陸奥国 [[会津郡]] [[滝沢組>会津郡滝沢組]] 金堀村 &blanklink(大日本地誌大系第31巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202} 19コマ目 #expand(500){{{ この村、昔今の地より2町計東にありて&ruby(あかしざは){明沢}と云いしに、何の頃にか京師((京の都のこと))より来る者、村東1町40間にありし高2間周8間計の大石を穿ちて許多の金を採し&ruby(ゆえ){故}今の名に改めしとぞ。 貞享元年(1684年)火災に罹り同4年(1687年)今の地に移せり。 府城の北に当り行程1里12町余。 東西2町30間・南北46間、白川街道を夾み南北両頬にあり。 四方に山&ruby(めぐ){繞}れり。 東6町18間原組[[原新田村>会津郡原組原新田村]]の界に至る。その村は寅(東北東)に当り10町40間。 西4町2間[[滝沢村>会津郡滝沢組滝沢村]]の界に至る。その村は未申(南西)に当り17町50間余。 南4町50間・北7町37間、共に滝沢村の山に界ふ。 また、丑(北北東)の方9町河沼郡代田組強清水新田村の界に至る。その村まで11町30間。 辰(東南東)の方5町原組[[赤井村>会津郡原組赤井村]]の山界に至る。その村まで26町30間。 *山川 **&ruby(えぼしたうげやま){烏帽子峠山} 村より辰巳(南東)の方4町にあり。 高19丈余、松樹雑木茂れり。 形の似たる&ruby(ゆえ){故}名けり **&ruby(まへさか){前坂} 村より申(西南西)の方に登る白川街道にあり。 頂まで4町余。 滝沢村に界ふ。 **&ruby(くつかけとおげ){沓懸峠} 村東1町余、白川街道にあり。 頂まで4町20間。 頂にて2すじに分る。 東南に行けば白川街道にて、東北に行けば猪苗代に通る裏街道なり。 *水利 **戸口堰 滝沢村の方より来り、田地の養水となり、下居合村の方に注ぐ。 *神社 **山神社 |祭神|大山祇神| |相殿|伊勢宮 2座| | |稲荷神| | |伊豆神| | |山神| |鎮座|不明| 村より寅(東北東)の方1町20間、山上にあり。鳥居幣殿拝殿あり。 ---- -[[滝沢峠]] -Google Map --[[山神社>https://goo.gl/maps/acWAGAasEePcEiN56]] --[[烏帽子山>https://goo.gl/maps/eHJEiTFWd6nd11sc9]] --[[沓掛峠>https://goo.gl/maps/p5vh63d6iY3qjbu17]] --[[戦死十八人墓>https://goo.gl/maps/AKVtLEHqb9dE5Nc27]]([[ストリートビュー>https://goo.gl/maps/APXMQSdFkTYMErZa8]]) 戦死十八人墓の案内板より > 慶應四年(一八六八)、戊辰戦争の際、日橋川を渡河した西軍は大挙してこの道を急進撃し、多くの会津藩士らが戦死しました。 > 地元金堀・下馬渡の村民たちはこれらの戦死者を手厚く葬り、この碑を建てました。碑表には「戦死十八人墓」、道側には「明治元年辰八月廿三日金堀村」、左側には「下馬渡むら」と刻まれています。明治と改元されたのは九月八日のことでありましたから、正しくは慶應四年八月二十三日ということになります。 > 金堀の鎭守山神社前にも同様の戦死十一人之墓があります。 > 新奥の細道 > 環境庁・福島県 }}}