舒王
李誼は、初めの名を李謨といった。
帝はその幼さを可愛がり、取りたてて自分の子とした。大暦十四年(779)に始めて舒王となり、
通王・
虔王・
粛王・
資王の四王とともに同じく封ぜられた。開府儀同三司を拝命し、役人に詔して奉給を与えることとしたが、にわかに戦争がおこったから取りやめとした。李謨は諸王のなかでも最も年長で、帝は軍事を試みようとして、そのため涇原節度大使を拝命した。当時、尚父
郭子儀は病が重く、帝は前殿に御して李謨に詔を持たせて見舞いさせた。李謨は
遠游冠を被り、絳袍を着て、四頭引きの象輅(四輅車の一つ)に乗り、飛龍兵三百、国府官は全員裾褶で従った。郭子儀は自ら叩頭して謝恩した。李謨は詔を宣し終わると、服を着替えて慰労し、帰還した。
ここに
李希烈が叛き、招討使
李勉は戦うも勝てず、宋州に敗走し、朝廷は大いに震撼した。そこで李謨を揚州大都督・荊襄江西沔鄂節度使・諸軍行営兵馬都元帥に任命し。李誼と改名した。軍中では
哥舒翰が元帥であったのに敗れたから、王が封ぜられたところで同じであろうとみなした。帝はそこで普王に移封した。兵部侍郎の
蕭復を統軍長史とし、湖南観察使の
孔巣父を行軍左司馬とし、山南東道節度行軍司馬の
樊沢を行軍右司馬とし、刑部員外郎の
劉従一・侍御史の
韋儹を判官とし、兵部員外郎の
高参を掌書記とし、右金吾大将軍の
渾瑊を中軍虞候とし、江西節度使の嗣曹王
李皋を前軍兵馬使とし、鄂岳団練使の
李兼を副とし、山南東道節度使の
賈耽を中軍兵馬使とし、荊南節度使の
張伯儀を後軍兵馬使とし、左神武軍使の王价・左衛将軍の高承謙・検校太子詹事の
郭曙・検校右庶子の常愿を押衙とした。実行される前に、涇原の兵が叛き、李誼は帝に従って奉天に脱出した。
朱泚が城を攻撃すると、李誼は昼夜諸軍にねぎらいを伝え、帯を解くことはなかった。帝が京師に帰還すると、再び元通りに封ぜられ、揚州大都督も元通りとなった。永貞元年(805)に薨去した。
通王
李諶は、始めて王となると、開府儀同三司を拝命した。貞元九年(793)、宣武節度大使を領し、
李万栄を留後とし、二年して河東にうつり、
李説を留後としたが、いずれも宮中から出なかった。
虔王
李諒は、王に封ぜられて開府儀同三司を拝命した。貞元二年(786)、蔡州節度大使を領し、
呉少誠を留後とした。貞元十年(794)、朔方霊塩節度使に遷り、
李欒を留後とした。翌年、横海軍節度使を領し、また徐州に遷った。
程懐信・
張愔を留後とした。宮中から出なかった。
粛王
李詳は、性質は優れ、帝に愛された。建中二年(781)に薨去し、わずか四歳であった。帝は仏教の説を用いようとし、塔のみで墳をつくらなかったが、礼儀判官の
李岧が非礼を諌めたから沙汰止みとした。詔して揚州大都督を追贈された。
文敬太子
李謜は、
帝に愛され、命により帝の子となった。貞元年間(785-805)初頭、諸王に先んじて邕王となった。義武軍・昭義軍の二軍の節度大使となり、
張茂昭・
王虔休を留後としたが、宮中から出なかった。貞元十五年(799)に薨去し、年十八で、追贈と諡があった。葬送の日、群臣は位次に並んで
通化門の外で哭礼した。陵および廟に令・丞を設置したという。
資王
李謙は、薨去した年が失われている。
代王
李諲は、始め縉雲郡王となり。早く薨去すると、建中二年(781)に追って王となった。
昭王
李誡は、貞元二十一年(805)に始めて王となった。薨去した年が失われている。
欽王
李諤は、順宗が即位すると、
珍王とともに同じく封ぜられた。薨去した年が失われている。
珍王
李諴は、大和六年(832)に薨去した。
均王
李緯は、初めの名を李沔といった。洋川郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三十三年、開成二年(837)に薨去した。
漵王
李縦は、初めの名を李洵といった。臨淮郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三十二年、開成元年(836)に薨去した。
莒王
李紓は、初めの名を李浼といった。秘書監となった。弘農郡王となり、のちに王に進んだ。王たること二十九年、大和八年(834)に薨去した。
密王
李綢は、初めの名を李泳といった。漢東郡王となり、のちに王に進んだ。王たること三年、元和二年(807)に薨去した。
郇王
李総は、初めの名を李湜といった。少府監に任ぜられた。晋陵郡王となり、のちに王に進んだ。王たること四年、元和三年(808)に薨去した。
邵王
李約は、初めの名を李漵といった。国子祭酒となった。高平郡王となり、王に進んだ。王たること二年、元和元年(806)に薨去した。
宋王
李結は、初めの名を李滋といった。雲安郡王となり、王に進んだ。王たること十八年、長慶二年(822)に薨去した。
集王
李緗は、初めの名を李淮といった。宣城郡王となり、王に進んだ。王たること十八年、長慶二年(822)に薨去した。
冀王
李絿は、初めの名を李湑といった。太常卿となった。徳陽郡王となり、王に進んだ。王たること三十年、大和九年(835)に薨去した。
和王
李綺は、初めの名を李浥といった。河東郡王となり、王に進んだ。王たること二十八年、大和七年(833)に薨去した。
衡王
李絢は、王たること二十二年、宝暦二年(826)に薨去した。
会王
李纁は、王たること六年、元和五年(810)に薨去した。
福王
李綰は、魏博節度大使をつとめた。咸通元年(860)、昇進して司空を拝命した。王たること五十七年、咸通二年(861)に薨去した。
珍王
李繕は、初めの名を李況といった。洛交郡王となり、のちに王に進んだ。薨去した年が失われている。
撫王
李紘は、咸通年間(860-874)初頭、司空をつとめ、また司徒・太尉に進んだ。王たること七十三年、乾符三年(876)に薨去した。
岳王
李緄は、王たること二十三年、大和二年(828)に薨去した。
袁王
李紳は、王たること五十六年、咸通元年(860)に薨去した。
桂王
李綸は、王たること十年、元和九年(814)に薨去した。
翼王
李綽は、王たること五十八年、咸通三年(862)に薨去した。
蘄王
李緝は、王たること六年、咸通八年(867)に薨去した。
欽王
李績は、薨去した年が失われている。
恵昭太子
李寧は、貞元二十一年(805)、始め平原郡王となり、
同安・
彭城・
高密・
文安の四郡王とともに同じく封ぜられた。帝が即位すると、鄧王に進み、
澧王・
深王・
洋王・
絳王の四王とともに同じく封ぜられた。
ここにおいて、国の後嗣が立てられる前、
李絳らが上奏して、「聖人は天下を以て大器としていますが、天子の位は変化すべきではなく、四海は根本が変わるべきではありません。ですから太子を立てて自らの副とし、そうしてから人心が定まり、宗祠が安んじ、国に不易の常道があるのです。陛下は即位されてから四年ですが、長子はまだ立てられておらず、これは陰謀の端緒を開き、慎重の義にそむくことになり、列聖からの位を受ける理由となりません。万世に示してください」と述べ、帝は「よし」と言い、李寧を皇太子とし、名を李宙と改め、前に制によって李絳らに示した。しばらくもしないうちに、再び初名に復した。冊礼は孟夏に実施しようとしたが、雨が振り、よからずとして、改めて孟秋の実施としたが、また雨が振り、冬十月に礼を行った。翌年に薨去し、年は十九であった。
澧王
李惲は、始め同安郡王となり、のちに王に進んだ。恵昭太子
李寧が薨去すると、
吐突承璀は議して再び皇太子を立てようとし、意は李惲にあったが、帝は自ら
穆宗を太子とした。帝が崩じた夜、吐突承璀は死に、王は殺され、秘して喪は発せられなかった。しばらくして告知し、廃朝すること三日であった。三子があった。李漢は東陽郡王となった。李源は安陸郡王となった。李演は臨安郡王となった。
かつて、
李惲は名を李寛といい、
深王は李察といい、
洋王は李寰といい、
絳王は李寮といい、
建王は李審といった。元和七年(812)、そろって今の名に改めた。
深王
李悰は、始め彭城郡王となり、深王に進んだ。子の李潭は河内郡王となり、李淑は呉興郡王となった。
洋王
李忻は、始め高密郡王となり、洋王に進んだ。大和二年(828)に薨去した。子の李沛は潁川郡王となった。
絳王
李悟は、始め文安郡王となり、王に進んだ。
敬宗が崩じ、
蘇佐明らは詔を偽って王に軍国の事を領させた。
王守澄らが
文宗を立てると、王は殺された。二子があった。
李洙は新安王となり、
李滂は高平王となった。
建王
李恪は、元和元年(806)に始めて封ぜられた。ときに淄青節度使の
李師古が死に、その弟の
李師道が符節を願ったから、李恪に詔して鄆州大都督・平盧軍淄青等州節度大使とし、李師道を留後としたが、宮中から出なかった。長慶元年(821)に薨去し、後嗣がなかった。
鄜王
李憬は、長慶元年(821)に始めて王となり、
瓊王・
沔王・
婺王・
茂王・
淄王・
衢王・
澶王の七王とともに同じく封ぜられた。開成四年(839)に薨去した。子の李溥が平陽郡王となった。
瓊王
李悦は、子の李津が河間郡王となった。
沔王
李恂は、子の李瀛が晋陵郡王となった。
婺王
李懌は、子の李清が新平郡王となった。
茂王
李愔は、子の李潓が武功郡王となった。
淄王
李恊は、開成元年(836)に薨去した。子の李澣が許昌郡王に、李渙が馮翊郡王になった。
衢王
李憺は、子の李渉が晋平郡王となった。
澶王
李㤝は、子の李濘が雁門郡王となった。
棣王
李惴は、大中六年(852)に始めて王となり、
彭王・
信王の二王とともに同じく封ぜられた。咸通三年(862)に薨去し、後嗣がなかった。
彭王
李惕は、乾寧年間(894-898)に、
韓建に石隄谷で殺された。後嗣がなかった。
信王
李憻は、咸通八年(867)に薨去し、後嗣がなかった。
栄王
李㥽は、咸通三年(862)に始めて王となった。広明年間(880-881)初年、司空に任ぜられた。子の李令平が王を嗣いだ。
合わせて八王は、その薨去した年について記録が失われている。
懐懿太子
李湊は、若くして常に寛大で、決まりを守った。長慶元年(821)に始めて漳王となり、
安王とともに同じく封ぜられた。
文宗が即位すると、
王守澄が専横して、支党を引き連れて国を傾けているのを憎んで、ことごとく誅殺しようと謀り、密かに宰相の
宋申錫を引き入れて計画を策定させた。王守澄の客人の
鄭注は伺って謀を知って密告し、そこで謀の先手を打って宋申錫を殺そうとした。また漳王が賢く、内外の人望があったから、大臣の係累として一族皆殺しにしようと思った。そのため神策虞候の
豆盧著が緊急を奏上して、「宮史の晏敬則と朱訓が宋申錫と昵懇の吏の王師文とともに反逆を企て、朱訓はかつて、お上は多病で、太子は幼く、もし兄が死んで弟が即位するようなことがあれば、必ず漳王が即位すると言っています。宋申錫は密かに財物を王に奉り、王もまた珍服で厚く報いました」と述べ、そこで朱訓らを捕らえて神策軍の獄に拘禁し、その言葉通りに言わせようと拷問を行った。諌官が集団で宮中で伏拝し、出獄させてそれ以外の組織で審判を命じるよう厳しく諌めた。鄭注らは事実が漏洩するのを恐れ、そこで詔を下して王を貶すよう願った。帝はまだ真相を悟らず、そこで李湊を退けて巣県公とした。時に大和五年(831)のことである。お上は宦官に命じて詔を持って賜い、また慰めて「国法はこのようであるが、お前は心配することはない」と述べた。大和八年(834)に薨去し、斉王を追贈された。鄭注が後に罪で誅されると、帝は李湊が讒言にあい、死んでも自らの潔白を明らかにすることができないことを哀れんで、開成三年(838)に追贈された。
安王
李溶は、初め
楊賢妃が文宗の寵愛を得たが、文宗が晩年病がちとなると、妃は密かに王を立てて後嗣とするよう願い、密かに自ら地を安じた。帝と宰相の
李珏が謀り、李珏は不可であると述べたから、沙汰やみとなった。帝が崩ずると、
仇士良が
武宗を立て、自身の功績を重ねたいと考え、そこで李溶がかつて太子になろうとしたことを誣告し、殺された。
敬宗に五子があった。妃の
郭氏は
李普を生み、のこりの四王は、母の氏と位について失っている。
悼懐太子
李普は、姿美しく性格は聡明であった。宝暦元年(825)に始めて晋王となった。文宗は我が子のように愛し、かつて後嗣にしようとした。大和二年(828)に薨去し、帝は悲嘆追悼してどうすることもできず、そのため憐れんで追贈を加えた。
敬宗の第二子の
李休復は、文宗の開成二年(837)に梁王に封ぜられ、第三子の
李執中は襄王となり、第四子の
李言揚は紀王となり、第五子の
李成美は陳王となった。李執中の子の李寀は楽平郡王となった。
陳王
李成美。それより以前、
文宗は荘恪太子
李永が薨去すると、大臣はしばしば東宮をたてることを願い出たから、開成四年(839)、帝はそこで李成美を立てて皇太子としたが、儀礼が備わらないうちに帝が崩じてしまい、
仇士良が
武宗を立てると、邸においてかれを殺した。子の
李儼は宣城郡王となった。
荘恪太子
李永は、大和四年(830)に始めて魯王となった。帝は王が幼なかったから、賢人の補佐を得るべきとし、そこで傅の和元亮を召見した。和元亮はもともと官吏であったに過ぎず、尋ねられたことは答えられなかった。帝は宰相を責めて、「王を教えるべき官属は士大夫の賢者を任じるべきであって、どうして和元亮程度なのか」と言い、ここに速やかに選定し、戸部侍郎の
庾敬休に王傅を兼ねさせ、太常卿の
鄭粛に長史を兼ねさせ、戸部郎中の
李践方に司馬を兼ねさせた。大和六年(833)、遂に立てて皇太子とした。帝は宝暦年間(825-827)の放埒怠惰の政治を受け継ぎ、身は倹約に勤めて天下を率い、晋王
李普が生まれつき賢かったから、引きたてて後嗣としたいと思っていたが、たまたま夭折してしまったから、長らく東宮の事について議さなかった。太子が立てられると、天下が心服した。
開成三年(838)、宮臣に詔して
崇明門に詣でて朔日・望日に謁させたが、侍読がまれに入対する程度であった。太子はしばらく酒宴をしており、一度も法を守ったことがなく、傅役が戒めたが、あえて受け入れなかった。また母
王徳妃の寵愛が衰え、楊賢妃が寵愛を得て、しばしば謗られた。帝はある日怒って、
延英殿に御し、群臣を引見して、「太子に多く過失があり、天下を支配させてはならない。これを議して廃嫡せよ」と詔したが、群臣は頓首して、「太子の年齢は盛りなかばで、過ちがあったとしても、なお改めることができます。また天下の根本は、簡単に動かすべきではありません。陛下のお赦しがあれば幸いです」と述べ、御史中丞の
狄兼謨が涙を流して厳しく諌め、帝は決せず、取りやめとした。群臣はまた文章を連ねて上書して太子を救おうと論じ、意は釈明にあったが、太子に詔して
少陽院に移し、宦官に監視させ、昵懇の者数十人を誅殺し、侍読の
竇宗直・
周敬復に少陽院に行かせて経の講義を行わせた。しかし太子はついに自らその讒言の潔白を申すことができず、自身の行いも修めることがなかった。この年にわかに薨去し、帝は悔んだ。
翌年、詔を下して陳王
李成美を太子とし、
殿中で宴会を開いた。俳優の児が縁竿を持って曲芸していたが、その父が転落するのを恐れて、その下を走り回っていた。帝は感動し、側近に向かって、「朕は天下を有しているのに、一人の児すら全うできないとは」と言って涙を流した。そこで坊工の劉楚才ら数人を捕らえて京兆尹に引き渡して杖殺させ、禁中の女倡十人を永巷(掖庭)で殺したが、全員が太子を讒言中傷した者であった。宰相の
楊嗣復らが知ることができず、そこで「劉楚才らの罪は誅殺に相当し、京兆尹が殺しましたが、繰り返し調べて天子に上奏することがありませんでした。あえて申し上げます」と申し上げ、翌日、京兆尹に詔して、死刑が決定して勅して繰り返し調べて天子に上奏することがなかった場合、また故事のように許して上奏させることとした。
蒋王
李宗倹は、開成二年(837)に始めて王となった。薨去した年が失われている。
武宗に五子があり、その母の氏や位はみな伝わらない。
𣏌王
李峻は、開成五年(840)に始めて王となった。
益王
李峴は、会昌二年(842)に始めて王となり、
兗王・
徳王・
昌王の三王とともに同じく封ぜられた。
兗王
李岐。
徳王
李嶧。
昌王
李嵯。そろってその薨去した年が失われている。
靖懐太子
李渼は、会昌六年(846)に始めて雍王となり、
夔王・
慶王の二王とともに同じく封ぜられた。大中六年(852)に薨去し、詔があって追冊された。
雅王
李涇は、大中元年(847)に始めて王となった。薨去した年が失われている。
通王
李滋は、会昌六年(846)に始めて夔王となり、慶王
李沂とともに同じく封ぜられた。帝は初め詔して
鄆王を
十六宅におらせ、他の五王を
大明宮の内院におらせたが、諌議大夫の
鄭漳と兵部郎中の
李鄴を侍読とし、五日に一度
乾符門で謁して、王のために経を授けた。鄆王が即位して懿宗となると、取りやめとなった。李滋を王に遷した。
昭宗の乾寧三年(896)、侍衛諸軍を領した。このとき、
王行瑜を処刑し、
李茂貞は怨み、兵で入覲したから、李滋と諸王に詔して安聖・奉宸・保寧・安化軍を分けて京師を守らせた。天子は太原に行こうとすると、
韓建は道すがら出迎え、留めて華州に行った。韓建は王ら兵を有しているのを恐れ、人を派遣してお上に諸王が韓建を殺そうとしていると急変を告げ、帝を脅して河中に行幸させた。帝は驚き、韓建を召して説諭しようとしたが、病と称して入ることをよしとしなかった。李滋と
睦王・済王・韶王・
彭王・
韓王・
沂王・陳王に勅して韓建に謁して自ら弁明させようとしたが、韓建は軍中に留まり、上奏して、「内外は同じではなく、臣は私見を以てすべきではありません」と述べ、また「晋の八王は権勢をほしいままにし、ついには天下を滅ぼしました。願うところは
十六宅に帰し、ことごとく兵を領するのを罷めさせることです」と述べたが、帝は許さなかった。韓建は兵で行在をとりまき、大将の
李筠を誅殺するよう要請した。帝は恐れて李筠を斬って謝した。韓建は衛兵を追い払い、これより天子は孤独で弱体化した。
それより以前、帝は嗣延王
李戒丕・嗣丹王
李允を
李克用のもとに往還させたが、二王が帰還すると、韓建は憎んだ。また
嗣覃王はかつて軍を率いて
李茂貞を討伐したから、ここに弾劾して、「この頃兵は近隣に集結し、諸王はその禍いの階となっており、乗輿(昭宗)に下藩の地におらせようとしており、安穏することができません。臣はすでにその兵を解体するよう願ってきました。今、
延王・
覃王・
丹王の三王はなお陰謀を企み国を危うくしています。願わくば誅殺されますように」と奏上したが、帝は「どうしてこのようになったのか」と言った。その後三日して、
劉季述とともに詔を偽って兵で
十六宅を攻めた。諸王はザンバラ髪で垣根を乗り越えて逃走し、ある者は屋根に登って大声で「陛下、私をお救いください」と叫んだ。韓建は十一王とその部下を石隄谷に連れて行って殺し、おもむろに謀反であると上聞したが、天下は冤罪だと思った。済王・韶王・
彭王・
韓王・
沂王・陳王・
延王・
覃王・
丹王の九王は、史書に世系を失っているという。
慶王
李沂は、大中十四年(860)に薨去した。
濮王
李沢は、大中二年(848)に始めて王となった。薨去した年が失われている。
鄂王
李潤は、大中五年(851)に始めて王となった。乾符三年(876)に薨去した。
懐王
李洽は、大中八年(854)に
昭王・
康王の二王とともに同じく封ぜられた。薨去した年が失われている。
昭王
李汭は、乾符三年(876)に薨去した。
康王
李汶は、乾符四年(877)に薨去した。
広王
李澭は、大中十一年(857)に始めて王となり、
衛王とともに同じく封ぜられた。乾符四年(877)に薨去した。
衛王
李灌は、大中十四年(860)に薨去した。
魏王
李佾は、咸通三年(862)に始めて王となり、
涼王・
蜀王の二王とともに同じく封ぜられた。
涼王
李侹は、乾符六年(879)に薨去した。
蜀王
李佶。
威王
李侃は、咸通六年(865)に始めて郢王となり、咸通十年(869)威王に移封された。
吉王
李保は、咸通十三年(872)に始めて王となり、睦王とともに同じく封ぜられた。王は兄弟の中で最も賢いとされた。当初、僖宗が崩ずると、王は最年長であったから、即位させようとしたが、
楊復恭が単独で議して昭宗を後嗣とした。乾寧元年(894)、
李茂貞らが兵をもって京師に入り、帝を廃して王を立てようと謀ったが、たまたま
李克用が兵で
王行瑜を駆逐したから、そこで沙汰止みとなった。
恭哀太子
李倚は、初め睦王に封ぜられた。
劉季述に殺され、天復年間(901-904)初頭に追贈された。
僖宗に二子があり、その母の氏や位について記録が失われた。
建王
李震は、中和元年(881)に始めて王となった。
益王
李陞は、光啓三年(887)に始めて王となった。ともに薨去した年が亡失している。
徳王
李裕は、大順二年(891)に始めて王となった。帝が華州に行幸し、
韓建が諸王の兵を奪うと、不安の念をいだき、そこで王・皇子でまだ王でなかった者を請うたが、すでにまた諸王は殺されており、そこで李裕を立てて皇太子とするとよう願い、四方に釈明した。時に乾寧四年(897)であった。
劉季述らが帝を東宮内に幽閉すると、李裕を奉って皇帝位に即位させた。劉季述が誅殺されると、李裕は右軍に匿われたが、ある者が李裕を殺すよう願った。帝は、「太子は幼く、賊は無理やり即位させたのだから、何の罪があろうか」と言い、詔して
少陽院に戻し、再び王とした。
朱全忠が鳳翔から帰還すると、王が成長し、優れて代表するような人物となったのを見て、李裕を嫌い、密かに
崔胤に向かって、「王はすでに帝位を窺っており、親を滅ぼすような不義の者をどうして留めるべきか。公は宰相に任じられているのにどうして申し上げないのか」と言い、崔胤は従容として朱全忠の意のように申し上げたが、帝は許さなかった。他日、その事を朱全忠に語ると、朱全忠は、「これは国の大事です。臣はどうしてともにしましょうか。これは絶対に崔胤が臣を売ろうとしたのです」と言い、そのため免がれた。帝が洛陽に遷都すると、ある日、
蒋玄暉に「徳王は朕の愛子である。朱全忠はどうして殺そうとするのか」と言い、涙を流し、自ら指を噛んで血を流した。蒋玄暉はそこで朱全忠に密告し、朱全忠は怒った。帝は弑され、蒋玄暉は酒宴を開いて諸王を九曲池に迎えたが、宴がたけなわとなると、全員が殺され、死体は水中に投棄された。
棣王
李祤は、乾寧元年(894)に始めて王となり、
虔王・
沂王・
遂王の三王とともに同じく封ぜられた。
虔王
李禊。
沂王
李禋。
遂王
李禕。
景王
李秘は、乾寧四年(897)に始めて王となり、
祁王とともに同じく封ぜられた。
祁王
李祺。
雅王
李禛は、光化元年(898)に始めて王となり、
瓊王とともに同じく封ぜられた。
瓊王
李祥。
端王
李禎は、天祐元年(904)に始めて王となり、
豊王・
和王・
登王・
嘉王の四王とともに同じく封ぜられた。
豊王
李祁。
和王
李福。
登王
李禧。
嘉王
李祜。
潁王
李禔は、天祐二年(905)に始めて王となり、蔡王
李祐とともに同じく封ぜられた。
蔡王
李祐。
賛にいわく、唐は中葉より、宗室の子孫の多くは京師にあり、幼い頃よりある者は宮中より出ず、国王であるとはいえ、実のところ匹夫と異ならず、そのため悪事に赤々と染まることもなく、また王室をひっくり返すこともできず、運命が終わりにつきても戻ることなく、唐と共に滅んだのである。だからこそ王室の命数の長短は、自ら終始があったのである。かの漢の呉楚七国・晋の八王は、そのしるしを得られず、いよいよ害を招いたといわれる。
最終更新:2025年01月11日 23:42