命に依て当寺に住し廃れたるを興し相続いて今に至れり。
三尊弥陀を本尊とし庫裏に安ず。
観音堂
境内にあり


最終更新:2020年03月01日 03:32
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