会津郡滝沢組牛墓村

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会津郡滝沢組牛墓村 - (2020/02/11 (火) 22:08:39) のソース

陸奥国 [[会津郡]] [[滝沢組>会津郡滝沢組]] &ruby(うしがはか){牛墓}村
&blanklink(大日本地誌大系第31巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202} 16コマ目

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この村、旧6町余未申(南西)の方にありて&ruby(だうけ){堂家}村と云う境内に牛墓あり。因って何の頃にか今の名に改め文禄4年(1595年)ここに移せりと云う。

府城の東北に当り行程25町余。 
東西1町15間・南北40間余。
白川街道を夾み住す。

東は滝沢村に連なり3方&ruby(たんぼ){田圃}なり。
西7町6間府下東黒川八角分に界ふ。
南4町15間本郷青木組慶山村の界に至る。その村は辰巳(南東)に当り9町10間余。
北は村際にて滝沢村に界ふ。

**小名
***&ruby(まないたくら){眞那板倉}
村本より辰巳(南東)の方、東黒川八角分蚕食宮村の地、滝沢村の境内を隔て5町にあり。
家居1軒山麓に住す。
東南は慶山村の山に按し。
西は数村&ruby(いりあい){入逢}の地に連なり。
北は滝沢村の山に界ふ。

*山川
**&ruby(といし){研石}山
小名、真那板倉の東にあり。
高2町計。
麤砥((麤(そ、あら-い)砥(し、といし、と)。&ruby(あらと){粗砥}の事か?))を産す。因って名く。
東に続く山を&ruby(ながした){長下}山と云う。
松樹多く&ruby(まつたけ){松蕈}を産す。
**&ruby(ふきや){吹屋}山
村より丑寅(東北)の方11町にあり。
松樹茂れり。
この山中に吹屋原とて東西1町南北3町計の芝原あり。土人&ruby(まぐさ){秣}を採る処とす。
**清水
吹屋山にあり。
2間半4方。
&ruby(あま){天}清水と云う

*水利
**&ruby(とのくち){戸口}堰

*墳墓
**塚
村西4町20間余にあり。
いつの頃にか舜獄と云う者を葬る処と云う。
この塚天正の始(1573年~)数月自ら焼しを五之町実相寺23世&ruby(ざんむ){残夢}至て偈を示しければ火滅しと云う(実相寺の条下と併せ見べし)。

*古蹟
**牛墓
村より未申(南西)の方6町10間にあり。
石塔、高1尺4寸。
楷書にて牛墓と彫付あり(滝沢村の宗像神社の条下に詳なり)
**桜谷
小名眞那板倉より東、両山の間渓流ある処を云う。
旧は桜樹多く花の頃は&ruby(かけい){佳景}の地にて&ruby(そうじんぼっかく){騒人墨客}&ruby(ここ){爰}に&ruby(ゆうけい){遊憩}し&ruby(だいえい){題詠}多かりしと云う。
今は桜樹なし。
**&ruby(たいふ){太夫}桜
村より辰巳(東北)の方3町余飯盛山の麓にあり。
寛永中(1624年~1645年)妓女&ruby(かんか){看花}に出て人のために殺されしを&ruby(あわ){愍}(れ)む者ありて印に種し桜なりと云う。
また、ここより北2町計、滝沢村の際に種蒔桜とて1株の老樹あり。毎年苗代の頃花咲くによりこの称ありとぞ。或云、太夫桜はこの桜樹を云うなりと里老の伝えるに異なり。

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