会津郡高久組中前田村

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会津郡高久組中前田村 - (2020/03/06 (金) 11:06:07) のソース

陸奥国 [[会津郡]] [[高久組>会津郡高久組]] 中前田村
&blanklink(大日本地誌大系第31巻){https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1179202} 38コマ目
#expand(500){{{
府城の北に当り行程30町。
家数15軒、東西1町21間・南北1町6間。
北は渠川に&ruby(そ){傍}ひ三方&ruby(たんぼ){田圃}なり。

東3町45間河沼郡代田組倉道村の界に至る。その村まで6町50間余。
西5町沼木村の界に至る。その村まで6町。
南1町57間下荒久田村の界に至る。その村は未(南南西)に当り7町30間余。
北26間代田組槻橋村に界ひ渠川と限りとす。その村まで2町10間。
また戌亥(北西)の方12町木流村の界に至る。その村まで8町20間。

*山川
**&ruby(せせなぎかわ){渠川}
村北20間余にあり。
倉道村及び滝沢組下柳原村の界より来り、戌亥の方に流るること19町計、木流村の界に入る。
広7間。


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&blanklink(永和の暮らしと歴史){https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/docs/2013012200014/}(会津若松市)の中に中前田と渠川について記述がありましたので引用します。

中前田
> 中前田のせせなぎ川を挟んだ北に、中島村というのが昔あり、その村の前にある田を意味します。上沼木の菊地一族の分家、菊地右近頼景(きくちうこんよりかげ)が住んでいました。館跡が、集落のやや東側に土塁の一部が残っています。菊地氏が去り、1600年に神指地区の村が強制撤去されるとこの集落に多くの人が移転してきました。集落の南には、米沢街道上道沿いにあった七つ壇と呼ばれた塚がありました。発掘調査で、廻国聖が納めた銅製筒が出土しています。会津戦争で、集落が焼かれています。

渠川
> 永和小学校校歌に歌われる川ですが、「せせなぎ」は汚れた川を意味します。上流の会津若松市一箕町金堀には、会津最大の金山があり、最盛期には1400戸ありました。その金山の汚れた水が不動川と合流するところから、せせなぎ川と呼んでいます。「せせらぎ」も元は汚れた川の意味でしたが、今では反対の意味を指すようになりました。せせなぎ川の支流に大工川があります。上流に金堀金山の大工か稲荷原の石工大工が住んでいたことに由来します。または、河東町藤倉から平塚まで大工が材木を流したことに由来するという伝承があります。


他
メモ。本編記載なし
-菅原神社→[[Googe Map>https://goo.gl/maps/AXHB969iTknA3izCA]]

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