会津郡高久組中前田村

陸奥国 会津郡 高久組 中前田村
大日本地誌大系第31巻 38コマ目

府城の北に当り行程30町。
家数15軒、東西1町21間・南北1町6間。
北は渠川に()ひ三方田圃(たんぼ)なり。

東3町45間河沼郡代田組倉道村の界に至る。その村まで6町50間余。
西5町沼木村の界に至る。その村まで6町。
南1町57間下荒久田村の界に至る。その村は未(南南西)に当り7町30間余。
北26間代田組槻橋村に界ひ渠川と限りとす。その村まで2町10間。
また
戌亥(北西)の方12町木流村の界に至る。その村まで8町20間。

山川

渠川(せせなきかわ)

村北20間余にあり。
倉道村及び滝沢組下柳原村の界より来り、戌亥の方に流るること19町計、木流村の界に入る。
広7間。




永和の暮らしと歴史(会津若松市)の中に中前田と渠川について記述がありましたので引用します。
 中前田のせせなぎ川を挟んだ北に、中島村というのが昔あり、その村の前にある田を意味します。上沼木の菊地一族の分家、菊地右近頼景(きくちうこんよりかげ)が住んでいました。館跡が、集落のやや東側に土塁の一部が残っています。菊地氏が去り、1600年に神指地区の村が強制撤去されるとこの集落に多くの人が移転してきました。集落の南には、米沢街道上道沿いにあった七つ壇と呼ばれた塚がありました。発掘調査で、廻国聖が納めた銅製筒が出土しています。会津戦争で、集落が焼かれています。
最終更新:2020年03月09日 09:46