この町の西頬にあり。
諏波山龍華院と號す。山城国醍醐松橋無量寺院の末寺なり。應永32年(1425年)秀哉という僧武州より来り当寺を開基すという。初郭内諏訪神社の社僧たしり故山號これに因るをぞ。会津真言宗四ヶ寺の一にて(大和町金剛寺・道場小路観音寺・博労町自在院に当寺を合て会津真言四ヶ寺と称し輪番をもて封内真言寺院の事を任司す)当寺に隷せる道場封内に凡19ヶ寺あり。
昔は左計の大刹にて天正の頃(1573年~1593年)までも僧徒多くこの寺に集まり毎月朔日国家鎮護の為に般若を読誦せしという。縁起にいう、文禄4年(1595年)氏郷外郭を築き城市を分つ時寺境をここに移せりと(氏郷城市を分ちしは文禄元年(1592年)なり。縁起の伝る所誤れり)。もとは古記・寺宝も有しが中頃兵燹の為にその大半を失う。忠郷の時母堂に壇縁あるにより元和2年(1616年)寺領50石を寄付す。蒲生家断絶の時これを失う。元禄16年(1703年)当時22世品克が時20石を付す。23世含潤が時材木若干を寄付して改て伽藍を建立せしめ数年をを経て落成す。延享中(1744年~1748年)また災に罹て烏有し程なく再建成て壮麗の寺院なりしが、安永中(1772年~1781年)再び炎上し今は庫裏廊下のみににて造未だならず。
本尊弥陀の像を安ず。
また鐘一口あり。径2尺7寸『寛保三癸亥天仲冬大吉祥辰含潤』と彫付あり。銘は略して載ず。
※寛保3年=1743年
制札
寶物
画軸 二幅
佛像画 二幅
曼荼羅 二幅
屏風 一雙
墨跡 一幅
大般若経
十六善神画像 一幅
伝法印可 三通
木像 三軀
聖天像 一軀
弥勒木像 一軀
補任牒 二通