※国立国会図書館・万翠堂版新編会津風土記より
半兵衛町士屋敷の北に並び、東西の通3条あり。
すべてこれを半兵衛町組町という。
足軽同心等の居処なり。
半兵衛町水主丁の北に並び、東西1町40間・幅9尺余、家数41軒。
(材木町分の地雑れり)
一番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数44軒。
ニ番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数42軒。
三番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数44軒。
四番丁の北に並び、長1町50間・幅9尺余、家数37軒。
(材木町分の地雑れり)
的場
この丁の北頬にあり
前の5条の中ころに南北の通あり。長1町30間・幅2間。
東の端にも南北の通あり。長1町30間・幅3町。
南端より東に折れ半兵衛町横丁通に出る小路あり。家数14軒。
一番丁の末より北に折れ五番丁の末に通する小路あり。家数7軒。
また四番丁の末長源寺の北に1区あり、家数15軒、東に小路あり四番丁の末に通す。
(小黒川分の地雑れり)
角場
三ヶ処あり。
一ヶ処はは長源寺の西にあり、二ヶ処は共に五番丁の西北田圃の間にあり。
寺院
長源寺
四番丁の西にあり。
浄土宗、山號を深岸山という。岩城郡専称寺の末山なり。開基詳ならず。
寛永の初(1624年~)天台・曹洞等の諸僧かわるがわる住して宗旨一ならず。これに於いて壇越離散し堂塔破壊せしがその
頃半兵衛町極楽寺に寓居せる良圓という僧、領主の命に依て当寺に住し廃れたるを興し相続いて今に至れり。
三尊弥陀を本尊とし庫裏に安ず。
観音堂
境内にあり
最終更新:2020年03月01日 03:32